切手で綴る 大航海の物語

日本編の参考資料として


海王丸
1930〜1989
日本郵便 NIPPON


練習帆船 50年 記念
昭和55年 1980/5/17  発行


帆船の海王丸は、旧運輸省航海訓練所(現在は国土交通省所管の独立行政法人・航海訓練所)の大型航海練習船として、昭和5年(1930)に姉妹帆船日本丸とともに神戸の川崎造船所で建造され、「日本の海の王者たれ」の期待をこめて「海王丸」と命名されました。現役中は半世紀余りにわたり、地球約50周(106万海里)を航海し、延べ11,000人余りの海の若人を育てました。平成元年(1989)、海王丸2世号の竣工に伴い、59年間に及ぶ練習船としての使命を終えました。海の貴婦人と呼ばれた海王丸は、引退後の平成2年4月から富山新港(伏木富山港)の海王丸パークに記念帆船として、現役中のままの姿で浮かんで、一般公開されています。

・船型 4本マスト バーク型帆船
・総トン数 2238.4トン
・全長 97m
・全幅 13m
・メインマスト高 46m(水面からの高さ)
・総帆数 29枚
・帆の総面積 2050m2
・ディーゼル機関による走航可能

昭和3年(1928)大型練習帆船2隻の建造が決定されました。2隻の建造費は合計182万円、当時の国家予算(軍事費および国債費を除いた一般会計予算が約8億7千万円だったそうです)、からすると破格の大型プロジェクトでした。

イギリス・スコットランドのラメージ・エンド・ファーガッソン社が設計し、神戸の川崎造船所が建造しました。昭和5年(1930)2月14日に進水した第2船は「海王丸」と名付けられました。文部省に引き渡された海王丸は、この年の10月から12月にかけてミクロネシアのトラック島へ第一回遠洋航海を行っています。その後、太平洋を中心に訓練航海に従事していましたが、太平洋戦争が激化した昭和18年(1943)に帆装が取り外され、また、船体をねずみ色に塗り替えられ、石炭の輸送任務に従事しました。

戦後は海外在留邦人の復員船として27,000人の引揚者を輸送しました。1955年には、帆装の再取り付けがなされ、また船体も白く塗りなおされ、「海の貴婦人」と呼ばれた元の姿を取り戻しました。昭和31年(1956)春にはロサンゼルスに向け、戦後初の遠洋航海を行いました。その後、日米修交百年祭参加遠洋航海(1960年)、ロス〜ホノルル間国際ヨットレース参加遠洋航海(1961年)、カナダ建国百年祭参加遠洋航海(1967年)を始め、数多くの遠洋航海を行いました。

1974年以降は老朽化が進んだため、遠洋航海の規模縮小を余儀なくされ、平成元年(1989)9月16日に退役しました。海洋練習船としての役割は海王丸2世号に引き継がれました。引退後の引取先として、日本各地の自治体が名乗りを上げ、最終的に富山県と大阪市が残りました。両者の協議により、5年交替で富山新港と大阪港に係留することとなり、富山県と大阪市が共同で設立した財団法人帆船海王丸記念財団へ払い下げられました。先に富山新港に係留され、1990年4月28日より一般公開を開始、1992年7月5日には専用の係留・展示施設である海王丸パークが開場。その後、1994年に大阪市は別の帆船を誘置することを決定、海王丸は富山新港に恒久的に係留されることとなりました。

日本丸、海王丸には船首像がありませんでしたが、1985年に日本丸2世号が就航した際に、日本丸2世号と海王丸に船首像が取り付けられました。これらの船首像は東京芸術大学の西大由教授によって制作されたものでした。日本丸2世号の船首像は手を合わせて祈る女性の姿をした「藍青」、海王丸の船首像は横笛を吹く女性の「紺青」です。1989年に海王丸が引退した際、船首像の「紺青」は海王丸2世号に引き継がれました。

こちらで
日本丸 (帆船)
海王丸 (帆船海王丸の総帆展帆写真)

世界遺産の
ヌビア遺跡 (エジプト)
ピラミッド (エジプト)
パルテノン神殿 (ギリシャ)
姫路城 (日本)
をお楽しみください。

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。       2018/7/8追記

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