★イギリス
ジェームズ・ブルーク卿
1842
サラワク王国を建国

大航海物語★
SRAWAK
第3代サラワク王国の藩王
チャールス・ヴァイナー・ブルーク卿

Sir Charles Vyner Brooke

サラワク 1918-23 発行

NORTH BORNEO
ボルネオ島クチン付近の地図

英領北ボルネオ 1939/1/1 発行
GRENADA
スクーナー型帆船

グレナダ 1998/4/26 発行

SRAWAK
英ジョ|ジ6世 サラワクの地図

英領サラワク 1952/2/1 発行
ボルネオ島 蝶の一番切手

英領サラワク 1950/1/3 発行

インドのベナレスで生まれたブルークは英国イングランド・ノーフォークの寄宿学校で学びましたが、15才で脱走してインドに戻りイギリス東インド会社ベンガル軍団に入隊し、第1次ビルマ戦争に従軍して重傷負って自宅療養となり、療養中に極東アジアに関心を持って貿易を始めました。父の遺産を相続して、スクーナー型帆船ロイヤリスト号を購入、ブルネイ王への英国の友好使節としてボルネオのクチンへ大航海して行き、王を助けて反乱を鎮圧したり、海賊を退治したりして藩王となり、39才でサラワク王国を建国して、イギリスの帝国主義を実現した代表的な人物となりました。
ジェームズ・ブルーク卿 (1803/4/29〜1868/6/11)
 Sir James Brooke、
Rajah of Sarawak (White Rajah of Sarawak)
ジェームズ・ブルークはインドのベナレス(Benares, India、現ワーラーナシー)のイギリス人居留地で裁判官の子として生まれ、12才でイギリス本国イングランド・ノーフォークのノーウィッチにあるノーウィッチ寄宿学校(Norwich School、Norwich, Norfolk, England,)に入学しました。問題児だったうえに15才で寄宿舎から脱走して、1819年にインドに戻り、イギリス東インド会社(English East India Company)のベンガル軍団(Bengal Army)に入隊して、中尉まで昇進しました。第一次ビルマ戦争に従軍中の1825年に重傷を負い、ビルマから帰国して自宅療養をすることとなり、インドへ戻りました。

1830年にインドのマドラス(Madras)で元のベンガル軍団の原隊に復帰しょうとしましたが、既に戦争が終っていて戻れませんでした。療養中に東南アジアに関心を持ち貿易を始めるため、キャッスル・ハントレー号(Ship Castle Huntley 、1311t)で極東アジアを航海して中国を旅行した後にインドへ戻り、極東貿易を始めましたがうまく行きませんでした。

1835年に父親が亡くなると遺産を相続し、スクーナー型帆船ロイヤリスト号(schooner, The Royalist、142t)を購入して船と乗組員を用意したので、シンガポールに向けて出帆しました。大航海して到着後に当時サラワクの統治者だったブルネイの国王(Sultan of Brunei)への友好使節となるようイギリス海峡植民地政庁(Government of Straits Settlements, 1826-1946)に依頼されて引き受けました。

1838年にボルネオへ出帆、1839/8/5にサラワクの港町クチン(Kuching)に着くとブルネイの王に歓迎されましたが、ブルネイの王は反乱を起こした南サラワクのビダユー(Bidayuh)と呼ばれていた地区の部族と戦っていました。この王は強力な軍隊を持っていませんでしたが、早く平定してブルネイに帰りたいと望んでいました。ブルークは原住民の反乱の鎮圧を依頼され、1840年に英国海峡植民地政庁の協力を得て反乱の鎮圧に成功し、町は平穏を取り戻しました。喜んだ王は、ブルークを1841/9/24にサラワクの藩王(Raja)に任命しました。

ブルークはブルネイのサルタンのもとに直接おもむき、1842/8/18に正式にラジャ(藩王)に任じられ、”白人王 “(White Rajah of Sarawak 1842-1868)の称号を与えられ、サラワクを割譲されて王国を建国しました。さらに1843年に英国海峡植民地政庁の協力を得て海賊退治に乗り出し成功をおさめました。

1847年には母国イギリスへ凱旋帰国して、熱烈な歓迎を受けヴィクトリア女王にも謁見し、爵位を与えられ”ナイト”に叙され、バス勲章(Order of the Bath)も叙勲されました。

1847年に原住民との海戦で敵に多くの死者を出したことから、本国からこれまでとは一転して非難を受けるようになりました。1851年にシンガポールの審問会(royal commission in Singapore)に出席を強要され、1854年にようやく無罪の判決がでたもののイメージが台無しになってしまいました。このストレスや天然痘にかかったことにより衰弱し、1858年に帰国して、イングランド南西部ダートムーア(Dartmoor)に家を購入して隠居生活をしましたが、サラワクへは2度戻りました。1866年に発作をおこして倒れると後継者に姉の子で甥のチャールズ・ブルーク(Sir Charles Anthony Johnson Brooke、1829/6/3-1917/5/17、サラワク王国の第2代藩王:在位1867-1917)を指名し、2年後に亡くなりました。チャールズの後は、息子のヴァイナー・ブルーク(Charles Vyner Brooke、1874-1963)が第3代藩王(在位1917〜1946)に即位しました。

ジェームズ・ブルークは1868年に亡くなると、イギリス・プリマスのシープスター教会(Sheepstor church near Burrator, Plymouth)に葬られました。

参考:〜
・クチン
 Kuching

クチンはボルネオ島にあるマレーシアのサラワク州の州都でクチン省の省都でもあり、人口:634,717人(2006)のサラワク川の河口にある港街。200年位前までは、サラワクはブルネイのスルタンによって治められており、地元民の抵抗が強かった。1839年にクチンにやって来たイギリス人探検家ジェームズ・ブルークが英国海峡植民地政庁の協力で制圧し、褒賞としてサラワクをもらって、ラジャ(藩王)に
クチン付近の地図
任ぜられ、「白人王」として1841年に彼自身の王国を建国(サラワク王国)。クチンは当時より首都とされ、中心地とされた。その後100年はブルーク家の治世で、イギリスの軍事力・政治力を背景にブルネイの領土を確保し拡大したが、1941/2/24に大日本帝国軍が占領し、第2次世界大戦終戦まで大日本帝国軍の軍政下に置かれた。1945年大日本帝国無条件降伏後、オーストラリアに亡命していた第3代国王ヴァイナー・ブルークが王位を辞退し、サラワクはイギリスの直轄植民地サラワクの中心の町となった。1963年にサラワクはマラヤ連邦に合併し、連邦の中の「マレーシア」へ統合したが、現在でも高度な自治権を持つ地域となっている。1988年には、クチン市として市制施行。クチンはマレー語で猫を意味し、クチン市内や街の中心部のロータリーには猫の彫像があり、猫の博物館も有。

・サラワク王国 (1841〜1946)
 Kingdom of Sarawak

サラワク王国は、ボルネオ島北部(現在のマレーシア・サラワク州とブルネイ)に存在した白人王の国で、ジェームズ・ブルークが建国し、ブルーク王朝3代が統治した。
・初代:ジェームズ・ブルーク(James Brooke、在位1841〜1867)
・2代:チャールズ・ブルーク(Charles Brooke、在位1867〜1917)
・3代:ヴァイナー・ブルーク(Vyner Brooke、在位1917〜1946)
サラワクの地図
1839/8/5、イギリスのジェームス・ブルークがサラワクのクチンに上陸
1840年、ジェームズ・ブルークが反乱の鎮圧に協力
1841年、ジェームズ・ブルークがサラワクの藩王「ラジャ」に任ぜられる
1846年、ブルネイから独立
1868/06/11、 ジェームズ・ブルークが死去
1868/08/03、甥チャールズ・ブルークが王位継承
1888年、イギリスの保護国となる
1917/05/17、チャールズ・ブルークが死去
1917/05/24、ヴァイナー・ブルークが王位を継承
1941/09/24、建国100周年を記念して憲法を公布
1941/12/16、大日本帝国軍がミリを占領
1941/12/24、クチン占領、以後大日本帝国軍の軍政下に置かれる
1945年、大日本帝国が無条件降伏
1946/07/01、ヴァイナー・ブルークが王位を辞退、英国の直轄植民地となる
1957/08/31、マラヤ連邦独立
1963年、マラヤ、サバ、サラワク、シンガポールマレーシア連邦結成、英国から独立

参考HP:〜
 ・インドの地図(1909頃の英領インド)
 ・クチンの場所地図海峡
 ・マレーのイギリス植民地(赤色:1922頃)
 ・サラワク州の場所地図(現マレーシア共和国)
 ・ブルネイの地図

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。      09/12/12
スタンプ・メイツ
Copyright(C):Spice
無断転載禁止