(9)スペインに凱旋・帰国の記 すぺいんにがいせん・きこくのき C・MENU もどる すすむ

コロンブスは1943/1/14に北北東(ほくほくとう)の風(かぜ)にのり、2隻でイスパニョーラ島を出帆しました。そして、2/24(日)に東へと転舵(てんだ)して、スペインへの帰国(きこく)の途(と)につきました。


ドミニカ 1992 発行

←ニーニャ号、ピンタ号→
1493/1/14(月)に、コロンブスはイスパニョーラ島から、”ピンタ号”と”ニーニャ号”の2隻の船で、スペインへむかって出帆しました。
ルーマニア 1992 発行

コロンブスのスペインをめざしてのかえりの旅(たび)も、くなんの航海となりました。

2/13(木)に暴風雨(ぼうふうう)におそわれ、コロンブスの船隊(せんたい)は雷鳴(らいめい)がとどろくなかを北(きた)へとすすみました。

2/18(火)アゾレス諸島の”サンタ・マリア島”につき、修理(しゅうり)と補給(ほきゅう)をしました。

←ニカラガ 1992 発行

←嵐におそわれるコロンブス

2/27にマデイラ諸島のちかくの海で嵐(あらし)がおそってきました。食料(しょくりょう)などがへってきて、船底(ふなぞこ)のにもつがかるくなり、バラストの”おもし”の石(いし)をつむため、陸地をさがしましたが見つかりませんでした。

ガイアナ 1992 発行

←嵐でほんろうされながら進むる。ガイアナ 1992 発行

3/2(火)の夜にハリケーンがおそってきました。船のまえのマストだけに帆(ほ)をあげてすすみました。そのご、ポルトガルの”リスボン”の港(みなと)の近くへきました。

ガイアナ 1992 発行

ポルトガルの地図 (スペイン 1999/5/28 発行

3/4ポルトガルのテージョ川の”リスボン”の港について、嵐でいたんだ船のしゅうりをしました。ポルトガル国王ジョアン2世に発見地(はっけんち)のことをきかれ、コロンブスは1479年のアルカソヴァス条約には違反(いはん)していないのに、ポルトガルの権利(けんり)を侵害(しんがい)する航海だとして抗議(こうぎ)され、あやうく逮捕(たいほ)されるところでした。

1493/3/3にポルトガルのリスボン港を出帆し、スペインのパロスの港へと航海しました。


アメリカ(USA)1992 コロンブスの新大陸発見500年記念発行

1493/3/15(金)にスペインのサルテス川にはいって、待望(たいぼう)のパロス・デ・ラ・フロンテラの港にかえってきました。


←モントセラット1992発行・小型組合せシートより

イサベラ女王への
 報告(ほうこく)の謁見(えっけん)


バルセロナでイサベラ女王夫妻(じょうおうふさい)に報告したのは4月末(しがつまつ)となりました。(4/20だったという人ともあります)。


ニカラガ 1992 発行

←コロンブスが持ち帰った品々(しなじな)で、”トマト”と”トウモロコシ”はヨーロッパに、はじめてもたらされたことは、よくしられています。

モントセラット 1992 発行

 ←コロンブスが持ち帰った品々→


モントセラット 1992 発行

    セントヴィンセント 1992 発行→

スペインにかえったコロンブスは、大成功(だいせいこう)とおもわれて、大歓迎(だいかんげい)をうけました。そして、スペイン全土(ぜんど)を興奮(こうふん)の”るつぼ”と化(か)しました。こんどは国王(こくおう)から、もう一度(いちど)、探検航海(たんけんこうかい)に行くようにとの”ようせい”をうけました。それをききつけた大勢(おおぜい)の人たちがすすんで参加(さんか)をもうしこんできました。第2回めの探検航海の船隊がへんせいされました。それは前回(ぜんかい)とはおおちがいの、なんと17隻に1500人がのりこむという大船隊(だいせんたい)となったのでした。

コロンブスと一緒(いっしょ)に行ったサンタ・マリア号のもちぬしで船長だったファン・デ・ラ・コーサは、今までの地図に、あたらしく発見した所を書きこんだ”あたらしい世界地図”を1500年に作って、はっぴょうしました。↓↓


アジア→


新しく→
発見された→
アジアの→
一部→


アジア→





←スペイン


←アフリカ





ヴァージン諸島
  1992 発行
・コロンブスが見ていた昔の世界地図には、なにかたりない所がありますよね。
そうです、それは、太平洋アメリカ無いのです。
コロンブスは、新しく発見した所は、アジアのいちぶぶんだと信(しん)じてうたがいませんでした。
そして、いっしょうがいそのかんがえをかえませんでした。

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