Pirates of Caribbian
Jolly Roger

海賊ジョージ・ローサー船長
1723
カリブ海の海賊

大航海物語
 ★カリブ海
British VIRGIN Islands
海賊ジョージ・ローサー船長

英ヴァージン諸島 1970/11/16 発行

Turks & Caicos Islands
商船を襲うカリブの海賊船

タークスカイコス 1971/7/17 発行
Saint LUCIA
海賊船の襲撃

セント・ルシア 2007 発行

孤島置き去りの刑

タークスカイコス 1971/7/17 発行
アメリカ南部、メキシコ湾、カリブ海の地図

メキシコ湾
大西洋

カリブ海
セントヴィンセント 1980/12/4 発行

イングランド生まれのジョージ・ローサーはイギリスの奴隷船に乗り組んでいましたが、アフリカで過酷な奴隷狩りの長期滞在中に反乱を起こして船を乗っ取り、「無慈悲なジョージ」と呼ばれてカリブ海と大西洋の北米海岸を荒し回った海賊になりました。部下の船長にレベッカ号の海賊エドワード・ロー船長がいました。イギリス軍艦に襲われた、その最期は海賊には珍しい自殺でした。
海賊ジョージ・ローサー
 Pirate George Lowther
(生年不詳〜1723)
海賊ジョージ・ローサー船長はイギリスで生まれたということ以外、幼少時代のことは定かではありませんが、ロンドンのスラム街で暮らしていたローサーは、折からのイギリス海外渡航ブームに乗って、一攫千金を夢見て海に出ました。そして、英国アフリカ会社(Royal African Company 1660-1752)のアフリカ航路の船に乗り組み、幸運にも航海士見習い(Assistant Mate)になりました。

奴隷船ガンビア・キャッスル号の航海:〜
ローサーは、あるとき2等航海士(2nd Mate)になり、チャールス・ラッセル船長(Captain Charles Russell)の船団で、乗組員30人の奴隷船ガンビア・キャッスル号(slave ship Gambia Castle)の航海長に抜擢されました。1721/6月にガンビア・キャッスル号が、アフリカの砦が襲撃されて失われた兵員の穴埋めのジョン・マッセイ大尉(Captain John Massey)の補充兵44人の輸送と、アフリカでの奴隷貿易にロンドンのテームス河を出帆しました。アフリカに着くと補充兵を上陸させて、奴隷狩りの獲物の奴隷を船積みしはじめました。ところが、なかなか奴隷が集まらず、数ヵ月も停泊することになりました。そのためアフリカ特有の暑熱と疫病で水夫の多くが熱帯病で次々と命を落としていきました。奴隷狩りが成功して貿易品として「黒人奴隷」を輸送すると、船主や資本家には莫大な利益をもたらしましたが、下っ端の船乗り達には過酷な労働だけで決して儲かることはありませんでした。ラッセル船長は乗組員よりも、積荷の奴隷に気を使う始末でした。

ローサーたち乗組員が長期停泊に苛立っているところに、ラッセル船長が謀反の嫌疑をかけてきたので、乗組員はローサー派と船長派の2派に分裂しました。ある夜、ラッセル船長が上陸している時に、ローサーとマッセイ大尉が反乱を起こして港から船を出帆させました。マッセイ大尉はイングランドに帰ろうとしましたが、ローサーと仲間たちとマッセイ大尉の部下の兵士でさえ反対しました。ローサーは言いました。「英国に帰っても、謀反の罪で捕えられるだけだ。カリブ海で活路を見出そうではないか!」。そしてローサーは仲間から新しい船長に選ばれ、ガンビア・キャッスル号を海賊船デリヴェリー号(Pirate Delivery)に、その名を改めました。

海賊船デリヴェリー号の航海:〜
ローサーは奴隷を集めることを止め、50人の仲間と共に海賊・掠奪のための航海に出帆して、海賊ローサー船長となり、
・分け前
・持込み禁止物
・臆病
・戦利品
・賭け事
・遅刻
などの8ヵ条の「海賊の掟」を定め、聖書(Bible)に誓わせました。それに
孤島置き去りの刑
背いた者は死刑や「孤島置き去りの刑」などで処罰しました。カリブ海に到着すると船を襲って略奪を始めました。ある時、ヒスパニョーラ島沖(Hispaniola)で、ワインとブランディーを満載した1隻のフランス船(French sloop)に遭遇、横付けしてマッセイ大尉が乗り移り、あたかも値段交渉をする商人のように、フランス人船長に全部の積荷を貰い受けると耳打ちしました。交渉は難交しましたが、ついに船長はブランデー30樽、ワイン5大樽を礼儀正しく素直に渡し、別の船に積み替えました。フランス船長の潔さに感じ入った海賊ローサー船長は5ポンド(pounds)を支払いました。船の略奪を続けている内に、歩兵上がりのマッセイ大尉がさらなる獲物を求めて、フランス植民地に上陸して町を略奪しょうと持ちかけてきました。ローサー船長は危険が大きいと反対してマッセイ大尉と激論を重ねましたが、決着がつかず海賊仲間の投票で決めることに決しました。多くの仲間がローサーを支持しましたが、マッセイ大尉は快しとせず袂を分かつことになりました。マッセイ大尉と子分の兵士たちがロードアイランド沖(Rhode Island)で捕縛したデリヴェリー号より少し小さい小型船100屯のスクーナー船ハッピー・デリヴェリー号(Happy Delivery 100-ton Rhode Island Schooner 8-cannon 10-swivel guns)に44人の仲間と共に乗り移りました。ローサー船長は厄介者が居なくなって喜びました。その後、マッセイ大尉はイギリス軍艦に捕えられイギリス本国送還の後、1723年に海賊として絞首刑になったと伝えられています。

海賊船リヴェンジ号とレベッカ号の航海:〜
ケイマン諸島のグランド・ケイマン島(Grand Caymans)を出帆した海賊船団は、1722/1月に200屯商船グレイハウンド号(merchant Greyhound)、ベンジャミン・エドワード船長(Benjamin Edwards)の船団に出くわしました。ローサー船長はグレイハウンド号に大砲を打って停船の合図をしましたが、相手は片舷一斉射撃で答えてきましたので、戦いとなりました。1時間の追撃船の末に、ついにグレイハウンド号が降伏、海賊どもはグレイハウンド号に乗り移って略奪後、焼き捨てる前に乗組員を鞭打ち拷問し、皆殺しにして船を焼き払いました。そして数隻の船を乗っ取り略奪して捕縛しました。ローサー船長は今や多くの船を従える海賊船長になりました。ガテマラ(Guatemala)では現地人を襲い、船を襲撃。ローサー船長と部下は略奪品をリヴェンジ号(Revenge)に積み替えました。マチグエ湾(Gulf of Matigue)では大型のスループ型船レンジャー号(largest sloop, Ranger of 10 guns and 8 swivel guns)を乗っ取りました。その後、幾多の船を略奪して焼き捨て、数隻を乗っ取って海賊船団に加えました。

船の略奪を続けている時、ケイマン諸島でローサー船長は海賊仲間のエドワード・ロー船長(Edward Low 1690-1724)と手下の野郎どもに出合い、ロー船長を副首領にしました。ホンジュラス湾(Bay of Honduras)で、ロー船長の小型船が沈没したので、ローサー船長の大型船リヴェンジ号に乗り込んできました。1722/5/28にブリガンティン船レベッカ号(large 6-gun brigantine Rebecca)を乗っ取ってロー船長に与え、44人の野郎どもが乗り込み、ローサー船長のリヴェンジ号に随伴しました。ローサー船長の海賊船団がバッカニーア海賊としての本領を発揮して本格的 海賊船
な海賊活動を始め、カリブ海を恐怖のどん底へ突き落としました。残虐さではロー船長ばかりが伝えられていますが、実際はローサーも負けてはいませんでした。ローサー船長の得意技の1つは、財宝のありかを吐かせる時に、捕虜の指の間に燃え盛るマッチ棒を挟み、骨まで焦がしていくことでした。冷酷非道な海の荒くれ者たちには、生贄の捕虜が泣き叫ぶ様子を酒の肴にしたのでした。その後、ロー船長は黒旗に赤の髑髏旗を掲げて、名を上げていきました。同年、サウス・カロライナ沖(South Carolinas)でイギリス商船を襲った時に、自らの船を横付けして、乗り移って略奪するという戦法をあみだしました。ところが、激しい反撃を受けて船が大破してしまい、ローサー船長は人目の少ない入り江で船を修理しました。それからはローサー船長にツキは味方してくれなくなりました。

海賊船レンジャー号の航海:〜
1722年に海賊どもがブレンキラ島(Blanquilla)と呼んだ孤島へと航海し、海賊船団がその人里離れたマチグエ湾(Gulf of Matigue)に停泊して傾船修理(careen)していると、現地人が襲ってきてリヴェンジ号が焼かれました。海賊たちは別の船に逃げ込み、出帆して難を逃れました。    海賊船の襲撃
ローサー船長と50人は最大の船レンジャー号に乗り換えました。北米海岸で数隻の小さい船舶を容易に略奪しましたが、大した獲物にはありつけませんでした。サウス・カロライナ(South Carolina)沖で、イギリス船に遭遇。驚いたことにそのイギリス船アミー号(vessel Amy)は海賊旗を目撃しても、降伏しませんでした。猛烈に戦いを挑んできましたが、ついにアミー号の船長は殺害されました。ローサー船長の方も野郎どもを失い、船も大破しました。それでサウス・カロナイナの森林の中に隠れて越冬しました。1723/春に海賊どもは再度出帆、北米を北
上して、カナダのニューファウンドランド(Newfoundland Banks)まで足のばしましたが獲物が少なかったので、カリブ海に戻って8月までカリブ海を荒らし回りました。

1723/10月にローサー船長の船は食糧不足に悩まされながら、カリブ海のハイチ島近くのトルトゥーガ島(Isla Tortuga)北東海岸に立寄って、傾船修理をしました。ここで不運がローサーを襲いました。バルバドスから来た1隻のイギリス軍艦がローサーの船を発見したのでした。ウォルター・ムーア艦長(Walter Moore)のスループ型軍艦イーグル号(sloop HMS Eagle)は、そこは商船が傾船修理する通常の場所ではなかったので、海賊ではないかと思って、ムーア艦長は大砲を打って合図してみました。すると海賊ローサー船長はセント・ジョージ旗(St. George's flag)を掲げて、近づいてくる軍艦に向かって砲門を開きました。敵の反応を見て取った艦長は、猛烈な砲撃を開始しました。長時間の戦いの末に、ローサー船長たち海賊は数人の水夫が殺害さ 海賊島・トルトゥーガ島

ハイチ 1961/4/4 発行
トルトゥ|ガ


ハイチ
れ、ついに海賊船は降伏しました。ローサー船長の他、数人を除いて全員が捕縛されました。

海賊の最後:〜
ローサー船長と手下12人は船長室の窓からこっそりと逃げ出して、島に泳ぎ着き上陸しました。ムーア艦長が25人の追っ手を差し向け、5日後に5人だけが捕縛されましたが、ローサー船長は見つかりませんでした。ムーア艦長は海賊船と捕虜の海賊を連れて出帆。総督府に海賊退治と23人の捕虜を報告しました。その後、ムーア艦長の大規模な捜索の後に、さらに4人を捕えましたが、ローサーと他の3人と小僧は未だ見つかりませんでした。

その後、ついに少しの戦闘の傷跡のあるローサー船長の遺体が発見されました。遺体のそばには短銃(pistol)が落ちていていたので、海賊には珍しくも自らの命を絶ったものとみなされました。捕虜になるよりは死を選んで、自らの頭を打ち抜いた結果でした。海賊の末路は、病死、戦死、絞首刑が当たり前だった当時としては珍しい最後で、「無慈悲なジョージ」(Ruthless George)と恐れられた海賊ローサー船長の哀れな末路でした。その他の逮捕された部下たちは海事裁判所で死刑宣告を言い渡されました。

参考HP:〜
カリブ海の地図
ホンジュラス湾の場所地図

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。       11/8/11
スタンプ・メイツ
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