大航海物語 France

国連 1980 発行
切手で綴る 冒険大航海(Great Adventure Voyage)
フレンチ・インディアン戦争(2)
French and Iroquois Wars

別名 “ビーバー戦争” と呼ばれる
United Kingdom

国連 1983 発行
参考資料

CANADA
ビーバー

カナダ 1954 発行

(VII)詳細メモ。
・1558年:”サン・ホワン・デ・ウルーア島の戦い”

1558/11/17にエリザベス1世がイギリス国王として即位した。イギリス商人の西アフリカへの渡航はますます活発になり、さらにアメリカ大陸の存在が大きくクローズアップされるに至ってきた。62〜65年にかけてジョン・ホーキンズの船団がイギリス〜西アフリカ〜カリブ海のスペイン植民地をまわって商品を売り買いして利益をあげた。ただし、彼がこの時やった商売には西アフリカで買った黒人奴隷をスペイン植民地に売り付けるというものも含まれており、これは実はスペイン人以外には禁止されていた。ホーキンズはスペイン当局に目を付けられた。1568年9月、再びカリブ海に現れたホーキンズの船団は嵐のためスペイン領の島”サン・ホワン・デ・ウルーア島”に退避した。そこに、スペインの船団12隻がやってきた。ホーキンズはあくまで平和的に食糧の確保と嵐で傷んだ船の補修のみを望んだが、スペイン側の指揮官はホーキンズを「海賊」と決めつけてこれを攻撃した。イギリス人たちはすぐさま反撃してスペイン船2隻を撃沈したものの、自らも大損害を受け2隻だけで島から逃走した。うち1隻は夜中に黙って姿を消し、ホーキンズの手元に残った小型船1隻は逃走の際に他の船から乗り移ってきた船員たちで定員オーバーになっていた。食糧の不足に苦しんだ船員のうち100人はメキシコの無人海岸で自発的に下船し、残りの連中だけが飢えと病気に苦しみつつ数ヵ月かけてイギリス本国に帰還した。生存者はホーキンズ以下15人だけ、メキシコで降りた連中はインディアンかスペイン人に捕まって殺されるか、運がよくてもガレー船漕ぎの奴隷にされてしまった。

この事件が起こったのとちょうど同じ頃(1568年)、スペイン領ネーデルランド(現在のオランダ・ベルギー)にて大規模な反乱「オランダ独立戦争」が勃発した。スペイン本国からネーデルランド駐留軍へと莫大な軍資金が運ばれることとなったが、その輸送船がイギリスの港に立ち寄った際、ホーキンズの災難を聞いて「サン・ホワン・デ・ウルーアを忘れるな!」といきり立ったイギリス当局がこれを差し押さえてしまった。この事件は後の英西全面戦争の序幕となるものである。ヘンリ8世の「イギリス国教会」創設以来対立を深めてきた両国はいよいよ武力対決の道へと歩んでいくのであるが、しかしこの時点のイギリス政府はまだスペインと正面きって戦う考えを持っておらず、スペインの方はネーデルランドの反乱鎮圧や同時期にフランスで起こった内乱への介入に手間をとられていた。ただし、イギリス人の船乗りたちはエリザベス1世の黙認や密かな援助のもと、スペイン領への海賊的な襲撃を繰り返した。

イギリス・スペイン関係が表向き平和な1573年1月、フランシス・ドレイクの一党がパナマ地峡 に上陸、フランス人の海賊やシマロンとともにスペインの銀輸送隊を襲撃した。ドレイクは元々貧乏農家の生まれから身を起こして20才前後で武装商船の船長となり、「サン・ホワン・デ・ウルーアの戦い」にも参加した男である。その4年後の1577年11月、改めて5隻160名の艦隊を率いるドレイクがイギリスのプリマス港を出帆した。この時彼はエリザベス1世から「太平洋に入り、スペイン領ペルーを攻撃せよ」との密命を受けていたという。78年11月〜翌年3月、ドレイク艦隊はスペイン領南アメリカの太平洋沿岸地域への襲撃を繰り返し、特に3月1日には赤道付近で銀を満載した輸送船「カカフェーゴ」を捕捉、砲撃でマストをへし折った後、斬り込み攻撃をかけて40万ペソ相当の銀を奪い取った。ドレイク艦隊はその後太平洋を横断して東南アジアに出、モルッカ諸島で香料を買い付けたりして80年9月に母港プリマスに帰還した。マゼランにつぐ史上2番目の世界一周航海であり、出発以来2年と10ヵ月の間に60万ポンド相当の収獲を得た。当時のイギリス国王の年収が20万ポンドであったというからこれは大変な大略奪行であり、しかも表向きはイギリス・スペイン関係が平和な時期にやってのけたのだから凄まじい話である。ドレイク艦隊への最大の(極秘の)出資者であったエリザベス1世は4700%の配当を受け、財政赤字を残らず解消してしまった。当時、スペインは中南米の植民地から搾り取った金銀を財政にあて、イギリスやフランスはそのスペインの富を半公認の海賊を用いて横取りして国家の財源としていたのである(略奪の海カリブ)。

・1581年:オランダがスペインから独立
1568年以来、ネーデルランドがスペインの支配に対する反乱を起こしていたことは既に述べたとおりである。ネーデルランドの北部(現オランダ)はプロテスタント、南部(現ベルギー)はカトリックで、スペインもカトリックであることから南部は戦線から脱落してしまうが、北部7州はその後も徹底抗戦を続け、81年には「ネーデルランド連邦共和国」の設立を宣言した。これがオランダの始まりである。イギリスのエリザベス1世個人としては、オランダの反乱には興味はなかった(イギリス史2)。彼女はただスペインが必要以上に強大になることを警戒するのみで、基本的にケチな性格からして正規の軍事介入などもっての他であった。しかし前述の南ネーデルランド脱落に加え、独立宣言3年後の84年にはオランダの指導者オラニエ公が暗殺されるとさすがにスペインとの対決を想定しない訳にはいかなくなってきた。もしオランダが敗れれば、そこから狭い海を隔てたイギリスが直接スペインの脅威を受けることになるのである。去る80年、スペイン王フェリペ2世はポルトガル王位を兼任してその領土と植民地を手にいれていた。フェリペ2世の絶頂期である。イギリス海賊の跳梁は既に我慢の限界を越えており、そろそろ頃合とみたスペインはエリザベス暗殺をはかった(83年)上に85年春にはスペイン領内のイギリス船を抑留した。イギリスからは非公式の報復艦隊が次々と出撃した。1585年8月、正式にイギリス・オランダ同盟が締結されました。年末にはオランダに派遣されたイギリス軍がスペイン軍と交戦した。ここにイギリスとスペインは正規の戦争状態に突入した。”アルマダの海戦”へ。

・1588年アルマダの海戦
フェリペ2世はイギリス本土上陸作戦を認可した。まず「スペイン艦隊によるイギリス本土攻撃案」については71年の「レパント沖の海戦」で活躍したスペイン艦隊司令長官サンタ・クルーズ侯からの上申があり、これにオランダ方面のスペイン軍を指揮するパルマ公から提出された「陸軍によるイギリス本土上陸作戦計画」をミックスして、輸送船による陸軍の上陸作戦を本国艦隊によって援護しようというのである。スペインが準備を進めていた87年4月末、ドレイク艦隊23隻が大西洋沿岸のカディス港のスペイン艦隊を奇襲攻撃、スペインのガレー船33隻を撃沈した。ドレイク曰く「カディスでスペイン王のひげを焼いた」のである。これは実に大きな出来事であった。いうまでもなくガレー船は舷側から突き出した何十本ものオールを漕いで動かす乗り物で、夏の地中海のような穏やかな海では実に機動的な操船が可能である。ガレー船を用いての戦闘は古代ギリシアの時代から基本的に変わっていない。ガレー船は船首部に「衝角」という特別に頑丈に造られた部位を持ち、これを敵艦の横っ腹に激突させて大穴をあけるか、または敵艦に漕ぎ寄せて斬り込み攻撃をかけるという戦法である。ただしガレー船は巨大なオールを漕ぐ必要上、平底かつ舷側が低いせいで大西洋の荒波には向いていなかった。その点、ドレイク艦隊の船はどれも単なる帆船で、船底が深く舷側が高いおかげで大洋での操船に向いており。カディスの海戦でもモタモタしているガレー船に遠距離から大砲を撃ち込んで大打撃を与えたのである。

結果、
スペインは艦隊の主力をガレー船から帆船に切り替えた。ポルトガル(今はスペインと同君連合)が持っていた大型帆船や南イタリアのナポリ(ここもスペイン領)の艦隊も動員された。1588年2月、スペイン艦隊司令長官サンタ・クルーズ侯が亡くなった。後任の司令長官に任じられたシドニア公は海についてはまったくの素人であり、本人も断ろうとしたがフェリペ2世は何故か頑として聞き入れようとしなかった。7月12日、いよいよスペイン「無敵艦隊(アルマダ)」が出撃した。1000トン以上の艦7隻、800トン以上の艦17隻、500トン以上の艦32隻、それ以下の艦19隻を主力とし、その他の輸送船等まであわせると総勢130隻に大砲2430門、乗組員2万4000と陸兵6000人という大部隊である。さらに南ネーデルランドにはパルマ公率いる歩兵3万・騎兵4000が輸送船を揃えてイギリス上陸の機会をまっていた。艦隊に対するフェリペ2世の命令はあくまで陸軍のイギリス上陸援護を第一とするものであり、イギリス艦隊との戦闘は二の次とされていた。対するイギリス海軍の全戦力は、1000トン以上の艦2隻、800トン以上の艦3隻、500トン以上の艦24隻、その他の小型艦153隻であった。当時のイギリス海軍はよく「海賊の寄せ集め」と評されるが、彼等は実際には普通の船乗り商人で、副業(本業より儲かる)として、イギリス王の黙認と密かな出資のもとにスペイン植民地やそこから本国に向う「財宝船」を襲っていたことから「海賊」と言われたのである。

7月19日、スペイン艦隊がイギリス本土を視界におさめた。南ネーデルランドにあるパルマ公の輸送船団はイギリスのシーモア艦隊とオランダのローゼンタール艦隊の封鎖にあって身動きがとれなかった。21日午前9時、プリマス港からイギリスの主力艦隊が出撃した。司令長官はハワード元帥、ドレイク、プロフィッシャー等の猛将を左右に従えている。こうして、世界戦史に名高い英西艦隊の戦い、世にいう「アルマダ海戦」はイギリス艦隊出撃当日の21日からさっそく始まった。南ネーデルランドを目指して英仏海峡を東に進むスペイン艦隊と、それを阻むイギリス艦隊の戦闘が約1週間に渡って続くことになる。海戦の商才は、こちら。この「アルマダ海戦」以降、スペインは次第に落ち目になっていった。

1589年、フランスでプロテスタント派のアンリ4世が即位して内乱(62年から続いていた「ユグノー戦争」)をほぼ収拾し、96年にはイギリス・フランス・オランダの3国が対スペインの同盟を結成した。スペインは相も変わらず中南米の植民地から巨万の富を吸い上げつづけているとはいえ、その多くは本国に運ぶ途中でイギリス海賊に強奪され、オランダ独立戦争の鎮圧や無敵艦隊の整備、フランス内乱への介入、ポルトガル王位継承工作等々々に用いた予算は収入をはるかに上回っていた。増税によって商工業を沈滞させ、国内の非カトリック教徒を徹底的に弾圧したことは労働力の不足を招いた。フェリペ2世は98年に亡くなり、跡を継いだフェリペ3世、次の4世は全くの凡人、経済も活力を失っていた。1609年、財政難に耐えられなくなったスペインはオランダと休戦し、国王がかわったイギリスとも講和した。以後、世界貿易・植民地獲得の主役はプロテスタント的勤を持つオランダ・イギリス、そして(この国ではプロテスタントは少数だが)フランスにとってかわられていくのである。

・航海条令と英蘭戦争
1651年、イギリス議会に「航海条令」が提出された。「イギリス及びその植民地の産品はイギリス船でなければ輸出出来ない」「イギリスに輸入する貨物はイギリスまたはその産出国の船でなければ入港を許さない」「イギリス近海で取れる魚類及びその製造品はイギリス船でなければ輸入を許さない」「この規定に反する船は貨物とともに没収する」……。要するに、オランダの中継貿易をイギリスから全面的に締め出し、かわりにイギリス海運業をバックアップしようとの目論みである。軍の指導者クロムウェルは同じプロテスタント国であるオランダと事を構えるのを嫌ったが、この条令は彼の留守中に可決されてしまった。その史的背景はともかく、「航海条令」なるものを具体的にどのような勢力がどのような具体的な見通しのもとに推進したのかは現在でも謎のままである。ともあれ、イギリス官憲はたちまち200隻のオランダ商船を拿捕し、さらに英仏海峡を航行する他国の軍艦にイギリス艦への敬礼を義務付けた。イギリス側ではピューリタン革命の際に海軍がおおむねピューリタン側に立っていたことから共和政府は海軍増強に力を入れていた。それまで戦闘用の船といえば商船に重武装を施していたものを、戦闘のためだけに建造した専用の軍艦が登場してくる時代である。

・イギリス・オランダ戦争、
(1652年〜1654年、1665年〜1667年、1672年〜1674年)

17世紀後半、イギリスの航海条令を不満とするオランダとの間で3次(1652年〜1654年、1665年〜1667年、1672年〜1674年)にわたって行われた戦争。これによりイギリスの海上支配が確立し、オランダは衰退。

17世紀後半、イギリスの航海条令を不満とするオランダとの間で3次(1652年〜1654年、1665年〜1667年、1672年〜1674年)にわたって行われた戦争。これによりイギリスの海上支配が確立し、オランダは衰退。1652年5月13日、両国の小艦隊が衝突した。オランダ艦隊がイギリス側に敬礼しなかったためである。16日、トロンプ提督率いるオランダ艦隊42隻がイギリスのドーヴァー港に入泊した。これは天候の変化によるもので、別に戦争をするつもりはなかった。しかしオランダ艦隊はイギリス側からの敬礼要求を拒否し、一挙に緊張が高まった。イギリス側は北のダウンズ港から8隻、南のライス港から15隻を出撃させてオランダ艦隊に圧力を加えることにした。19日、オランダ艦隊がドーヴァー港を出港し、洋上でイギリス艦隊と相対した。イギリス艦隊は3回空砲を発して敬礼を促すもオランダ艦隊はこれに応じず、逆に実弾の一斉射撃をお見舞いした。「ドーヴァー沖の海戦」である。戦闘は全くの乱戦で、大した犠牲もださないまま双方撤収した。ともあれかくして「英蘭戦争」の火蓋は切って落された。6月12日イギリスのアイスキー艦隊が英仏海峡を航行中のオランダ商船隊を攻撃して6隻を拿捕した。北海ではブレーク艦隊がオランダ漁船100隻を拿捕し艦艇12隻を撃沈もしくは拿捕した。

・1675年ベーコンの反乱
ヴァージニア植民地では、沿岸部の大半は大プランテーションによってほほ独占され、年季の明けた貧しい白人はそれに押し出される形で西部のインディアンの土地へと入り込んでいた。ヴァージニアの沿岸部は川や湾が入組んでおり、大プランテーションで生産された煙草が各農園ごとの船着き場から売りに出されることは既に述べた通りだが、船が遡れない西部の上流地帯「ピードモンド」は小規模農民を主流とする世界が構築されつつあったのである。
※(注)ヴァージニア東部はプランテーション中心の世界、西部は小規模農民の世界、という構図は19世紀まで持ち越される。「南北戦争」に際して東部が南軍の中心の1つとなったのに対し、西部はヴァージニア州から分離して北軍に参加し、「ウエストヴァージニア州」を組織するのである。とにかく自分の土地が欲しい年期明けの奉公人や西部のプランターにとって、インディアンは「害虫」であった。総督バークレー卿はインディアンの土地を保護して毛皮取引を進めようとし、さらに、王政復古の時に選出された植民地議会の議員が自分に忠実だったことから延々と会期を延長し、14年間の長きに渡って選挙をしなかった。1675年夏、3人の植民者がインディアンに殺害され、ヴァージニアとメリーランドから民兵が出動した。

ヴァージニア隊の隊長は前に出てきたジョン・ワシントン中佐、メリーランド隊の隊長はトマス・トルーマン少佐である。後者は合衆国第33代大統領……とは残念(?)ながら関係ない。とにかく彼等はインディアンの代表と話し合いを持ち……誰の責任かは不明だが……殺してしまった。

ここにヴァージニア植民地とインディアンとの大規模な戦争が出来した。 総督バークレー(70才)は積極的な攻撃を控え、防御に徹しようとした。このことが西部のプランターや小さな農園をつくっていた年期明けの元奉公人を怒らせた。「総督は自分たちをインディアンから守ってくれない」「それはインディアンとの毛皮取引の方が大事だからだ」。

2年前に移民してきたばかりのプランター(ということは西部に農園を持つ)であるナサニエル・ベーコン(28才、フランシス・ベーコンの従兄弟)という人物が群集に担がれ、勝手にインディアン討伐軍を組織して大勢のインディアンを虐殺した。

総督バークレー卿は最初は怒ったがベーコンの勢いを見てその行動を事後承諾し、正式に対インディアンの宣戦布告を行った。新しい議会も招集された。しかし結局総督には本気でインディアンと戦う考えはなかった。「裏切られた!」と叫んだベーコンは同調者400人を率いてジェイムズタウンに進撃、町を焼き払って総督を追い出した。ベーコンは総督を本国で裁判にかけようと考え、各地で総督派の部隊との戦いを続けたが、76年10月に赤痢に罹って死亡した。その軍隊は四散した。総督バークレーはベーコン派の幹部23人を処刑した。本国から艦隊と調査委員会が到着してバークレーを本国に召還した。バークレーは本国についてすぐに病死した。

国王チャールズ2世はむしろベーコン派に同情を示し、「おいぼれの馬鹿めが、奴は朕の父を殺した者の処刑よりももっと多くの人を殺してしまった」と呻いたという。今回の反乱ではベーコン側に年季明け奉公人が多く参加していたため、プランターたちは年季が明ければ自分たちに対抗してくる白人の年季契約奉公人よりも、基本的に死ぬまでその身柄を拘束出来る黒人奴隷の獲得の方が大局的に都合がよいと考えるに至ったといわれている。

※(注)「朕の父」とは「ピューリタン革命」で殺されたチャールズ1世のこと。「父を殺した者の処刑」とは王政復古の際のピューリタンへの報復を指す。

・1675年フィリップ王戦争
ところで、「ベーコンの反乱」の直接の契機となったのはインディアンとの土地をめぐる抗争だが、全く同じことは同時期のニューイングランドでも起こっていた。1675年6月25日、これまで土地を侵食され続けてきたワンパノアグ族の首長メタコム〜イギリス人は「フィリップ王」と呼んだ〜がプリマス植民地を攻撃し、前者はニプマック族やナラガンセット族を、後者はマサチューセッツ植民地とコネティカット植民地を引き込んでの大戦争を開始した。世にいう「フィリップ王戦争」である。
※(注)先に攻撃したのは白人の方だという説もある。 おそらく宗教上の事情(ピューリタンが苦しむのは国教会としては好都合)から本国は援軍を派遣せず(ヴァージニアのベーコンの反乱の時にはちゃんと艦隊を送っている。到着したのは反乱鎮圧後だが)、ニューヨーク総督はこの機会にニューイングランドの一部を削りとろうとさえした。インディアン軍は当時90存在したタウンのうち12を破壊し40を攻撃した。ニューイングランド始まって以来の危機である。 註2 アメリカ独立戦争の時もニューイングランドではそれほどの激戦はなかった。南北戦争の戦火はここには及んでいない。 ただし、インディアン側の足並みも揃っていなかった。ピークォット族とモヒカン族は植民地の味方につき、そもそもフィリップ王のインディアン軍は奇襲攻撃でタウンを破壊するという以外にこれといった作戦や遠大な戦略目標といったものを有していなかった。対して植民地側の総督たちの中には本国の「ピューリタン革命」の時にクロムウェルのもとで戦った経験を持つ者もおり、11月19日には1000の兵でナラガンセット族の本営のある「恐怖の沼地」を攻撃し、2000人を殺すという戦果をあげた。

この戦闘はたったの3時間でケリがついた。植民地軍はその日の朝から18マイルの雪道を歩いてここまで進軍し、その日のうちに出発点に帰っていった。植民地側の戦死者は80人、ニューイングランドの歴史中最大の激戦である。註2 アメリカ独立戦争の時もニューイングランドではそれほどの激戦はなかった。南北戦争の戦火はここには及んでいない。 戦闘はなおも続いたが、大局は既に決していた。76年4月3日、インディアン軍の指導者の1人カノンチェットが逮捕・処刑された。死刑の宣告に対し「それは結構だ。わしの心が挫けたり、わしに相応しくないことを言ってしまう前に、わしは死んでいくのだ」。4ヵ月後の8月12日にはフィリップ王ことメタコムが戦死を遂げた。

「フィリップ王戦争」全体における白人の死者は約1000人。その報復として、捕虜になったインディアンは奴隷としてカリブ海植民地に売り飛ばされた。ニューイングランド南部のインディアン人口は1500人程度に落ち込んだ。敵対部族も友好部族も指定集落に押し込められ、やがては白人社会の中に埋没していったのである。 註3 ただし、メイン地方に住むアブナキ族は最後までイギリス人と互角に戦い抜き、条約を結んだ上で停戦した。彼等は後の英仏植民地戦争の際にフランスに加担することとなる。

・ブラドッグの敗戦
1740年代以降、イギリス植民地の毛皮商人がミシシッピー河支流のオハイオ川流域に入り込もうとしていた。ヴァージニア植民地で組織された「オハイオ会社」は100万エーカーの土地獲得を目指し、その他にもいくつかの会社がこの地域のインディアンとの交易を進めていた。いうまでもなくミシシッピー方面はフランスの縄張りであり、そちらはオハイオ川上流に砦を築いてイギリス人の進出に対処した。

砦の建設に関してヴァージニア総督ディンウィッディーが抗議したが無視された。そこでディンウィッディーはオハイオ川とアレゲニー川の合流点という重要拠点を制圧すべく150人の民兵隊を派遣した。この時大佐として民兵の指揮をとったのが後の合衆国初代大統領ジョージ・ワシントンその人である。御年21歳、ヴァージニアの大プランターの出身である※(注)異母兄の婚姻関係を通じて植民地の支配層にも有力な伝手をもっていた。16歳で測量技師となり(未開拓の地がいくらでもある=測量の仕事もたくさんある)、その後民兵隊に転じたのである。

しかしこれは一足遅かった。目的地にはフランス人がフォート・デュケーヌという要塞を築いてヴァージニア民兵隊を待ち構えていた。54年7月3日、怖いもの知らずのワシントン大佐が部下に発砲を命じ、宣戦布告もなにもないまま本格的な戦闘が始まった。結果はヴァージニア民兵隊の惨敗、3分の1が死傷し、降伏したあげくヴァージニアに帰ることを許してもらうという有り様である。

この段階では英仏両本国は全面的な大戦争をするつもりはなく、イギリスの方がとりあえず局地的限定的な戦闘で優位を得るために本国から定数に満たない2個聯隊を送るにとどまった。13植民地のうち7つが「オルバニー会議」に結集して植民地の大同団結をはかったが、各個の利害が衝突して話がまとまらなかった。

本国からやってきた2個聯隊を率いるブラドック少将(Major general Edward Braddock、1695頃-1755/7/13)はただちに進撃を開始した。兵力は約1500人、幕僚にはワシントンがいた。目的地のフランス要塞フォート・デュケーヌは現在のペンシルヴァニア州西部に位置し、それだけ聞けば「イギリス植民地のすぐ近所か」と思ってしまうがそれはとんでもない勘違いである。イギリス人の居住地はこの時代でもまだ大西洋沿岸部からそんなに離れておらず、海岸から西に300?も進めばそこはもはや(白人にとっては)人跡未踏の未開の大地であった(註2)。イギリス側の拠点から目的地フォート・デュケーヌまで110マイル、道らしい道もなく、300人の工兵隊が斧を振るって森を切り開く。遠征隊の資材の一部を調達したのはベンジャミン・フランクリン(註3)、さらに馭者として21歳のダニエル・ブーン(註4)が加わっていた。  註2 現在のアメリカ合衆国の地図を見ると、東部にアパラチア山脈という山岳が南北に続いている。現在の合衆国を見る限りではこれはどう見ても東部の山々だが、イギリス植民地人がアパラチアの西側に村を築いたのはやっと1775年のことである。
※(注)政治家にして外交官にして自然科学者にして社会運動家にして文学者。詳しくは自伝を参照。  註4 「西部開拓の先駆者」と呼ばれる人物。現在のケンタッキー州の原形をつくる等、西部の辺境にいくつかの村を建設するが、人口が多くなるごとに「人ごみで息がつまりそうだ」としてさらに西へと移っていったことで有名。

55年7月9日、目的地から数マイルに迫ったブラドック軍の後衛がモノンガヒーラ川の浅瀬を渡りきる寸前にフランス軍の不意の攻撃が始まった。ブラドック軍にはインディアン(地理に詳しい)が8人しかおらず、警戒が不十分であった。フランス軍は正規の士官と兵士73人、民兵150人、友好インディアン637人、と数の上では劣っていたがブラドック軍を収拾のつかない大混乱に陥れた。ブラドックは打ち倒された馬を何頭も乗り換えたあげく自身も胸に弾を喰らって負傷、結局死亡した。ダニエル・ブーンは馬車の馬具を切って裸馬に飛び乗り全速力で逃走した。指揮権を引き継いだダンバー大佐やワシントン等がなんとか残兵をまとめて退却した。死傷者は全軍の3分の2にあたる977人にのぼっていた。いわゆる「ブラドックの敗戦」である。

こちらで
フランス
フランス七月革命
切手コレクションの
・フランス世界遺産
フランスの王と王族 (肖像画)
イギリス皇太子ご成婚
・切手で綴る 東海道五十三次
全米50州アメリカ
をお楽しみください。

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。   令和 R.4/5/6(2022))追記

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