★日 本 日本の大航海時代
朱印船、1592
1604頃〜1635頃
大航海物語

便郵国帝本日大
御朱印船 額面:5厘

”昭和第一次通常”
日本郵便 NIPPON
朱印船 額面:20円

”第二次船シリーズ”
昭和12年1937/11/1 発行 昭和50年1975/9/25 発行

琉球郵便
東南アジア、中国、日本の地図

国際青年会議所沖縄会議記念

昭和38年1963/9/16 発行

朱印船・朱印状貿易 桃山時代(1592)〜江戸時代初期(1604頃〜1635)頃
朱印船とは「異国渡海朱印状」という渡航証明書を持つ船で、安南(ベトナム)、カンボジア、シャム(タイ)、ルソン(フィリピン)など東南アジア諸国との貿易を許可された船のことです。

1592(天正20)年に豊臣秀吉がマニラなどへ派遣しました。

徳川家康が朱印船制度を実施してスペイン領マニラと外交関係を樹立。1604(慶長9)年以後の32年間で356艘を数え、年平均11艘が従事しました。船主には西南大名、幕吏、内外の豪商たちがいました。船舶に関した記録が大変少ないので詳細は不明ですが、1600年(慶長5)12月、フィリピン沖でオランダ艦隊に捕らえられた船の絵や、近代地図学の開祖・メルカトルの作成した日本地図(1607年、1620年刊)に描き込まれた日本船を見ると、中国式のジャンクが描かれています。これを裏付けるように、朱印船に雇われて渡航した朝鮮人が「日本船は小さくて大洋を航海できないので、180人乗りのジャンクを買い入れ、中国人の船長を雇って航海した」と述べています。現在、10点ほどの朱印船の絵が残されていますが、こうしたものを見て「日本前(にほんまえ)」、あるいは「朱印前」と呼ばれた朱印船は、みな中国式のジャンクをベースとして、これに西欧のガレオン船の技術を取り入れ、それに日本の伝統的技術を加えた折衷形式の船であることがわかります。これらは中国やシャムなどで購入されましたが、一部、日本でも造られました。1617(元和3)年平戸藩の重臣の佐川信利が平戸で建造した例があります。

徳川家康は海外交易に熱心な人物で、1600年豊後の海岸に漂着したオランダ船の航海士ウィリアム・アダムスらを外交顧問として採用したほどでした。1601年以降、安南、スペイン領マニラ、カンボジア、シャム、パタニなどの東南アジア諸国に使者を派遣して外交関係を樹立し、 1604年に朱印船制度を実施。これ以後、1635年まで350隻以上の日本船が朱印状を得て海外に渡航しました。朱印船は必ず長崎から出航し、帰港するのも長崎でした。なお、明帝国は日本船の来航を禁止していたので、中国は(ポルトガル居留地マカオを除けば)朱印船渡航先とはならず、朝鮮との交易も対馬藩に一任されていたので、明には朱印状は発行されませんでした。

御朱印船の装備:〜時代によって各種あり
朱印船の大きさ(推定)、1592〜1635頃 御朱印船
積載量 480〜3200石(約72〜480屯(500〜700屯説有)
帆 柱 3本マスト
船構造 ジャンク風で和洋折衷船で船底にキール有
交易品目 輸出:銀、銅、銅銭、硫黄、刀などの工芸品など
輸入:中国の生糸や絹、東南アジア産の鮫皮や鹿皮、砂糖など
乗船者 180人〜(人数が判明している15隻の平均人数は236人)

朱印船の積載量は小さいもので薩摩の島津氏が福州で購入した12万斤(きん)積(480石、載貨重量72トン)から、大きいものは因幡の亀井氏がシャムから購入した80万斤(きん)積(3200石、載貨重量480トン)までかなりの差がありました。具体的な朱印船の姿は、寛永11年(1634)に長崎と京都の清水寺に奉納された絵馬からうかがうことが出来ます。なかでも、長崎の末次(すえつぐ)船の絵馬は朱印船の姿をリアルに描いていて、最末期の朱印船が中国船をベースにしながら帆装の一部や舵と船尾回りに西欧のガレオン船の技術を取り入れ、船首楼(ろう)を日本独特の屋倉(やぐら)形式とするなど、中和洋の技術を折衷(せっちゅう)したジャンクであったことを今に伝えています。

この制度は、1592年(文禄元)豊臣秀吉によって開始されたとされていますが、近年の研究では徳川家康という説が有力となっているそうです。朱印船貿易に従事したのは西国大名や幕吏、京都・大坂・堺・長崎などの豪商で、日本に滞在していて中国人やヨーロッパ人も含まれます。しかし、江戸幕府は年々制限を強めたため、次第に大名は少なくなり、角倉・茶屋(京都)、末吉(大坂)、末次・荒木(長崎)といった有力商人に限られていました。しかし、寛永12年(1635)に日本人の海外渡航が全面的に禁止されて終わりを告げました。

朱印船貿易について;
貿易家たちは、室町時代の倭寇と豊臣秀吉の朝鮮侵略のため、東シナ海貿易のル−トを失ったため、貿易船を南に向けていました。朱印船とは「異国渡海朱印状」と呼ばれる渡航証明書を持ちアジア諸国と交易した船を指しますが、それまで黙認されていた私貿易を統制するものでした。それを幕府が統制・独占して、渡航する船に朱印状(許可証)を与え、外国に対しても朱印状をもった船(朱印船)にのみ貿易を許すようにした幕府公認貿易のことです。派船数は、1604年〜1635年(寛永12)の約30年間に350隻以上、年平均約10余隻が派遣されました。のべ渡航者は約10万人で、日本における「大航海時代」でした。渡航先は、高砂(台湾)、トンキン、シャム(タイ)、カンボジア、呂宗(ルソン)などでした。

日本人町の繁栄;
東南アジアに渡航して住みついた日本人によって造くられた町です。朱印船が頻繁に渡航した安平(台湾)、サンミゲル、ディラオ(ともにルソン)、アユタヤ(シャム)、プノンペン(カンボジア)などには日本人町が形成され、商品の買い付けや売買の拠点となりました。プノンペン(カンボジア)やアユタヤ(シャム)などが有名です。200〜300人から数千人の人口があり、自治制をしいていました。

朱印船渡航先国:〜
・安南(アンナン、仏:Annam、越:An Nam)、東京(トンキン)とも。
  安南は、現在のベトナム北部から中部を指す歴史的地域名称で、唐代の安南都護府に由来、
  当時北ベトナムを領有していた黎氏を擁立するハノイの鄭氏政権の国名でした。
・交趾(コウシ、越:Giao Ch?))、
  交趾は古く、ベトナム北部、ソンコイ川流域をさした呼称。
  当時実質的に中部ベトナムを領有していたフエの阮氏政権で、広南国とも。
  その交易港はホイアン(会安)及びダナンでした。
・占城(センジョウ、越:Chen Ching)
  占城はベトナムによって南ベトナムの一隅に押し込められていたチャンパ(越:Cham Pa)王国。
・暹羅(シャム、Siam)
  タイのアユタヤ王朝で、アユタヤには大きな日本人町が形成され、山田長政が活躍し、
  アユタヤからも交易船が長崎に来航。
・柬埔寨(カンボジア:Cambodia)
  メコン河流域のプノンペンを首府とするカンボジア王国。
・太泥(たいに、パタニ:Patani)
  マレー半島中部東海岸のマレー系パタニ王国で、当時は女王が支配し、南シナ海交易の要港。
・呂宋(ルソン:Luzon)
  スペインの植民地ルソン島で、首府マニラが新大陸とのガレオン貿易の要港。
  当時、多くの中国商船が来航
・高砂国(タカサゴ)
  日本での戦国時代から江戸時代初期にかけての台湾の呼称で、
  当時ゼーランディア城を拠点にオランダ人が支配していた台湾が渡航先でした。
  台湾も朱印船と中国商船との出会いの場でした。
渡航先集計では交趾(73回)で最も多く、暹羅(55回)、呂宋(54回)、安南(47回)の説有。

山田長政;天正18年頃(1590)駿府馬場町の紺屋、津の国屋の山田友山の倅(母は藁科村の寺尾惣太夫の娘)として生まれました。時の貿易で海外へ進出する商人たちに刺激されシャム(タイ国)に渡りました。その頃シャムのアユタヤの日本人町には7000人の邦人が住んで居ました。長政はこの日本人町の頭領となり、シャムのソンタム王に仕え象にまたがり日の丸を立てた日本兵を率いて勇敢に戦い次第に重きをなし、ついに六昆王(リゴール太守/国王)に任ぜられました。その後ソンタム王の死去による後継者争いに巻き込まれ寛永7年(1630)隣国との争いの時、足に受けた傷に毒を塗られて死亡したといわれています。天保13年(1842)の馬場町絵図には、「津の国屋九ヱ門」と記され生家の跡とみられており、屋敷跡の碑(静岡市)があります。

”御朱印船”切手の説明:〜
御朱印船の切手は長崎の清水寺に寛永11年(1634)に奉納された「末次船絵馬」(中国・西洋・和(日本)の折衷形式船)を元に図案化された切手で、寛永11年(1634)の末次船の絵馬の写(長崎市立博物館蔵)。

参考HP:〜
 ・長崎市立博物館蔵の絵馬
 ・チャンパ国の版図
 ・17世紀の朱印船貿易の地図

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。        09/3/28、追記

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