India

国連 1984 発行
切手で綴る ポルトガルのインド攻略(U
ゴア
Goa

大航海物語

  地図編

ゴア
1635、ペドロ・バレットの古地図
Pedro Barreto de Resende (?-1651)

ポルトガル領インド 1956/3/24  発行

ゴア
  Goa

ゴアはポルトガルが建設した最も重要なインドの拠点で、インド西海岸のゴア州に有、ゴアはインド西海岸中部のマンドウィー川(Mandovi River)の河口にある島にあって天然の良港を有する都市。16世紀初めにはイスラム王朝のビジャープル王国(Bijapur)の重要都市でした。

17世紀初頭のゴアはモザンビークから長崎に広がるポルトガル海上帝国の首都として「東洋のローマ」と呼ばれるゴアの黄金時代を迎えました。当時のゴアの人口は20万人に達し、市内には壮麗な教会や修道院、総督府などの建物が立ち並んで、ヨーロッパの都市にも引けを取らなかったとさています。17世紀にアジアへ進出したオランダ共和国がポルトガル船を拿捕したり、マラッカなどポルトガル植民地を奪取すると、ポルトガルの海上覇権は次第に衰えていきました。しかし、オランダはゴアを何度も包囲しましたが、ゴアを陥落させることはできませんでした。その後、イギリスがインドに植民地帝国を建設した時も、ポルトガルはゴア、ディウ、ダマンなどの都市の領有を保持しました。第2次世界大戦においてポルトガルは中立国の立場をとったため、ゴアは東アフリカのモザンビーク植民地のロレンソ・マルケスと共に、抑留されていた交戦国民の交換船による交換地となりました。1947年にインドがイギリスから独立し、インド政府はポルトガルにも領土の返還を求めたが、ポルトガルのアントニオ・サラザール独裁政権は応じずゴアを支配し続けました。1961年にインド軍の侵攻を受けてインドに併合されました。1974年のポルトガルの無血軍事クーデターで、ポルトガルは公式に主権を放棄しました。

1498年、ポルトガルのヴァスコ・ダ・ガマがインド(カリカット)到達に成功
1503年、アファンソ・デ・アルプケルケ将軍がインド遠征艦隊でゴア、ホルムズ
      カリカットを攻撃し、ガルシア・デ・ノローニャが従軍
1505年、ドン・フランシスコ・デ・アルメイダ提督が初代インド副王としてインドに到着
1506年、南ゴアのアンジャディヴァ島包囲攻撃の戦いが勃発、ポルトガルが勝利
1509年、アルブケルケ将軍が初代インド総督としてインドに到着
1510/2月、ポルトガルのアルブケルケ将軍の艦隊がポルトガル兵1,000人を率いて来航し、
       20万人都市ゴアが降伏するも、ゴアの要塞が老巧化しており使えず
       30才のマゼランが従軍
1510/03月、アルブケルケ将軍がゴアへ侵攻、ゴアの戦いが勃発
1510/05月、ビジャープル王国のスルタン(Adil Khan)が兵50,000で攻撃、ポルトガルは撤退
1510/11月、アルブケルケ将軍がポルトガル本国からの増援部隊の到着で、
        ポルトガル兵2,000でゴアを再攻撃し、ゴアは陥落してポルトガルが占領、
        ビジャープルのスルタンが何度もゴアを攻撃するも、奪回できず
1510/12月、アルブケルケ将軍がゴアの戦いに勝利、ゴアを要塞化する
        クジャラート王国とカリカット王国が大使を派遣してくる
1512年、ポルトガルはゴア要塞へ通じる水路を制するベナステリム要塞を奪取し、
      ゴアに病院と幾つかの教会を建設
1515年、ルポ・デ・アルベリガリアが第2代インド総督としてインドのコーチンに到着
1524年、ヴァスコ・ダ・ガマが第2代インド副王としてコーチンに到着、同年コーチンで病没
1529年、ヌーノ・ダ・クーニャが第7代インド総督としてコーチンに着任
1530年、ポルトガル領インド首都がコーチンからゴアに移転
      アジアの全植民地を統治するポルトガルのインド総督、副王が常時駐在する
      ゴアとリスボンの間には喜望峰経由の定期航路が開かれる
1534年、ローマ教会の大司教座が設置され、ローマ教会が全アジアを管轄する中心となり、
      サンタ・カタリナ大聖堂が建設(1562〜1619)される
      ボンベイがポルトガル領となる
      ポルトガルがバサインを占領
1535年、ポルトガルがディウを併合、これらの領土はポルトガル領インドの北部地域となる、
      ダマンからチャウルまで海岸沿いに100km広がり、内陸へ30から50kmあったが、
      その地域は城塞都市バサインが支配
1538年、ドン・ガルシア・デ・ノローニャが第3代インド副王としてゴアに着任
1539年、ポルトガルがグジャラートのスルタンからダマンを正式併合、
      ゴアにサルセッテ(Salcette)を併合、領有
1541年、聖フランシスコ・ザビエルがインド(ゴア)に到着
1543年、ゴアの人口が30万人に達する
1547年、ジョアン・デ・カストロが第10代インド総督としてゴアに着任
1548年、カストロ総督が第4代インド副王に叙任されるも、同年ゴアで亡くなる
1552年、聖ザビエルが中国広東沖サンジョアン(上川)島沖で亡くなり、ゴアに埋葬される
1558年、ドン・コンスタンチノ・デ゙・ブラガンザが第5代インド副王としてゴアに着任
1562年、サンタ・カタリナ大聖堂(Se Cathedral)が建設開始される、
      1619年に完成、1776年に1つの塔が崩壊
1568年、ドン・ルイス・デ・アタイデが第10代インド副王としてゴアに着任
1571年、アタイデ副王がクジャラート王国のゴア包囲攻撃を撃退、
      アタイデ副王がポルトガルに帰国
1578年、アタイデ副王が第12代インド副王としてゴアに着任
1581年、アタイデ副王がゴアで亡くなる
1594年、聖ザビエルの遺体安置といわれるボン・ジェス教会の建設開始
1603年、オランダがゴアを攻撃してくるも、撃退
1605年、ボン・ジェス教会(Basilica of Bom Jesus)が完成
1612年、マンドウィー川の河口の西にアグアダ砦(Fort Aguada)を建設
1639年、オランダがゴアを攻撃してくるも、撃退
1661年、ボンベイがイングランド王チャールズ2世の元へ嫁した
      ポルトガル王女カタリナの持参金の一部としてイギリスに
      割譲され、ボンベイのポルトガル植民地支配が終る
1739年、ポルトガルがマラータ戦争で北部地域のほぼ全域を失う
ゴア・ボンジェス教会

ゴア 1951 発行
1779年、ボンベイがダードラーとナガル・ハヴェーリーを獲得
1945年、大日本帝国無条件降伏第2次世界大戦終結
1947年、インドがイギリスから独立
      インド政府はポルトガルにも領土の返還を求めたが、
      ポルトガルのアントニオ・サラザール独裁政権は応じず
1961年、インド国民軍がポルトガル領に武力侵攻、
      インド全土のポルトガルの植民地支配が終る
1974年、インドのゴア併合はソビエト連邦の反対により国連安保理では受け入れられず、
      多くの国が植民地独立の一つとして支持し、
      ポルトガルはカーネーション革命(1974)で公式に主権を放棄
1986年、聖ザビエルの墓のあるボム・ジェズ・バシリカや聖フランシス修道院などポルトガル
      時代のキリスト教建築が「ゴアの聖堂と修道院」としてユネスコ世界遺産に登録、
      ポルトガル植民地時代の建物と文化が残り、リゾート地で国内外の観光客を集め、
      この地の音楽の生まれたゴアトランスがサイケデリックトランスとして世界に広まる
1987年、パナジ(Panaji)を首府とするゴア州が設置される
2001年、州人口1,343千人(2001)、州内では英語やコンカニー語などが使用されている、
      ポルトガル語を話す住民も3〜5万人程度有。

参考HP:〜
 ・ゴアの場所地図
 ・オールド・ゴアの場所地図(Salcette有)
 ・アグアダ砦の場所地図(Fort Aguada)
 ・ゴア付近の地図(日本語)
 ・ゴアの地図
 ・インドの地図(日本語)
 ・インド植民地の地図
 ・ゴアのアンジャディプ島の場所地図

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。    10/10/12

スタンプ・メイツ
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