Japan

国連 1982 発行
切手で綴る大昔の大航海シリーズ (
神功皇后
朝鮮半島へ大航海
200年頃(神話時代)、新羅を救援

大航海物語
  日本編

便郵本日
イタリア人キオッソーネ画の神功皇后
大正毛紙5YEN切手
明治31年 1899-1908 発行
大正毛紙10YEN切手
大正3年 1914-1925 発行

日本郵便 NIPPON
神話時代(はにわ)の兵士と馬
便郵国帝本日大
朝鮮半島と日本の地図
埴輪の兵士

日本 1974/11/11 発行
埴輪の兵馬

日本 1967/7/30 発行

昭和5年 1930/9/25 発行

日本郵便 NIPPON
遣唐使船

”第一次船シリーズ”
昭和50年 1975/8/30  発行
日本郵便
日本の古地図

昭和65年 1985/4/5  発行

神功皇后は架空の人物だとする説が有力ですが、日本の神話時代のロマンとして考えてゆけばよいのではないでしょうか。当時の”平底で筵(ムシロ)帆”の船では、一たび大風が吹けば「木の葉」の如く海上の波間を流されて、しかも未だ季節風の知識が無い時代に朝鮮半島へ渡航することは、大変な難渋があったことでしょう。ですから、成功して帰ってきた人物は英雄そのもので、神格化されても不思議ではありませんですよね。そんな視点から、神功皇后を「大航海者」として取り上げてみました。
神功皇后 (じんぐう こうごう)
 (成務40年〜神功69/4/17、 170〜269)

神功皇后の話は「白村江の戦いから、持統天皇による文武天皇擁立までの経緯をもとに神話として古事記や日本書紀に挿入された物である」とする説が史実とされている「架空説」もありますが、「古事記」や「日本書紀」では、誕生の地ははっきりせず、
「古事記」では息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)
「日本書紀」では気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)となっており、
彦坐王(ひこいますのみこ、生年没年不詳、美濃を領地としていた)の4世孫で、
応神天皇(おうじんてんのう、仲哀9/12/14〜応神41/2/15(201/1/5〜310/3/31)第15代の天皇(在位:応神元年(270年)1/1〜同41年(310年)2/15)の母で、
父は開化天皇玄孫の息長宿禰王(おきながのすくねのみこ)で、母は渡来人の
天日矛裔(あまのひぼこえい)の葛城高ぬか媛(かずらきのたかぬかひめ)、とされています。
また、第14代仲哀天皇(ちゅうあいてんのう、父は日本武尊(やまとたけるのみこと)、生年不詳〜仲哀天皇9/2/6(200/3/8)、在位:仲哀天皇元年/1/11〜9/2/6、192〜200)の皇后とされています。

神功皇后は日本書紀などによれば、201年から260年まで政務を執りおこない、夫の仲哀天皇の急死(200年)後、住吉大神の神託により、お腹に子供(のちの応神天皇)を妊娠したまま海を渡って朝鮮半島に出兵して新羅の国を攻め、新羅は戦わずして降服して朝貢を誓い、高句麗・百済も朝貢を約したとされています(三韓征伐)が、

・これに対して新説を唱えますと=
「日本に亡命してきた渡来人「新羅の王子」天日槍(あまのひぼこ)の子孫が但馬国方面に定住していて、滋賀県米原地方で勢力を持っていた豪族の息長宿禰王と結婚して、気長足姫尊が生まれました。そして渡来人の子孫が角鹿福井県(敦賀)に居を構え北陸地方に勢力を延ばしていて、一説では誉田別神(ほむたわけのかみ)、その夫人が「気長足姫尊(神功皇后)だった」とする説です。日本の大王だった仲哀天皇が誉田別神に会見した時に、新羅救援のために絶世の美人だった気長足姫尊が差し出されて仲哀天皇と結婚し、既に懐妊していた気長足姫尊がそれを隠して神功皇后と成り、新羅に救援に出帆する前に、その軍勢が仲哀天皇軍と共に熊襲(くまそ)討伐のため筑紫の国(香椎)に行き、熊襲討伐が成就しました。その後に、仲哀天皇が約束に反して新羅救援に反対したので、仲哀天皇は渡来人らに暗殺され(急死)、神功皇后が「摂政」となって新羅救援に大船団で出帆しました。そして新羅、高麗、百済(の三韓)と共に連合軍で、高句麗と唐の連合軍の侵攻を防衛したので、新羅、高麗、百済の三国は日本と友好国として国交(朝貢)を結んだとする説です。気長足姫尊(神功皇后)は仲哀天皇と結婚した時には、既に身籠っていたので、渡海の際は、お腹に月延石や鎮懐石と呼ばれる石をあててさらしを巻き、冷やすことによって出産を遅らせ、その帰路に筑紫の宇美で15ヵ月(妊娠から出産まで15カ月もかかっている)後に応神天皇を出産し、応神天皇は仲哀天皇の子だとされ、後に天皇に即位しました。
とするのが新設とするものですが、皆さんはどう思われますか?

・参考〜(1)
神功皇后新羅救援(侵攻)の物語〜新羅出帆の伝承を残す場所。
博多湾には、福岡市西区小戸大神宮の他、志賀島、住吉神宮、能古島、生の松原など
博多湾に集結した船団は、佐賀県浜玉町、玉島川の河口にいたりました。

新羅救援遠征船団の航路:〜神功皇后の大航海
往路=宮地獄神社〜沖ノ島〜朝鮮・大鐘川〜甘浦〜慶州・金城
復路=朝鮮・大鐘川〜対馬・鯨浦・本宮神社〜海神神社〜厳原・八幡神社〜壱岐・勝本浦聖母宮〜筒城浜・錦浜〜松浦半島先端・七ツ釜・土器崎神社〜鏡神社〜玉島神社〜戸大神宮〜香椎・橿日宮
・玉島神社は記紀や肥前国風土記も伝える、神功皇后鮎釣りのエピソードの地。
 その時期を四月の初めとする。この伝承が事実なら、新羅侵攻は四月の事となります。
・唐津市鏡山で、石に鏡を懸け戦勝を祈願。
・松浦半島の先端・七ツ釜の土器崎神社〜帰還時、酒を入れた土器を海に投げたとされる所。
・壱岐、対馬には数多くの伝承があります。
石田町の筒城浜は大風に遭い舟を着け、近くの錦浜で濡れた衣を干したとされています。
壱岐の北端、勝本浦では、風待ちのため長期日滞留。
対馬西海岸の峰町の海神神社は帰還のときに、この場所が重要な場所であるとして神社を安置し、対馬の鎮めとしました。
対馬北端の鰐浦は「日本書紀』が伝える和珥津で、ここに集結し大陸に出港し、戦の後この港に帰還し、戦勝の祝宴を催し、また捕虜を開放した」とする場所です。
日本書紀によると舟は追い風を受け一気に新羅に至り、潮浪が国の中までおよびましたと有り、川を遡上して内陸部へ進入したようです。日本側の伝承はここまでで、川を遡上したとすれば、甘浦(かんぽ)にそそぐ大鐘川と考えられています。

朝鮮史書「三国遺事」によると、文武王(661〜681)は大鐘川の河口に、倭兵を鎮(しずめ)るため、感恩寺を創建しました。倭はしばしばこの川を伝って侵攻した事がうかがわれます。舟で内陸部に至り、舟を降り甘浦街道を伝って、慶州を目指しました。
朝鮮史書『三国史記』新羅本紀は、次のような記述があります。
奈勿尼師今(なふつにしきん)九年四月(王暦年次によると奈勿尼師今九年四月は西暦364年の4)に、慶州東南郊外、吐含山の山麓あたりに、草の人形を立て、倭軍を欺き、防戦したとする記述もあります。この二つの史書が述べる、倭と新羅の戦いは同一の戦役の記述と考えられています。

・第2の船団:〜:
この博多湾あたりを出発した軍団とは別に、もうひとつ福岡県宗像郡津屋崎の港から、沖ノ島経由で対馬に渡った軍団がありました。津屋崎町の宮地嶽神社は、新羅侵攻にあたって、この神社の裏山で戦勝を祈願し、帰還の後この地に神社を安置したとする伝承があります。また新羅侵攻には、「松浦の君」と「胸肩の君」が軍団の長となったとあり、唐津から壱岐を経由して対馬に至った軍団の他に、津屋崎から沖ノ島を経由して対馬に至った軍団もありました。いわゆる後の世に「海北道」(うみのきたみち)と呼ばれる大陸への渡海ルートです。これを裏づけるのが、沖ノ島の祭祀遺跡です。

外洋船団図:〜:袴狭(はかざ)遺跡出土の外洋船団図
北部九州に残る神功皇后新羅侵攻の伝承から、渡航の経路を考えるとしても、はたして四世紀代に朝鮮半島で軍事行動を起こせるような兵力を渡海させる能力があったかどうかは疑問がありますよね。これに関し興味深い出土品が兵庫県出石町の遺跡から出土しています。出石町の「袴狭遺跡(はかざ)遺跡」から出土した板に、4世紀代のものと思われる船団が線刻されていました。巨大船を中心として、十五隻の船が、線刻画でリアルに描かれ、舟はいずれも、舳(とも)先が高くせり上がった外洋船でした。船団を組んで航行する様子を描いたと思われています。

伝説がある所:〜月延石は三つあったとされ、それぞれ長崎県壱岐市及び京都市の月読神社と福岡県二丈町の鎮懐石八幡宮に奉納されたと言われています。その帰路、筑紫の宇美で応神天皇を出産し、志免でお紙目を代えたと伝えられています。他にも壱岐市の湯ノ本温泉で産湯をつかわせたなど、九州北部に数々の伝承が残っており、九州北部に縁の深い人物であったと推測されます。神功皇后が三韓救援の後、畿内に帰るとき、自分の皇子(応神天皇)には異母兄にあたる香坂皇子、忍熊皇子が畿内にて反乱を起こして戦いを挑んだが、神功皇后軍は武内宿禰や武振熊命の働きによりこれを平定したとされています。

・仲哀天皇の皇居、
穴門豊浦宮〜あなとのとゆらのみや、山口県下関市長府宮の内町の忌宮神社が伝承地、
筑紫橿日宮 〜つくしのかしいのみや、福岡県福岡市東区香椎の香椎宮が伝承地。
「大王は、お隠れなさいました」 仲哀九年(200)二月のことだという。享年五十二歳。

・「白村江の戦い」=663年(天智2)8月に朝鮮半島の白村江(現在の東津江下流と推測される)で行われた倭国(日本)と百済の遺民の連合軍と唐・新羅連合軍との戦い。
唐・新羅連合軍の勝利となり、倭国・百済連合軍が敗戦しました。
倭国は百済滅亡で多くの百済難民を受け入れるとともに、唐・新羅との対立を深めました。その影響で急速に国家体制が整備され、天智天皇のときには近江令と呼ばれる法令群が策定され、天武天皇のときは最初の律令法とされる飛鳥浄御原令の制定が命じられるなど、律令国家の建設が急ピッチで進んだとされています。そして、701年の大宝律令制定により「倭国」から「日本」へと国号を変え、新国家の建設はひとまず完成しました。以上のように、白村江の敗戦は、倭国内部の危機感を醸成し、日本という新しい国家の建設を結果としてもたらしたと考えられています。 なお、百済王の一族、豊璋の弟・善光(または禅広)は朝廷から百済王(くだらのこにきし)という姓氏が与えられ、朝廷に仕えることとなりました。その後、陸奥において金鉱を発見し、奈良大仏の建立に貢献した功により、百済王敬福が従三位を授けられました。

神功皇后を卑弥呼と同じような巫女王とする見方もあります〜
 (鮎(あゆ)という漢字の紀元
神功皇后は肥前松浦(まつら 長崎県松浦市)にて
最後の占いを行いました。
釣り占いです。
「新羅救援が成功するのであれば、魚よ、これに食いつけ!」
そう叫んで、飯粒のついた釣り針を川に投げ入れたところ、
アユ()が釣れたので、神功皇后は確信しました。
「神々は我々に味方した!
 必ずや、新羅救援は成功するであろう!」とね。
鮎(あゆ)

日本 1966 発行

神功皇后は長寿でした。
成務天皇四十年(170)年に生誕し、神功皇后六十九年(269)に没したので、
計ったようにジャスト百才(数え年)でした。
住吉三神とともに住吉大神の1柱として、
また応神天皇とともに八幡三神の1柱として信仰されるようになり、
大分県の宇佐神宮、大阪府大阪市の住吉大社をはじめ、
福岡県福津市の宮地嶽神社、福岡県大川市の風浪宮など、いくつかの神社の祭神となっています。
所縁ある福岡市の香椎宮や筥崎宮、
福岡県宇美町の宇美八幡宮、
壱岐市の聖母宮でも祀られ
宮内庁では、奈良市にある五社神古墳を神功皇后陵(狭城楯列池上陵)としています。

参考〜(2)
・古事記(こじき、ふることふみ)は和銅5年(712年)太朝臣安萬侶(おほのあそみやすまろ、太安万侶:おおのやすまろ)によって献上された日本最古の歴史書。上・中・下の全3巻に分かれる。天皇系譜が『帝紀』的部分の中心をなし、初代天皇から第33代天皇までの名、天皇の后妃・皇子・皇女の名、およびその子孫の氏族など、このほか皇居の名・治世年数・崩年干支・寿命・陵墓所在地、およびその治世の大事な出来事などについて記されています。中巻(なかつまき)初代神武天皇から15代応神天皇までが記されています。

・日本書紀は舎人(とねり)親王らの撰で、720年(養老4年)に完成した。神代から持統(じとう)天皇の時代までを扱う。漢文・編年体で、全30巻、系図1巻(現存しない)。日本書紀の卷第九に、気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)として神功皇后のことが書かれていて、日本書紀において 巻九に神功皇后摂政「66年(266)、是年 晋武帝泰初二年晉起居注云 武帝泰初(泰始)二年十月 倭女王遣重貢獻」と中国と倭の女王の記述が引用されており、収録するにあたってヤマト王権と「卑彌呼」を関連づけさせる為に伝承が作り上げられたという説があります。
卷第十には誉田天皇(ほむだのすめらみこと)として応神天皇のことが書かれています。

今日では本来の聖母神としての信仰が厚い神功皇后ですが、戦前には伝説に語られる武力的なパワーが朝鮮侵略、占領という軍国主義政策を支える役割を果たしたという、神功皇后にまつわる歴史的な事実があります。

別称:息長足姫命(オキナガタラシヒメノミコト)、息長帯比売命
神格:聖母神、武芸の神
神社:香椎宮、住吉大社、城南宮、宇佐神宮、鶴岡八幡宮、石清水八幡宮、気比神宮、忌宮神社、鹿児島神宮、その他各地八幡社内
 第十四代仲哀天皇の后、誉田別命(応神天皇)の母
 第14代仲哀天皇妃 神功皇后(じんぐうこうごう)
神功皇后陵(五社神古墳)=奈良市山陵町

神功皇后(170〜269/4/17)、神功皇后の略年表、
・古事記  :息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)
・日本書紀:気長足姫尊  (おきながたらしひめのみこと)
神功皇后・略年表 記  事
皇紀年
170 成務40 00 ーーーーで誕生、幼児から聡明で、極めて美人で、釣りの名人だった
父は開化天皇玄孫・息長宿禰王(おきながのすくねのみこ)
母は天日矛裔・葛城高?媛(かずらきのたかぬかひめ)で、
新羅の王子・天日槍(天日矛。あまのひぼこ)の子孫。
192 仲哀1 22 仲哀天皇が第14代天皇に即位、父は日本武尊(やまとたけるのみこと)
穴門豊浦宮=山口県下関市長府宮の内町の忌宮神社が伝承地、
193 仲哀2 23 1月、仲哀天皇と結婚、数え年24才
2月、角鹿(つるが、敦賀、福井県)へ行く
3月、熊襲討伐を決定
199 仲哀8 29 1月、熊襲討伐のため仲哀天皇とともに筑紫に赴いた
橿日宮(かしいのみや。香椎宮。福岡市東区)に居した
住吉大神のお告げ〜西海の宝の国(新羅のこと)を授けるという神託〜新羅の救援
200 仲哀9 30 2月、仲哀天皇、52才、急死
神功1
元年?
仲哀天皇の死は極秘とされた(?)。
神功皇后が摂政に就任し、武内宿祢らが補佐。
住吉大神のお告げ〜神功皇后の胎内の子(後の応神天皇)に、
西海の宝の国(新羅のこと)を授けるという神託〜新羅の救援
肥前松浦(まつら、長崎県松浦市)で最後の占いを行う、釣り占い、
〜鮎(あゆ)という漢字の紀元
4月、皇后は神託に従い、身重のまま新羅を攻めた(三韓征伐)
新羅王は戦わずして降服、朝貢を誓い、高麗・百済も朝貢を約した
201 神功1 31 1月、応神天皇を出産:帰国後、神功皇后は筑紫の宇美(うみ。福岡県宇美町)で皇子を出産した。誉田別尊(ほんたわけのみこと・ほむたわけのみこと)、つまり、十五代・応神天皇(おうじんてんのう)
269 神功69 99 数え年百才で崩御
270 応神1 (69) 第15代天皇に応神天皇が即位

参考(3):〜:兵庫県神戸市長田区にある高取山(たかとりさん)頂上の神社の由来には:〜
神功皇后が朝鮮遠征大航海からの帰りに、長田区にある駒ヶ林海岸で休息を取っていた時に、座っていた横の石を「ナデナデ」した(摩った)ところ、その石が「ムクムク」と大きくなって、このお山「高取山」(標高:328m)が出来たと書いてありました。古くは「神撫山」(かんなでやま)と呼ばれていたそうで、また神戸市には須磨区に「神撫町」という町名が1丁目から5丁目まであります。

参考HP〜
・公式HP:〜:香椎宮
・公式HP:〜:袴狭(はかざ)遺跡出土の外洋船団図
・ジェノヴァ公式HP:〜:キオッソーネ東洋美術館

こちらで
古墳時代人の大航海 (日本)
仁徳天皇陵 (日本)
をお楽しみください。

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。   08/6/15、令和 R.2:2020/8/10
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