★ポルトガル ルイス・フロイス
1563年・横瀬浦に上陸
1569年・織田信長に謁見
大航海物語

Portugal
ルイス・フロイス神父

ポルトガル 1997/6/9 発行

MACAU
路易士神父遁世四百周年
フロイス神父と日本人従者 フロイス神父と織田信長

フロイス神父没後四百年記念
ルイスフロイス神父没後四百年記念
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マカオのセントポール天主堂(跡)





マカオ 1997/6/9 発行

ルイス・フロイス
 Luis Frois 天文元年(1532)〜慶長2年5月24日(1597/7/8)

カトリック教会のイエズス会員で司祭、宣教師。「日本史」を執筆。1569年にフロイスは京都で建築中の二条城で、織田信長に謁見しました。ルイス・フロイスはポルトガルのリスボンで生まれ、1548年16才でイエズス会に入会しました。同年、当時のポルトガル・インド経営の中心地だったゴアへ赴き、そこで養成を受けました。同地において日本の布教へ向かう直前の聖フランシスコ・ザビエルと日本人協力者ヤジロウに出会いました。このことがその後の彼の人生を運命づけることとなりました。

1548年、16才でインドのゴアに到着
1548年、ゴアで聖ザビエルと会う
1563年、31才で長崎の横瀬浦に上陸
1565年、京都入りを果す
1569年、二条城で織田信長と対面
1580年、安土城で信長に拝謁
1583年、「日本史」の執筆を始める
1587年、秀吉の伴天連追放令
1590年、聚楽第で豊臣秀吉と会見
1597年、「二十六聖人の殉教記録」を完成。

1561年にゴアで司祭に叙階され、語学と文筆の才能を高く評価され、各宣教地からの通信を扱う仕事に従事し、1563年に31才で横瀬浦(現:長崎県西海市北部の港)に上陸して、念願だった日本での布教活動を開始しました。日本語を学んだ後、1564年に平戸から京都に向かいました。1565年1月31日、京都入りを果たしましたが、庇護者と頼んだ第13代将軍足利義輝と幕府権力の脆弱性に失望。三好党らによる戦乱などで困難を窮めながらも京都地区の布教責任者として奮闘しました。

1569年に、新しい中原の覇者の織田信長と二条城の建築現場で初めて対面。既存の仏教界のあり方に信長が辟易していたこともあり、フロイスはその信任を獲得して畿内での布教を許可され、多くの信徒を得ました。その著作において信長は異教徒ながら終始好意的に描かれています。フロイスの著作には「信長公記」などからうかがえない記述も多く、日本史における重要な資料の1つになっています。その後は九州において活躍していましたが、1580年巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノの来日に際して、通訳として視察に同行し、安土城で信長に拝謁しています。1583年、時のカトリック教会総長の命令として、布教の第一線を離れ、日本におけるイエズス会の活動の記録を残すことに専念するよう命じられ、以後、彼はこの事業に精魂を傾け、その傍ら日本全国をめぐって見聞を広めました。この記録が後に「日本史」と呼ばれることになりました。

信長の対イエズス会政策を継承していた豊臣秀吉は、やがてその教会の勢力拡大に危機感を抱くようになり、1587年6月19日、伴天連追放令を出すに至ったため、フロイスは畿内を去って加津佐を経たのち長崎に落ち着きました。1590年、帰国した天正遣欧使節を伴ってヴァリニャーノが再来日すると、フロイスは同行して聚楽第で秀吉と会見しました。1592年、ヴァリニャーノと共に一時マカオに渡りましたが、1595年長崎に戻り、1597年には「二十六聖人の殉教記録」(1532ー1597)を文筆活動の最後に残し、5月24日に亡くなりました。享年65才。フロイスは日本におけるキリスト教布教の栄光と悲劇、発展と斜陽を直接目撃し、その貴重な記録を残しました。

フロイスは早くから文筆の才を注目されて、毎年の「イエズス会日本通信」や「日欧文化比較論(ヨーロッパ文化と日本文化)」を含め多くの著作を残しています。特に有名なものはなんといっても「日本史」(Historia de Iapan)です。この本は1549年のサビエルの来日に始まり、1593年の記述で終っています。「日本史」はイエズス会の日本宣教の記録ですが、同時代史として、フロイス自身の目で見た京都や堺、九州の諸都市の様子から、信長、秀吉など多くの戦国の武将たちの客観的かつ詳細な記述、各地の戦乱の詳細な記録などを含み、戦国時代の様子を知る貴重な資料となっています。またローマ字で表記されているため、当時の氏名や地名の読みなども明らかになっています。「日本史」の存在は古くから知られていましたが、著作そのものは長きにわたって行方不明で、その後の調査で写本がスペイン・ポルトガルで散逸したこと、原稿はマカオで焼失したことがわかり、19世紀になって各地で写本が発見され、不完全ではあるもののフロイスのこの大作が復元されました。

参考:〜
マカオのセントポール天主堂(跡)
右の図案は、1997年に発行されたポルトガル人宣教師のルイス・フロイス没後400年の記念切手の1枚で、マカオのセントポール天主堂(跡)を背景にしたフロイスの像が描かれています。マカオのシンボルともいうべきセントポール天主堂は、17世紀初頭にイタリア人によって設計されたといわれています。建設には、江戸幕府の弾圧を逃れて長崎から渡ってきた日本人も加わりました。完成当時は東洋最大の教会でしたが、1835年の火災で建物正面のファサードを残して焼失しました。その特徴ある姿形でマカオを代表する建造物として多くの観光客が訪れています。ところがフロイスは天
セントポール天主堂(跡)




神父
主堂が完成する以前の1597年に亡くなっていますから、切手のような構図は現実にはありえません。また、彼の主な活動の場は戦国時代の日本であって、マカオには3年弱しか滞在していません。それにもかかわらず、フロイスとマカオを結びつけるデザインの切手が発行されたのは、マカオのポルトガル人がヨーロッパ文明の伝道師として東アジアに与えた影響を誇示する意図が込められているためと思われます。1999年のマカオ返還を前にしたポルトガルは、16世紀以来のポルトガルによるマカオ支配の意義を強調するような切手を数多く発行しました。

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。   11/1/11追記、12/6/14、2017/2/26
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