Spain

国連 1988 発行
E S P A N A(I)
切手で綴る スペインの大航海 (Adventure Voyage)
スペインの西回りインド大航海

大航海物語
  スペイン編







西インド諸島
新大陸への地図

アメリカ(1945)発行”小型切手シート”で作成
スペイン

ESPANA POSTA ROMANA
マゼラン

ルーマニア 1971/12/2 発行
エルカノ

スペイン 1976/5/1 発行
クリストファー
マルティン
ヴィセンテ
コロンブス ピンソン兄弟
スペイン 昭和5年(1930/9/29) 発行

スペインの西回りインド航海
15世紀のスペインはカスティリャ王国とアラゴン王国そしてイスラム国最後の王朝グラナダ王国とに集約されて、キリスト教国とイスラム教国は最後の戦いを繰り返していました。そして、ポルトガルが探検航海事業を推し進めたことにより、カスティリヤ王国とポルトガルは大西洋上の島々の領有をめぐって対立し、1479年カスティリヤ王国はカナリア諸島を勝ち取りました。15世紀末にはグラナダの陥落により、イスラム教徒をスペインから追い払い、香料や金銀財宝を求めて、インドへの西方航路開拓の探検航海へと乗り出しました。その最初のコロンブスはカナリア諸島を最後の補給基地港として、西へ西へと未知の大海原へ出帆して行きました。

スペインと北アフリカの地図

スペイン 2003/10/1 発行

カナリア諸島の地図

スペイン 1981/7/8 発行

こちらで”カナリア諸島”をお楽しみください。
鳥の”カナリア”をこちらでお楽しみください。





グラナダの陥落とコロンブスの船出
REPUBLICA DE HONDURAS
グラナダへ入城するカトリック両王
馬上のフェルナンド2世とイサベラ女王へ
鍵を差出すグラナダのムハンマド王(左)


V CENTENARIO ISABEL LA CATOLICA
LA RENDICION DE
 GRANADA
A LOS REYES CATOLICOS

1492 グラナダ勝利500年記念 1992

ホンジュラス 1992 発行
ESPANA
1492/8/3、バロス港で船出前に
インドへの無事到達を祈るコロンブス


DESPEDIA DE CRISTOBAL COLON
PALOS 3 AGOSTO 1492

スペイン 昭和5年 1930/9/29 発行
参考HP:〜 グラナダ入城
   (La Rendicion de Granada)

グラナダの陥落とコロンブスの船出
1492年には歴史上重要な出来事が2つ起こりました。それは
・1/2の「ヨーロッパでのイスラム教国最後の拠点グラナダの陥落」、そして
・8/3の「スペイン・バロス港から西回りインドへ向ってのコロンブスの船出」でした。

グラナダの陥落は数世紀にわたるイスラムの大帝国の征服からヨーロッパが完全に解放され、これにより、レコンキスタ(Reconquista, 718-1492:国土回復運動:キリスト教徒によるイベリア半島回復を目指す運動)が終了しました。イベリア半島最後のイスラム教国となっていたナスル朝(1230-1492)は都をグラナダに置き、カスティリャ王国(Reino de Castilla, 1035-1479)に貢納して独立を保ちながら、アルハンブラ宮殿ではイスラム文化が隆盛を極めていました。対岸の北アフリカではモロッコのフェズに都を置くイスラム教国マリーン朝(1196-1465)がジハード(聖戦)によってイベリア半島の再占領を目論んでいましたが、1309年ジブラルタルがキリスト教徒に占領されると半島にイスラム軍を進め、1340年リオ・サラドの戦い(Battle of Rio Salado)でポルトガルとカスティリャ連合軍に敗北を喫しました。これ以降半島への進出は無くなり、グラナダ王国はイベリア半島に孤立化することとなりました。 Commonwelth of Dominica
グラナダのアルハンブラ宮殿、1390

2000年紀記念のミレニアム切手
ドミニカ 1999 発行

これに対し、キリスト教国はお互いに争いながらもその勢力を拡大してゆきました。カスティリャ王国イサベラ女王(1世)とアラゴン王国フェルナンド王(2世)とが1469年(王女と王子の時)結婚していたので、1479年両国は連合して共同統治を行い、スペイン王国を形成しました。1462年にはジブラルタルが、そして1487年アンダルシア州マラガがキリスト教徒の手に落ちていたので、1491年キリスト教国のカスティリャ・アラゴン両王国はグラナダへ軍を進め、イスラム教国へ降伏を勧告しました。翌年1/2イスラム教国最後の君主ムハンマド12世アブ−・アブド・アッラーフはこれを受け入れ、都のグラナダを明渡し、イベリア半島を後にしました。これにより、イサベラ女王とフェルナンド2世の夫婦王が入城し、スペイン全土がキリスト教国の”スペイン王国”として統一されることとなりました。






イサベラ女王へのコロンブスの提案
ESPANA
イサベラ女王
ISABEL LA CATOLICA


1451 イサベラ女王 500年記念 1951
スペイン 1951/10/12 発行
Mont Serrat
コロンブスのイサベラ女王への提案

1492 コロンブス新大陸発見 500年記念 1992
モント・セラット 1992 発行

UNITED STATES of AMERICA

1492 コロンブス400年記念 1892
アメリカ 明治26年 1893/1/2 発行
ESPANA

1492 コロンブス500年記念 1992
スペイン 平成4年 1992/9/29 発行
イサベラ女王へインド到達計画を提案するコロンブス
同一図案の切手が100年後にも発行されました
そういう時期にコロンブスが西回りのインド到達計画を女王に提案してきました。1478年にはカスティリャ王国はポルトガルからカナリア諸島を勝ち取り、1479年のアルカンバス条約で正式にスペインへ帰属していましたので、女王はポルトガルとの対抗意識もあって、この「コロンブスの計画」を直感的に裁下したといわれています。そして打ち続く戦乱で資金も枯渇していたので、自分の宝石類を質に入れて資金を調達し帆船を準備したとも伝えられています。またイタリ−・ヴェネティアの商人達も投資と考えて 資金を出資したので、コロンブスは船員や食料など航海に必要な物資を準備できました。こうして、1492/8/3にコロンブスは人跡未踏の未知の海へと船出して行き、翌年3/15に無事にパロス港に帰ってきました。コロンブスが成功したという話はスペイン全土に伝わり、多くの船乗り達が船に、戦乱が終わって失業した元兵士らなどを乗せてインド(新大陸)目指して出帆しました。

かくして、スペインの大航海時代が始まり、コンキスタドールと呼ばれる一攫千金を夢見る野郎ども(食い詰め者)もどっと新世界へと往きましたので、探検から征服へと変貌して行きました。探検航海が進むにつれて新しい地図情報が伝えられ書き加えられました。それは無限とも思われる財宝のありかを示す地図でも有りましたので、まさに秘中の秘として極秘に取り扱われ、スペインでは二重の鍵のかかった金庫に保管し、鍵は運輸大臣と水路部長官が保管して航海の出発前に、この二人が立ち会って鍵をあけて船長に地図を手渡し、航海から帰ってくるとまず地図を金庫にしまったといわれています。

そして疫病が新大陸へと伝播しました。ヨーロッパからは「天然痘」などがもたらされて現地の住民人口を大幅に減少させたことは良く知られていますね。新大陸からは「性病の梅毒」が伝播してきました。日本への性病の伝播は欧州から陸路で中国をへて1512年に伝わったとされています.。スゴイ速さで「梅毒」がユーラシア大陸を汚染して日本へ上陸したわけだ(@_@)。コロンブスが出帆してわずか20年後だ! 欧州の船の日本来着は、なお30年以上待たねばなりません。ポルトガル人の種子島漂着による鉄砲の伝来は1543年(天文12年)、ザビエルの鹿児島上陸(キリスト教の伝来)は1549年(天文18年)となっておりますね。

参考HP〜
 ・カスティリャ王国の場所地図(1474年イサベル1世即位当時のイベリア半島)
 ・スペイン帝国の版図地図(スペイン帝国(1492-1976)の世界の場所地図)

こちらで
(1)スペイン(I) (スペインの西回りインド大航海)(1)
イスパニアの初期大航海
グラナダの陥落とコロンブスの船出
イサベラ女王へのコロンブスの提案
 ・コロンブス・船 出
 ・マルティン・ピンソン
 ・ビセンテ・ピンソン
 ・バルトロメ・コロン
 ・トーレス
 ・ヘレス
  ・サンタンヘル
  ・アブラヴァナル
  ・ザクート
 ・マゼラン
 ・エルカノ
 ・ピガフェッタ
 ・ゴメス
(2)スペイン(II) (スペインの西回りインド大航海)(2)
(3)スペイン(III) (スペインのフロリダ植民)
(4)スペイン(IV) (スペインのアステカ帝国征服 )
(5)スペイン(V) (スペインのインカ帝国征服 )
(6)スペイン(VI) (スペインの太平洋探検)
(7)スペイン(VII) (スペインの財宝輸送と対外戦争)
(8)スペイン(VIII) (スペインの宣教師)
をお楽しみください。

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。   2017/2/26追記、令和 R.2/12/21(2020)

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