切手で綴る 太平洋戦争 物語
第4部 <帝国の敗戦>
第23章 ソヴィエト軍の侵入
113 <ソ連赤軍、南カラフトへ侵入>
1945/8/9

ソ連赤軍がT型戦車を先頭に
空・海・陸から国境を突破、南樺太へ侵入


マーシャル諸島 発行
マミヤ(タタール)海峡↓

←樺太(サハリン)
←北方4島(千島列島)
←宗谷海峡(ラ・ぺルーズ海峡)
←北海道







小笠原諸島


マリアナ諸島
北朝鮮 2001/10/23 発行

ソ連赤軍、南カラフトへ侵入
  (Evacuation of Sakhalin)、1945/8/11〜8/25
  別名:南樺太(からふと)の戦い
     (Invasion of South Sakhalin)、1945/8/11〜8/25
  場所:ロシアのサハリン州南部(50度線から南)
     (South Sakhalin, Russia)
・樺太の対ソ戦:〜
昭和20年2月28日 樺太混成旅団を基幹として第88師団が新編されました。第25、第125、第306連隊からなり編制定員は20,388人。峯木少将は中将に昇進、そのまま師団長を拝命。師団の作戦構想は、主力を南部、一部を北部に置き、重点を人口5万の中心地・豊原方面におくことを方針としました。また指導要領としては南部・北部ともに海岸付近の主要陣地で敵を撃滅阻止、止むを得ない場合は山地寄りの複郭陣地に拠って持久し、機動集中は行わず、南北両地区ごとに自戦自活し、相互に赴援しないことを本則としました。樺太の終戦時在住人口は季節労務者等を加えて約40万人でした。

昭和20年早春、国境線から遠くないソ連領森林地帯からは数十条の白煙が望見され、トラックの往復も急速に増加。国境正面のソ連軍は増強され進攻準備はほぼ完成したようでした。

欧州戦線からの移送状況も逐次通報され第88師団司令部は、以上の諸状況よりソ連軍の8月攻勢は必至と判断、6月下旬には従来の対米戦から対ソ戦への転換について上申。だが方面軍の回答は「現態勢(対米戦)に変化なし」。札幌の第5方面軍が対ソ戦への作戦方針の転換を正式に確認したのは、ソ連侵攻直前の8月3日でした。

昭和20年8月9日早朝、札幌の第5方面軍から、ソ連軍が満州国内に越境し関東軍が交戦中との通報を受け、師団長峯木中将は直ちに対ソ作戦実施を決意、命令を発令。方面軍は北樺太のソ連軍は陸路進攻するものと判断。帝国軍は国境に既設陣地があり、国境兵力は3個大隊を有していました。

樺太:両軍の兵力装備の比較:〜
区分 帝国軍 ソ連軍
・中隊 10個 37個
・砲 28門 282門
・重機関銃 42丁 180丁
・軽機関銃 94丁 454丁
・戦車 95輌
・飛行機 100機

▽両軍の編成:〜
○帝国軍の編成:〜南樺太
・陸軍
 ・第88師団(峯木十一郎中将)
   ・編制定員20,388人
  ・配属部隊:
   ・特設警備第351・第353大隊
   ・特設警備第301・第306・第308中隊
   ・第301・第303特設警備工兵隊
 ・宗谷要塞重砲兵連隊第2中隊(西能登呂)15cmカノン砲4門
  ・配属部隊:
   ・特設警備第307中隊
 ・豊原地区司令部(柳勇少将)、対ソ開戦後は第88師団指揮下に編入
   ・豊原地区第1・第9特設警備隊〜計3,628人を防衛招集
・海軍
 ・北東航空隊樺太地区隊(久堀通義大尉)
   ・敷香基地・大泊基地、地上要員のみ
 ・大湊防備隊の一部〜主に基地防空部隊
   ・うち敷香に12.7cm連装高角砲3基、20mm連装機銃5基
 ・宗谷防備隊の一部
   ・砕氷艦 大泊(2,330t、13節、78人、砕氷2m、1949解体)
   ・特設砲艦 千歳丸(5,585t、12節、63人、乗客437人、1961解体)
   ・宗谷防備衛所
   ・西能登呂防備衛所
 ・豊原海軍武官府
   ・武官:黒木剛一少将
・樺太庁警察部(国境警察隊)
   ・重機関銃8丁、軽機関銃10丁、小銃141丁
・航空部隊
   ・陸軍第1飛行師団〜在北海道、稼働航空機44機
・民兵・自警組織
   ・国民義勇戦闘隊
    ・樺太鉄道連合義勇戦闘隊ほか
    ・職場や地域ごとに編成。
   ・その他
    ・樺太庁管轄の防空監視隊(20歳前後の女性を主力)
    ・旧制中学校生徒による学徒隊ほか。

○ソ連軍の編成:〜
・第16軍(レオンチー・チェレミソフ少将)
 ・第56狙撃軍団〜北樺太から出撃
  ・第79狙撃師団
   ・第2狙撃旅団
   ・第5狙撃旅団〜オハ方面の守備配置
    ・独立サハリン機関銃連隊
     ・第82独立機関銃狙撃中隊
   ・第214戦車旅団
    ・第178・第678独立戦車大隊
    ・第433砲兵連隊
    ・第487榴弾砲連隊
   ・第113狙撃旅団〜ソヴィエツカヤ・ガヴァニから出撃
・海軍
 ・北太平洋艦隊(ウラジーミル・アンドレエフ中将)
   ・警備艦ザルニーツァ号(Zarnitsa. Uragan-class guard ship, 457t, 90人, 1959退役)
   ・機雷敷設艦オケアン号
   ・潜水艦L-12号
    (水上1,100t、18.0kt(水中1,400t, 10.0kt)深度75m、乗員53人、発射管 艦首6、艦尾2)
   ・潜水艦L-19号
    (水上1,120t, 15.0kt(水中1,425t, 9.0kt), 乗員55人, 発射管 艦首6、艦尾6)
    (1945/8/29樺太最南端西能登呂岬南東沖約15km宗谷海峡二丈岩付近で触雷沈没)
    など〜12隻
   ・掃海艇〜8隻
   ・哨戒艇・魚雷艇〜多数
   ・輸送船〜3隻以上
  ・海軍歩兵
   ・第365独立海兵大隊など〜3個大隊以上
   ・艦隊空挺部隊
 ・航空部隊
  ・第255混成飛行師団〜106機
  ・海軍航空隊〜80機。

昭和20年8月9日、国境線沿いの警備電話は各所で分断。ソ連軍小部隊が既に越境し威力偵察を開始。その07:30武威加の警察官派出所に対する砲撃から対ソ戦闘は開始されました。8月11日ソ連軍は戦車を伴い陣前に進出、延59機のソ連軍機も飛来し総攻撃を開始。半田集落にあった2個小隊と警察隊計100人はソ連軍主力の前進を丸一昼夜にわたって阻止。帝国軍は米軍上陸に対する海岸防御陣地戦を予定しており、日ソ国境付近には主力を配置してはいませんでしたが正面攻撃を断固阻止し、18日に停戦するまで主陣地を確保して善戦、ソ連軍の南下を許しませんでした。一方西海岸北部の塔路には16日にソ連狙撃1個大隊と海兵1個大隊が上陸。これに対しても帝国軍は特設警備隊、国民義勇戦闘隊などが一丸となって善戦、一時はソ連軍を敗走させた後に東方に撤退。西海岸南部のほとんど無防備であった真岡に対しては、20日猛烈なる艦砲射撃の後に第113狙撃旅団と海兵1個大隊が強襲上陸、帝国一般住民を見境なく攻撃して大惨事を巻き起こしましたが、この方面も23日には休戦となりました。樺太の戦闘が全面的に停戦したのは8月25日でした。

参考HP〜
樺太の国境線地図(帝国とソ連の国境線、北緯50度)
樺太の地図
樺太付近の地図








114 <ソ連赤軍、千島列島へ侵入>
1945/8/17

ソ連赤軍の対戦車ライフル銃

マーシャル諸島 1995 発行

ソ連赤軍、千島列島へ侵入
  (Invasion of the Kuril Islands)、1945/8/18〜9/5
  別名:占守島(しゅむしゅとう)の戦い
     (Battle of Shumshu)、1945/8/17〜8/21
     場所:占守島(千島列島の東端)
        (Shumshu Island, Kuril Islands, Russia)
大小30余りからなる千島は、地理的には北千島、中千島、南千島(北方四島)の千島列島からなり、激しい戦闘が行われたのは列島最北端の占守島(シュムシュ島)でした。種子島よりもやや小さく概ね平坦な島であり、カムチャッカ南端とは10kmの占守海峡を挟んで相対していました。住民の大部分は漁業従事者で各集落は散在し、各島間・同島内の交通は海路に依存、陸路の整備は限定されていました。終戦時の在島人口は、歯舞諸島4,455人、色丹島920人、国後島7,370人、択捉島3,760人、計16,505人と推定され、ほかに北千島に若干の定住者がいました。ソ連にとって千島列島の戦略的意義は、南樺太と共に極東ソ連から太平洋の出口を遮断していることでした。このためスターリン首相は早い時期から一貫して千島列島を奪うことを希求していたといわれています。

昭和18年、米軍がアッツ島に上陸した頃(1943/5/12)の北千島守備隊兵力は歩兵4個大隊を基幹として占守島と幌筵島に配備されていました。その後配備兵力は逐次改編され、千島全体の最終的な配備兵力は北千島(占守島と幌筵島)は第91師団、南千島は第89師団の担任となっていました。大本営の本土重視により、北海道本島及び千島からも有力な兵団が抽出され、千島からも有力部隊の転用が続く中、第91師団の任務は「幌筵海峡周辺地区及び占守島の要域確保」とされました。師団兵力は総兵力23,000人、そのうち占守島には8,000人が布陣、重軽火砲約200門、戦車64両(一式中戦車19、九七式中戦車20、九五式軽戦車25輌)を有し装備、弾薬備蓄ともに当時としては比較的優良でした。ソ連軍上陸正面となった北部遊撃隊(独立歩兵第282大隊 村上則重少佐)の戦闘計画概要は「敵の上陸に当たっては極力水際において打撃を与え、敵侵入後は神出鬼没敵を奇襲しその前進を遅滞せしむる」とともに、その後方部隊を攻撃して攪乱しました。

昭和20年8月15日、それまで連日行われていた米軍機の空襲は全方面で中止され、同日夕、濃霧の中を国籍不明機(ソ連軍機)が占守島を爆撃。第91師団長 堤不夾貴中将は「玉音放送」を拝聴、その他の諸情報から終戦は確実と判断、「万一ソ連軍が上陸した場合は戦闘を行わず爾後の命令指示に従い行動せよ」と指示。その後方面軍より正式に戦闘行動停止の命令が届き、兵器処分のための海中投棄やその準備が行われました。終戦確定後にソ連軍が上陸作戦をするとは思わなかったのです。

8月17日01:30突如ソ連軍の上陸援護砲撃が開始され、 02:00頃「海上エンジン音聞こゆ」との至急電が入電、上陸正面の独歩282大隊長 村上少佐は、軍使が夜中に来ることはない、と的確に判断、直ちに「全員配備につけ」を命令。村上少佐がソ連軍上陸正面の竹田浜に配置していたのは、歩兵2個小隊、速射砲3門、大隊砲3門、臼砲4門、野砲2門で、後方の大隊本部には10センチと15センチの加農砲各1門と高射砲2門がありました。

02:10、強襲上陸して来たソ連軍に対し海岸の守備隊は応戦を開始、千島における対ソ戦開始。薄暗く霧は深かったが十分な訓練を積んでいた帝国軍の成果はたちまち現れ、野砲、速射砲ほかは激烈なる砲火を浴びせ、撃沈、擱座させた艦艇は確認しただけでも13隻以上に達し、海中に投げ出されたソ連兵は3,000人以上、戦死者も同数を下らないものと推定。天候不良のためソ連空軍の援護が散漫でした。このため辛うじて上陸した部隊も著しい損害が続出。
02:20、第一線から報告を受けた堤師団長は全兵団に戦闘準備を下令。
02:30、戦車第11連隊に対し、上陸せる敵を撃滅するよう命令。連隊長・池田末男大佐は、「上陸軍を一人残さず海に叩き落すまで奮戦せよ」と訓示、戦車連隊の意気は旺盛でした。濃霧の去来する各所で紛戦が起こり、戦車連隊は2回の攻撃でソ連軍歩兵を蹂躙、高地の麓まで撃退。ソ連軍は火砲はなかったが多数の対戦車ライフル銃を有しており、このため多数の戦車を失い、池田連隊長、指揮班長丹生少佐らが戦死、帝国軍も損害が続出しました。
午後になり海軍北東航空隊派遣隊と陸軍飛行第54戦隊残留隊に出撃命令。九七艦攻4機、一式戦隼4機の陸海混成部隊は上陸地点の艦船やソ連カムチャッカの拠点に反復攻撃。さらに堤師団長は歩73旅団(杉野巌少将)と歩74旅団(佐藤政次少将)を集中させ、両旅団を並列して一挙にソ連軍を壊滅させるという攻勢準備を進めていました。
8月18日午後、第5方面軍から戦闘停止の命令が届き、小戦闘は続きましたが21日には停戦が成立しました。

<両軍の兵力と損害>
千島での対ソ戦における戦果と損害:〜(占守島)
○帝国の兵力
・帝国軍〜8,500人
○ソ連軍の兵力
・ソ連軍〜8,821人
○帝国軍の損害
・戦死〜256人
・負傷〜762人
・他は〜武装解除して捕虜
○ソ連軍の損害
・戦死〜516人
・戦傷行方不明〜1,051人
※数字には諸説有
※直接戦闘に加わった帝国軍は占守島の8,500人のみ、他の兵力は幌筵島に有。

▽両軍の編成:〜
○帝国軍の編成:〜(千島列島)
・第5方面軍〜(札幌)
 ・南千島〜第89師団(北方四島)
 ・北千島〜第91師団(占守島・幌筵島)
<北千島>
・陸軍(約23,000人)〜(占守島と幌筵島)
 ・第91師団:〜
  ・師団司令部(幌筵島:パラムシル島)
   ・師団長:堤不夾貴(つつみふさき)中将
   ・参謀長:柳岡武大佐
   ・参  謀:角張清少佐
   ・高級副官:山口定大佐
   ・ 経理部長:木村重郎主計中佐
  ・歩兵第74旅団 旅団長:佐藤政治少将(26期):幌筵島(5個大隊説有)
   ・独立歩兵第288大隊 大隊長:橋口俊成少佐
   ・独立歩兵第289大隊 大隊長:山田徳蔵少佐(52期)
   ・独立歩兵第290大隊 大隊長:吉野貞吾少佐(45期)
   ・独立歩兵第291大隊 大隊長:林 邦彦大尉(53期)
   ・独立歩兵第292大隊 大隊長:小川与之吉大尉
   ・独立歩兵第293大隊 大隊長:小川伊佐雄大佐(29期)
   ・歩兵第74旅団通信隊 隊長:桃井亀蔵大尉
   ・師団速射砲隊 隊長:田口英男少佐(44期)
   ・第1砲兵隊 隊長:加瀬谷陸男中佐(34期)
   ・第2砲兵隊 隊長:坂口元男中佐(35期)
   ・師団工兵隊 隊長:小針通少佐(48期)
   ・師団輜重隊 隊長:木村森茂大尉(54期)
   ・師団通信隊 隊長:薄井善春少佐
   ・師団兵器勤務隊 隊長:家永大次少佐
   ・師団防空隊 隊長:鈴木村治中佐(26期)
   ・千島第1陸軍病院 隊長:朝枝淳一軍医中佐

  ・歩兵第73旅団 旅団長:杉野巌少将(25期):千歳台(占守島)(5個大隊説有)
   ・独立歩兵第282大隊 大隊長:桜井平次郎少佐:四嶺山(村上則重少佐説有)
   ・独立歩兵第283大隊 大隊長:竹下三代二少佐:千歳台
   ・独立歩兵第284大隊 大隊長:野口谷五郎少佐
   ・独立歩兵第285大隊 大隊長:広江重郎大佐(27期)
   ・独立歩兵第286大隊 大隊長:桜井王皆介中佐(30期)
   ・独立歩兵第287大隊 大隊長: 得平操中佐(36期)
   ・歩兵第73旅団通信隊
  ・戦車第11連隊 連隊長:池田末男大佐(占守島)
    ・九七式中戦車
     ・新砲塔チハ、20両
     ・旧砲塔チハ、19両〜計39両
  ・独立戦車第2中隊 中隊長:伊藤力雄大尉(55期)
    ・九五式軽戦車〜計25両
   ・師団編合部隊:占守島千歳台
     ・第1中隊:山田野
     ・第2中隊:田沢台
     ・第3中隊:天神山
     ・第4中隊:大和橋
     ・第5中隊:緑ヶ岡
     ・第6中隊:基谷
     ・第11対空無線隊
 ・船舶工兵第57連隊残留隊〜特大発動艇20隻

・海軍(伊藤春樹中佐、約1,500人)
 ・占守通信隊(司令 伊藤春樹中佐)
 ・第51警備隊、占守島
 ・第52警備隊、幌筵島
・航空部隊 陸軍飛行第54戦隊残留隊
   ・一式戦闘機4機
・海軍北東航空隊北千島派遣隊
   ・九七式艦上攻撃機4機。

○ソ連軍の編成:〜
1945/8/15、極東ソビエト軍総司令官アレクサンドル・ヴァシレフスキー元帥が第二極東方面軍司令部(司令官:マクシム・プルカエフ上級大将)と太平洋艦隊司令部(司令官:イワン・ユマシェフ大将)に対し、千島列島北部の占領に関する作戦の準備及び実施を命令。
・陸軍(8,821人)
   ・カムチャツカ防衛区(司令官 アレクセイ・グネチコ少将)
   ・第101狙撃師団(師団長 ポルフィリー・ヂヤコフ少将)
   ・第198狙撃連隊
   ・第5独立狙撃大隊
   ・第7独立狙撃大隊ほか
・海軍
 ・ペトロパブロフスク海軍基地(司令官 ドミトリー・ポノマリョフ海軍大佐)
   ・警備艦〜2隻
   ・機雷敷設艦〜1隻
   ・掃海艇〜4隻
   ・輸送艦〜14隻
   ・上陸用舟艇〜16隻
   ・など計54隻
   ・海軍歩兵1個大隊
・航空部隊(計78機)
   ・陸軍第128混成飛行師団
   ・海軍飛行連隊1個隊。

本格的な戦闘は占守島で行われ、守備隊はソ連軍に対して優勢なるも、第5方面軍の命令で、21日に現地での停戦が最終的に成立。23日に武装解除。その他の島ではソ連軍の占領に当たって停戦して各守備隊は武装解除されました。

残留していた一般島民は、島の産業維持のためソ連軍に引き止められていましたが、昭和21年から段階的に日本へ送還され、また千島全部で約5万の帝国軍捕虜の多くが樺太経由でシベリアに移送、強制労働に従事させられました。その後ソ連軍は9月5日までに歯舞諸島に至る全千島を占領、ソ連による実効支配占拠は今日に至っています。

ソ連は終戦翌日の8月16日、捕虜のソ連領移送は行わないと指示しておきながら、8月23日 帝国軍捕虜60万人のシベリア移送計画の極秘指令を発し、最長11年余にもわたる長期間、劣悪な環境下に抑留、労役させ、約6万人の死者を出しました。この不当なる長期抑留は、ソ連の北海道占領断念の代償である可能性が高いと言う説も有ります。すなわち、ポツダム会談での米ソ軍事境界線は千島方面が明確でなかった為、既成事実を先に作りたかったスターリン首相は、樺太占領の後に北海道北部占領作戦を計画していましたが、北海道侵攻作戦を中止した大きな理由は米トルーマン大統領の拒絶にあったと言われています。このようにソ連は和平仲介を依頼しつつあった日本との「日ソ中立条約」を破棄して攻撃を加え、南樺太・北千島のみならず歴史的にみても日本固有の領土である千島列島、歯舞諸島までも占領し、多数の帝国軍将兵を長期抑留させ、さらに略奪暴行によって多くの在留邦人が犠牲となり、その災禍は満州の多くの都市、樺太の真岡、北海道への引き揚げ船撃沈など枚挙にいとまがありません。ソ連は極めて短期間の軍事作戦によって極東における巨大な利益を得ることができました。

参考HP〜
占守島の地図(日本語)
占守島の戦い地図(日本語)
千島列島の地図

参考:〜
・ソ連赤軍の主力戦車 T-34 の装備:〜試作車:1940年1月
  (Soviet medium tank、ソビエト連邦陸軍の中戦車)、運用開始:1941年夏
略 称 T-34 ソ連の主力戦車 T-34

セントヴィンセントグレナディーン 1995 発行
全 長 8.15m(車体長6.10m)
全 幅 3.00m
全 高 2.72m
重 量 32t
速 度 55km/h(整地)、30km/h(不整地)
行動距離 360km
乗員数 5人
生産数 5万7,000輌以上
エンジン 4ストロークV型12気筒、水冷ディーゼル、500馬力
装 甲 砲塔前面90mm(曲面)側面75mm傾斜20°後面52mm傾斜10°
車体前面45mm傾斜60°側面45mm傾斜50°後面45mm傾斜47上面20mm
武 装 主砲 51.6口径85mm戦車砲D-5T54.6口径85mm戦車砲S-53
又はZiS-S-53(56発)、副武装7.62mmDT機銃×2丁(1,890発)
※T-34の生産台数、1940-1944年(3万4,780輌)
※T-34の生産台数、1944-1945末(2万2,559輌)T-34(85)

こちらで
太平洋戦争の年表
日ソ不可侵条約の締結
帝国の無条件降伏
・日本固有の領土の北方四島
をお楽しみください。

・上記は こちら の文献などを参照させてもらいました。    2016/6/16

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