★トルコ エルトゥールル号の遭難
1890/9/16、夜
和歌山県串本町沖
大航海物語★


TURKIYE CUMHURIYETI
オスマン帝国フリゲート艦エルトゥールル号
エルトゥールル号の乗組み士官
1890 エルトゥールル号の遭難125年記念 2015
トルコ 2015 発行
日本郵便 和歌山県串本町建立
イスタンブール港のエルトゥールル号
エルトゥールル号と乗組み士官
エルトゥールル号遭難の慰霊碑
日本 2009/7/1 発行 ご当地切手

日本郵便
トルコ・日本 友好の架け橋 切手シート

日本 2009/7/1 発行 ご当地フレーム切手 (2000部発行)売価@1,200円

エルトゥールル号の遭難 (1890/9/16)
  Ottoman frigate Ertugrul
エルトゥールル号は、明治23年(1890/9/16夜半)に現在の和歌山県串本町沖にある、紀伊大島の樫野埼東方海上で遭難・沈没して500人以上の犠牲者を出しました。現在も、慰霊祭が串本町と在日本トルコ大使館の共催で5年ごとに行われています。本州最南端の町の和歌山県串本町(15,641人、2018)とトルコのヤカケント町(Yakakent(9,062人, 2012), Samsun Province, Turkey)と、メルスィン市(Mersin(915,703人, 2014), Mediterranean Region, Turkey)は姉妹都市で、樫野崎灯台そばにはエルトゥールル号殉難将士慰霊碑とトルコ記念館が建設されています。

1887(明治19)年に小松宮彰仁親王(弘化3(1846-1903)明治36)夫妻が国際親善で、イギリス・フランス・ドイツ・ロシアなどと、トルコのイスタンブールを親善訪問して、オスマン帝国(Ottoman Empire 1299-1922)皇帝アブデュル・ハミット2世(Sultan Abdul Hamid II, 在
串本町のトルコ記念館
位1861-1876)へ菊花大綬章を献呈しました。皇帝が、その返礼にエルトゥールル号の大日本帝国(日本)派遣を決定しました。

・エルトゥールル号の航海 (1889/7/14〜1890/9/16)
1889/7/14、イスタンブールをオスマン帝国海軍の航海訓練を兼ねて出港
           艦長:アリ・オスマン・ベイ大佐(Captain Ali Osman Bey)
   ?    トルコの南西部エーゲ海地方のムーラ県マルマリス(Marmaris)、寄港
   ?    エジプト北東部の地中海沿岸ポートサイド(Port Said)、寄港
1889/7/26、スエズ運河グレートビター湖(Great Bitter Lake)で
        舵軸(stern post)損傷、舵(rudder)喪失、停船・修理
1889/9/23、グレートビター湖を出発
   ?    アデン、寄港
   ?    ソマリア、寄港
   ?    サウジアラビア紅海沿岸のメッカ州ジッダ(Jeddah)
   ?    インド東海岸ポンディシェリ(Pondicherry)
   ?    インド西ベンガル州カルカッタ(Calcutta)
   ?    アカボド港(Port Akabod)
イスタンブールのモスク(大聖堂)

オスマントルコ 1913/10/24 発行
   ?    シンガポール寄港、西インド洋にて波浪で損傷した船首(Bow)を修理
1890/3/22、シンガポール出港
   ?    マラッカ海峡(Strait of Malacca)通過、マラッカ、寄港
   ?    サイゴン(Saigon)、10日間停泊
   ?    香港(Hong Kong)、寄港
   ?    厦門(アモイ:Amoy)
   ?    上海(Shanghai)
   ?    長崎(Nagasaki)、寄港
1890/6/07、横浜港に入港、停泊
          アリ艦長が海軍少将(Rear Admiral)に昇進
1890/6/13、皇帝の特使オスマン・パシャ司令官(Rear Admiral Ali Osman Pasha)が皇帝親書
        を明治天皇に奉呈、オスマン帝国最初の親善訪日使節団として歓迎される
        パシャ司令官が勲一等旭日大綬章(First Class Order of the Rising Sun)を受領
        アリ艦長が勲三等旭日中綬章(Third Class Order of the Rising Sun)を受領
1890/6/14、嘉仁皇太子(後の大正天皇)へオスマン帝国少将(Ottoman rear admiral)を贈呈
その後数日間、歓迎会が催される
滞在3ヵ月中、はやり病(epidemic)で12人が亡くなる
1890/9/15、横浜港を出港して帰路につく
1890/9/16、夜半ごろ折からの台風による強風にあおられて紀伊大島の樫野崎に連なる岩礁
        に激突、座礁したエルトゥールル号は機関部に浸水して水蒸気爆発を起こし、
        22時半ごろに沈没。

・地元住民の救助活動
エルトゥールル号は艦令36年の老朽艦で、補給品の不足、乗員の経験不足など、そもそも極東行きの航海自体も海軍内部に反対意見は強く、日本にたどり着いたこと自体が大変な幸運だとみられていました。そして出港以来、蓄積し続けた艦の消耗や乗員の消耗、資金不足に伴う物資不足が限界に達していました。また、多くの乗員がはやり病(コレラ説有)に見舞われたため、1890/9/15になってようやく出港の目処をつけました。そのような状況から、遠洋航海に耐えないエルトゥールル号の消耗ぶりをみた日本側が台風の時期をやり過ごすように勧告するも、オスマン帝国側はその制止を振り切って帰路につくため、9/16に横浜港を出港しました。

その夜の21時ごろに、折からの台風による強風にあおられて紀伊大島の樫野崎に連なる難所の樫野埼灯台下の岩礁「船甲羅」岩に激突・座礁したエルトゥールル号は、機関部に浸水して水蒸気爆発を起こし、22時半ごろに沈没。司令官オスマン・パシャ特派大使海軍少将など600人以上が海へ投げ出されました。

樫野埼灯台下に流れ着いた生存者の内、約10人が数十メートルの断崖を這い登って灯台にたどりつきました。灯台守は応急手当を行なうも、お互いの言葉が通じず、国際信号旗を使用して、遭難したのがオスマン帝国海軍の軍艦であることを知りました。通報を受けた大島村(現:串本町)樫野の住民たちは、総出で救助と生存者の介抱に当たりました。この時、台風で出漁できず、食料の蓄えもわずかだったにもかかわらず、住民は浴衣などの衣類・卵・サツマイモ、それに非常用のニワトリも提供するなど、生存者たちの救護に努めました。この結果、樫野の寺、学校、灯台に収容された69人が救助され、生還することができました。

このような地元住民の献身的な救助活動にもかかわらず残るパシャ司令官以下587人は、死亡または行方不明となり、大惨事となりました。遭難の翌朝、事故は樫野の区長から大島村長の沖周(おき しゅう)に伝えられました。その後、付近を航行中だった船に大島港へ寄港してもらい、生存者2人が連絡のため神戸港に向かいました。神戸港に停泊中だったドイツ海軍の砲艦「ウォルフ」が大島に急行し、生存者は神戸に搬送、病院に収容されました。沖村長は県を通じて大日本帝国政府に通報。知らせを聞いた明治天皇は、政府に対し、可能な限りの援助を行うよう指示。各新聞は衝撃的なニュースとして伝え、義援金・弔慰金が寄せられました。

エルトゥールル号は、明治23年(1890/9/16夜半)に現在の和歌山県 遭難事故の20日後の1890/10/5に、日本海軍のコルベット艦 比叡 と 金剛 が、東京の品川湾から出航、神戸港で生存乗員を分乗させて、翌年の1891/1/2にオスマン帝国の首都イスタンブールに送り届けました。なお2隻には、秋山真之(1868-1918、海軍中将)ら海兵17期生が少尉候補生として乗り組んだと伝えられています。

・その後
かくして、トルコと旧大嶋村樫野(串本町)との友情と友好関係が現在まで続くこととなり、串本町では5年ごとに追悼式典が実施され、2008/6/7には訪日中のトルコのアブドゥラー・ギュル大統領(Abdullah Gul, 1950/10/29-、在任2007-2014)が、同国の大統領として初めてこの地を訪れ、遭難慰霊碑前で行われた追悼式典に出席し献花を行いました。
トルコ大統領夫妻

・フリゲート艦エルトゥールル号の装備:〜
  Ottoman frigate Ertugrul
、1854
エルトゥールル号はオスマン帝国海軍が自国の沿岸防衛のために国産した軍艦で、海軍大臣アブデュルアズィズ(Abdulaziz 1830-第32代皇帝在位1861-1876)が建造を承認し、自国のイスタンブール造船所で建造されました。艦名はオスマン1世(Osman I, 1258-初代皇帝在位1299-1326)の父であるエルトゥールル(Ertugrul Gazi、1198-1281)に因んで命名されました。基本構造は平甲板型船体に3本の帆走用マストを持つ装甲フリゲートで、船体中央部の1番、2番マストの間にブリッジ(船橋)を持つ艦橋が立ち、船体内部の砲郭(ケースメイト)部に主武装を左右均等に配置。1864年にロンドンへ回航され、1865年まで老朽化した船体の修理と共に、蒸気機関を搭載して蒸気船に改造すると共に武装が一新されました。

船 型 オスマン帝国木造フリゲート艦(19-gun Frigate 在りし日のエルトゥールル号の勇姿

トルコ 2015 発行
帆 柱 3本
機 関 石炭専焼缶2段膨脹式レシプロ機関1基1軸推進
600馬力、最大速力 13.0ノット(機関航行時)
全 長 76.2m
全 幅 15.5m
喫水 8.0m
重 量 2,344屯 (石炭:400屯)
乗組員 320人他に随員など、計650余人
進 水 1853年、イスタンブール造船所、就役:1854年
最 後 1890/9/16、紀伊大島の樫野崎、座礁・沈没
武 装 クルップ 15cm(-口径)単装砲〜8基
アームストロング 150ポンド(68s)単装砲〜5基
オチキス 3.7cm(23口径)5連装ガトリング砲〜2基
ノルデンフェルト 2.5cm4連装機関砲〜2基、など。

・テヘラン日本人救出(トルコ航空機)
イラン・イラク戦争(第一次湾岸戦争:Iran-Iraq War, 1980/9/22-1988/8/20)で、1985/3/17にイラクのサダム・フセインが「今から48時間後に、イランの上空を飛ぶ飛行機を打ち落とす」と宣言。イラン在住の日本人は、慌ててテヘラン空港に向かうも、どの飛行機も満席で乗ることができませんでした。世界各国は自国民の救出のため救援機を出すも、日本政府はすばやい決定ができず空港の日本人はパニックに陥いりました。

そこへトルコ航空の飛行機2機が到着。トルコ航空(Turkish Airlines)の飛行機は日本人216人全員を乗せ、タイムリミットの1時間数分前にトルコ(アンカラ経由イスタンブール)へと離陸。

なぜ、トルコ航空機が来てくれたのか、日本政府もマスコミも知りませんでした。後に駐日トルコ大使のネジアティ・ウトカン氏は次のように語られました。「エルトゥールル号の遭難で、日本人がなしてくださった献身的な救助活動を、今もトルコの人達は忘れていません。私も小学生の頃、歴史教科書で学びました。トルコでは子供達でさえ、エルトゥールル号の事を知っています。今の日本人が知らないだけです。それでテヘランで困っている日本人を助けようと、トルコ航空機が1機よぶんに飛んだのです」。このことはほとんどの日本人に知られていません。

参考HP:〜
エルトゥールル号の遭難 PDF(海難1890)
日本トルコ友好の架け橋 PDF(オリジナルフレーム切手)

こちらで世界遺産の
サンマリノ (サンマリノ共和国)
ヌビア遺跡 (エジプト)
奈良の法隆寺 (日本)
をお楽しみください。

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。        2018/5/10

スタンプ・メイツ
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