オランダ Netherland

国連 1989 発行
切手で綴る オランダの大航海(Adventure Voyage)
ヤン・ヨーステン
1600年
耶楊子:
リーフデ号事件
徳川家康の顧問となる

Japan

国連 1982 発行




大航海物語

日本郵便 NIPPON
オランダ・カピタン

日蘭交流400年記念
日本 2000/4/19 発行
MALAGASY
アムステルダム号、1539

マダガスカル 1991/9/10 発行

1981年の地図 Nederland
オランダの地図

オランダ州会議450年記念
オランダ 1981/10/1 発行
1531年の地図

LESOTOH
徳川家康

レソト 2001 発行
FIJI
太平洋と世界地図

フィジー 1977/4/12 発行
CORREOS DE CHILE



マゼラン海峡

←フェゴ島

ルマール海峡
ホーン岬
ドレーク海峡
マゼラン海峡占領100年記念
チリ 昭和19年 1944/3/2 発行

REPUBLIK INDONESIA
オランダから香料諸島(O)への地図

インドネシア 1980 発行

ヤン・ヨーステンはオランダ東インド会社のリーフデ号で極東アジアを目指してロッテルダムを出帆、8ヵ月以上かかって日本近海に到着するも、運悪く嵐に見舞われ、現在の大分県臼杵海岸に漂着しました。その後、徳川家康に謁見して、その顧問となって活躍し、日本で亡くなりました。
ヤン・ヨーステン・ファン・ローデンスタイン
 (Jan Joosten van Loodensteijn 1556〜1623)
ヤン・ヨーステンはオランダの航海士、朱印船貿易家。日本名は耶楊子。ヤン・ヨーステンは名で、姓はファン・ローデンスタイン。1598年にオランダ東インド会社南ホラント州ロッテルダムからアジアの極東を目指す航海のために司令官のヤックス・マフが乗組員を集めている時に、ヤン・ヨーステンが応募してリーフデ号に乗組みました。

1598/6/24に5隻の船団はロッテルダム港を出航しました。新大陸アメリカで積荷を銀に換えようとしましたが失敗し、マゼラン海峡を越えて日本を目指し、日本で積荷を銀に換えて、モルッカ諸島へ行ってスパイスを買う予定なるも、マゼラン海峡を通過するとき嵐に遭遇して、船隊はバラバラになりました。トラウ号は東インド諸島でポルトガルに拿捕され、フライデ・ボートスハップ号はスペインに拿捕され、1隻はぐれたヘローフ号は続行を断念してロッテルダムに引き返しました。残った2隻で太平洋を横断する途中、ホープ号も遭難、沈没してしまい、極東に到達するという目的を果たしたのはリーフデ号ただ1隻となりました。その上、食糧補給のために寄港した先々で赤痢や壊血病の蔓延、インディオの襲撃に晒されたために次々と乗組員を失っていきました。こうして出航時に110人だった船の乗組員は、僅かに24人にまで減っていました。

ヤン・ヨーステンが乗組んでいたオランダ船リーフデ号は嵐に遭遇して、1600/4/19(慶長5年3月7日)に豊後(大分県)の臼杵に漂着しました。自力では上陸できなかった乗組員は臼杵城主太田一吉の出した小舟でようやく日本の土を踏みました。太田は長崎奉行の寺沢広高に通報。寺沢はヤン・ヨーステンらを拘束し、船内に積まれていた大砲や火縄銃、弾薬といった武器を没収したのち、大坂城の豊臣秀頼に指示を仰ぎました。この間にポルトガル・イエズス会の宣教師達が訪れ、オランダ人やイギリス人を即刻処刑するように要求しました。結局、五大老首座の徳川家康が指示し、重体で身動きの取れないヤコブ・クワッケルナック船長に代わり、ヤン・ヨーステンウィリアム・アダムス三浦按針)、メルキオール・ファン・サントフォールトらを大坂に護送させ、併せて船も回航させました。

その後、徳川家康に謁見して信任され、外交や貿易についての顧問となりました。江戸の「丸の内」に屋敷を貰い、日本人と結婚し、耶楊子と名乗りました。オランダ船リーフデ号漂着の成果は幕府がオランダに発行した朱印状、つまり通商許可証でした。1609年にオランダ船が平戸に入港し、それ以降、日蘭貿易が本格的に始まりました。

彼の江戸屋敷は現在の和田倉門〜日比谷間の内濠の沿岸に与えられ屋敷を構えました。この地が彼の 名にちなんで八代洲河岸(やよすがし)と呼ばれて、明治まで続きました。現在は、中央区の八重洲 としてヤン・ヨーステンに因む地名が残っています。

東南アジア方面での朱印船貿易を行い、その後帰国しようとバタヴィアに渡ったが帰国交渉はできず、再び日本へ帰還中、乗船していた船がインドシナで座礁して海の藻屑となりしました。1623年のアンボイナ島事件を伝聞で聞いたといわれています

・5隻のオランダ極東探検船隊の構成:〜
  マゼラン海峡を通過するとき嵐に遭遇して、
  船隊はバラバラになり、以降の経過は次のようになりました。
 ・旗艦 ホープ号(Hoope、希望)
   司令官ヤックス・マフ(Jacques Mahu)
   1600/2月下旬の台風で太平洋上にて沈没)
 ・リーフデ号(Liefde、愛)〜 日本に漂着
   船長ヤコブ・クワッケルナック(Jacob Quaeckernaeck、?-1606)
   (Simon de Cordes, 説有)
   日本に到達(豊後臼杵の黒島に漂着
   積荷は毛織物、ガラス・ビーズ、鏡、爪切、眼鏡、金槌、銅製の大砲12門、
   砲弾5千発、マスケット銃500丁、鎖付砲弾300発、鎖襦袢など。
 ・ヘローフ号(Geloof、信仰)
   船長シーボルト・デ・ウィート(Sebalt de Weert, 1567-1603)
   (Gerrit van Beuningen, 説有)
   途中ではぐれて続行を断念、ロッテルダムに引き返す。帰還した唯一の船。
 ・トラウ号(Trouw、忠誠)
   船長バルタザール・デ・コーデス(Baltazar de Cordes, 生年没年不詳)
   (Jurriaan van Boekhout, 説有)
   東インド諸島でポルトガルに拿捕される。
 ・フライデ・ボートスハップ号(Blijde Boodschap、良い予兆 or 陽気な使者)
   船長ディレック・ヘリッツス・ポンプ船長
   (Dirck Gerritszoon Pomp, 1544-1608)
   (Sebald de Weert, 説有)
   東インド諸島でスペインに拿捕される。

リーフデ号(蘭:Liefde=愛)〜大百科事典他より〜
1600年(慶長5年)3月16日(1600/4/19説有)に、豊後国(現大分県)に漂着した。
300トン、3本マストの帆船。船長クワッケルナック、航海長ウィリアム・アダムス。 
漂着地は臼杵湾の黒島ともされるが、豊後国のどの地点かは不明。 2年前に本国オランダのロッテルダムを出航。はじめは5隻の船団であったが、マゼラン海峡通過後の太平洋で、悪天候などにより離散した。乗組員は110人ほどいたが、生存者は僅かに24名。生存者の中にも重傷者が多く、翌日に3人が死亡したという。生存者の中には徳川幕府の外交顧問になったヤン・ヨーステンやウィリアム・アダムズ(三浦按針)も含まれていた。日本に到着した初めてのオランダ船。また、アダムズは、日本に初めて来たイギリス人であった。漂着後、大坂に回航され、後浦賀に回航された(回航時に暴風雨に遭って沈没したとも言われる)。
宣教師やスペイン人の記録によると徳川家康は関ヶ原の戦い時、リーフデ号の備砲や砲員を活用したといわれています。
同時代のオランダ船

マダガスカル 1991 発行
この漂着事件のことをリーフデ号事件ともいいます。
なお、リーフデ号そのものは現存しないが、リーフデ号の船尾に飾られていたという木像が現存している。この像はルネサンス期の人文主義者として知られるエラスムスの木像で、家康の旗本、牧野成里の領地である栃木県佐野市上羽田の龍江院の所蔵である。貨狄(かてき)像(一説には「貨狄観音」)としてまつられていた。このエラスムス像は昭和5年(1930年)国の重要文化財に指定され、東京国立博物館に寄託されている。リーフデ号はもともと「エラスムス号」という名であった。名称が付けられた経緯、また変更された経緯については不明である。

参考HP:〜
東京都中央区観光協会 (喪失?)
ひとりで東京歴史めぐり(東京・銀座・日比谷エリア)八重洲
栃木県佐野市 (エラスムスの木像)

こちらで
平戸のオランダ商館(写真集)
蘭英戦争(1652-1674)
をお楽しみください。

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。   2008//3/3、令和5年 2023/8/19

スタンプ・メイツ
Copyright(C):Nicky
無断転載禁止