France

国連 1980 発行
スエズ運河の建設
レセップス
Suez Canal、1869

大航海物語
 ★フランス編
Republica de Guinea Ecuatol
. レセップス

赤道ギニア 1994 発行

Republica de Guinea Ecuatol
スエズ運河付近の地図

赤道ギニア 1994 発行
UAR
地中海
イスマイリア

ポートサイド





スエズ



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スエズ運
河遠泳大会記念

エジプト 1963/10/15 発行






レセ
ップス
FRANCE
:スエズ運河の建設150周年




サイ
|

・パシ

スエズ運河地帯

1869 スエズ運河開通150年記念 2019
フランス 2019 発行

フランスのフェルディナン・ド・レセップスは、1854年にスエズ運河会社を設立。1855年に掘削を開始して、1869年11月にスエズ運河の開通に成功しました。1881年にはパナマ運河会社社長に就任して運河の建設にとりくむも、なしえず病にたおれ、痛ましい晩年を送りました。
フェルディナン・マリ・ヴィコント・ド・レセップス
 (Ferdinand Marie Vicomte de Lesseps、1805/11/19〜1894/12/7)、(文化2〜明治27)
 ・フランスの外交官、実業家。
 ・スエズ運河を建設、1859-1869。
 ・パナマ運河開発に取り組むもならず、1879-1889。
フェルディナン・ド・レセップスは、1805年にフランスのヴェルサイユで、父の外交官マティユ・ド・レセップス(Mathieu de Lesseps, 1771-1832)と母のスペイン人カトリーヌ(Catherine de Grevigne y Gallegos, 1730-1823、フランス皇帝ナポレオン3世の皇后ウジェニー・ド・モンティジョ(Eugenie de Montijo, 1826-1920)の侍女)の間に生まれました。叔父のバーソロミュー・レセップス(Barthelemy de Lesseps, 1766-1834)は、ラ・ペルーズ船長の探検(1785-88)に参加した報告書「レセップスの航海記録」(Journal historique du voyage de M. de Lesseps)の著者で、ナポレオン3世(Napoleon III, 1808-1873)の皇后ウジェニー・ド・モンティジョの従姉妹(いとこ)でした。

1825年から、ポルトガルのリスボンや、チュニジア共和国のチュニスで領事を務めました。1833年にエジプトの駐アレキサンドリア副領事としてエジプトに着任する途中、船内でコレラが発生し、上陸が一時停止されました。このとき海上で隔離されて、暇つぶしに読んだ、フランス人技師ルペール(Jump to search Jacques-Marie Le Pere, 1763-1841)がナポレオン3世に宛てたエジプトに関する報告書から、スエズ運河構築の夢を抱くようになりました。

1834年から1837年までカイロ領事になりました。その時にエジプト総督家から厚遇され、少年時代のサイード・パシャ(Said Pasha, 1822-1863)の家庭教師を務めて、とても慕われました。1848年から1849年までスペインのマドリードで大使として駐在しました。1849年に外交官の職を辞すも、1854年に隠居中(49才)で妻や息子に立て続けに先立たれました。折しも、1854年にエジプト総督アッバース・パシャ(Abbas Hilmi I, 1813-1854)が暗殺されました。カイロ領事時代に家庭教師をした教え子のサイード・パシャが同年(1854)に即位すると訪問して歓迎されました。この時にスエズ運河の開発を提案して同意を取り付けました。ただ、エジプトの宗主国であるオスマン帝国スルタンの承認なき場合は無効というものでした。オスマン帝国(Ottoman Empire, 1299-1922)は運河がトルコとエジプトの国境になるのを恐れて反対しました。

同年11月30日に開削権を与えられるも、元々、運河に反対で自国の通商への脅威とみなしていたイギリスもオスマン帝国スルタンに圧力をかけ、たびたび妨害。レセップスは、親族であるナポレオン3世や、イギリスのパーマストン首相(Henry John Temple, 3rd Viscount Palmerston, KG, GCB, PC, 1784-1865)をも説得、イギリス内で何度も講演を行うも、工事の着工は延滞しました。だが、レセップスはあきらめず、1854年に国際スエズ運河株式会社を設立し、その株式を売却することで国際世論に訴えました。翌年、オスマン帝国スルタン未承認のまま試験掘削という名目で着工しました。

1863年1月にサイード・パシャが急死。後継にイスマーイール・パシャ(Isma'il Pasha, 1830-1895)が就いた。イギリスはさらにオスマン帝国スルタンとイスマーイールに圧力をかけるも、フランス皇帝のナポレオン3世が仲裁に入り、難工事と疫病の蔓延を克服して1869年11月に完成させ、開通式には7,000人の各国の王族や名士が参列しました。この功績によってフランス科学アカデミー会員に選ばれました。その後、スエズ運河会社は莫大な利益をあげ、さながら1つの国家の様相を呈しました。

晩年はパナマ運河開発に取り組み、1881年パナマ運河会社社長に就任。だが、黄熱病が猛威を振るうパナマでの工事は困難を極め、加えて経営の乱脈のため世評が悪化し、資金募集に行き詰まりました。新法律の制定で認められた富くじ付き債券を発行して募集につとめるも、会社が1889年に破産(84才)。史上有名なパナマ疑獄事件が勃発。彼は背任と詐欺のかどで禁固5年を宣告され、上告の結果、1893年最高法廷で無罪判決を勝ち取りました。だが、この事件に巻き込まれ名声を失い、事業は失敗して、精神障害を起こし、痛ましい晩年を送り、1894年に失意のまま89才で亡くなりました。その後、パナマ運河はアメリカ主導で完成しました。

参考:〜
・レセップスの結婚
1869年、スエズ運河の開通式を終えたレセップスは、21才のルイズ=ブラガール(Louise-Helene Autard de Bragard, 1848-1909没)とスエズ運河の側のイスマイリアの小さな教会で結婚式を挙げた。レセップスは64才。「世間はこの結婚の知らせを聞いて、唸った。更にこの夫婦の間に、後年、男の子と女の子が半ダースずつ生まれたと聞いては、人はもう驚くことも止めてしまった。12人の子供が生まれたのである。・・・レセップスは、89才まで生きて働く約束になっていたのだから、12人の子供が生まれても算術が間違ったのではなかった。」<大佛次郎「パナマ事件」1959:大佛次郎ノンフィクション全集9、朝日新聞社p.89>

参考HP:〜
スエズ運河の地図
スエズ運河航路の地図
パナマ運河の地図

こちらで
スエズ運河
パナマ運河
を、お楽しみください。

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。     2018/11/18、令和 R.2/2/23

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