切手で綴る 太平洋戦争 物語
第2部 <帝国の侵攻>
第7章 オランダ領 東インド攻略
31 <帝国軍、ボルネオ上陸>
1941/12/16
ボルネオ占領後、帝国占領地切手を発行

NORTH BORUNEO
加刷 「オネルボ北 便郵国帝本日大」
キナバル山

現地切手に加刷
オランウータン

現地切手に加刷
テングザル

現地切手に加刷
帝国占領地 1944/9/30 発行

加刷「オネルボ北」
帝国切手に加刷

水力発電所
帝国切手に加刷

明治神宮
通常切手 1943〜44 発行
本 日 大
便 郵 国 帝
オ ネ ル ボ 北

東南アジアの地図

現地切手に加刷
帝国占領地 1944 発行
The state of
NORTH BORUNEO
東南アジアの地図

もとの英領の現地切手

上の切手は、帝国占領下の北ボルネオで、1944/9/30に、キナバル山を描く英領ノース・ボルネオ時代の切手に、「大日本 帝國郵便 北ボルネオ」の文字を3行に分けて加刷して発行された切手です。帝国占領下の北ボルネオ切手には、キナバル山を描く正刷切手もあります。第二次大戦中、帝国軍はボルネオ島全域を占領しましたが、このうち、英領部分のサラワク、ノース・ボルネオ、ブルネイは、一括して「北ボルネオ」とされ、陸軍の管轄下に置かれました。ちなみに、現在はインドネシア領となっているボルネオ島の旧蘭領部分(カリマンタン島)は、海軍の管轄下でした。切手のキナバル山は、ボルネオ島北端にあるマレーシアの最高峰で、標高は4,095.2m。名前は「祖霊を祀る山」を意味する現地語の“アキ・ナバル”が訛ったものする説と、この地に残された中国人(=キナ)の未亡人(=バル)の伝説に由来するという説があります。山麓には熱帯雨林が広がっていますが、山頂付近には氷河が存在するなど、自然条件は多様性に富んでおり、6,000種以上の植物と100種以上の哺乳類が確認されています。このため、2000年には、周辺の山と共に「キナバル自然公園」として、ユネスコの世界遺産(自然遺産)に登録されました。

通常切手は、第二次大戦中の1943〜44年に帝国軍占領下の北ボルネオで発行された切手で、1937-40年発行の水力発電所(3銭)と明治神宮(8銭)切手に「北ボルネオ」の文字が加刷されました。

第二次大戦中、帝国軍はボルネオ島全域を占領しましたが、このうち、英領部分のサラワク、ノース・ボルネオ(英領北ボルネオ)、ブルネイは、一括して「北ボルネオ」とされ、陸軍の管轄下に置かれました。なお、現在はインドネシア領となっている旧蘭領部分は、海軍の管轄下でした。

1941/12/16に帝国軍がオランダ領東インド(現在のインドネシア)攻略のため英領ボルネオに上陸・侵攻を開始。1942/1/1に蘭領ボルネオ・タカラン上陸。ミリ油田、ブルネイ泊地、クチン飛行場を強襲攻撃して占領。ジャワ島へ空襲を開始。クチン攻略戦では駆逐艦、掃海艇、輸送船などが米潜水艦や米飛行機の反撃を受けて沈没。一時、蘭印攻略の難所と化しました(バリクパパン沖海戦)。

12/16 未明、英領北ボルネオ中部のミリ油田、ルトン、セリヤ地区へ強行上陸
12/24 サラワク王国首都クチンヘ敵前上陸、戦車十数台を有する敵約1,000を撃破、付近の主要航空基地を占領
12/25 坂口兵団が比島とボルネオの中間にあるホロ島に上陸
12/30 ブルネイ州の州都ブルネイ市に進駐
1/1 ブルネイ湾口のラブアン島を占領、意外なほどの大歓迎
1/11 坂口兵団が蘭領ボルネオ島北東部の油田地帯タラカン島に上陸
1/13 タラカン島のオランダ軍司令官が降伏
1/14 タラカン島の北方ゴンチャゴール油田地帯と北岸ジョワタを急襲、全島を平定
1/16 クチン攻賂部隊は、英蘭国境のオランダ軍を攻撃、要衝ビサンを奪取
1/18 北方のサマリンダとサンガサンガ油田から石油パイプラインが敷設されているバリックパパンの油田施設が炎上
1/20 バリックパパンのオランダ軍司令官へ降伏勧告を届けるも、拒否される
オランダ軍の焦土戦術でバリックパパン市が炎上
カタリナ飛行艇がボルネオ東岸バリクパパン沖で帝国輸送船団を発見
1/23 タラカン島から帝国軍が行動を開始
夕刻、双発爆撃機9・軽爆4機の空襲を受け海軍運送船 辰神丸が損傷
19:30、南阿丸が蘭軍B-10爆撃機の攻撃で被弾炎上、放棄
1/24 未明、バリクパパン沖海戦(マカッサル海峡海戦)勃発
天候が回復して帝国の戦闘機隊や水上機隊が掩護を再開
バリックパパン北の飛行場から蘭機が空襲、爆撃
午後9:00、蘭軍司令官バリックパパン市から退却
サンダカンを占領、タワオを占領(計:邦人587人救出)
1/25 バリックパパン北の飛行場から蘭機が空襲
朝、破壊されたバリックパパン市に入城
1/26 特設水上機母艦 讃岐丸・山陽丸がバリクパパンに到着
1/27 クチン攻賂部隊がシルアスとサンガウ付近を掃蕩して飛行場を占領
1/28 ゼロ戦がバリクパパンに進出
1/31 バリックパパンから舟艇でタナグロゴット付近に上陸、西進するも、山また山の密林で、500台の自転車を放棄、タナグロゴットからバンジェルマシンまで約400km(百里で東京から浜松位、橋753架橋)
2/8 午後0:55アムンタイを占領
2/9 ラウト島北岸コタバル上陸、蘭印住民連合軍1中隊未満が、直ちに降伏
2/10 午前9:00マルタプラの飛行場を占領
夕方、バンジェルマシンの街に到着
3/1 パンシェルマシンからジャワ島への敵前上陸を準備
3/9 ジャワ蘭印軍降伏

こちらで
フィリッピン攻略 をお楽しみください。

参考HP〜
ボルネオ島の地図
ボルネオ島の場所地図(Google map、日本語)
帝国の蘭印作戦の主な作戦目標地図(日本語)






32 <ブルネイ切手に加刷>
1941/12/30
ブルネイ占領後、帝国占領地切手を発行

「府政国帝本日大」と加刷

水上家屋の集団
「府政国帝本日大」と加刷

加刷前のブルネイ切手
カンポン川の水上集落


”はしけ”と

曳き船
Dellings in River Kampong
ブルネイ 1952/3/1 発行 (200%)

現在のブルネイ王国切手
東南アジアの地図とブルネイの場所を示す国旗

ブルネイ 1984/1/1 発行 (200%)

英領ボルネオは、
・英領北ボルネオ(1881-1941、1945-1957、現マレーシアのサバ州)と
・英保護領ブルネイ侯国(Sultanate of Brunei 1888-1941, 1945-1984、現ブルネイ王国)と
・サラワク王国(Kingdom of Sarawak, 1841-1941, 1945-1946、現マレーシアのサラワク州)の
三つから成っていました。英領北ボルネオは英の北ボルネオ会社が所有し、総督は同社の重役会が任命した人を英国植民大臣が承認するという形式をとっており、統治の運用については総てマレー総督の指揮を仰いでいました。

サラワク王国は、もとブルネイ王国の領土でしたが、1839年にジェームス・ブルーク卿が、イスラム君主と現地人の間に起った争乱を鎮圧した功績で、現地の王となりました。太平洋戦争当時は、三代目のヴァイナー・ブルークが王位を継承していました。

1941年
12/16 大日本帝国軍がサラワクのミリ(油田有)を占領
12/24 帝国軍がサラワク王国の首都クチン占領
12/30 ブルネイ市(現ブルネイ州の州都)に進駐、以後大日本帝国軍の軍政下に置かれる
1942年
1/1 ブルネイ湾口の要衝ラブアン島を完全に占領、意外なほどの大歓迎を受ける

参考HP〜
ブルネイの地図
ブルネイの場所地図(日本語)
ミリの場所地図(Google map、日本語)
サラワクの場所地図(日本語、緑色がサラワク、右の草色はサバ)
ボルネオ島の地図
ボルネオ島の場所地図(Google map、日本語)

参考:〜
PBYカタリナ飛行艇 の装備:〜初飛行:1935年、運用開始:1936年
  (Consolidated PBY Catalina、米海軍対潜哨戒・沿岸警備・海難救助機)
愛 称 カタリナ(Catalina) 米:PBYカタリナ飛行艇

パラオ 1992/9 発行


バヌアツ 199 発行
機体略号 PBY-5A
全 長 20.1m
全 幅 31.7m
全 高 6.2m
自 重 9.5t
最大速度 時速280km
エンジン 1,200hpX2基
航続距離 3,790km
乗 員 9人
製造者 コンソリデーテッド・エアクラフト社
生産数 3,305機
武 装 12.7mm機銃 2丁、7.7mm機銃 3丁
爆 装 爆弾等最大4,000ポンド(1,800kg)
※機首下面と胴体側面に引き込み式の車輪を装備、水陸両用機802機生産

こちらで
ラバウル攻略
帝国海軍の切手
 をお楽しみください。

・上記は こちら の文献などを参照させてもらいました。    15/8/17

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