Grenada

国連 1985 発行
切手で綴る カリブ海の島国シリーズ No.25 (Island Nations)
グレナダ島
Commonwealth of Grenada


大航海物語
  地図編

GRENADA
独立記念
グレナダ島

Map
初代首相ゲイリー
Sir Eric Matthew Gairy
国旗、首都セントジョージズ海岸

Grand Anse beach
グレナダ 1995 発行

リーワード諸島・小アンティール諸島






キューバ島→

イスパニョーラ島→

ジャマイカ島→

←アンギラ島
←セント・キッツ・ネビス島
←アンティグア島
←モンテセラット島
ドミニカ島
←セント・ルシア島
←セント・ビンセント島
←バルバドス島
←グレナダ島

←トバコ島
←トリニダッド島
西インド連邦(1958-1962)の地図
(WEST INDIES FEDERATION, MAP)
西インド諸島連邦結成記念

イギリス領グレナダ 1958 発行 (画:300%)

コロンブスのグレナダ島到達

グレナダ 1992 発行
GRENADA GRENADINES
小アンティール諸島

コロンブス500年記念
グレナダグレナディーン 1992 発行 (画:300%)
←イスパニョーラ島
←バージン諸島
←アンギラ島
←セントキッツ島
←ネビス島
←アンティグア島

←グアドループ島

←モンテセラット島
←ドミニカ島

←マルチニーク島

←セント・ルシア島
←セント・ビンセント島
←バルバドス島
←グレナダ島

←トバコ島
←トリニダ-ド島




カリブ海の西インド諸島に到着したコロンブスの船団

1492 コロンブス500年記念 1992

グレナダ・グレナディーン 1992 発行・小型シート

海賊アン・ボニー

グレナダ 1970 発行
ヨットレース

グレナダグレナディーン 1975 発行
国連加入

グレナダ 1974 発行

マミジロミツドリ

Bananaquit
グレナダ 1976 発行
Rトラフマダラチョウ

Lycorea cleobaea
グレナダ 1995 発行
ナツメグ

NUTMEGS
グレナダ 1974 発行




赤いメ|ス

アポロ計画の宇宙船13号の帰還

Apollo XIII
グレナダ 1971/11/13 発行 (画300%)

グレナダ島
 Island nation of Grenada

 (Commonwealth of Grenada)
旧称 イギリス領グレナダ(British Grenada)
イギリス領グレナダ・グレナディーン(British Grenada & Grenadines)
面積 約345ku(日本の長崎県五島列島福江島 326.ku、約38,481人(2016)とほぼ同じ)
人口 約105,000人2003、約111,000人2018
首都 セントジョージズ、建設1650年頃
人種 アフリカ系84%、混血11%、インド系・ヨーロッパ系5%など
言語 英語は公用語など
宗教 カトリック、英国々教会、プロテスタントなど
通貨 小アンティル諸島の地域に共通の東カリブ・ドル (EC$)
GDP 国内総生産約$18億1000万2019(PPP:購買力平価説)1人当約$16,604/年
但しMER(通常交換説)約$12億4900万1人当約$11,518(国際比較はこちらを参照)
独立 1974/2/7イギリスから、イギリス連邦の立憲君主制国家
国連 1974/9/17加入
1番 切手:”Grenada”1861-1989/4/25、”Grenada Grenadines”1973/12/23発行

グレナダ島はカリブ海の西インド諸島小アンティル諸島ウィンドワード諸島の中にある火山島で最高峰セント・キャサリン山(Mt. Saint Catherine, 840m)があり、グレナディーン諸島の南部がグレナダ領グレナディーン諸島として、カリアク島やプチマルティニーク島などの島々を領有。なお、グレナディーン諸島の北部はセントビンセント・グレナディーン諸島領。立憲君主制国家の島国で、コロンブスが1498年の第3回探検航海で到達してコンセプシオン島(Concepcon island)と命名するも、後年スペイングレナダに因んでグレナダ島と呼ばれるようになりました。グレナダ国旗の左側にナツメグの実が描かれているように島ではナツメグを生産(2,747トン, 世界第6位, シェア3%, 2005)しているのでスパイスの島とも言われています。他にバナナ、クローブシナモンココアなども生産。1979年の人民革命政府が観光事業近代化に着手。1983年のグレナダ侵攻後は米国資本が進出、国際空港が完成(1984)して発展しています。ただ、グレナダの2005年消費税率は27.5%と、世界で最も高い税率でした(2007年以降:6位以下)。

<グレナダの略歴史>
1498 コロンブスが第3回探検航海で到達”発見”
1650 フランスが入植
1674 フランス人が先住民を大量虐殺して定住を開始
1714 フランスはカカオ綿花コーヒーを栽培。プランテーション労働はアフリカから輸入した奴隷で、その3分の2は過酷な労働条件の犠牲になる
1761 カリブ海リーワード諸島基地司令官ロドニー提督がグレナダを攻略
1762 英国がフランスに代わって植民地化
1783 イギリス領、ヴェルサイユ条約
1950 普通選挙導入
1958 西インド連邦に加盟、1962迄
1961 現地のゲイリー卿が独立前のグレナダ政府首相に就任、1962迄
1967 イギリス自治領、自治政府が成立、労働党が選挙に勝ち、独立を宣言
1968 カリブ海自由貿易協会(CARIFTA)加盟
1974 イギリスより「立憲君主国グレナダ」独立、初代首相にゲイリー卿が就任
イギリス連邦の一員となり、国連に加盟
1979 /3/13クーデターで政府が転覆、首相ゲイリー卿は米国へ亡命
ソ連キューバ派のニュージュエル運動(NJM)を率いるモーリス・ビショップがゲーリー首相の外遊中に無血クーデター、首相に就任
人民革命政府を樹立、革命政府とキューバとの関係が強化される
1983 10月に政権内のクーデターでモーリス・ビショップ首相らが処刑される
グレナダ侵攻(1983/10/25〜27)米国レーガン大統領が「西半球の癌」と呼んでいたキューバのカストロ政権、ニカラグアのサンディニスタ政権と共にグレナダのニュージュエル運動政権も米国に敵視されていたことを反映してアメリカ大陸の左翼政権への牽制の意味を込めたカリブ海諸国への軍事侵攻がなされ、人民革命政府は崩壊し、親米政権が樹立される
1984 選挙で新国民党政権が成立
2003 選挙、国民民主会議政権が成立。

・グレナダ島は6行政教区(Parish)に分かれる。
教区名 (Parish) 人2011 主な町 (City) 人2008 メモ
1 セント・アンドリュー St Andrew 26,503 グレンヴィル Grenville 2,400 グレナダ島
2 セント・デビッド St David 12,877 セントデイヴィズ St. David's -?- グレナダ島
3 セント・ジョージ St George 38,251 セントジョージズ St. George's 33,000 首都
4 セント・ジョン St John 8,466 ゴヤーヴ Gouyave 3,378 グレナダ島
5 セント・マーク St Mark 4,406 ビクトリア Victoria -?- グレナダ島
6 セント・パトリック St Patrick 10,503 ソトゥルーズ Sauteurs 1,300 南グレナデーン諸島

主な島々:〜
No. 島名 (Island) ku 人2012 主な町 (City) 教区
1 南グレナデーン諸島 Grenadines 37.77 8,150 ヒルズボロ Hillsborough (6)
1 プチマルチニーク島 Petit Martinique 2.37 950 ノースビーチ North beach
2 カリアク島 Carriacou 34.00 7,200 ヒルズボロ Hillsborough
3 サリン島 Saline 0.28 0 ジョンマンション John mansion
4 フリーゲート島 Frigate 0.39 0 -- --
5 バード島 Bird 0.03 0 -- --
6 ラージ島 Large 0.5 0 -- --
7 レ・タンテ島 Les Tantes 0.3 0 -- --
8 ダイアモンド島 Diamond 0.22 0 サウスウエストポイント Southwest Point
9 ロンド島 Ronde 2.70 0 -- --
10 カーユ島 Caille 0.70 0 -- --
11 グリーン島 Green 0.14 0 -- --
12 サンディ島 Sandy 0.11 0 -- --
13 ホワイト島 White 0.05 0 リメキルンベイ Limekiln Bay
14 モア島 More 0.18 0 プチドミニカ Petit Dominica
2 グレナダ島 Grenada 306.00 100,930 セントジョージズ St. George's (3)首都
15 グローバー島 Glover 0.06 0 デグラベイ Degra Bay (3)
北グレナデーン諸島はセント・ヴィンセント島&グレナディーン領でこちら

・エリック・マシュー・ゲイリー卿
 (Sir Eric Matthew Gairy PC, 1922/2/18-1997/8/23)
エリック・ゲイリー卿は独立前のグレナダ政府で首相(1961-1962)を勤め、1974年にグレナダが独立すると初代首相に就任(1979年モーリス・ビショップのクーデター迄)。
ゲイリー卿はグレナダのグレンビル近くの島の東側にあるセントアンドリューズ教区のダンファームリンで生まれ、16才になると母校ラフィレット小学校(LaFillette School)で働き(1939/1月-1941/9月)ました。その後、オランダ領キュラソー島近くのアルバ島のラゴ石油輸送会社(Lago Oil and Transport Company, 1929)の石油精製所で数年間働き、1949/12月にグレナダに戻って労働組合と政治に参加。1950年にグレナダマニュアル&メンタルワーカーズユニオン(GMMWU)を設立。
初代首相ゲイリー
「赤い空(Red Sky)」の日と呼ばれた労働条件改善の1951年ゼネスト(General strike)の騒乱で多くの建物が炎上して英国当局は英軍の支援で鎮圧。多くのゼネスト参加者を捕え、ゲイリー卿も拘留されました。1951年にはグレナダ統一労働党(GULP:Grenada United Labour Party)を設立。1951年、1954年、1957年にグレナダ植民地立法評議会の代表に選出されるも政治活動を禁止され、1957〜1961年の間に統一労働党は議席を失いました。1961/7月の補欠選挙で当選。その後の総選挙で勝利して以来、統一労働党が立法評議会で過半数を占めて自治政府首相に就任して、1961/8月から首相兼財務大臣を務めるも政府資金の不正使用疑惑で、1962/4月に英国植民地総督によって解任されました。統一労働党は1962年の総選挙に敗北。ゲイリー卿は1967年の総選挙で勝利してグレナダ自由連合の首相として新政権を樹立。
・ミスワールド論争
 (Miss World controversy)
1970年にロンドンで開催されたミスワールドのページェントでは、グレナダの出場者であるジェニファー・ホステン(Jennifer Hosten, 1947-)が優勝した後、論争が続き、南アフリカからの別の黒人の出場者が2位になりました。ゲイリー卿が審査委員会に参加していたので、必然的にコンテストが不正に行われたという多くの非難がありました。BBCと新聞はその結果について多くの抗議を受け、人種差別の告発はあらゆる側からなされました。9人の審査員のうち4人がミス・スウェーデンのマージョリー・クリステル・ヨハンソン(Marjorie Christel Johansson)に1位の票を投じるも、ミス・グレナダは2票しか獲得せず、ヨハンソンは4位で終了。コンテスト終了後、英国ロンドンのロイヤルアルバートホールの外の通りに集まった聴衆は「スウェデン、スウェデン」となりました。4日後、組織ディレクターのジュリア・モーリー(Julia Morley, 1941-)は新聞の強い圧力で辞任。
・その後
ゲイリーは1972年の総選挙で勝利し、グレナダの自由連合の首相として新政権を樹立。ゲイリー卿の党は1976年の選挙でわずかに勝利するも、マングース・ギャング(Mongoose Gang)として知られるゲイリー卿の秘密警察による野党弾圧で、結果は国際的なオブザーバーによって詐欺であると宣言されました。1979/3/13、ゲイリー卿が国連にいた時、クーデターが勃発。モーリス・ビショップ(Maurice Rupert Bishop, 1944-1983)が率いるニュージュエル運動が武装革命を開始して政府を打倒。司教は憲法を一時停止し、ニュージュエル運動は1983年まで法令により国を統治。ゲイリー卿は1983年まで米国に亡命しました。そのとき米国はカリブ海の同盟国、特にドミニカの首相ユージェニア・チャールズ(Mary Eugenia Charles, DBE, 1919-2005)の支援で、司教を倒して殺害した軍政を倒すためにグレナダへ侵攻(グレナダ侵攻)。その後、ゲイリー卿はグレナダに戻り、1984年の選挙で選挙運動を行うも選挙で36%を獲得して議席は1つだけでした。ゲイリー卿と彼の党による1990年と1995年の政権復帰も失敗に終わり、グレナダのグランドアンスにて75才で亡くなりました。
※PC(Privy Council of the United Kingdom):英国枢密院の顧問官(Privy Counsellor)。

参考HP:〜
グレナダ島の地図(場所地図付)
グレナダ島の地図(グレナディーン諸島含)
グレナダ島の区分地図

グレナダ侵攻(1983/10/25〜27)
1983年、東カリブ海にある島国グレナダで軍事クーデターが発生。革命軍事評議会が設立され、元軍人のハドソン・オースチン司令官を中心とした革命政権が樹立され、24時間の外出禁止令が発効されました。CIAの調査で彼ら評議会を援助しているのはソ連キューバであり、北中米地区に対してキューバに次ぐ共産化の一大拠点を構築しようとしていました。島内にはキューバ軍が駐留し塹壕を構築。またグレナダに対してソ連経由の軍事援助を行っていました。これに対してレーガン大統領はグレナダに法秩序と民主主義の回復を目的とした軍事行動を起こす事になりました。
国連加盟、1974

グレナダ国旗・国連旗
グレナダ 1974 発行
1983/10/25にレーガン大統領は、現地人の新政府構築と現地アメリカ人支援、保護のためにグレナダにアメリカ軍を派遣。すでに首相を含む閣僚数名が射殺されており、革命政権が第二のキューバとなるのを懸念しての対応でした。とくに心配されたのが、米国籍を持つセントジョージ医科大学の医学生数百名の救出でした。10/25-26に陸軍第82空挺団レンジャー部隊と海兵隊が相次いで上陸。シール(SEAL)チームも派遣され、イギリス人提督スクーン卿の救助などを担当しました。アメリカは周到な準備と電撃作戦で空港、大学、刑務所などの各拠点を制圧。作戦は大成功となも、この作戦で嵐の中に降下したシール隊員が数名犠牲となり、特殊部隊の運用方針を改めて考え直す意見が浮上しました。

「クリント・イーストウッド」主演のアメリカ映画「ハートブレークリッジ」がグレナダ侵攻を題材としており、この侵攻作戦が詳しく描かれています。

・戦闘終了後CIAはグレナダ革命政府が共産化とアメリカに対する軍事施設建設を予定していた資料を押収。またこれらの事件にソ連が関与している事も判明しました。この他二重スパイの存在も発覚するなどして、結果的にソ連は中南米における活動の方針転換を余儀なくされました。軍事的にも政治的にも成功に終わったこの作戦は、アメリカ軍に残っていたベトナム戦争の敗北感を僅かながら回復する要因となったのでした。
なお、日本のマスコミは、
「お花畑に、土足で踏み込んだ愚かな行為」
だったと報じていました。

こちらで
グレナダの鳥
世界遺産
富士山日本
パルテノン神殿ギリシャ
ピラミッドエジプト
をお楽しみください。

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。   08/10/16, 令和 R.3/8/9(2021)  
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