★ロシア
ウラジミール・イストミン提督
1853、”シノープの海戦”勝利
1855、セヴァストポールの戦い

大航海物語★
CCCP
イストミン提督

ソ連 1989/12/28 発行
ロシアの戦艦

Battleship Poltava 1712
ソビエト連峰 1971/12/15 発行

古代の戦艦アルゴノート号 クリミヤ半島
(セバストポール)
ロシア帝国の
軍 艦 旗→
白地に青色線



大 砲→
イカリ→

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←シノープ
      ギリシャ  エーゲ海         トルコ(小アジア半島)
(Jason & Argonaut) ジョージア 1998/6/23 発行 小型シートより

イストミン提督はナヴァリノの海戦、ダーダネルス海峡封鎖作戦、シノープの海戦に従軍して勝利しました。セヴァストポールの防衛戦では要塞の防御を強化し、防衛戦を戦って、防弾の直撃を受け、46才で亡くなりました。
ウラジミール・イワノヴィッチ・イストミン提督 (1809〜1855/3/7)
 Vladimir Ivanovich Istomin
 56才没
イストミン提督は帝政ロシア海軍中将(rear admiral)で、パーヴェル・ナヒモフ提督の艦隊で、ナヴァリノの海戦(Battle of Navarin、1827/10/20)を戦い、ダーダネルス海峡(blockade of Dardanelles、1828-1829)封鎖作戦に従軍し、シノープの海戦(1853/11/30)を戦い勝利しました。1855年にセヴァストポールの戦い(Siege of Sevastopol 1854-1855)で、カラマチャッツカ砦(Kamchatka redoubt)が砲撃されて亡くなり、英雄(Hero of Crimea)になりました。

1827年、サンクトペテルブルグ海軍兵学校を卒業、その後にロシア帝国バルチック艦隊に入隊。
1827/10/20、英仏路連合艦隊の一員として、ナヴァリノの海戦でオスマントルコ艦隊に勝利。
1828年、ダーダネルス海峡封鎖作戦に従軍。
1836年、バルチック艦隊から黒海艦隊へ移動。
1850年、戦列艦パリ号(battleship Paris)艦長。
1853年、シノープの海戦でナヒモフ提督騎下の戦列艦パリ号で参戦、オスマン・トルコ艦隊を殲滅。
     海軍少将(Rear-admiral)昇進。
1855年、セヴァストポールの包囲攻撃戦の作戦中に、マラコフ丘(Malakhov Mound)の防御線を
      ウラジーミル・コルニロフ提督と共に準備、構築しました。
1855/3/7、カラマチャッツカ砦が砲撃され、その直撃を受けて亡くなり、
      同地の聖ウラジミール大聖堂(St VladimirCathedral in Sevastopol)に葬られました。
なお、
1855/9/7、”マラコフ丘の戦い”(Battle of Malakoff)でのフランス軍との闘いではロシア軍が敗戦。
1855/9/11、連合軍の総攻撃でセバストポールは陥落しました。

参考:〜
クリミア戦争(1853〜1856)
 Crimean War

1853年からのクリミア戦争では、同地を拠点とする黒海艦隊がシノープの海戦でオスマン帝国の艦隊を撃破するなどの戦果を挙げたが、1854年にオスマン帝国と同盟を結んで参戦してきたイギリスとフランスがオーストリアの妨害工作により攻略目標をオデッサからセヴァストーポールに変更。ロシア軍は英仏艦隊の侵入を阻止するために黒海艦隊を湾内に自沈させ、市街地全体に防塁を敷き詰めて要塞化したが、長期にわたる包囲戦の末にパーヴェル・ナヒモフ提督ウラジミール・コルニロフ提督ウラジミール・イストミン提督やコルニーロフ大佐も戦死し、ロシアは1855/9に放棄を決定した。後にパリで開かれた講和会議でカルス要塞と引き換えにセヴァストーポールがロシアに変換された。
ロシアの軍艦旗

クリミア戦争での主な戦い:〜
オルテニットァーの戦い(1853/11/4)〜ロシア対オスマン・トルコ
 Battle of Oltenitza
、〜オスマン・トルコの勝利
ルーマニアの人口:5,801(1900) 31,434( 2000)のオルテニットァー町の近くで行われた戦闘で、オマー・パシャ(Omar Pasha Latas 1806-71)が率いるオスマン軍がロシア軍と激突、近くのアルジェス川(Arges River、ダニューブ河に注ぐ支流)を渡河中のロシア軍が大損害を出して敗退。

シノープの海戦(1853/11/30)〜ロシア対オスマン・トルコ
 Battle of Sinop、〜ロシアの勝利
ロシア海軍艦隊が黒海南岸のシノープ停泊中のトルコ軍艦を奇襲攻撃

クレクデルの戦い(1854/8/6)〜ロシア対オスマン・トルコ
 Battle of Kurekdere
、〜ロシアの勝利
アルメニア北西部の都市ギュムリ(Gyumri, Armenia、人口:21,0100人(2001)で戦われた戦い。約4万(25,000+ 8,000+(irregulars)10,000、砲:78gns)のオスマン軍がギュムリへ進軍して、ロシア軍(21,000+(irregulars)4,000、砲:64gns)と激突。オスマン軍が戦死傷者:3,500、捕虜:2,000を出して敗退。、ロシア軍損害はのは戦死傷者:3,000。戦術戦略のミスも有ったらしく、後世の人が「グルジアの首都トビリシ(Tbilisi)へ撤退すべきだった」と言ったらしい。

ペトロパブロフスクの包囲攻撃戦(1854/8/28-9/7)〜ロシア対英仏連合艦隊
 Siege of Petropavlovsk
、〜ロシアの勝利

アルマ川の戦い〜ロシア対英仏土連合軍
  Battle of the Alma
(1854/9/20),Alma River (Ukraine)、〜連合軍の勝利
・参考HP:〜
 ・黒海の地図
 ・クリミヤ半島の地図

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。        09/3/25
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