★スペイン
アイザック・ベン・ユダ・アブラヴァナル
1492
コロンブスの第1回航海、イサベラ女王に資金を援助

大航海物語★
SIERA LEONE
ドゥカート金貨、 サンタ・マリア号、 アブラヴァナル

Ducats、 Santa Maria 、 Abravenal
Issac Abravenal 1437-1508
コロンブスの新大陸発見 500年 記念
シェラレオーネ 1992 発行 (200%)

アイザック・アブラヴァナルはポルトガルで生まれ法律や宗教を見につけ、父の財産をゆずり受けて、戦争に巻き込まれたユダヤ人捕虜の救済を行い、ポルトガル宮廷で会計官として働き、国王のアフォンソ5世の死去後に迫害を受けて、スペインに移住しました。スペインではイサベラ女王の財務官として働き、レコンキスタ戦争中の女王を助けました。グラナダ陥落後に起こったユダヤ人排斥では多額の金貨を使用してユダヤ人の安全を願いましたが、彼自身はイタリアに移住しました。そこへイサベラ女王の夫君のアラゴン王国々王フェルナンド2世が迫ってきましたので、財政官として働きながら、スペインのユダヤ人救済に私財を投じ、ナポリで亡くなりました。

アイザック・ベン・ユダ・アブラヴァナル (1437〜1508)
 Isaac ben Judah (or Yitzchak ben Yehuda) Abravanel

アイザック・アブラヴァナルはポルトガルのリスボンで生まれ、父親から高い地位と莫大な財産を相続しました。リスボンのヨーゼフ・シャイム(Joseph Chaim)法律塾で学びました。20才の時に問答形式の宗教著述を書き出版しました。

・ポルトガル時代:−
ユダヤ人同胞が苦しんでいると聞くと、ジットしていられませんでした。あるとき、モロッコやアルジェリアで、またタンジールから50kmの所にあるアシラ(Asilah)でユダヤ人の捕虜が奴隷として売られると聞くと、彼らを救うために必要な資金の提供を惜しみませんでした。イタリア・ピサの裕福な友人ヤヒール(Jehiel, of Pisa)にも捕虜救済の援助を要請したりしました。

アブラヴァナルは若いころに政治的な手腕を発揮してポルトガルのアフォンソ5世(Afonso V, 1432-1481、在位:1438-1481)の宮廷で会計官として働き資金援助をしました。アフォンソ5世のがカスティリャ王位継承(14才のファナ王女とイサベル王女の抗争)に介入して2万の大軍で攻め込み、1476年3月の「トロの会戦」(Battle of Toro )に敗れて、1477年7月のアルカソヴァ和親条約により、戦争は終結しました。ファナ王女はポルトガルの修道院に入り、弟のアルフォンソ12世が1464年に即位してカスティリャ王位につき、その死後1474年イサベラ王女がイサベラ1世としてカスティリャの王位を継承しました。

・スペイン時代:−
アフォンソ5世が1481年に亡くなると、ジョアン2世(Joao IIJohn II 1455-1495,)とブラガンサ公爵(Duke of Braganza 1430ー1483)とに陰謀の嫌疑をかけられ、私財を捨ててポルトガルを後に、スペインのトレド(Toledo、スペイン中央部、カスティーリャ・ラ・マンチャ州の州都トレド県の県都でマドリードから南に71kmの距離タホ川に面す)に移住しました。その後、レコンキスタ戦争の間はカスティリャ軍に食料を補給したり、また、イサベラ1世とアラゴン国王に財務官として財政支援をしました。イスラム教徒のグラナダが陥落すると、アルハンブラ宮殿でユダヤ人追放が起こった時には、ドゥカート金貨で3万枚(30,000 ducats $68,400)を差し出して、ユダヤ人の安全を要請しました。

・イタリア時代:−
同胞の安泰を見届けて、彼はイタリアのナポリ(Naples)へ移住しました。1495年にナポリがアラゴン王国フェルナンド2世の支配下に入るとフェルナンド王のもとで働き、モノーポリ (Monopoli)にも王と共に移動し、最期に「ポルトガルとヴェネティアの通商条約交渉」が行われていたヴェニスに1503年に移りました。そして、彼はスペインのユダヤ人の安全が許されるためにスペインの宮廷に賄賂を贈り、一個人として多くの私財をを使いました。

アイザック・ベン・ユダ・アブラヴァナルはイタリアのヴェニス(Venice)で1508年に71才で亡くなり、パドヴァ(Padova、イタリアのヴェネツィア近くヴェネト州パドヴァ県の県都)のユダヤ人墓地に葬られました。

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。     08/2/28
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