★イギリス
ジョン・フォレスト卿
1869〜1874
西オーストラリアを3回探検

大航海物語★
AUSTRALIA
晩年のフォレスト卿

オーストラリア 1986/4/1 発行
ジョン・フォレストの探検

オーストラリア 1976/6/9 発行

NEDERLAND
オーストラリアの地図
ノーザンテリトリー(北部準州)
GRENADA
英国へ叙勲で大航海

18〜19世紀の英国帆船
グレナダ 1998/4/26 発行



ウェストオーストラリア

サウスオーストラリア




←クィーンズランド


←ニューサウスウェールス
←ヴィクトリア
←タスマニア
オーストラリア100年記念
オランダ 1988/8/30 発行

西オーストラリア植民地生まれのジョン・フォレスト卿は3回にわたる困難な西オーストラリ探検をなしました。1848年にライカート捜索隊を率いて、4/15パースを出発、人跡未踏の西オーストラリア中央部を探検調査して、8/06にパースに帰着。第2回はパースからアデレードに至る新ルートを求めて、グレートオーストラリア湾沿いの探検を成功させ、3回目は西オーストラリアのジェラルトンを出発してからオーストラリア中央部を探検して、半年以上かかってアデレードに到着しました。探検の功績でイギリスに渡って2度ヴィクトリア女王から勲章を授与され、その後は政府の仕事に携わり、州議会議員を経て、1890年に初代西オーストラリア首相となり、71才で病気治療にイギリスへ行く途中、アフリカの沖合の海上で亡くなりシエラレオーネに葬られました。
ジョン・フォレスト卿 (1847/8/22〜1918/9/2)
Sir John Forrest
 (GCMG:探検の功績で聖マイケル・聖ジョージ勲章受勲)
ジョン・フォレスト卿はイギリス領西オーストラリア植民地のバンベリー(Bunbury, Western Australia)近郷のピクトン(Picton)で生まれ、7人の兄弟がいました。12才までバンベリーの公立学校、その後はパース(Perth)の司教管区寄宿学校(Bishop's Collegiate School、現ヘイルスクール Hale School)で、1860/1月から学びました。1863/11月からトーマス・ケアレイ(Thomas Campbell Carey 1832-1884)政府土地検査官に師事して学び、1865/11月に見習い期間を終え、土地検査官(land surveyor)の資格を取得し、政府土地調査省(government's Lands and Surveys Department)に入省しました。29才のフォレストは1876/9/2にパースで、フランスのル・アーヴル(Le Havre, France)生れの裕福なハマースレイ家の32才の御令嬢マーガレット(Margaret Elvire Hamersley 1844-1929、バンベリーのピクトン没)と結婚し裕福になりましたが、子供には恵まれませんでした。

ジョン・フォレスト卿の3回の西オーストラリア探検(1869〜1874)
・第1回探検:1869年:レイチャード捜索の探検隊
・第2回探検:1870年:グレートオーストラリア湾岸探検隊
・第3回探検:1874年:未知の中央オーストラリア探検隊

・第1回探検:パース〜レオノーラ〜ラヴェートン〜パース
1848/4月にオーストラリア北東部を探検中に行方不明となったドイツのフリードリィッヒ・ライカート探索の要請を、1869/3月に受けた22才のフォレストは現:レオノーラ(Leonora, Western Australia)探検へ向って、「エドワード・エーアのルート」をパースからアデレードへと出発。
1869年ライカート捜索探検隊:〜
4/15、パースを出発
4/26、植民地最奥の羊ステーションを通過
5/06、「馬の骨のある所」へのガイドを申し出た
    一群の原住民アボリジニに出会う
5/13、オースティン(Robert Austin 1825-1905)が
    1854年に探検して11頭の馬が死んだマグネット山の
    100km南東のサンドストーン地帯ポイゾン・ロックに着いて
    骨を見つけるも、元のルートへ戻る
5/28、元のルートへ戻って、15,000 kuを捜索してレオノーラ着、
オーストラリアの乾燥地帯

図案はウィランドラ湖群地域
国連 1999 発行 世界遺産シリーズ
     ライカートの手掛かりは皆無なるも、残りの物資の都合で東方へ出発
7/02、最遠方のラヴァートン(Laverton)に到達
    さらに北方を迂回して113日で約3,600km(2,000mls)の捜索後、
8/06、パース帰着。

・第2回探検:パース〜アデレード〜パース
西オーストラリア植民地政府がパースからアデレードに至る新ルート探査のためにフォレスト・グレートオーストラリア湾(Great Australian Bight)探検隊を編成。30年前にエーアが水の欠乏で失敗した探検の轍を踏まぬように、スクーナー型帆船アダー号(schooner Adur)で食料と飲料水の補給を、新しく発見された停泊地のイスラエライト湾(Israelite Bay)とユークラ港(Eucla、エーアが1841年到達)から受ける計画を立て、副隊長の弟アレクサンダー・フォレスト(Alexander)、警察官のヘクター・マックラーティ(Hector McLarty 1851-1912)、蹄鉄工( farrier)のウィリアム・オズボーン(William Osborn)、アボリジニ原住民(aboriginal)のトミー・ウィンディチ(Tommy Windich)とビリー・ノッガル(Billy Noongale)の5人の男達と、馬16頭と多数の犬を連れて、フォレスト探検隊は出発しました。
1870年グレートオーストラリアンバイト探検隊(6人):〜
3/30、パースを出発
4/24、720km先のエスペランス(Esperance)着、この時期はたびたび豪雨に見舞われる
5/09、エスペランス港でアダー号の補給を受けて出発、
    その後は雨で飲料水を確保
5/18、イスラエライト湾着、240km(150mls)を踏破
7/02、ユークラ港着、
    アダー号で補給を受け、牧場好適地を発見
7/14、最終目的地へと出発、水の補給は困難を極める
7/18、文明の痕跡を見つけ、ファウラーズ湾(Fowler's Bay)着
8/27、アデレード着
9/03、1週刊後に蒸気船に乗船して出港
グレートオーストラリアンバイト

図案はレベキュー岬の眺望
オーストラリア 1986/8/4 発行
9/27、パースに帰港、パース市議会や市民団体から大歓迎を受ける
・同じチームによる探検で、
1871/8〜11月、エスペランス港の北北東で牧場好適地を発見

・第3回探検:ジェラルトン〜マーチソン川〜ピーク電信基地〜アデレード
1874年に西オーストラリアで2番目に長い河マーチソン河(Murchison River 780km)分水界へ行き、そして東へと向って西オーストラリアの未知の砂漠を探検しました。ダーウィン〜アデレード間電信敷設の延長調査も実施し、アレクサンダーとウィンディチを含む6人編成で、20頭の馬と食糧8ヵ月分を準備して出発しました。
1874年未知の中央オーストラリア探検隊(6人):〜
4/01、ジェラルトン(Geraldton)発
5/03、人跡未踏へ突入、マーチソン川源流で田園地帯発見
5月遅く、乾燥地帯を通過
6/02、最適な泉のウェルド・スプリングス(Weld Springs)着
6/13、大勢のアボリジニに攻撃され、多数を射殺するも、
    ウェルド・スプリングスでの飲料水獲得は困難になる
7/04、嵐で水を得るのがやっととなる
8/02、水不足で数頭の馬を捨てる、
    数日後の雨で救われるも、さらに馬を捨てる
乾燥地帯で水を補給した所

図案はカカドゥ国立公園
国連 1999 発行 世界遺産シリーズ
8/23、エルダー・スプリングス(Elder Springs)で水を発見して救われる
9/27、壊血病が出始め、アレクサンダー山(Mt Alexander)の電信線を望見
9/30、ピーク電信基地(Peake Telegraph Station)着
11/3、アデレード着(ジェラルトンから半年以上かかる)

1875年にオーストラリア探検記(Explorations in Australia)の著述を表し出版
    28才で副土地検査官(deputy surveyor-general)に昇進
1876/7、イギリス地理学会(Royal Geographical Society)から金賞を受賞
1882年、イギリスに大航海して渡り、探検の功績により、ヴィクトリア女王から
      「聖マイケル・聖ジョージ勲章」(Order of St Michael and St George
      =コンパニオン勲章(Companion:CMG)を授けられ受勲。
      その後、国土調査省(Lands and Surveys Department)で働く
1883/1、英植民地の土地検査官(surveyor-general and commissioner)、
      そして西オーストラリア立法会議々員
      (Western Australian Legislative Council)
1890/12/22、初代西オーストラリア自治政府首相(在任:12/29〜1901/2/15)
      (Premier of Western Australia、Self-governing colony)
ヴィクトリア女王

クゥィンズランド発行
1891/5、植民地での業績でナイト・コマンダー勲章(Knight Commander:KCMG)を受勲
1901、西オーストラリアがオーストラリア連邦に合併
1918、バンベリー子爵(Baron John Forrest of Bunbury)となる
1918/7/30、病気治療でイングランドへ出帆
1918/9/02、シエラレオーネ沖で亡くなりシエラレオーネに葬られました(71才没)。

ジョン・フォレスト卿に因んで、以下の名前が付けられています。
・グレン・フォレスト(Glen Forrest, Western Australia)
・フォレストデイル(Forrestdale, Western Australia)
・ジョン・フォレスト国立公園(John Forrest national park Western Australia)
・フォレスト・チェイス・ショッピングセンター、パース
   (Forrest Chase 、Forrest Place、Perth, Western Australia)
・ジョン・フォレスト高校(John Forrest Senior High School in Morley)
・その他。

参考:〜
西オーストラリア州
  Western Australia

1616年、オランダのダーク・ハートッグ
      (Dirk Hartog 1580-1621)が発見
1826年、スワン川流域に流刑植民地が設置され、植民が始る
     当初はニューサウスウェールズ州によって管理される
1831年、ウェスト・オーストラリアとして準州に昇格
1901年、オーストラリア連邦に併合、
      ウェスト・オーストラリア州が成立
ウェスト・オーストラリア
グレートオーストラリアンバイト

図案はレベキュー岬の眺望
オーストラリア 1986/8/4 発行
1931年、オーストラリアからの分離運動が起こるが、英国議会は拒絶
第2次世界大戦後はイタリア、ユーゴスラビア、ギリシャなど欧州からの移民が増加

ジョン・フォレスト国立公園
  John Forrest national park
、Western Australia
ジョン・フォレスト国立公園 オーストラリアの公園としてはかなり古いほうで、パース・ヒルにある魅力的な公園内では地響きをたてて流れ落ちる滝や、のどかな天然のプール、尖った花崗岩の露頭、スワン・コーストの海岸段丘の素晴らしい眺めが楽しめます。

参考HP:〜
 ・フォレスト探検隊の探検地図
 ・フォレストの探検地図(詳細)
 ・レオノーラの場所地図
 ・マーチソン河の場所地図
 ・サンドストーン地帯の場所地図
 ・バンベリーの場所地図
 (ジェラルトン、マグネット山、ラヴァートン、パース、オルバニー、エスペランス、ユークラ有)

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。       10/2/15
スタンプ・メイツ
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