オランダ Netherland

国連 1989 発行
切手で綴る オランダの大航海(Adventure Voyage)
ウィリアム・アダムス航海長
1600年  リーフデ号事件
三浦按針: 徳川家康の顧問となる

Japan

国連 1982 発行




大航海物語

日本郵便 NIPPON
リーフデ号出島、阿蘭陀カピタン

日本・オランダ交流400年記念
日本 2004/4/19 発行

日本郵便 NIPPON
地図を徳川家康に献上

名古屋輸入博記念
日本 昭和65年 1985/4/5  発行
Nederland
オランダの地図

オランダ州会議450年記念
オランダ 1981/10/1 発行

LESOTOH
徳川家康

レソト 2001 発行
日本郵便 NIPPON
世界地図

61回列国議会同盟記念
日本昭和49年1974/1/1発行
CORREOS DE CHILE



マゼラン海峡

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ルマール海峡
ホーン岬
ドレーク海峡
マゼラン海峡占領100年記念
チリ 昭和19年 1944/3/2 発行

REPUBLIK INDONESIA
オランダから香料諸島(O)への地図

インドネシア 1980 発行

イギリス人のウィリアム・アダムスはオランダでアジアの極東へ探検船隊が派遣されると聞いて、ロッテルダムに渡り、同方面の海域に詳しいとて航海長として探検に参加できました。マゼラン海峡で悪天候のため船隊はバラバラとなり、乗船のリーフデ号と旗艦のホープ号とで極東を目指しましたが、ホープ号は途中で遭難、リーフデ号のみ日本近海に達しました。豊後水道付近で嵐に遭遇して、臼杵海岸近くに漂着し、豊後臼杵の小船に助けられて、日本に上陸し、その後、三浦按針となって徳川家康の顧問となり、日本で亡くなりました。
ウィリアム・アダムス
 William Adams、三浦按針、みうら あんじん
 (1564/9/24〜1620/6/16)。

ウィリアム・アダムスはイングランド南東部のケント州ジリンガム(Gillingham, Kent, England)で生まれました。船員だった父親を亡くして故郷を後にし、12才でロンドンのテムズ川北岸にあるライムハウスに移り、船大工の棟梁ニコラス・ディギンズ(Nicholas Diggins、Limehouse)に弟子入りし、12年間にわたって造船と天文学を学びました。アダムスは造船術よりも航海技術に興味を持って、1588年に年期奉公を終えると同時に英国海軍の元私掠船隊で、フランシス・ドレーク指揮下にあった貨物補給船リチャード・ダフィールド号(Richarde Dyffylde)の船長としてアルマダの海戦に従軍しました。翌1589年にはメアリー・ハイン(Mary Hein)と結婚し、息子ジョン(John)と娘デリヴァレンス(Derivarensu)を設けるも、軍を離れてバーバリー商会ロンドン会社(Barbary Company)の航海士・船長としてアフリカへの航海や、北方航路(Northeast Passage)探検でシベリアへ行ったり、2年間を過ごしました。多忙だったアダムスは、ほとんど家に居つかなかったと伝えられています。そして、航海で共に仕事をする中でオランダ人船員たちと交流を深めたアダムズは、オランダのI南ホラント州ロッテルダムからアジアの極東を目指す航海のためにベテランの航海士を探しているという噂を聞きつけ、弟のトマス(Thomas Adams)らと共にロッテルダムに渡り志願しました。航海はオランダ東インド会社の帆船5隻からなる船団で行われることになっていて、司令官のヤックス・マフ(Jacob (Jacques) Mahu, 1564-1598)がアダムスをホープ号の航海士として採用し、トマスはトラウ号の乗組みになりました。

1598/6/24に船団はロッテルダム北のG北ホラント州テクセル(isle of Texel)を出帆しましたが、ウィリアムとトマスの兄弟はリーフデ号に配置転換され、その後にマゼラン海峡を抜けました。新大陸アメリカで積荷を銀に換えようとするも失敗し、マゼラン海峡を越えて日本を目指し、日本で積荷を銀に換えて、モルッカへ行ってスパイスを買う予定でしたが、マゼラン海峡を通過するとき嵐に遭遇して、船隊はバラバラになりました。トラウ号は東インド諸島でポルトガルに拿捕され、フライデ・ボートスハップ号はスペインに拿捕され、1隻はぐれたヘローフ号は続行を断念してロッテルダムに引き返しました。残った2隻で太平洋を横断する途中、ホープ号も遭難、沈没してしまい、極東に到達するという目的を果たしたのはリーフデ号ただ1隻となりました。その上、食糧補給のために寄港した先々で赤痢や壊血病の蔓延、インディオの襲撃に晒されたために次々と乗組員を失っていき、トマスもインディオに殺害されてしまいました。こうして出航時に110人だった船の乗組員は、僅かに24人にまで減っていました。そしてリーフデ号は関ヶ原の戦いの約半年前の1600/4/29に豊後(大分県)臼杵の黒島に漂着しました。

<アダムスが長崎平戸からロンドンのイギリス東インド会社本社へ宛てた手紙の一部>:〜
「1600/4/19(慶長5年3月7日)、リーフデ号は豊後の臼杵に漂着。自力では上陸できなかった乗組員は臼杵城主太田一吉(?-1617)の出した小舟でようやく日本の土を踏んだ。太田は長崎奉行の寺沢広高(1563-1633)に通報。寺沢はアダムスらを拘束し、船内に積まれていた大砲や火縄銃、弾薬といった武器を没収したのち、大坂城の豊臣秀頼(豊臣秀吉の子息)に指示を仰いだ。この間にポルトガル・イエズス会の宣教師達が訪れ、オランダ人やイギリス人を即刻処刑するように要求。結局、五大老首座の徳川家康が指示し、重体で身動きの取れない船長ヤコブ・クワッケルナックに代わり、アダムスとヤン・ヨーステン、メルキオール・ファン・サントフォールト(Melchior van Santvoort、1570頃-1641)らを大坂に護送させ、併せて船も回航させた。5月12日(慶長5年3月30日)、家康は初めて彼らを引見した。イエズス会士の注進でリーフデ号を海賊船だと思い込んでいた家康は、路程や航海の目的、オランダやイギリスなど新教国とポルトガル・スペインら旧教国との紛争を臆せず説明するアダムスとヤン・ヨーステンを気に入って誤解を解いた。しばらく乗組員達を投獄したものの、執拗に処刑を要求する宣教師らを黙殺した家康は、幾度かにわたって引見を繰り返した後に釈放し、領地である江戸に招いた」

江戸でのアダムスは:〜
帰国を願い出ましたが、かないませんでした。代わりに家康は米や俸給を与えて慰留し、外国使節との対面や外交交渉に際して通訳をまかせたり、助言を求めることが多かったと伝えられています。また、この時期に、幾何学や数学、航海術などの知識を家康以下の幕閣に授けたとも言われています。帰国を諦めつつあった彼は、1602年頃日本橋大伝馬町の名主で、家康の御用商人でもあった馬込勘解由の娘、お雪(マリア)と結婚しました。彼女との間には、息子のジョゼフ(Joseph)と娘のスザンナ(Suzanna)が生まれました。やがて江戸湾に係留されていたリーフデ号が沈没すると、船大工としての経験をかわれて、西洋式の帆船を建造することを要請されました。永らく造船の現場を遠ざかっていたアダムスは、当初は固辞したものの受け入れざるを得なくなり、静岡県伊豆半島東岸の伊東に日本で初めての造船ドックを設けて80屯の帆船を建造しました。これが1604年(慶長9年)に完成すると、これに気をよくした家康は大型船の建造を指示、1607年には120屯の船舶を完成させました。この船は1610年になって、房総の御宿海岸で遭難し地元民に救助された前フィリピン総督ロドリゴ・デ・ビベロ(Rodrigo de Vivero y Aberruza、1564-1636年)に家康から貸し出され、サン・ブエナ・ベントゥーラ号と名付けられました。この功績を賞した家康は、更なる慰留の意味もあってアダムスを250石取りの旗本に取り立て、帯刀を許したのみならず相模国逸見(へみ)に采地も与えました。また、三浦按針の名乗りを与えられました。"按針"の名は彼の職業である水先案内人の意味で、姓の"三浦"は領地のある三浦半島にちなみます。異国人でありながら日本の武士として生きるという数奇な境遇を得て、長崎県の平戸で亡くなりました。

オランダ船リーフデ号漂着の成果は幕府がオランダに発行した朱印状、つまり通商許可証でした。1609年にオランダ船が平戸に入港し、それ以降、日蘭貿易が本格的に始まりました。

なお、按針の墓は長崎県平戸市の崎方公園にあり、毎年5月下旬には墓前で「按針忌」が催されます。また神奈川県横須賀市西逸見町の「塚山公園」には按針夫妻の慰霊碑があり、1923/3/7に国の史跡に指定されました。そして東京都千代田区日本橋室町 1-10-8に「三浦按針屋敷跡の碑」が有ります。

・5隻のオランダ極東探検船隊:〜:構成はこちら
 マゼラン海峡を通過するとき嵐に遭遇して、
 船隊はバラバラになり、以降の経過は次のようになりました。
 ・旗艦ホープ号(Hoope、希望)
   司令官ヤックス・マフ、(1600/2月下旬の台風で太平洋上にて沈没)
 ・リーフデ号(Liefde、愛)
   船長ヤコブ・マッケルナーク(?-1606没)
   日本に到達(豊後臼杵の黒島に漂着)
   積荷は毛織物、ガラス・ビーズ、鏡、爪切、眼鏡、金槌、銅製の大砲12門、砲弾5千発、
   マスケット銃500丁、鎖付砲弾300発、鎖襦袢など
 ・ヘローフ号(Geloof、信仰)
   船長シーボルト・デ・ウィート(Sebalt de Weert, 1567-1603)
   はぐれて続行を断念、ロッテルダムに引き返す。帰還した唯一の船
 ・トラウ号(Trouw、忠誠)
   船長バルタザール・デ・コーデス(Baltazar de Cordes, 生年没年不詳)
   東インド諸島でポルトガルに拿捕される
 ・フライデ・ボートスハップ号(Blijde Boodschap 、良い予兆 or 陽気な使者)
   船長ディレック・ヘリッツス・ポンプ船長(Dirck Gerritszoon Pomp, 1544-1608)
   東インド諸島でスペインに拿捕される。

リーフデ号(蘭:Liefde=愛)〜大百科事典より〜
1600年(慶長5年)3月16日に、豊後国(現大分県)に漂着したオランダの商船。
300トン、3本マストの帆船。船長クワッケルナック、航海長ウィリアム・アダムス。
漂着地は臼杵湾の黒島ともされるが、豊後国のどの地点かは不明。 2年前に本国オランダのロッテルダムを出航。はじめは5隻の船団であったが、マゼラン海峡通過後の太平洋で、悪天候などにより離散した。乗組員は110人ほどいたが、生存者は僅かに24人。生存者の中にも重傷者が多く、翌日に3人が死亡。生存者の中には徳川幕府の外交顧問になったヤン・ヨーステンやウィリアム・アダムズ(三浦按針)も含まれていた。日本に到着した初めてのオランダ船。また、アダムズは、日本に初めて来たイギリス人であった。 漂着後、大坂に回航され、後に浦賀に回航された(回航時に暴風雨に遭って沈没したとも言われる)。宣教師やスペイン人の記録によると徳川家康は関ヶ原の戦い時、リーフデ号の備砲や砲員を活用したという。この漂着事件のことをリーフデ号事件ともいう。 なお、リーフデ号そのものは現存しないが、リーフデ号の船尾に飾られていたという木像が現存している。この像はルネサンス期の人文主義者として知られるエラスムス(Desiderius Erasmus Roterodamus, 1466-1536)の木像で、家康の旗本の牧野成里(1556-1614)の領地である栃木県佐野市上羽田の龍江院の所蔵である。貨狄(かてき)像(一説には「貨狄観音」)としてまつられていた。このエラスムス像は昭和5年(1930年)国の重要文化財に指定され、東京国立博物館に寄託されている。リーフデ号はもともと「エラスムス号」という名であった。名称が付けられた経緯、また変更された経緯については不明である。なお、リーフデ号についてはこちらにも詳述が有。

・リーフデ号の装備:〜
  De Liefde
、1598
船 型 蘭のガレオン船”Dutch Galleon、Erasmus ” リーフデ号、1600
帆 柱 3本マスト
全 長 ?m
全 幅 ?m
深 さ ?m
重 量 300屯
武 装 砲?門
乗組員 110人、(24人生存・救出)
進 水 1598、ロッテルダム(Rotterdam)、エラスムス号
最 後 1600/3/16(慶長5年)、豊後国(現大分県)に漂着、引き上げて江戸湾浦賀に回航

参考HP:〜
馬込勘解由(まごめかげゆ)の碑 (日本橋本町三丁目に有)
栃木県佐野市 (エラスムスの木像)

こちらで
平戸のオランダ商館(写真集)
蘭英戦争(1652-1674)
をお楽しみください。

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 2008/3/3、10/6/20追記、18/10/30、令和5年 2023/10/31

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