オランダ(Netherland)

国連 1989 発行
オランダ東インド会社 
アンボイナ島事件
1623
日本人の傭兵「七蔵」

大航海物語
  資料編

REPOBLIKA DEMOKRATIKA MALAGASY
オランダ船・アムステルダム号、1539

マダガスカル 1991/9/10 発行
琉球郵便
東南アジア、中国、日本

国際青年会議所沖縄会議記念
日本 昭和38年 1963/9/16 発行
日本郵便 NIPPON
奴江戸兵衛 やっこえどべい

三代目大谷鬼次
日本 1984/4/20 発行

香料(マルク)諸島の地図
インドネシア共和国・全図
赤丸がモルッカ諸島付近図
インドネシア 1963/5/1 発行

・アンボイナ(アンボン)島事件
 Amboyna massacre (1623/2/23〜3/9)

アンボイナ事件(アンボン事件)とは、1623年にモルッカ諸島のアンボイナ(Amboyna 、現アンボンAmbon)島にあるイギリス商館をオランダが襲い、商館員を全員殺害した事件です。これによりイギリスの香辛料貿易は頓挫し、オランダが同島の権益を独占しました。イギリスは東南アジアから撤退し、インドへ矛先を向けることとなりました。英語表記の「Amboyna massacre」は「アンボイナの虐殺」を意味しています。

アンボイナ島は、インドネシア・モルッカ諸島南方のセラム島の南西にある島で、クローブなどの香料を産することで知られていました。ヨーロッパで珍重されたこの香料を求めて、同島への進出を図る国が相次いでいました。1512年にポルトガル人アントニオ・ダブリウが進出して以来、アンボイナ島の香料はポルトガルが独占していました。しかし、1599年にオランダ人ヤン・ワールワイクがポルトガル勢を駆逐し、1605年2月にニュー・ヴィクトリア砦を建設して支配権を確立しました。これに対し、イギリスも1615年に進出して香料貿易を行い、激しく競争しました。事態を収拾するため、英蘭両国の政府は1619年に協定を締結し、 香料貿易は今後両国が共同で行い、利益の分配に際してはオランダの既得権益を尊重し、3分の2をオランダが、残り3分の1をイギリスが得ること、これまで両国が占領した地域の領有権は現状のまま留め置くが、今後征服した土地は両国で折半すること などを相互に確認しました。しかしオランダの現地当局はこれを無視して取引を行いましたので、激怒したイギリス人はバタヴィア(現ジャカルタ)でオランダ人を駆逐。両者の確執は一向に収まる気配がありませんでした。

その頃、東南アジアには日本人が多く進出し、アユタヤやプノンペンには日本人町が形成されるほどでした。アンボイナ島にも日本人が居住し、傭兵として勤務する者もいました。1623/2/23の夜にオランダ側の傭兵の「七蔵」という日本人が他の衛兵らに対し、城壁の構造や兵の数についてしきりに尋ねていました。これを不審に思ったオランダ当局が、七蔵を捕えて拷問にかけたところ、イギリスが砦の占領を計画していると自白。直ちにイギリス商館長ガブリエル・タワーソン(Gabriel Towerson, East India Co., 1576-1623 )ら30余名を捕らえたオランダ当局は、彼らに火責め、水責め、四肢の切断などの凄惨な拷問を加え、イギリスの占領計画を認めさせました。3月9日にオランダ当局はタワーソンをはじめイギリス人10人、日本人9人、ポルトガル人1人を斬首して、同島におけるイギリス勢力を排除しました。なお、事件当時オランダの東インド総督であったヤン・ピーテルスゾーン・クーン(Jan Pieterszoon Coen、1587ー1629)は、オランダの東インド貿易独占を主張し、オランダ政府の対応を弱腰と非難していたので、この事件は彼の仕組んだ陰謀であるとの説も流れました。

この事件は程なくイギリス本国に伝わり、英蘭両国の間で進行していた東インド会社の合併交渉は決裂、ついには外交問題にまで発展しました。事件発生から実に31年後の1654年にオランダ政府が8万5000ポンドの賠償金を支出することで決着しました。

事件をきっかけに、東南アジアにおけるイギリスの影響力は縮小し、オランダが支配権を強めました。しかし、かつて同量の金と交換されたこともあったほどの高級品だった香料の価格は次第に下落。それに伴い、オランダの世界的地位も下がり始めました。対して、新たな海外拠点をインドに求めたイギリスは、良質な綿製品の大量生産によって国力を増加させてゆきました。

参考:〜
斬首された日本人9人の名前について:〜
ヤン・ヨーステン他の伝聞によると、日本人は常時「日本刀」を2本さしていたこと、彼等はマレー語やポルトガル語を話しており、事件後も日本人が30人程がいたと述べている。09/6/26追記
名前 英文表記 出身地  備考
・七蔵 Hytieso 24 平戸 傭兵
・長左 Tsiosa 32 平戸 傭兵
・神三 Sinsa 32 平戸 傭兵
・久太夫 Quiondayo 32 唐津 傭兵
・左兵太 Tsavinda 32 筑後 傭兵
・三忠 Sanchoe 22 肥前 傭兵
・シドニイ・ミヒール Sidney Migiel 23 長崎 アンボン英国商館雇員
・ペドロ・コンギ Pedro Congie 31 長崎 Conje、Congey
・トメ・コレア Them Corea 50 長崎 朝鮮系?






オランダ(Netherland)

国連 1989 発行
 
オランダ東インド会社
1602ー1799
V.O.C.

大航海物語
  資料編

AUSTRALIA
タスマンとヘームスケルグ号

オーストラリア 1963-65 発行
REPOBLIKA DEMOKRATIKA MALAGASY
オランダ船・アムステルダム号、1539

マダガスカル 1991/9/10 発行

SURINAME
ネーデルランドの繁栄
ブレダ、1667年

ブレダ城とライン川を行き交う商船
1667 ブレダ条約300年記念 1967
スリナム 1967/7/31 発行

・オランダ東インド会社 (1602/3/20〜1799/12/31)
 Vereenigde Oostindische Compagnie
 オランダ語(略称:VOC)
 英:Dutch East India Company。
オランダ東インド会社は、正式には「連合東インド会社」略称VOC)といい、1602/3/20にオランダで設立された世界初の株式会社といわれています。会社といっても商業活動のみでなく、条約の締結権・軍隊の交戦権・植民地経営権などケープ・タウン(喜望峰)以東における諸種の特権を与えられ、アジアでの交易や植民に従事して一大海上帝国を築きました。資本金約650万ギルダーで、本社はアムステルダムに設置され、重役会は17人会(Heeren XVII)と呼ばれました。18世紀末に政府によって解散させられました。

スペインからの独立戦争を継続中であった頃のオランダはスペインの貿易制限、船舶拿捕などの経済的圧迫に苦しんでいました。当時、東南アジアの香辛料取引で強い勢力を有していたポルトガルが、1580年にスペインに併合されていたことで、ポルトガルのリスボンなどを通じた香辛料入手も困難になっていました。こうした中、オランダは独自でアジア航路を開拓し、スペイン(と併合されていたポルトガル)に対抗する必要がありました。1595年から1597年までの航海を通じてジャワ島のバンテン(バタヴィアBatavia、現ジャカルタ)との往復に成功を収めると、いくつかの会社が東南アジアとの取引を本格化させました。しかし、複数の商社が東南アジア進出を図ったために現地(東南アジア)での香辛料購入価格が高騰した上、オランダ本国で商社同士が価格競争を行ったため売却価格は下落する一方で、諸外国との経済競争を勝ち抜く上で不安が残されていました。さらに、1600年にイギリス東インド会社が発足したことは、この懸念を深めました。こうした中、ホラント州の政治家オルデンバルネフェルトが複数の商社をまとめてオランダ連合東インド会社を発足させ、諸外国に対抗しました。6つの支社から構成されており、それぞれはアムステルダム、ホールン、エンクハイゼン、デルフト、ロッテルダム、ミデルブルフに置かれました。

設立当初は東インド(インドネシア)における香辛料貿易を目的とし、マラッカを拠点とするポルトガルや各地のイスラム諸王国と戦いました。1619年には第4代東インド総督ヤン・ピーテルスゾーン・クーン(在任1619年-23年、再任1627年-29年)がジャワ島西部のジャカルタにバタヴィア城を築いてアジアにおける会社の本拠地としました。また日本やタイとの交易も手がけ、中国に拠点をもつことは認められませんでしたが、当時無主の地であった台湾を占拠し、対中貿易の拠点としました。南アジアでは主としてセイロン島のポルトガル人を追い払い、島を支配しました。日本ではカトリックとスペイン・ポルトガルのつながりに警戒感を強めていた江戸幕府を扇動してポルトガルの追い落としに成功、鎖国下の日本で欧州諸国として唯一、長崎出島での交易を認められました。アジアにおけるポルトガル海上帝国はオランダ東インド会社の攻勢によって没落してゆきました。イギリス東インド会社もオランダとの競合に勝てず、東アジアや東南アジアから撤退して、インド経営に専念することになりました。オランダ東インド会社の成功によってオランダ本国は17世紀に黄金時代を迎えましたが、早くも衰微の兆しが訪れました。17世紀半ばの3次にわたる英蘭戦争や絶対主義フランス王国との戦争で国力を消耗し、1689年にヴィレム3世がイギリス王に迎えられた後は、イギリス東インド会社に植民地帝国の座を譲り渡した。以後イギリスが大英帝国として、海上覇権を確立する事になる。1795年にはフランス革命軍により本国を占領されました。この混乱のなかで1799/12/31にオランダ東インド会社は解散、海外植民地はフランスと対抗するイギリスに接収されました。その後、ナポレオン戦争後にオランダは無事にイギリスから返還された東インドの領域経営(インドネシア)に主として専念することになりました。

主要年表
1596年 最初のオランダ船、東インドのジャワ島に到着
1600年 リーフデ号日本漂着
1602年 オランダ東インド会社設立
1603年  ジャワ島西部バンテンに商館開設、パタニ王国に商館開設
1608年 アユタヤがオランダ本国に外交使節派遣
1609年 平戸オランダ商館開設
1619年 ジャカルタを占領し、本拠地を確立
1623年 アンボイナ事件
1624年 台湾を占領し、ゼーランディア城建設
1641年 オランダ商館が平戸から長崎出島に移転
      ポルトガル領マラッカ占領
1642年 オランダのタスマンオーストラリア一周航海にバタヴィアを出帆
1648年 ウェストファリア条約(スペイン、オランダ独立承認)
1651年 南アフリカのケープ植民地設立
1656年 ポルトガル領コロンボ占領
1661年 鄭成功、台湾を占領、VOCは台湾から撤退
1696年、フラミングがリデルシャップ・フォン・ホランド号の捜索で西オーストラリアを探検
1704年 第一次ジャワ戦争(〜08年)
1719年 第二次ジャワ戦争(〜23年)
1740年 バタヴィアの華人反乱、虐殺
1749年 第三次ジャワ戦争(〜55年)
1760年 アユタヤ商館閉鎖
1795年 フランス革命後にフランス軍がオランダ本国占領
1799年 オランダ東インド会社解散

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。       08/1/20

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