切手で綴る 太平洋戦争 物語
第2部 <帝国の侵攻>
第7章 オランダ領 東インド攻略
35 <ジャワ・スマトラ島攻略>
帝国軍のオランダ領東インド攻略
1942/1/11〜攻略開始
1942/3/09〜オランダ軍降伏
蘭領東インド占領後、占領地切手を発行

大日本帝国郵便 NED. INDIE 大日本帝国郵便
スマトラ 加刷

オランダ女王
もとの蘭領の現地切手

オランダ女王
ジャワ切手

ホロブドールの寺院
オランダ領インド切手に加刷 オランダ領インド 発行 日本帝国、占領地切手 1943-44 発行
ジャワ切手・・・スマトラ切手 

<スマトラ加刷切手>
上のスマトラ加刷切手は、1944/1/1に帝国占領下のスマトラ島で発行された統一加刷切手(10セント)です。スマトラ島を占領した帝国軍は、旧オランダ領東インド(蘭印)切手を接収し、そのまま無加刷で使用させたほか、各地で独自のローカル加刷を施した切手を使用させていました(この他、無加刷の日本切手や一部の地域ではマライの占領加刷切手も使用されました)。その後、状況が落ち着いてくると、1943/4/29以降、スマトラの風物を題材とした正刷切手を発行し、全島で使用させることになりましたが、島内の各郵便局には旧蘭印切手の在庫も少なからず残っていたことから、それらをメダンに集め、全スマトラで共通に使用するため、「大日本帝國郵便 〒 スマトラ」と加刷した切手を、1944/1/1から発行しました。なお、加刷は手押しのモノと機械押しのモノがあり、作業はメダンのデリ新聞社とファレカンプ印刷所で行われました。
<ジャワ正刷切手>
これは、1945/1/20に日本占領時代のジャワで発行された10ルピア切手で、現地のホロブドールの寺院が描かれています。前身のオランダ領インドネシア(蘭印)時代も含めて、“ルピア”という額面の切手としては、これが最初の1枚となります。なお、ルピアのスペルが、現在の“RUPIAH”とは異なり“ROEPIAH”となっていますが、これは、現地語のラテン文字(いわゆるローマ字です)への転写方法がオランダ語式になっていたためでした。戦争開戦以前の蘭印の通貨は、本国のオランダ・ギルダーと連動した蘭印ギルダーでした。1942/3月、蘭印を占領した帝国軍は旧蘭印ギルダーを接収して、新たに、ギルダー表示の南方開発金庫券(開発券、南発券)を発行しました。当初、開発券ギルダーは、旧蘭印ギルダーと等価とされていましたが、占領費用調達のために開発券が濫発されたこともあり(ちなみに、開戦以前の蘭印ギルダーの発行残高は2億3000万ギルダーでしたが、終戦時の開発券の発行残高は数十億ギルダー規模に膨らんでいました)、急激なインフレが進行。あわせて、オランダを含む連合国との戦争への理解と協力を得るためには、現地のナショナリズムにも配慮したほうが良いとの判断もあって、1944年、インドの通貨ルピーを語源とする新通貨として“蘭印ルピア”が創設されました。上の切手は、こうした通貨改革に伴って発行されたものでした。

昭和17年に帝国はオランダから蘭領東インドを奪うため、セレベス島侵攻を開始しました(H作戦)。1942/1/1タカラン油田に上陸、同日メナド飛行場へは海軍空挺部隊が落下傘降下。2/14陸軍空挺部隊がスマトラ島パレンバン油田に降下。3/1ジャワ島に上陸、3/9蘭印軍が降伏。3/13スマトラ島西北端メダン占領、3/27スマトラ占領完了。5/9〜5/25小スンダ列島占領作戦を完了しました。

蘭印作戦(Netherlands East Indies Campaign)は蘭印(オランダ領東インド:Dutch East Indies)、すなわち現在のインドネシアをオランダから奪って、石油などの資源を確保するという、南方作戦中最大の攻略作戦でした。この作戦には困難な点が2つありました。@蘭印を攻撃するまでに、マレーと比島(フィリピン)の両作戦を終了させねばならないこと、A重要油田地帯が破壊される前に占領せねばならないこと。

マレー、比島などに航空基地を進出させ、ジャワ周辺の制空・制海権を奪う必要がありますが、果たして十分なる航空支援を蘭印に対し発揮できるかどうかという点が、時間的制限と合わせて作戦遂行上の条件でした。幸いZ作戦(ハワイ作戦)の成功によって米艦隊の側面からの攻撃の危険はなくなり、またマレー作戦比島作戦が順調であったので、大本営は予定を1ヵ月繰上て蘭印作戦を開始しました。

一方連合軍は、1942/1月にABDA(米英蘭濠)戦域コマンド地域連合司令部(Australian-British-Dutch-American Command, American-British-Dutch-Australian Command, ABDACOM)を設置して、マレー・蘭印への増援を開始。比島・マレーの海空軍部隊は逐次蘭印へ後退して蘭印のABDA地域連合軍ABDA連合艦隊に合流しました。

▼蘭印攻略戦(ジャワ・スマトラ島攻略) 蘭印(インドネシア)全図

インドネシア 1963/5/1 発行









(00)前進基地ダバオ攻略戦
(01)ボルネオ島カリマンタン攻略戦
(02)セレベス島攻略戦
(03)アンボン島攻略戦
(04)バリ島攻略戦
(05)チモール島攻略戦
(06)ジャワ島攻略戦
(07)スマトラ島攻略戦
(08)ジャワ海の制海権を巡る海戦

▼両軍の兵力:〜
<帝国軍の兵力>
●帝国陸軍:〜
・第16軍:軍司令官 今村均中将(1886-1968)
      参 謀 長 岡崎清三郎少将(1893-1979)
      参謀副長 原田義和少将(1895-1973)
 ・第二師団〜師団長 丸山政男中将(1889-1957)
  ・歩兵第4、第16、第29連隊、捜索第2連隊、野砲兵第2連隊、工兵第2連隊基幹
   (兵力13,755、3/1佐藤支隊(佐藤正三郎少将)ジャワ島西部メラク東方上陸)
 ・第38師団〜師団長 佐野忠義中将(1889-1945/7/3仙台で戦病死)
   ・歩兵第228、第229、第230連隊、山砲兵第38連隊、工兵第38連隊基幹
    (香港攻略後、1/4に第23軍から転属)
  ・師団主力〜歩兵第229連隊基幹
    (兵力12,360、2/14スマトラ島上陸)
  ・東海林支隊〜支隊長 歩兵第230連隊長 東海林俊成大佐(1890-1974)
   ・歩兵第230連隊基幹
    (兵力5,910、3/1ジャワ島中部エレタン上陸)
  ・東方支隊〜支隊長 第38歩兵団長 伊東武夫少将(1889-1965)
   ・歩兵第228連隊(連隊長 土井定七大佐、1889-1968、1945/3小蒋)基幹
    (兵力5,300、1/31アンボン島上陸、2/20チモール島上陸)
 ・第48師団〜師団長 土橋勇逸中将
  ・台湾歩兵第1連隊、台湾歩兵第2連隊、歩兵第47連隊
  ・捜索第48連隊、山砲兵第48連隊、工兵第48連隊基幹
   (兵力15,663、3/1ジャワ島東部クラガン上陸)
 ・坂口支隊
  支隊長 混成第56歩兵団長 坂口静夫少将(1887-1947、1943/6中将)
   ・第56師団歩兵第146連隊基幹(兵力5,200)
    (12/20ダバオ上陸、1/11タラカン、1/24バリクパパン、3/1ジャワ島東部レンバン上陸)
 ・戦車第8、第2、第4連隊
 ・野戦重砲兵第17連隊
 ・高射砲第16、第23連隊
 ・独立工兵第1、第3連隊
 ・電信第15連隊、自動車第28連隊
・南海支隊〜不参加
・第1挺進団(団長 久米精一大佐)〜空挺降下部隊
 ・挺進第1連隊(山田秀男中佐)
 ・挺進第2連隊(大崎邦男中佐)
・航空支援
 ・第3飛行集団〜179機
   集団長 菅原道大中将(1888-1983)
 ・蘭印部隊〜50機
 ・第11航空艦隊〜190機
 ・第1航空艦隊(機動部隊)〜190機
        総兵力 107,800人
        (兵士97,800、航空部隊地上勤務10,000人)
        (ジャワ島第一次上陸兵力55,000人)
参考〜
・帝国歩兵連隊の平時定員:〜
 ・1個連隊〜総数:1,721人、軍馬14匹
   内訳:将校70、准士官下士官145、兵卒1,440、各部66人
   ・3個大隊(大隊=4中隊、約570人)
    ・12個中隊(中隊=約142.5人、兵=120人)

●帝国海軍:〜蘭印(比島)部隊
・第三艦隊
 司令長官 高橋伊望中将(1888-1947)
 参 謀 長 中村俊久少将(1890-1972)
 ・第16戦隊
  ・重巡洋艦 足柄、軽巡洋艦 球磨、長良
 ・第五戦隊(高木武雄少将、1892-1944/7/6サイパン自決)
  ・重巡洋艦 妙高、羽黒、那智
 ・第二水雷戦隊(田中頼三少将、1892-1969)
  ・軽巡洋艦 神通(旗艦)、駆逐艦12隻(8説有)
帝国海軍の軍艦旗

ネヴィス 2005 発行
   ・第八駆逐隊:朝潮、満潮、大潮、荒潮
   ・第15駆逐隊:黒潮、親潮、早潮、夏潮
   ・第16駆逐隊:初風、雪風、天津風、時津風
   ・第18駆逐隊:霞、霰、陽炎、不知火
 ・第四水雷戦隊(西村祥治少将、1889-1944/10/25スリガオ海峡に山城艦上で戦死)
  ・軽巡洋艦 那珂(旗艦)、駆逐艦12隻
   ・第二駆逐隊 村雨、夕立、春雨、五月雨
   ・第四駆逐隊 嵐、萩風、野分、舞風
   ・第九駆逐隊 朝雲、山雲、夏雲、峯雲
   ・第24駆逐隊 海風、山風、江風、涼風
 ・第五水雷戦隊
  ・軽巡洋艦 名取(旗艦)、駆逐艦8隻
   ・第五駆逐隊:朝風、春風、松風、旗風
   ・第22駆逐隊:皐月(さつき)、水無月、文月、長月
 ・第17戦隊
  ・敷設艦 厳島、敷設艦 八重山、特設敷設艦 辰宮丸(機雷敷設艦)
 ・海軍陸戦隊
  ・根拠地隊
   ・第1根拠地隊、第2根拠地隊、第32特別根拠地隊
  ・鎮守府隊
   ・呉鎮守府
    ・呉鎮守府第1特別陸戦隊(呉一特)、呉鎮守府第2特別陸戦隊(呉二特)
   ・佐世保鎮守府
    ・佐世保鎮守府連合特別陸戦隊(佐連特)〜司令官 森国造大佐(1945/5中将)
   (1890-1949/4/29父島捕虜人肉食事件にて終身刑、蘭軍のセレベス島マカッサルで刑死)
    ・佐世保第1特別陸戦隊(佐一特)、佐世保第2特別陸戦隊(佐二特)
   ・横須賀鎮守府(落下傘部隊)
    ・横須賀鎮守府第1特別陸戦隊(横一特)、横須賀第3特別陸戦隊(横三特
    横一特:司令官 堀内豊秋中佐(1900-1948/9/25メナドにて銃殺で刑死、1944/5/1大佐)
・航空部隊
 ・第四航空戦隊
    司令長官 塚原二四三中将(1887-1966)
    参 謀 長 大西瀧治郎少将(1891-1945/8/16渋谷の官舎で割腹自決)
  ・航空母艦 龍驤、駆逐艦1隻
 ・第11航空艦隊〜(水上機母艦2隻)
  ・第21航空戦隊(葛城丸)
  ・第23航空戦隊(竹中龍造少将(陸上基地)、小牧丸)
 ・落下傘部隊:横一特、横三特
・馬来部隊(南遣艦隊)
   司令長官 小澤治三郎中将(1886-1966)、参謀長 澤田虎夫少将(1891-1958)
 ・重巡洋艦 鳥海、練習巡洋艦 香椎
 ・第七戦隊(栗田健男少将、1889-1977、1942/5中将)
  ・重巡洋艦 熊野、鈴谷、三隈、最上
 ・第三水雷戦隊
  ・軽巡洋艦 川内、駆逐艦14隻
 ・第四潜水戦隊
  ・軽巡洋艦 鬼怒、潜水艦8隻
 ・第五潜水戦隊
  ・軽巡洋艦 由良、潜水艦6隻
 ・第12航空戦隊、第22航空戦隊
 ・第九根拠地隊、第11特別根拠地隊
 ・横須賀第2特別陸戦隊(横二特、落下傘部隊)

<ABDA連合国軍の兵力>
ABDA地域連合軍:〜蘭米英豪連合軍(ABDA)司令部(COM)
   (American-British-Dutch-Australian Command, ABDACOM)
 総司令官:アーチボールド・ウェーベル大将、1942/2/25ジャワを去りインドへ
   (在任1942/1/15-1942/2/25、1942/3/6から英インド駐留軍司令官)
   (英人、Field Marshal Archibald Percival Wavell, 1st Earl Wavell, GCB、1883-1950)
●オランダ東インド(蘭印)軍〜
  阿蘭陀東印度陸軍司令部:バタビア、兵力65,000
   (Royal Netherlands East Indies Army:KNIL、Batavia, Dutch East Indies)
  司令官:ハイン・テル・ポールテン中将(ABDA連合軍の陸軍総司令官)
   (蘭人、Hein ter Poorten, 1887-1968、帝国捕虜1942/3/9-1945/8/17)
 ・ジャワ島西部兵団〜司令部:バタビア
  司令官:第1師団長ヒスリング少将
  (Major-General Wijbrandus Schilling, 1890-1958)
  ・歩兵第1連隊
  ・歩兵第2連隊
  ・ブラックフォース(Black Force)〜歩兵2個大隊基幹
 ・バンドン地区防衛兵団〜司令官:ペスマン少将(Maj-Gen. Jacob J. Pesman, 1888生)
  ・歩兵第4連隊
 ・ジャワ島中部兵団〜司令官:第2師団長コックス少将(Maj-Gen. P.A.Cox)
  ・正規連隊なし
 ・ジャワ島東部兵団〜司令官:第3師団長イルヘン少将(Maj-Gen. G.A. Ilgen)
  ・歩兵第3連隊
・米英豪連合軍 (兵力16,000)
        総兵力 81,000人

ABDA連合国海軍:〜
●オランダ海軍〜開戦時(1941/12/8)の編成
  (Netherlands East Indies Naval Forces、Batavia)
・バタヴィア艦隊:〜
 司令官:カレル・ドールマン少蒋
  (Luitenant-Admiraal Karel Willem Frederik Marie Doorman、
   1889-1942/2/28スラバヤ沖海戦にてデ・ロイテル号沈没で戦死)
 後任司令官:コンラッド・ヘルフリッヒ中将(1942/3/2カタリナ飛行艇セイロン島着)
  (Luitenant-Admiraal Conrad Emil Lambert Helfrich, 1886-1962)
 ・軽巡洋艦(light cruiser)〜3隻
  ・軽巡デ・ロイテル号
  (Hr. Ms. De Ruyter, 排水量6,642t, 32kt, 473人, 1942/2/28スラバヤ沖海戦にて那智、羽黒
   の魚雷で沈没、救出17人のみで司令官が戦死)
  ・軽巡トロンプ号
  (Hr. Ms. Tromp, 4,000t, 32.5kt, 380人, 1955退役)
  ・軽巡ジャワ号
  (Hr. Ms. Java, 6,670t, 31kt, 526人、1942/2/27スラバヤ沖海戦にて帝国重巡 那智の雷撃で
  沈没、3/1哨戒中の第五戦隊(那智、足柄)と駆逐艦 山風、江風が漂流するジャワ号生存者
  を発見、江風が救助37人)
 ・駆逐艦(destroyers)〜5隻
  ・バンケルト号 (帝国が修理後、改名:哨戒艇106号)
  (HNLMS Banckert, 1,316t, 36kt, 1942/2スラバヤ沈没, 帝国が引上げ)
  ・ピート・ハイン号
  (HNLMS Piet Hein, 1,316t, 36kt, 149人,水偵1機 Fokker, 1942/2/20バリ島沖海戦で沈没)
  ・ヴァン・ガント号
  (HNLMS Van Ghent, 1,316t, 36kt, 149人, 1942/2/15チラチャップ軍港で着底、自沈)
  ・コルテノール号
  (HNLMS Kortenaer, 1,316t, 36kt, 149人, 1942/2/27スラバヤ沖海戦にて羽黒の雷撃で沈没)
 ・ウィット・デ・ワイズ号(1928)
  (HNLMS Witte de With、1,316t, 36kt, 149人, 1942/3/2空襲で大破後、スラバヤにて自沈)
・シンガポール艦隊:〜
 ・軽巡洋艦(light cruiser)〜1隻
  ・軽巡ジャワ号
  (Hr. Ms. Java, 6,642t, 32kt, 525人, 水偵2、1942/2/27スラバヤ沖海戦にて那智雷撃で沈没)
 ・駆逐艦(destroyers)
  ・エヴェルトセン号(ヴァン・ガレン級:HNLMS Evertsen 1926, 1,316t, 36kt, 149人、水偵1機)
   (1942/2/19砲撃で大破、1942/3/1バタビア沖海戦で沈没)
  ・ヴァン・ネス号
  (HNLMS Van Nes(1930), 1,316t, 36kt, 120人, 1942/2/17空襲でバンカ海峡に沈没)
  ・ジャーク・アイデス号
  (HNLMS Tjerk Hiddes, 1800t, 183人 1961退役)
・スラバヤ艦隊:〜
 ・潜水艦母艦(submarine tenders)〜1隻
 ・潜水艦(submarines)〜14隻
 ・機雷敷設艦(Mainelayer)〜7隻
 ・掃海艇(minesweepers)〜5隻
 ・魚雷艇(torpedo boats)〜12隻
 ・タンカー(tanker)〜7隻
 ・病院船(hospital ship)〜1隻
 ・その他〜12隻
・潜水艦隊
 ・蘭潜 K-17号
  (HNLMS K-XVII, 865t, 38人, 1941/12/21タイランド湾にて触雷で沈没)
 ・蘭潜 K-18号 (HNLMS K-XVIII, 865t, 38人、1942/3/2スラバヤ港にて自沈処分後、
   帝国が引き上げて対空警戒艦で使用、1945/6/16ジャワ島東のマドゥラ海峡に英潜
   タシターン号(HMS Taciturn, 1290t, 61人, 1971退役)の砲撃で沈没)
 ・蘭潜 O-16号
  (HNLMS O-16, 990t, 39人, 1941/12/15タイランド湾にて触雷で沈没)
 ・蘭潜 O-23号
  (HNLMS O-23, 990t, 39人, 1948退役)
 ・その他
・航空部隊(Naval Aviation)〜27機

●オーストラリア海軍
 ・豪駆逐艦(destroyers)
  ・ヴァンパイア号, 1917年
   (HMAS Vampire, D68, 1,188t, 34kt, 119人、1942/4/9セイロン島バッティカロア沖を英空母
    ハーミーズと航行中、帝国機動部隊艦載機の爆撃で沈没、戦死9)
 ・豪スループ艦(sloop)
  ・スワン号(HMAS Swan U74, 1,060t, 16.5kt, 160人, 1962退役)
  ・ウォリゴ号(HMAS Warrego U73, 1,060t, 16.5kt, 160人, 1966退役)

●アメリカ海軍〜開戦時(1941/12/8)の編成
  (米アジア艦隊:United States Asiatic Fleet、1910-1942)
   司令官:トーマス・C・ハート大将 (Admiral Thomas Charles Hart, 1877-1971)
・重巡洋艦(heavy cruiser)〜1隻
  ・ヒューストン号(USS Houston CA-30, 9,200t, 33kt, 1,061人
    1942/3/1バタビア沖海戦でスンダ海峡に沈没、救助368・捕虜)
・軽巡洋艦(light cruiser)〜1隻
  ・マーブルヘッド号(USS Marblehead CL-12, 7,050t, 34kt, 458人、後に米へ帰港、1945退役)
・駆逐艦クレメンソン級〜13隻 (4本煙突)
   (Clemson-class destroyers, 1,215t, 35kt, 95.81x9.35m, 乗員125人)
  ・ポール・ジョーンズ号(USS Paul Jones DD-230, 1945/11/5退役)
  ・ジョン・D・エドワーズ号(John D. Edwards, 1,215t, 35kt, 124人, 1945/7/28退役)
  ・オールデン号(Alden, 1945/7/15退役)
  ・ホイップル号(Whipple, 1945/11/9退役)
  ・エドサル号(Edsall, 1942/3/1沈没)
  ・スチュワート号
   (Stewart, 1,215t, 35kt, 101人, 1942/2/20バリ島沖海戦で小破、3/2放棄でスラバヤ軍港浮
    ドック共自沈、1942/3/8帝国が修理改名:第102号哨戒艇、帝国敗戦で米1946退役処分)
  ・バーカー号(Barker, 1,215t, 35kt, 132人, 1945/7/18退役)
  ・パロット号(USS Parrott)
   (ボストン出港後、1944/5/2輸送船と衝突事故、1944/6/14ノーフォークで退役)
  ・バルマー号(Bulmer, 1,215t, 35kt, 122人, 1946/8/16退役)
  ・ジョン・D・フォード号(USS John D. Ford, 1945/11/2退役)
  ・ポープ号(USS Pope, 1942/3/1第2次スラバヤ沖海戦で沈没、帝国駆逐艦雷が救助151)
  ・ピアリー号(Peary, 1942/2/19ダーウィン大規模空襲の急降下爆撃で沈没)
  ・ピルスバリー号(Pillsbury, 1942/3/2第2次バリ島沖の海戦で沈没)
・駆逐艦母艦(destroyer tender)〜1隻
  ・ブラック・ホーク号
   (USS Black Hawk AD-9, 5,690t, 471人, 1946退役)
・潜水艦(submarines)〜29隻
  ・パーミット号
   (USS Permit, SS-178, 1,330t, 50,人 1945/11/15退役)
   (1942/3/13セブ島(Tagauayan Island)にてPT-32号を帝国の拿捕前に雷撃処分)
  ・ポーパス号
   (USS Porpoise, 1,310t, 50人, 1945/11/15退役)
   (1943/1/1釜石沖で貨物船連山丸(興国産業、4,999t)を撃沈
    '43/4/4エニウェトク環礁北方で特設給糧 船興亜丸(極洋捕鯨、2,024t)を撃沈
    '43/7/19ウェーク島とクェゼリン環礁間で海軍徴傭船第21御影丸(武庫汽船、2,718t)撃沈
  ・S-36号
   (S-36 SS-141, 854t, 42人, 1941/12/30ミンドロ島のカラパン護岸堤に係留の小型貨物船を
    撃沈、1942/1/20スラウェシ島南タカ・バカン・リーフで座礁、全員救助マカッサルに生還)
  ・S-39号
   (USS S-39、1942/3/4スマトラ島北ビリトン島近海で給油艦 襟裳(15,400t)を撃沈、松風と
    軽巡 由良が特務艦長 相馬信四郎大佐以下162救助、戦死18、1942/8/13座礁・放棄)
  ・その他
・潜水艦救助艦(submarine rescue vessel)〜1隻
  ・ピジョン号
   (USS Pigeon ASR-6, 950t, 72人, '42/5/4空襲でコレヒドール島海岸に沈没、全乗員捕虜)
・潜水艦母艦(submarine tenders)〜3隻
  ・ホランド号
   (USS Holland AS-3, 8,100t, 16kt, 388人, 1947退役)
  ・カノープス号
   (USS Canopus AS-9, 5,975t, 13kt, 314人, 1942/4/10バターン半島マリベレス湾で自沈)
  ・オータス号
   (USS Otus ARG-20, 5,775 t, 15kt, 644人, 1946退役)
・砲艦(gunboats)〜5隻
  ・アッシュビル号(USS Asheville PG-21, 1,207t, 12.0kt, 159人)
   (1942/3/3帝国の摩耶、野分、嵐と交戦後、バリ島近海に沈没)
  ・タルサ号
   (USS Tulsa PG-22, 1,207t, 12kn, 159人, 1946退役)
  ・オアフ号
   (USS Oahu PR-6, 450t, 15kt, 55人, 1942/5/8コレヒドール島にて帝国の砲撃で沈没)
  ・ルソン号〜帝国の砲艦 唐津
   (USS Luzon PG-47, 500t, 16kt, 80, コレヒドール沖で自沈処分、
    1942/8/1帝国が修理後、唐津と改名、1944/3/3スル海東部にて米潜ナーワル(USS
    Narwhal)の雷撃で大破、マニラに曳航帰投、1945/2/5撤収のため爆破処分)
  ・ミンダナオ号
   (USS Mindanao PR-8, 560t, 16kt, 65人, 1942/5/2マニラ湾で自沈処分)
・掃海艇(minesweepers)〜6隻
  ・フィンチ号(USS Finch AM-9, 950t, 14kt, 78人,)〜帝国の哨戒艇第103号
   (1942/4/11マニラ湾ギャビテ港にて帝国の空襲で沈没
    1943/4/1帝国が修理後哨戒艇第103号と改名,、
    1945/1/12ベトナム南部のファンリ沖にて米艦載機の空襲で沈没)
  ・ビターン号(鳥のヨシゴイの意)
   (USS Bittern, 840t, 14kt, 72人, 1941/12/10マニラ湾で自沈)
  ・タナガー号(フウキンチョウの意)
   (USS Tanager, 840t, 14kt, 8人, 1942/5/4バターン半島の砲撃でコレヒドール島沖に沈没)
  ・クエイル号(ウズラの意)
   (USS Quail, 840t, 35kt, 65人, 1942/5/5コレヒドール島にて帝国の空襲などで損傷後自沈)
  ・ラーク号(ヒバリの意)
   (USS Lark, 950t, 11.4kt, 72人, 1946退役)
  ・ホイッパーウィル号(ヨタカの意)
   (USS Whippoorwill, 840 t, 15kt, 66人, 1946退役)
・タンカー(給油艦, tankers)〜2隻
  ・ペコス号(USS Pecos AO-6, 5,723t, 14kt, 317人)
   (1942/3/1クリスマス島南方にて加賀と蒼龍攻撃隊の空襲で沈没)
  ・トリニティ号
   (USS Trinity AO-13, 5,723t, 14kt, 317人, 1946退役)
・外洋タグボート(ocean-going tugboat)〜1隻
  ・ネイパ号
   (USS Napa AT-32, 845t, 44人, 1942/4/9コレヒドール島で自沈)
・水上機母艦(seaplane tenders)〜4隻
  ・ラングレー号(USS Langley CV-1, 11,500t, 15kt, 468人, 55機)
   (1942/2/27バリ島の一式陸攻空襲で炎上、チラチャップの南120kmにて自沈)
  ・チャイルズ号 (元クレムソン級 駆逐艦)
   (USS Childs DD-241, 1,215t, 35kt, 137人, 1945/12/10退役)
  ・ウィリアム・B・プレストン号 (元クレムソン級 駆逐艦)
   (USS William B. Preston DD-344, 1,308t, 35kt, 221人, 1945/12/6退役)
  ・ヘロン号
   (USS Heron AM-10, 840t, 14kt, 78人, 1946退役)
・高速魚雷艇(motor torpedo boats)〜6隻
  ・PT-41号、旗艦:3個部隊(Three Squadron)で運用
   (PT-41, 40t, 23x6m, 41kt , 15人, 1942/4/15比島攻撃でミンダナオ島ラナオ湖に沈没)
  ・PT-34号
   (PT-34, 1942/4/9ミンダナオ(Kawit Island)にて空襲で大破沈没)
  ・PT-35号
   (PT-35, 1942/4/12セブ島(Visayas Region)にて焼却処分)
  ・PT-31号
   (PT-31, 1942/1/20ルソン島(Subic Bay)にて自沈)
  ・PT-32号
   (PT-32, 1942/3/13セブ島(Tagauayan Island, Visayas)にて米潜(USS Permit)が処分)
  ・PT-33号
   (PT-33, 1941/12/15ルソン島(Subic Bay)にて自沈)
・スクーナー型機帆艦(masted schooner)〜1隻
  ・ラニカイ号(USS Lanikai 1914, 340t, 26人, 1942豪へ、1945/8/22退役)
・哨戒ヨット(patrol yacht)〜1隻
  ・イサベル号(USS Isabel PY-10, 710t, 103人, 1946退役)
・その他小艦艇
※数字には諸説有

なお、ABDA連合艦隊は1942/1月にオランダのカレル・ドールマン少蒋を司令官として設置され、バリクパパン沖海戦(1/24)、エンドウ沖海戦(1/27)、ジャワ沖海戦(2/4)、ガスパル海峡海戦(2/15)、バリ島沖海戦(2/20)の後に、日本軍のジャワ島侵攻に際して発生したスラバヤ沖海戦(2/27-3/1)、バタビヤ沖海戦(2/28-3/1)で、主力艦隊が壊滅しました。スラバヤ沖海戦で脱出に成功したのは、アメリカ海軍の駆逐艦4隻(ポール・ジョーンズ号、ジョン・D・エドワーズ号、オールデン号、ジョン・D・フォード号)だけでした。


蘭印攻略作戦〜(経過)
蘭印作戦は、マレー沖海戦でイギリス軍の戦艦2隻が撃沈され、地上部隊も快進撃を続けるなど、主にマレー方面で戦況が極めて有利に進展していたので、大本営と南方軍はジャワ島上陸の日程を開戦時の計画から1ヵ月繰り上げ、1942/1/11にオランダ領タラカンとメナドへの進攻を始めて蘭印作戦が開始されました。その前に帝国は蘭印作戦の前進基地となるダバオを攻略しました。ダバオを攻略すると、蘭印各地の飛行場と重要な港湾へと兵を進めました。


(00)前進基地ダバオ攻略戦
ダバオの戦い、1941/12/20
  (Battle of Davao City, Mindanao)
ダバオは比島ミンダナオ島南部にあって蘭印作戦の前進基地となる地勢で、主にマニラアサの栽培に関係する在留日本人約2万人が居住し、早期に保護する必要がありました。1941/12/20第16軍の坂口支隊が、フィリピン作戦を担当する第14軍指揮下の三浦支隊(第16師団歩兵第33連隊の一部)と共同でダバオに上陸しました。三浦支隊が先行して上陸するも、海軍機の誤爆で約50人が戦死したので、坂口支隊主力を追加投入。両支隊は同日中に在留日本人を救出して飛行場を占領。12/25には坂口支隊の一部でホロ島を
フィリピンの地図

フィリピン 1937 発行
攻略。坂口支隊の損害は両作戦を合わせて戦死22人でした。なお、フィリピン南部のミンダナオ島の本格的な第二期作戦は、1942/3/2にミンダナオ島サンボアンガに上陸。3/18川口支隊(第18師団の一部)と河村支隊(第5師団の一部)がまずビサヤ諸島(セブ島、レイテ島など)から、ミンダナオ島へ侵攻・攻略。4月には米軍は降伏。5/8ウェインライト中将の降伏指令がビサヤ・ミンダナオの米比軍部隊にも到達。5/10司令官のシャープ准将(Brigadier general William Sharp)が河村支隊長(歩兵第41連隊基幹)に対し降伏。その後6/9までに孤立した地域の小部隊を除いて米比軍の全部隊が降伏しました。
参考HP〜
ダバオの戦いの地図(坂口支隊の侵攻地図)


(01)ボルネオ島カリマンタン攻略戦
 (1)タラカン島の戦い、1942/1/11
 (2)バリクパパンの戦い、1942/1/24
 (3)バンジェルマシンの戦い、1942/2/10

(1)タラカン島の戦い、1942/1/11〜1/12
Battle of Tarakan Island, North Kalimantan, Indonesia, West Celebes Sea)
タラカン島の戦いは1941/12/15ホロ島を攻略した坂口支隊が、蘭印軍1,400人が守備していた現在のインドネシア領カリマンタン北部海岸沖のセレベス海に浮かぶボルネオ島北東部の油田地帯タラカン島ラカン湾に、1942/1/11未
カリマンタン

インドネシア 1967 発行
明に奇襲で敵前上陸。呉第2特別陸戦隊(呉二特)も上陸した攻略戦でした。タラカンの蘭印軍は1/13に降伏。帝国の損害は沿岸砲の砲撃で掃海艇2隻が撃沈され、海軍は戦死156人を出し、坂口支隊の戦死は7人でした。
▽両軍の兵力:〜
○帝国軍の編成:〜
・坂口支隊(第56師団基幹、混成第56歩兵団)
  (歩兵第146連隊と野砲兵第56連隊第1大隊を基幹、坂口静夫(1887-1947)少将)
 ・軽装甲車集団
  ・第146歩兵連隊基幹
   ・I大隊 第56野戦砲兵連隊
   ・1中隊, 工兵隊
   ・2中隊, 歩兵隊
・海軍呉特別陸戦隊
  ・油田地帯攻略部隊
  ・飛行場制圧部隊、など
         総兵力  約6,600人(戦死255人)
○蘭印軍の編成:〜
 (Royal Netherlands East Indies Army:Koninklijk Nederlands Indisch Leger; KNIL)
タラカン島守備隊
 ・タラカン守備大隊 (KNIL第7歩兵大隊)
 ・機関銃中隊
 ・装甲車7輌
 ・3海岸砲大隊
 ・2車載海岸砲大隊 (75mm砲3門、70mm砲2門)
 ・5海岸砲台 (120mm砲2門、75mm砲10門、37mm砲3門)
 ・2砲兵隊 (40mm砲4門、20mm砲4門)
 ・4機関銃小隊 (各12.7mm機銃3丁)
 ・2工兵小隊
 ・機械化救急小隊、など
         総兵力  約1,300人(ほとんど全滅)
・帝国艦艇の損害:〜
  1942/1/12タラカン島陸上砲台の攻撃で沈没
  ・掃海艇2隻、第13号、第14号

(2)バリクパパンの戦い、1942/1/24
  (Battle of Balikpapan
1942/1/21坂口支隊がタラカンを出発して、1/24未明にボルネオ島東岸(現:インドネシアの東カリマンタン州)バリクパパンへ上陸。主力は無事に上陸したものの、アメリカ海軍の駆逐艦4隻による急襲を受け、輸送船2隻が沈没し39人の戦死者を出しました(バリクパパン沖海戦)。1/25迄に坂口支隊はバリクパパン一帯の占領を完了。陸上における戦死は8人でした。

(3)バンジェルマシンの戦い、1942/2/10
  (Battle of Banjarmasin
バンジャルマシン攻略はバリクパパン沖海戦で輸送船5隻を喪失したため、坂口支隊が陸路攻略することになりました。バンジェルマシンまでの移動距離は400kmになると見積もられ、うち100kmはジャングル地帯でした。坂口支隊は1/30にバリクパパンを出発。マラリアや蛭に悩まされながらジャングル地帯を切り開き、2/10に先頭部隊がバンジェルマシンの飛行場を占領。損害はマラリアによる戦病死9人でした。
参考HP〜
タラカンの戦いの地図(坂口支隊の侵攻地図)
タラカン島の場所地図(GoogleMap, セレベス海の地図)
バンジェルマシンの戦いの地図(支隊の侵攻地図)
バンジェルマシンの場所地図(蘭領ボルネオ攻略、坂口支隊の進撃地図)


(02)セレベス島攻略戦
 (1)メナドの戦い、1942/1/11
 (2)ケンダリーの戦い、1942/1/24
 (3)マカッサルの戦い、1942/2/9

(1)メナドの戦い、1942/1/11〜1/13
  (Battle of Menado, Minahasa peninsula, North Sulawesi Island)
帝国が太平洋戦争を始めた最大の目的は、蘭印(現:インドネシア)と英領ボルネオの石油資源を奪うことでしたので、ボルネオへの侵攻が始まるとスマトラ島とジャワ島の制圧が急がれました。スマトラ島の油田地帯は後に陸軍のパレンバン空挺作戦(1942/2/14)が実施されましたが、それに先だってジャワ
セレベス島

インドネシア 1967 発行
島の北の守りセレベス島(現:スラウェシュ島)の要衝メナドへは海軍が単独で侵攻しました。1942/1/6に蘭印部隊(第3艦隊)メナド攻略船団がミンダナオ島を出撃。1/11未明に第1次上陸部隊の佐世保連合特別陸戦隊(佐連特)直率部隊と佐世保第1特別陸戦隊(佐一特、合計兵力1,800人)がメナドの西岸に、佐世保第2特別陸戦隊(佐二特、兵力1,400人)が東岸のケマ(Kema)に上陸。蘭印軍は重油タンクに放火し、敵機が次々に上陸地点に来襲し攻撃しました。メナドの西岸に上陸した佐連特と佐一特(合計兵力1,800人)は、敵約4,000人と交戦後、午前8:30にメナド市街地に突入。

・帝国海軍落下傘部隊の空挺降下
1/11午前6:30にメナド南方に隣接するランゴアン飛行場を制圧するため、海軍横須賀第一特別陸戦隊(横一特)落下傘兵の2波合計408人は第1航空隊
 落下傘兵

図案は連合軍空挺兵
フランス 1969 発行
の九六式陸上輸送機45機(第1波27、第2波18機)に分乗して、比島ダバオを発進。途中セレベス島北端で、メナド攻略に参加していた水上機母艦 瑞穂から発進した零式水偵に敵機と間違えられ、第1波の内1機が撃墜されて、降下兵12人と搭乗員5人全員が戦死しました。横一特の落下傘兵は、午前10時前にランゴアン飛行場(Langoan airfield)上空に進入。戦闘機隊の援護のもとに空挺降下を開始。帝国軍初の落下傘部隊の実戦となりました。降下隊の武器は三八式騎兵銃、ブローニング拳銃と手榴弾が主なものでした。降下兵は地上からの激しい機銃攻撃を受けるも落下傘降下して、1時間ほどで蘭印軍を撃破、ランゴアン飛行場を制圧、占領。メナドに近いトンダナ湖(Lake Tndano)のカカス(Kakas)水上機基地も占領しました。これは帝国としては史上最初の 空挺作戦なるも、後日の陸軍パレンバン空挺奇襲に配慮して報道発表は2/15まで差控えられました。海岸から上陸した佐連特・佐二特と協力してメナド市を完 帝国の落下傘兵

ソマリア 2011 発行
全占領。メナド降下作戦の帝国の損害は戦死32(内12は友軍機誤射)、戦傷者32人。速射砲隊と医務隊は報道班と共に九七式飛行艇2機でトンダノ湖に空輸。1/12には第2次降下部隊が着き、ランゴアン市一帯を手中におさめ、海軍第21航空戦隊の戦闘機10機と偵察機1機がカカス水上機基地に進出しました。

▽両軍の兵力:〜
帝国軍の兵力 蘭印軍の兵力
海 軍
 ・海軍陸戦隊
  ・佐連特直率  400、メナドの西岸
  ・佐一特    1,400、メナドの西岸
  ・佐二特    1,400、メナドの東岸
 ・横一特空挺隊  408、飛行場
     総兵力  3,608人(3,000人説有)
・蘭印部隊 第3艦隊
  ・重巡洋艦、軽巡洋艦など
蘭印軍メナド守備隊
 ・陸軍  約4,000人
     (1,500人説有)

○帝国軍の編成:〜
蘭印部隊(第3艦隊)
 ・旗艦 重巡洋艦 足柄、(CA-)
   司令長官:高橋伊望中将(1888-1947)座乗
セレベス攻略護衛艦隊(第2水雷艦隊)
 ・旗艦 軽巡洋艦 神通、(CL-)
   司令官:田中頼三少蒋(1892-1969)
・第15水雷戦隊
 ・駆逐艦 大潮、朝潮、夏潮、黒潮、親潮、早潮、(DD-)
・第16水雷戦隊
 ・駆逐艦 雪風、時津風、初風、天津風
・第11水上機戦隊
   司令官:藤田類太郎少蒋
 ・水上機母艦 千歳、瑞穂、(CV-)
 ・哨戒艇 第39号
・第1水雷艦隊
 ・旗艦 軽巡洋艦 長良
  司令官:久保久治少蒋
 ・哨戒艇 3隻、1号、2号、34号、(P-)
 ・掃海艇 5隻、第21掃海隊、7号, 8号, 9号, 11号, 12号、(W-)
 ・駆潜艇 3隻、第1駆潜隊、1号、2号、3号、(Ch-)
 ・第5水雷戦隊
  ・重巡洋艦 那智、羽黒、妙高
 ・第6水雷戦隊
  司令官:高木武雄少蒋
  ・駆逐艦 雷、電

○蘭印軍の編成:〜
  (メナド市、ランゴアン飛行場、トンダノ水上機基地などの防衛隊)
・ヴィッカーズ民兵隊(Compagnie Menado, Vickers machine-gun)、188人
・自動車部隊(Mobiele Colonne)45人、対落下傘部隊の対策隊
・退役軍人隊(Reserve Korps)、50才以上
・コルト・ヴェルバンド隊(Kort Verband Compagnie)、135人(15x9分隊)
・欧州民兵隊(European Militia)、200人
・メナド民兵隊(Menadonese Militie Compagnie)、400人
・メナド防衛隊(Home Guard)、100人、古い猟銃を装備
・砲兵小隊(Artillery guns)、75mm砲x2門
・トンダノ湖砲台(Lake Tondano)、37mm砲x3門

▽両軍の損害:〜
帝国軍の損害
・戦死    32人
・戦傷    32人
蘭印軍の損害
・戦死  140人
・捕虜   48人

(2)ケンダリーの戦い、1942/1/24
  (Battle of Kendari, Sulawesi Island)
1942/1/23夜〜1/24にメナド攻略部隊の海軍佐世保連合特別陸戦隊(佐連特2,500人)がセレベス島ケンダリーに上陸して、ケンダリー飛行場を占領。その後、飛行場が整備され、南方最大の飛行基地ケンダリー飛行場となり、陸上攻撃機部隊の高雄海軍航空隊が駐留して、九六式陸上攻撃機一式陸上攻撃機が、蘭印攻略戦の支援空襲や、連合軍航空部隊の最前線基地オーストラリア北部のポート・ダーウィンなどを空から攻撃しました。
中攻:九六式陸上攻撃機

グレナダグレナディーン 1995 発行

(3)マカッサルの戦い、1942/2/9
  (Battle of Makassar, Sulawesi Island)
1942年になると蘭印軍は1月末までにセレベス島マカッサルの欧州人婦女子をジャワ島へ脱出させ、現地人兵の家族は山奥へ避難させました。そこへ、1942/2/9に帝国海軍の攻略部隊(佐連特2,500人)がマカッサルに上陸して飛行場を占領しました。蘭印軍約1,000人は内陸部に退いてゲリラ戦を展開するも、司令官ヴゥーノン大佐(Colonel M. Vooren)は降伏しました。その後、捕虜の労役でマカッサル飛行場(現:ハサヌディン国際空港、Sultan Hasanuddin International Airport)が拡張整備されました。なお、2/9に駆逐艦 夏潮が米潜S-37号(USS S-37, 854t, 42人, 1945/2/6退役)の雷撃でマカッサル沖の海峡にて撃沈されました。

参考HP〜
メナドの場所地図
セレベス島メナドの場所地図
セレベス島ケマの場所地図(ケマとケンダリー有)
セレベス島の地図(日本語)
スラウェシ島の地図(詳細地図)
マカッサルの地図(Google Map、日本語)


(03)アンボン島攻略戦
アンボンの戦い、1942/1/30〜2/3
  (Battle of Ambon Island
アンボン島はモルッカ諸島にあって、オランダが1599年に基地を建設して以来、諸島の中心地がアンボン市(Ambon, Maluku)でした。その後、天然の良港を中心として要塞と航空基地が構築されていました。第38師団は香港攻略戦を終えた後、蘭印作戦アンボンの攻略を命じられ、1/12に香港を出発しました。1/24にはハワイ空襲から帰投した第2航空戦隊の空母 蒼龍と飛龍の艦載機がアンボンを空襲するも、同地には連合軍の艦艇と航空機は認められませんでした。1/31未明、東方支隊主力はアンボン東側に、呉一特と支隊第10中隊(中隊長 若林東一中尉)は北側に上陸。東方支隊(伊東支隊 38師団第228連隊基幹)主力は1/31夕刻にアンボン市内に突入。2/1未明に蘭印軍司令官
モルッカ諸島

アンボン島

インドネシア 1967 発行
カーピス中佐以下800人の守備隊が降伏。その後、呉一特と若林中隊は郊外のラハ飛行場(Laha airfield)へ向かうも、飛行場正面での連合軍の抵抗は激しく、呉一特は集中射撃を受けて身動きできない状態となりました。さらに、アンボン占領後同地に設置予定の海軍第24特別根拠地隊首席参謀予定者の家木幸之輔中佐も迫撃砲弾を受けて戦死。局面打開のため、若林中隊が飛行場側面の山地を迂回して背後に出る作戦を取ることになりました。突入予定時刻の2/3未明、呉一特は若林中隊を待たずに突入を敢行、若林中隊も予定より遅れて6時に戦場に到着。6時30分に飛行場守備隊が降伏。同3日アンボン市郊外で抵抗を続けていたオーストラリア軍も降伏しまして、アンボン島攻略が完了しました。その後、帝国軍は占領したオランダ海軍基地を整備して、海軍第36航空隊の水上偵察(戦闘)機の基地を置いて東蘭印航路の防衛にあたりました。

帝国の修理・増設で使用可能になったアンボン島と近隣の飛行場
・ラハ〜アンボン島中南部
・リアン(Liang)〜島北端
・ハルク〜ハルク島
・カイラトゥ(Kairatu)〜リアンにも近い
・アマハイ(Amahai)〜中西部の南岸
・ブラ(Bula)〜石油を産出する所
・ナムレア飛行場〜ブル島
その後、リアン飛行場は第7飛行師団(須藤榮之助中将)の第3飛行団(塚田理喜智少将)飛行第5戦隊(小松原虎男中佐)が、二式複座戦闘機(愛称:屠龍)の基地として使用しました。

・ラハ捕虜虐殺事件
  (Laha massacre of 1942)
帝国軍のアンボン島占領後、ラハ飛行場近くで連合軍捕虜約300人が虐殺され、敗戦後に戦犯が裁判で裁かれました。戦犯3人:畑山海軍少蒋(Rear Admiral Kouichiro Hatakeyama、戦死)、畑山海軍大佐(Commander Kunito Hatakeyama)、中川海軍中尉(Lieutenant Kenichi Nakagawa)。1990年にオーストラリアで制作された映画「アンボンで何が裁かれたか」(Blood Oath/Prisoners of the Sun)で、帝国軍による連合軍捕虜虐殺事件に関する軍事裁判が詳しく描かれました。
参考HP〜
 ・アンボンで何が裁かれたか(オーストラリア映画、渡辺哲さんが池内大佐役で出演)

▽両軍の兵力:〜
帝国軍の兵力 蘭印軍の兵力
陸軍
・東方支隊  5,300
海軍
・呉一特    750
  総兵力  6,050人
アンボン守備連合軍
・蘭印兵   400
・豪州兵  1,200
・現地兵  1,400
 総兵力  3,000人

○帝国軍の編成:〜
 ・東方支隊〜第38師団歩兵第228連隊基幹
  支隊長:第38歩兵団長 伊東武夫少将(1889-1965)
 ・呉第1特別陸戦隊
特設給兵船
 ・山浦丸、あふりか丸、善洋丸、三池丸
   (揚陸場所は、アンボン島東ホウトウモリ岬の南西海岸)

▽両軍の損害:〜
帝国軍の損害
・東方支隊戦死  55
       戦傷 135
・呉一特  戦死  40
       重傷  50
蘭印軍の損害
・遺棄死体  340
・捕 虜   2,182人
(計:戦死175人、戦傷105人)    ※数字には諸説有

参考HP〜
アンボンの戦いの地図(若林中隊などの進撃地図)
アンボン島の場所地図(日本語)
アンボン島の地図


(04)バリ島攻略戦
バリ島の戦い、1942/2/19
  (Battle of Bali Island
バリ島攻略は第11航空艦隊が、ジャワ島攻略のための飛行場確保はボルネオ島バンジャルマシンよりもバリ島に飛行場を建設した方が後々の利点が大きいと熱心に主張したので、蘭印攻略部隊司令部や南方軍総司令部も同意してバリ島海路攻略が、1942/1月下旬に決定しました。なお、バンジャルマシン攻略バリクパパン沖海戦で輸送船5隻が失われたこともあって陸路攻略となりしました。バリ島はジャワ島から東へ海上僅か2kmの所にあって、しかもオーストラリアとジャワ島を結ぶ航空路(豪州ポート・ダーウィン〜チモール島クーバン〜ジャワ島スラバヤを結ぶ)の直下になっていました。
バリ島

インドネシア 1967 発行
▽両軍の兵力:〜
・帝国軍の兵力 ・蘭印軍の兵力
 陸軍
・金村支隊〜
 ・歩兵1大隊(1中隊欠)約430人
 ・山砲1小隊
 ・独立工兵1小隊
 バリ島守備軍
・蘭印兵〜ジャワ島へ脱出
・現地兵〜山奥へ逃亡
       総兵力  0人
※数字には諸説有
○バリ島攻略作戦の部隊編成:〜
・第一次急襲作戦〜攻略部隊〜
 ・海軍部隊
  ・第8駆逐艦隊〜司令官 阿部俊雄大佐(1896-1944/11/29空母信濃艦長で戦死:少将)
  ・駆逐艦 大潮(旗艦)、朝潮、満潮、荒潮
 ・陸軍部隊(第48師団)
  ・金村支隊〜台湾歩兵第1連隊第3大隊長 金村亦兵衛少佐(第48師団の一部)
   ・台湾歩兵第一聯隊第3大隊
    ・歩兵1大隊(1中隊欠)、山砲1小隊、独立工兵1小隊基幹
  ・特設給兵船(陸軍輸送船)2隻
   ・相模丸(部隊揚陸後に空襲で小破)、笹子丸に乗船
  ・第五設営班
・補給部隊
 ・マカッサル海峡部隊
  ・測量艦 筑紫(1,400t, 128人、 1943/11/4カビエン港近くエドマゴ島付近で触雷・沈没)
  ・急設網艦 蒼鷹(1,600t, 195人, 1944/9/26ボルネオ北方にて米潜パーゴ号(USS Pargo,
   SS-264, 1,525t, 60人, 1946退役)の雷撃で沈没)
  ・第2駆潜隊、第1号駆潜艇
 ・ケンダリー部隊
  ・白山丸、君島丸
  ・第52駆潜隊、第1駆潜隊、いくしま丸
・支援隊〜第一根拠地隊司令官 久保九次少将
 ・軽巡洋艦 長良
 ・第21駆逐隊 若葉、子日、初霜
・第二次輸送作戦
 ・第8駆逐隊による第一次急襲作戦成功後
  ・軽巡 長良を旗艦とする第2次輸送作戦を実施
1942/2/18午前1時、陸軍金村支隊(第48師団台湾歩兵第1連隊の一部)乗船の輸送船2隻が第8駆逐隊の駆逐艦3隻に護衛されて、マカッサル泊地を出港。2/18午後23:00バリ島サヌール泊地沖に到着、直ちに同泊地へ進入して上陸を開始。無抵抗で24:00上陸を完了。戦前からバリ島に住んでいた三浦襄氏の案内で懐中電灯を照らしながらテンパサルへと前進し、2/19午前3:00頃に無人のテンパサル兵舎を占領。住民の証言で蘭印人はジャワ島へ、現地人兵は山奥へ逃亡と判明。デンパサルから9kmのベノア港とクタ空港を占領(午後13:30)。陸上部隊が順調に進撃する中、停泊中の艦艇は連合軍の空襲(小数機による反覆攻撃)で、相模丸が被弾(片舷航行可能状態)。午後17:00輸送船の揚陸はほとんど終了、空襲を避けるため大潮、朝潮、笹子丸が一時ロンボック海峡北側へ退避。損傷した相模丸は第8駆逐隊第2小隊(満潮、荒潮)に護衛されてマカッサルへ退避を始めるも、2/20バリ島沖海戦(バドゥン海峡海戦)が勃発しました。2/27金村支隊が北部のシンガラジャ市を占領。3/8帝国軍がバリ島全体を占領。
参考HP〜
バリ島の場所地図(Google Map、日本語)
バリ島の地図
バリ島南部の地図
  (デンパサルとトゥバン(クタ)飛行場(デンパサル国際空港)、ベノア港、サヌール海岸、有)


(05)チモール島攻略戦
・チモール島の戦い
 (1)ポルトガル領ディリの戦い、1942/2/20
   (第228連隊・別動隊)
 (2)オランダ領クーパンの戦い、1942/2/20
   (第228連隊・主隊)
   (横三特・空挺隊)

(1)ポルトガル領ディリの戦い、1942/2/20
   (Battle of Dili, Portuguese Timor)
ポルトガル領チモール(島東部)

ポルトガル領チモール 1956 発行
・オランダ軍とオーストラリア軍の侵攻
ポルトガルは第二次世界大戦では中立の立場を取っていましたが、1941/12/17チモール島東部ポルトガル領(総督:Antonio de Oliveira Salazar)へ帝国軍の利用を警戒したオランダ軍とオーストラリア軍(計400人)が侵攻して保障占領されました。ポルトガルのアントニオ・サラザール首相はイギリスに対して抗議し、12/19ポルトガルの議会でイギリスへの糾弾を演説。1942/2/20帝国軍がティモール全島を占領し、ポルトガル領ティモールも事実上は帝国軍の統治下となりました。

・帝国の侵攻
ポルトガル領ティモールへは、1942/2/19深夜に帝国第16軍38師団第228連隊(連隊長 土井大佐)の別動隊1,500人がポ領ディリへ上陸を開始。飛行場(現:プレジデンテ・ニコラウ・ロバト国際空港)駐屯豪州第40大隊(2/40th Battalion, Australia)愛称:スパロー・フォース(Sparrow Force)第2分隊(18-strong Australian Commando No. 2 Section、隊長スペンス少佐:Major Alexander Spence)が迎撃するも、最初の1時間に戦死200人、帝国は戦傷7人のみで、豪州兵は降伏したにも拘らず、皆殺しにされました。降伏せず生き残った豪州兵200人は山越えで、ストラッテン中佐の蘭兵200人は南西国境へ、現地兵は山奥へと逃亡し、ゲリラ戦を展開することとなりました。

▽両軍の兵力:〜(ポ領ディリ戦)
・帝国軍の兵力 ・連合軍の兵力
 陸軍
・第228連隊別動隊
 ・総兵力(第2大隊)  約1,500人
 ポ領ディリ守備軍
・蘭印兵  400
・豪州兵  300
・現地兵  600  総兵力 約1,300人
▽両軍の損害:〜
帝国軍の損害
・228連隊別動隊 戦死傷  7人

※数字には諸説有
連合軍の損害
・戦 死   200人
・捕 虜    33人
・大部分が山奥へ逃亡
※中立国ポルトガル(兵500人)は一切抵抗せず。

(2)蘭印領クーパンの戦い、1942/2/20
  (Battle of Kupang, Dutch Timor)
・豪州支援部隊の上陸
オランダとオーストラリアが帝国の侵攻を警戒して、豪州陸軍スパローフォース(Sparrow Force)1,400人(隊長:レガット中佐:Lieutenant Colonel William Leggatt)が、1941/12/12クーパンに到着、在島の蘭印軍650人(隊長:ストラッテン中佐:Lt Col. Nico van Straten)と連合軍となり、2/12にABDA連合軍チモール本部(司令官:ヴィール准将:Brigadier William Veale)が設置されました。上陸した連合軍兵士はマラリアなどの熱病の曼涎に苦しみました。2/16に米重巡ヒューストン号、米駆逐艦ピアリー号、豪スループ艦スワン号、ウォリゴ号に護衛された補給船団がクーパン救援に駆けつける途中、帝国の
チモール島の西部

インドネシア 1967 発行
空襲でダーウィンへ舞い戻りました。

・帝国陸軍の侵攻
1942/1/26、1/27の両日、帝国がターバン他を空襲。2/19深夜、東方支隊第228連隊歩兵第228連隊(連隊長 土井大佐)主隊(第1、第3大隊)4,000人が無防備のチモール島南西のクーパン前方マリ岬パハ川(Paha River)に九四式軽装甲車(通称:豆タンク)5台を揚陸して上陸。直ぐに北の蘭軍撃滅(飛行場)へと進軍。豪州スパロー・フォース第40大隊(40th Battalion)と蘭印軍650人(ストラッテン中佐:Lt Col. Nico van Straten)がウスア峠(Usua Ridge)で迎撃。帝国軍は少なくとも死傷者123人の損害を受けました。ウスア(Usua)のABDA本部は遠くの補給基地シャンプロン(Champlong)へ撤退しました。

・帝国海軍落下傘部隊の侵攻
2/20横三特落下傘部隊550人がクーパン東22kmのウスア(Usua)に空挺降下するも、補給物資が遠くに落下したので、銃剣突撃を覚悟してペンフイ飛行場(airfield of Penfui)へと進軍。ババウ村(Babau)付近に降下した第2陣300人(右翼隊)と、マリ岬に上陸した第228連隊主隊と3方から、飛行場を攻撃。飛行場守備隊(隊長レガット中佐)は飛行場を破壊して撤退するところへ、横三特右翼隊が銃剣突撃し激戦となり、右翼隊は半数を撃破されて突破され、豪州兵はウスアから撤退しました。豪州兵の損害は約30人、右翼隊の戦死78人。
1942年
2/16、帝国の海軍航空部隊が蘭領チモールのターバン他を空襲、爆撃
2/17、帝国の海軍航空部隊が蘭領チモールのターバン他を空襲、爆撃
2/20未明、陸軍部隊がクーパン前方マリ岬に奇襲上陸
10:45、横三特がターバン飛行場東北18kmの牧場に降下
帝国の落下傘兵

ソマリア 2011 発行
     東4kmのババウ部落へ進軍
13:00、ババウ部落東端のトーチカと戦車、装甲車で連合軍が迎撃
17:00、マリ岬から退却して来た豪州軍の大部隊が合流、激戦
     ジャングル戦に慣れていない横三特が甚大な被害を蒙る
2/20夜間、横三特が方向を転換、敵側面を迂回してジャングル地帯を飛行場へと進軍
2/20深夜、連合軍が燃料タンクや倉庫に火を放ち、飛行場を爆破して退却
2/21夕刻、横三特が飛行場南方4kmに到着
       飛行場に着くと、すでに陸軍部隊が確保済
参考HP〜
 ・海軍落下傘部隊チモール島奇襲(帝国のニュース映画)

2/23豪州兵は食糧も水もなくなり、重軽傷132人となったので、降伏。豪州兵第40大隊は戦死84、戦傷132人。第2コマンド中隊(2nd Independent Company)本部の豪蘭兵290人は国境を山越えでシャンプロンへ、ストラッテン中佐の蘭兵200人は南西国境へと逃亡しました。

▽両軍の兵力:〜
・帝国軍の兵力 ・連合軍の兵力
 陸軍
・伊東支隊(伊東武夫少蒋)
 ・第228連隊第1大隊 
 ・第228連隊第3大隊 
         総兵力 約4,000人
 ・横三特(空挺第1陣) 550人
 ・横三特(空挺第2陣) 300人
 クーパン守備軍
・蘭印兵〜 240
・豪州兵〜1,500
・現地兵〜 200
       総兵力 1,940人
▽両軍の損害:〜(クーパン)
帝国軍の損害
・第228連隊戦死  67
        戦傷  56
・横三特   戦死  78+?人
        重傷  ?
蘭印軍の損害
・遺棄死体  296
・捕 虜   1,136人

※数字には諸説有
その後、豪州兵(Sparrow Force)は山間部でゲリラ戦を戦い、1942/12/11夜間に蘭駆逐艦ジャーク・アイデス号(HNLMS Tjerk Hiddes, 1800t, 183人 1961退役)にポルトガル民間人と共に救助されました。
参考HP〜
チモール島の地図(帝国の上陸場所地図、クーパン・ディリ)
チモール島の地図(帝国のパハ川上陸とクーパン空挺降下場所地図
チモール島の地図(Google Map、日本語)


(06)ジャワ島攻略戦 (3/1 上陸)
(1)西部ジャワ作戦
(2)東部ジャワ作戦
(3)南部ジャワ作戦
(4)中部ジャワ作戦
バタビアの戦い
スラバヤの戦い
チラチャップの戦い
バンドンの戦い
3/5, 帝国軍無血入場
3/7, 連合軍降伏
3/8, 連合軍降伏
3/7, 連合軍降伏

ジャワ島の戦い、1942/3/1〜3/9
  (Battle of Java Island)
1942/3/1帝国の第16軍はインドネシアのジャワ島に4ヵ所から一斉に上陸。第2師団はジャワ島西部のメラクとその東方のバンタム湾バンタム泊地から上
ジャワ島

インドネシア 1967 発行
陸、軍司令官 今村中将はバンタム泊地から上陸するも連合軍の攻撃で、一時海中を漂流(バタビア沖海戰)しました。バンタム泊地から上陸した師団主力と佐藤支隊は首都バタビア(現ジャカルタ)へと進軍。メラクから上陸した那須支隊と福島支隊はバンドン要塞と首都バタビアの連絡路を分断するためボイテンゾルグ(現ボゴール)へと進軍。この進路は連合軍も予想するところで、ブラックフォースの主力部隊が守備し、道路は阻塞され、橋梁は徹底的に破壊されていたので、第2師団は犠牲を払いつつ、道路の障害物を排除、橋梁を修復しながら進撃。バタビアは佐藤支隊が3/5、21:30に占領。世界一の植物園が有るボイテンゾルグには那須支隊が夜襲で突入、3/6,04:00に占領しました。

ジャワ島東部のクラガンに上陸した第48師団はジャワ島東部の中心都市スラバヤへ向けて進撃、各地で蘭印軍を圧倒、3/7に東部兵団司令官イルヘン少将が降伏しました。坂口支隊はクラガンに上陸し、寡兵で400kmを主として鹵獲貨物自動車で踏破して、10ヵ所の蘭印軍陣地を突破し、3/7にチラチャップへ突入。チラチャップの連合軍は翌日に無条件降伏しました。

ジャワ島中部のエレタンに上陸した東海林支隊(第38師団)は第2師団のバタビア攻略を支援するため、カリヂャチィの飛行場へと進軍。午後に飛行場を占領、守備隊は撤退。3/3航空隊が到着するも、バンドン要塞から強力な連合軍の反撃で苦戦するも、航空支援で撃退。3/5バンドンへと進軍を開始して、3/7バンドン防衛司令官ペスマン少将が降伏。3/8蘭印総督スタックハウエルが無条件降伏を受諾。3/9ラジオ放送で降伏の指示が蘭印の全軍へ伝達され、3/12バンドン東方の英豪軍8,000人が降伏して、連合軍全体の降伏が完了しました。

▽両軍の兵力:〜
・帝国軍の兵力 ・連合軍の兵力
陸 軍
・第2師団    13,755
・第48師団    15,663
・東海林支隊   5,910
・坂口支隊     5,200
・その他      14,502
      総兵力  約55,000人
蘭印連合軍
・蘭印正規兵  25,000
・米豪兵     16,000
・その他     40,000
     総兵力 約81,000人

※数字には諸説有

○帝国軍の編成:〜
・ジャワ攻略戦の帝国軍兵力〜第16軍々司令官 今村均中将
<西部ジャワ作戦>
・第2師団々長 丸山中将〜兵力13,755人
  上陸時、第2師団を分割
  メラクとその東方のバンタム泊地〜上陸
    現:バンテン州チレゴン市メラク港付近のバンテン湾海岸
    (Port of Merak, Cilegon city, Banten province, Indonesia)
 ・第2師団主力
   メラク東方のバンタム泊地〜上陸→バダビア→バンドン
 ・那須支隊(支隊長 第2歩兵団長 那須弓雄少将、1892-1942/10/26ガ島で戦死)
   メラク東方のバンタム泊地〜上陸→ボイテンボルグ→バダビア→バンドン
    3/6ボイテンボルグ(世界一の植物園有)を占領
  ・第16連隊
  ・捜索第2連隊
  ・第2野戦砲兵連隊第1大隊
  ・第2工兵連隊第1中隊
  ・自動車輸送隊〜2中隊
 ・福島支隊(支隊長 福島久作大佐、1945/3/1少将)
   メラク〜上陸→ボイテンボルグ→バダビア→バンドン
  ・第4連隊基幹
  ・第2野戦砲兵連隊第2大隊
  ・第5対戦車大隊
  ・第2工兵連隊第2中隊
 ・佐藤支隊(支隊長 佐藤半七大佐、在任1939/8/1-1942/8/1)
   メラク〜上陸、1942/3/5/21:00バダビア無血入城・占領
  ・第29連隊(連隊長 佐藤大佐)
  ・第2戦車連隊
  ・第2野戦砲兵連隊第1中隊
  ・第2工兵連隊

<中部ジャワ作戦>
・東海林支隊々長 東海林大佐、兵力5,910人
   中部エレタン上陸→カリヂャチィ飛行場→バダビア→バンドン要塞攻略
    現:西ジャワ州インドラマユ県カンダラハウ地方エレッタン湾エレタンウェタン付近
    (Eretan Bay, Eretan-wetan, Kandanghaur, Indramayu, West Java)
  ・第38師団第230連隊(連隊長 東海林大佐)
   ・第1挺身隊(1大隊基幹)、カリジャティー飛行場(Kalidjati airfield)攻略
     (若松満則少佐、1904-1945/9/2自決、1944中佐)
   ・第2挺身隊(1大隊基幹)、チカンベック攻略(バタビア〜バンドン鉄道遮断)
     (江頭多少佐、陸士42期)
  ・山砲隊〜1大隊
  ・工兵隊〜1中隊
  ・対戦車隊〜1大隊
  ・軽戦車隊〜1中隊
  ・高射砲隊〜1大隊
  ・独立工兵隊〜2中隊
  ・橋梁資材中隊〜1小隊
  ・自動車輸送〜1中隊
  ・第40泊地司令部〜1部
  ・飛行場大隊〜1部

<東部ジャワ作戦>上陸後、第48師団を分割
・第48師団々長 土橋中将〜兵力15,663人
   クラガン〜上陸、1942/3/7スラバヤの蘭印東部兵団司令官イルヘン少将が降伏
 ・第48師団主力
   クラガン〜上陸、
 ・今井隊(右翼隊)(今井一二三少蒋、陸士30期)
  ・第1連隊
  ・山砲隊〜1大隊
  ・工兵隊〜1中隊
 ・阿部隊(左翼隊)
  ・第48師団本部要員
  ・第47連隊
  ・山砲隊〜1大隊
  ・工兵隊〜1中隊
 ・田中セプ(Cepu)急襲隊(田中徹大佐)
  ・第2連隊(Formosan Infantry Regiment)
  ・山砲隊〜1大隊
  ・工兵隊〜1中隊
 ・北村ボジョネゴロ(Bojonegoro)急襲隊(北村九郎中佐)
  ・第48偵察連隊

<南部ジャワ作戦>
・坂口支隊(坂口静夫少将(1887-1947、1943中将)〜兵力5,200人
  ・第56師団第12旅団改編、混成第56旅団改編、1941/11坂口支隊
   レンバン〜上陸→ジョグジャカルタ→1942/3/7チラチャップへ突入
  ・山本挺進団(山本大佐)
   ・第124連隊第1大隊
  ・金氏挺進団(金氏少佐)
   ・第124連隊第2大隊
  ・松本挺進団(松本中佐)
   ・第124連隊第3大隊
           総兵力 約55,000人(第一次上陸)
・航空支援
 ・第3飛行集団(集団長 菅原道大中将)〜179機
 ・蘭印部隊〜50機
 ・第11航空艦隊(基地隊)〜190機
 ・第1航空艦隊(機動部隊)〜190機
  (第16軍主力の地上作戦には第3飛行集団が支援)
  (第48師団の地上作戦には海軍機が直接支援)

○連合軍の編成:〜
・オランダ東インド総督チャルダ・ファン・スタルケンボルフ・スタックハウエル
  (Tjarda van Starkenborgh Stachouwer, 1888-1978、捕虜1942/3/8-1945/8/16)
・地域連合軍総司令官 アーチボールド・ウェーベル大将
・ABDA司令部陸軍総司令官 ハイン・テル・ポールテン中将
 ・西部ジャワ兵団
  ・司令官ヒスリング少将
 ・中部ジャワ兵団
  ・司令官コックス少将
  ・パンドン地区防衛兵団(司令官ペスマン少将)
 ・東部ジャワ兵団
  ・スラバヤ地区防衛兵団(司令官イルヘン少将)
            総兵力 約81,000人

<ジャワ島に4ヵ所から上陸>(3/1、バタビア沖海戦の数時間後)
・西部メラク〜第2師団、兵力13,755
 ・師団主力隊(メラク東方バンタム泊地)〜神州丸の船団がバンダム泊地に入泊、上陸
 ・佐藤支隊(メラク東方バンタム泊地)
 ・那須支隊(メラク)〜あきつ丸の船団がメラク泊地に入泊、上陸
 ・福島支隊(メラク)
・中部エレタン〜東海林支隊、兵力5,910
 ・第1挺身隊
 ・第2挺身隊
・東部クラガン〜第48師団、兵力15,663
 ・師団主力隊
 ・今井右翼隊
 ・阿部左翼隊
 ・田中セブ急襲隊
 ・北村ボジョネゴロ急襲隊
・東部レンバン〜坂口支隊、兵力5,200

(1)<西部ジャワ作戦>
・第2師団は上陸時に分離して、ジャワ島西部メラクとメラク東方バンタム湾から海岸に上陸
 ・第2師団主力
   メラク東方バンタム湾バンタム泊地から海岸に上陸、
   バタビア(現ジャカルタ)を攻略後、
   東海林支隊と協力してバンドン要塞を攻撃
 ・佐藤支隊
   メラク東方バンタム湾メラク泊地から海岸に上陸、
   バタビアを攻略
 ・那須支隊
   メラクの海岸に上陸、
   バタビア南ボイテンボルグ(現ボゴール)を占領して、
   バンドン要塞と首都バタビアの連絡路(鉄道有)を分断
 ・福島支隊
   メラクの海岸に上陸、
   佐藤支隊と共にバタビアを攻撃
昭和17年(1942)
3/1 ジャワ島西部で第2師団は、
師団主力・那須支隊・佐藤支隊・福島支隊とに分離
00:00、佐藤支隊がバンタム湾バンタム泊地から海岸に上陸を開始
00:45、第1次上陸部隊(強襲揚陸艦あきつ丸他の船団)の佐藤支隊が無血上陸に成功
佐藤支隊が上陸直後、揚陸作業中の第1次上陸部隊(強襲揚陸艦龍城丸他の船団)が敵艦、敵機の攻撃で(バタビア沖海戰)、軍司令部乗船龍城丸(神州丸の秘匿名)が大破、今村軍司令官も海上を3時間漂流後、救助されるも、通信機材の海没で一時司令部機能を喪失
02:00、那須支隊、福島支隊がメラクの海岸に上陸
3/2 上陸後、佐藤支隊は散発的な敵の攻撃を排し、破壊・阻塞された街道、爆破された橋梁を架橋しつつ西進、パララヂャヤ、タンゲランを攻略、
蘭印軍はバンドン要塞へと退却
夕刻、チエプーを占領、ソロ河に架橋
3/3 第2師団長丸山中将は野砲兵第2連隊の砲8門で砲撃後、師団主力第3大隊第9中隊(伊藤今朝長大尉)に夜襲を下達するも、敵砲撃で伊藤大尉以下28人戦死、連隊長廣安壽郎大佐も負傷、師団長は那須支隊を迂回させ敵陣地に連携する周辺陣地を占領
豪軍はバンドン方面に退却
連隊は進撃を開始、チャンペア、ドラマガを占領
3/4 軍司令部に遠距離用無線機が空輸され、他部隊と交信可能となって司令部機能が復活
3/5 未明、ボイデンゾルグへと前進
21:00、佐藤支隊がバダビア無血入城
21:30、蘭印の首都バタビア占領
那須・福島両支隊は同じく街道補修、橋梁を架橋しつつを南下
セラン、ペチルを占領するも、ルウイリアンで豪軍の強固な陣地に阻まれ進撃は遅涎
3/6 04:00、那須支隊がボイテンボルグを夜襲で突入・占領、バンドンへ進軍
3/8 バンドンの蘭印軍が無条件降伏
3/9 ラジオ放送で降伏の指示が全島に伝達される
3/13 第2師団第4連隊がバンドン入城
参考HP:〜
スンダ海峡の場所地図(メラク(Merak)、バンテン(Banten)有)

(2)<東部ジャワ作戦>
・第48師団はジャワ島東部クラガンに上陸、スラバヤを攻略
昭和17年(1942)
3/1 01:00、第2次船団がクラガン泊地に投錨、敵艦・敵機の攻撃を受ける
03:45、48師団右翼隊がクラガン上陸
04:00、同左翼隊がクラガン上陸
3/6 第48師団は上陸後に西進、モジョケルトを占領
軽微な抵抗を排してスラバヤを包囲
3/7 スラバヤに突入
3/8 スラバヤの蘭印東部兵団司令官イルヘン少将が降伏

(3)<南部ジャワ作戦>
・坂口支隊はレンバンに上陸、400kmを踏破、
  ジャワ島南部チラチャップ(Cilacap)を攻略
昭和17年(1942)
3/1 07:00、坂口支隊の金氏梯団がレンバン上陸
3/2 01:30、坂口支隊の山本梯団、松本梯団がレンバン東南に上陸
3/4 朝、スラカルタ全面ブルオダジーに達し、主力部隊が集結
午前から攻撃を開始、米蘭軍はスラカルタへと撤退
夜、帝国軍の夜襲でスラカルタの敵は敗走、スラカルタを占領、多数の蘭軍が捕虜となる
3/5 12:00、坂口支隊がアンペルに到達
13:00、ボヨテ着、退却する米蘭軍に追尾して戦闘、1時間で敗走
14:00、ジョクジャカルタヘ捕獲の自動車で進軍
     ジョクジャカルタに到着すると主力は敗走しており、残った蘭軍多数が捕虜となる
金氏梯団と山本梯団は海岸線をチラテャッブへ、
松本梯団はマゲランへ、と分離して進撃
3/6 松本梯団はマゲランにて一個小隊でゴテマンゴン、アンバラウ、スマラン要塞を武装解除後、捕獲の自動車でオノソボ、バンゼルナダラ、アガバラの線まで進出
金氏、山本両梯団はチラチャップの対岸に捕獲の自動車で到着
3/7 坂口支隊が鹵獲トラックに分乗、各地の敵陣を撃破、400kmを進撃後、チラチャップへ突入
3/8 チラチャップ軍港市を占領

(4)<中部ジャワ作戦>
・東海林支隊はジャワ島中部エレタン泊地バトロール海岸に上陸、
  約20km先のカリヂャチィ飛行場を占領して第2師団のバタビア攻略を南方から支援、
  飛行場から約30km先のバンドン要塞の攻略戦を戦う
昭和17年(1942)
3/1 エレタンで東海林支隊は
第1挺身隊(若松少佐)・第2挺身隊(江頭少佐)とに分離して進撃を開始
08:00、若松挺身隊が海岸を出発
11:30、舗装道路を30km西進して飛行場に到着
     1時間交戦するも守備隊は頑強に迎撃
12:30、挺身隊の決死隊6人が側面から迂回、
     飛行場中央の指揮所へ斬り込んで占領、守備隊は撤退
3/3 カリヂャチィ飛行場に第3飛行集団が到着
蘭印軍が飛行場の奪回で、バンドン要塞から戦車・装甲車を繰り出して逆襲・攻撃
若松挺身隊は飛行場来着第3飛行集団の航空支援で反撃して撃退
平地の飛行場では防御困難と、連合軍3万防衛バンドンの一角を奪取しての防御を提案
3/5 若松挺身隊が進撃を開始
スバンを突破
飛行場から40kmの要塞口ジャランチガルを攻略
以降、敵の激烈な反撃を空からの援護で撃破
16:00、要塞山麓のチャテルを攻略
17:30、阻塞物を伴う敵の特火点陣地に遭遇
3/6 午前、敵の逆襲を受ける
午後、苦戦しながらも軽微な損害で第一線陣地を突破
14:00、チチェナンの敵陣を急襲
夕方、チチェナンの陣地を攻略
師団主力がカリジャティー方面からバンドンへ進軍
3/7 00:00、若松挺身隊700人がバンドン市街を見下ろせる要塞外郭線の町レンバンに進撃
02:00、山頂線の敵主要陣地を占領
     後続の江頭挺進隊がチチェナンからチボフを攻略後、
     バンドンの北郊外レンバンへ進撃
22:00、バンドン防衛司令官ペスマン少将が若松挺身隊へ降伏を申し入れる
3/8 16:00、降伏の交渉がカリヂャチィで始る
     蘭印総督スタックハウエルらはバンドン守備隊のみの降伏を主張するも、
     帝国軍は連合軍全体の降伏を要求、蘭印側が受託・無条件降伏
3/9 午前、ラジオ放送で降伏の指示が蘭印の全軍へ伝達される
帝国の第16軍はバタビアに第十六軍軍政部(軍政部長兼第16軍参謀長・岡崎清三郎少将)を開設、「大日本軍司令官 布告第一号」を布告、
ジャワ島を帝国の直轄領として軍政を施行
3/12 バンドン東方の英豪軍8,000人が降伏、連合軍全体の降伏が完了
3/22 今村軍司令官が東海林支隊に感状を授与

▽両軍の損害:〜
帝国第16軍の損害
・戦 死        840人
 ・第2師団    79
 ・第48師団    91
 ・東海林支隊  82
 ・坂口支隊    3
 ・その他    585
・戦 傷       1,784人
 ・第2師団   190
 ・第48師団   275
 ・東海林支隊 191
 ・坂口支隊   46
 ・その他   1,082
連合軍の損害
・遺棄死体    ? 不明
・捕   虜    82,618人
 ・蘭印軍   66,219
 ・英  軍  10,626
 ・米  軍    883
 ・豪洲軍    4,890



※数字には諸説有
※捕獲:各種砲940門、航空機177機、戦車装甲車特殊車両1,059両、
      自動車9,500両、鉄道車両7,108両

・ジャワ島攻略の略年表
昭和17年(1942)
2/3 海軍航空部隊がスラバヤ(ジャワの海軍根拠地)とマラン(ジャワの空軍根拠地)を初空襲、空中戦後、敵機79機を撃墜破し、敵空軍の大半が潰滅
2/4 ジャワ沖海戦
2/5 海軍航空部隊がスラバヤ大空襲で蘭機15機、米国機11機を撃墜破
バリ島のジンバラン飛行場を空襲、敵機8機撃破
2/9 海軍航空部隊がバタピヤを初空襲、チリリタン、カマヨラン、タンジュン・プリオクなどの飛行場を空襲、20機を撃墜破
2/15 帝国の爆撃機が蘭印首都バタビヤ(現ジャカルタ)を空襲
2/18 10:00、第16軍主力第2師団が第1次輸送船団56隻に第5水雷戰隊護衛でカムラン湾出撃
海軍航空部隊がスラバヤを空襲して、米13機を落し、軍港の駆逐艦5隻に命中弾
2/19 第48師団が第2次船団38隻にて第四水雷戰隊、第23航空戰隊護衛でバタ泊地を出撃
陸軍航空部隊がバイテンゾルグ飛行場を空襲
別働隊がバンドン西飛行場を空襲
2/20 〜2/28まで連日、バイテンゾルグ、カリジャチ、バンドン、バタビヤの各飛行場を空襲
2/22 スラバヤ沖海戰の勃発で、第1次船団は反転北上
第2次船団はバリクパパン南方海岸に投錨
(坂口支隊は久米支隊を残置して第48師団に編入)
2/23 第1次船団が南下を開始
2/24 落下傘部隊に依ってスマトラのパレンバン飛行場を確保
2/25 第2次船団がバリクパパン南方海岸を抜錨
2/26 第1次船団の護衛に第7戰隊、第3飛行集団が加わる
2/27 05:00、第1次船団の東海林支隊を分離、第5水雷戦隊(名取、駆逐艦2)護衛で東進
陸軍航空部隊がスンダ海峡で3,000トン級軍艦3隻、2,000トン級商船3隻を攻撃、巡洋艦2隻が火災・炎上
2/28 爆撃部隊がスンダ海峡を南下中の敵巡洋艦2隻に直撃弾が命中
17:40、第16軍の大船団がバンタム(バンテン)多島湾泊地に進入
22:30、第2師団主力から佐藤支隊、那須支隊、福島支隊を分離
23:40、バンタム湾に投錨
2/29 バイテンゾルグ飛行場に
バイテンゾルグの飛行場では、地上の敵戦闘機十六、小型機四を襲って、うち大型機九炎上、舞い上がった最新鋭戦闘機リパブリックP四三機九と空中戦、七機を撃墜
別働隊がバンドン西飛行場に
バンドンに地上のボーイングB一七機八を炎上、大型機九を撃砕、格納庫や事務所にも爆撃、新鋭戦闘機隼部隊は空中戦し、リパブリックP四三機十、ボーングB一七型二、及びブレンハイムー機を撃墜
3/1 第2師団がバンタム湾メラク泊地に上陸
東海林支隊がエレタン泊地パトロールに上陸
第2次船団がクラガン泊地に投錨、敵艦・敵機の攻撃を受ける
48師団がクラガンに上陸
坂口支隊がレンバン上陸
3/3 東海林支隊第一挺身隊がカリジャティー飛行場飛行場を占領
カリジャティー飛行場に第三飛行集團が到着
3/5 遠距離用無線機が空輸され、他部隊と交信可で司令部機能が復活
佐藤支隊がバダビア無血入城、蘭印の首都バタビアを占領
3/6 第48師団がスラバヤを包囲
3/7 東海林支隊若松挺身隊がバンドン要塞外郭のレンバンの町に突入、山頂の陣地を占領
バンドン地区防衛兵団司令官ペスマン少将が若松挺身隊へ降伏申し入れ
坂口支隊がチラチャップへ突入
3/8 第48師団がスラバヤで蘭印東部兵団司令官イルヘン少将が降伏
坂口支隊がチラチャップ軍港市を占領
カリジャティー飛行学校で停戦協議、蘭印軍が無条件降伏
3/9 午前、蘭印軍司令官がラジオ放送で降伏の指示を伝達
帝国軍がジャワ島を直轄領として軍政を施行
3/10 帝国軍が陸軍記念日にバンドン要塞へ入城
3/12 バンドン東方の英豪軍8,000人が降伏、連合軍全体の降伏が完了

参考HP〜
蘭印攻略の戦いの地図(坂口支隊進撃の地図)
 (ダバオ・ホロ島・タラカン・コタバル・スラバヤ・チラチャップ・バンドン・バタビア有)
ジャワ作戦の地図(ジャワ島作戦全図)
ジャワ作戦の地図(ジャワ島上陸作戦4ヵ所)
ジャワ島上陸の場所地図(Japanese Landing on Java)3ヵ所の上陸地点)
ジャワ作戦の場所地図(帝国の蘭印侵攻地図)
ムルデカ17805
 (2001年公開、インドネシア独立戦争に関わった日本兵を描く日本映画)
ジャワ島の地図(日本語、詳細地図)


(07)スマトラ島攻略戦
・スマトラ島の戦い、1942/2/14〜3/28
  (Battle of Sumatra Islannd)
スマトラ島の戦いは、まず重要な油田地帯のパレンバンへの陸軍による空挺奇襲作戦が2/14に実施され、パレンバン大油田とロイヤル・ダッチ・シェルの製油所、および飛行場2ヵ所をほぼ無傷で制圧しました。2/27に第15軍近衛第2師団基幹の22,000人が4船団に分乗して巡洋艦3隻、駆逐艦10隻、哨戒艇部隊、駆潜艇部隊の護衛でシンガポールを出撃。3/12未明、多賀部隊はス
インドネシア全図、左がスマトラ島

インドネシア 1948/12/15 発行
マトラ島の北部に到着、ウェー島(We Island, Aceh)に無血上陸して夜明けまでにサバン(Sabang)を占領。12:40小林部隊がスマトラ最北端のコタラジャ(Kutaraja、現バンダアチェ:Banda Aceh)に上陸して、一部を以てロクンガ(コタラジャ)飛行場を占領。吉田部隊はイディ(Idi, Aceh)の南に上陸して、ランジャ油田(Lantja oilfields)、メダン西64.4kmのパンカラン・ブランダン油田(Pangkalan Brandan oilfields)を占領。その後、車両でメダン(Medan)へと進軍。師団主力はスマトラ北部のタンジョエンチラム(Tandjoengtiram)南西1.61kmのラブハンルクに上陸。車両でペマタンシアンタル・バリ・タルトゥン自動車道(Pematang Siantar-Balige-Taroetoeng Highway)をメダンへ進軍して、メダンからの蘭印陸軍(KNIL)の反撃を抑え、メダン飛行場を占領しました。3/13, 08:30スマトラの首都メダンに進駐、占領しました。

3/27蘭軍2,000人(オブヒアーカー少将:Major General R. T. Overakker)が北スマトラのクタチャン(Kutatjane)付近で降伏して、スマトラ島の戦いは終わりました。連合軍兵多数が鉄道のパカンバル駅(Pekanbaru)とモエラ駅(Moera)の中間付近の捕虜収容所に収容されました。

パレンバン空挺作戦、1942/2/14
  (Battle of Palembang, Sumatra Island)
パレンバン攻略戦はシンガポール陥落(2/15)前の2/14に空挺部隊がパレンバン油田付近に降下作戦を敢行して始まりました。油田と精油所が破壊される前に確保するためには、パレンバンがムシ川の河口から約100kmの内陸に有るため、陸軍の大発(ダイハツ)などの上陸用舟艇による攻撃では川を遡上している間に油田設備を破壊される恐れがあり、これを避けるためにはまず空挺降下で奇襲占領してから、地上部隊(第38師団第229連隊基幹、12,360人)で確保する作戦がとられました。この攻撃のための航空兵力は陸軍機140機、海軍機180機で、主力はボルネオ、一部はマレーにありました。

2/14, 11:26に帝国陸軍空挺部隊主力がパレンバン飛行場南部に、一部は飛行場西側に降下。第1挺身団第2連隊からなる降下兵430人。別に投下した武
帝国の落下傘兵

ソマリア 2011 発行
器・弾薬を手にする迄は、各自携行の拳銃と手榴弾のみで攻撃して飛行場に進撃。英・蘭・濠連合の守備隊約500人は装甲車で応戦。市街の兵舎から増援部隊が疾走してくるも、降下した空挺部隊が応戦攻撃、21:00頃飛行場を占領しました。放火で製油所工場の一部に火災が発生するも、大規模破壊は避けられて作戦は成功。2/15に第2悌身団がパレンバン市街地南側の湿地に降下し、第1挺身団と共にパレンバン市街に突入、同市を占領しました。

なお、第1挺進団は挺進第1、第2連隊を有していたものの、挺進第1連隊は1/3に乗船 明光丸が積載品の自然発火で沈没し、乗船者は護衛の駆逐艦に救助されるも、兵器資材の全てを失いました。そのため空挺降下は挺進第2連隊の329人だけで実施されました。死傷者は降下人員(329)中、戦死39、戦傷入院37、戦傷在隊11人でした。

第38師団主力も2/14にバンカ島に到着、2/15に先遣隊がパレンバンに到着。師団主力は2/18にパレンバンに到着、周辺地域を確保して空挺作戦の目的を完全に達成しました。なお、日本内地においては「強力なる帝国陸軍落下傘部隊は…」で始まる 2/15, 17:10の大本営発表第192号で、挺進連隊の活躍とパレンバン空挺作戦の成功が発表され、陸軍落下傘部隊は「空の神兵」として大いに宣伝されました。

こちらで
ジャワ海の制海権を巡る海戦
スラバヤ沖海戦
をお楽しみください。

参考HP〜
スマトラ島の地図(詳細地図)
スマトラ島の地図(GoogleMap、日本語)
スマトラ島の地図(GoogleMap、ウェー島(サバン)、バンダ・アチェ、Idi、メダンなど有)
スマトラ島の戦いの地図(スマトラ島東部有)
スマトラの戦いの地図(スマトラ島西部の地図)
スンダ海峡付近の地図(スンダ海峡:スマトラ島とジャワ島間の海峡)
スンダ海峡の場所地図
スマトラ島の油田地帯の場所地図(マレーから蘭領東インドの地図)
帝国の侵攻の地図(1942年夏(占領)の時点)

・上記は こちら の文献などを参照させてもらいました。    15/8/15

開 戦
スタンプ・メイツ
Copyright(C):Spice
無断転載禁止