★カナダ
ロバート・バートレット船長
1909、ピアリー北極点到達の船長
1916、ステファンソン北極探検の船長

大航海物語★
CANADA


バ|トレ
ット船長
ロバート・バートレット船長



ル|ズベルト号
1909 ルーズベルト号航海100年記念 2009
カナダ 2009/7/10 発行
JERSEY
北極航海、同型の機帆船(蒸気式帆船)

Diana, screw steamer
ジャージー 1978/10/18 発行
US POSTAGE

ピアリ|の犬ゾリ
北極点への探検
犬ゾリ 1909


原子力潜水艦 USS Nautilus 1959

アメリカ 1959/4/6 発行
原子力潜水艦ノ|チラス号


カナダ→



ハドソン湾→




パフィン湾→

グリーンランド→
SWEEDEN
北極の地図
ベーリング↓海峡

スウェーデン↑(黒い所)
スウェーデン 1989/8/22 発行小型シートより

ユ|ラシア大陸


アラスカ


カナダ


U
S
A
CANADA
中央がハドソン

カナダ 1981 発行

ケーン水路

グリーンランド

←パフィン島
プロビジャー
←ハドソン海峡
←ラプラドル湾
ラプラドル半島
ニューファンドランド島

←ケベック


ニューファウンドランド島生れのバートレット船長はロバート・ピアリーの北極点探検隊を3回ともカナダ極北へ運んで、最期のルーズベルト号船長で北極点到達を助けました。その後ヴィルジャルマー・ステファンソンの北極探検隊のカールック号船長を勤めました。
ロバート・バートレット船長 (1875/8/15〜1946/4/28)
 Captain Robert Abram Bartlett

  愛称:ボブ(Bob Bartlett)
  ニューファウンドランド島の船長(Newfoundland navigator:航海士)
  北極探検家(Arctic Explorer)
  生地:ニューファウンドランド島のブリガス生(Brigus, Newfoundland)
  没地:ニューヨークの病院、肺炎(Pneumonia)で71才没
バートレット船長は父ウィリアム・ジェームス・バートレット(William James Bartlett )とメアリー(Mary J. Leamon)の子供10人の最初の子として、ニューファンドランド島のコンセプション湾ブリガス(Brigus, Conception Bay, Newfoundland)ホーソン・コテージ(Hawthorne Cottage, 1830建設、1978カナダ国立歴史公園史跡)で生まれ育ち、家の伝統に従い、17才で海に出てニューファウンドランド島のアバロン半島(Avalon Peninsula)に有る州都セント・ジョン(St. John)からブラジル航路の商船コリサンデ号(Corisande)に乗組みました。6年間乗組んだ後、22才で商船(merchant vessels)やアザラシ狩り船(sealing ships)、漁船(fishing schooners)に乗組んでバナナや塩漬け魚、アザラシ油、石炭(bananas, salt fish, seal oil, coal)などを輸送して、ラテンアメリカ、ヨーロッパ、カリブ海、地中海(Latin America, Europe, Caribbean, Mediterranean)などを訪れました。1898年ノバスコシア半島のノバスコシア州々都ハリファックス(Halifax)で船長試験を受験して合格後、叔父ジョン・バートレット(John Bartlett 1820-1905)のウィンドワード号(Windward)に乗組みました。そして1898/7/3にロバート・ピアリー少将(Rear Admiral Robert Peary 1856-1920)の最初の北極探検隊をウィンドワード号の1等航海士(first mate)として乗組んでニューヨーク港を出帆し、ピアリー隊を極地のエルスミーア島(Ellesmere Island)海岸へ運びました。ピアリー隊は其処から約692km先の北極点へ犬ゾリで出発しました。ところが船は翌年の春まで氷に閉じ込められたので、イヌイット族(Inuit)の言葉と生活を勉強して、極地で凍りついた土地で生き抜くすべを学びました。その後10年間はピアリー少将の北極探検隊を極北地へ運んだりしました。また、その他に探検隊40を率いて北極探検をなし、50年以上にも亘って北極方面の海水面の調査をして、狩りで計59頭のシロクマ(polar bears)の他にジャコウウシ(musk ox)やセイウチ(walrus)、カリブー(caribou)を獲って食べながら、北極方面の地図を作成しました。

バートレット船長の大航海:〜
アザラシ狩り船の航海、1901-1905
  Sealing-vessels Voyage
バートレット船長はアザラシ狩り船ニムロッド号(Nimrod)、カイト号(Kite)、アルジェリン号(Algerine)を指揮しました。

ウィンドワード号の航海、1906-07
  Windward North Pole Expedition Voyage
バートレットはウィンドワード号に最初は航海士として乗組んで、ピアリーの北極探検隊をカナダの極北へ運びましたが、ピアリーの北極点到達は嵐や補給の欠乏、凍症(frostbite)などで失敗に終わりました。ピアリーは仕舞いには足指8本を凍症で失くしました。

ルーズヴェルト号の航海、1908-1909
  Roosevelt North Pole Expedition Voyage
  (ピアリーの北極点到達)
1908/7/6にバートレット船長はピアリー少将の最期(第3回)の北極探検隊(final expedition 1908-1909)の3本マスト蒸気船ルーズヴェルト号(3 mast steel-hulled steamer Roosevelt)の船長としてニューヨーク港(New York)を出帆。エルスミーア島シェリダン岬(Cape Sheridan, Ellesmere Island)で越冬。1909/2/28にエルスミーア島を出帆。1909/4/1に北緯87°45' のバートレット・キャンプ(Bartlett Camp)で補給。其処でピアリー少将は5人を連れて、241km先の北極点を目指して出発しましたので、残ったバートレット船長は北緯88°に到達した最初の船長となりました。その後、ピアリー少将はマシュー・ヘンソン(Matthew Henson, 1866-1955)と2人で北極点に到達
ルーズヴェルト号

ギニアビサウ 2009 発行
しました。ところが、これについては異論があって、1909/9/1にニューヨーク・ヘラルド紙がアメリカ合衆国の探検家で、1891年のピアリー少将のグリーンランド初探検(1891-1892)に医師として参加した 「フレデリック・アルバート・クック(Frederick Albert Cook、1865-1940)が北極点に到達(1909/4/22)した」 と報じました。その5日後にピアリー少将が北極点到達(1909/4/6)を後援会に知らせました。そして、クックは訴えられて詐欺罪で投獄され、ピアリー少将の北極点1番乗りが確定しました。1909年にバートレット船長はアメリカ地理学協会(American Geographical Society)から。氷結した北極海を北極点から241kmまで突破して、ピアリー少将とマシュー・ヘンソンを北極へ送り込んだ功績に対し、ハバード・メダル(Hubbard Medal)を受賞。同じ賞を、ピアリー少将は1906年(最初)に、イヌイット族のヘンソンは2000年に受賞しました。1918年にバートレット船長は同協会の名誉ある正会員(Fellowship)に選出されました。 北極点の地図


カールック号の大航海、1913-1916
  Last voyage of HMCS Karluk
  (ステファンソンのカナダ北極探検隊)
カナダ北極探検隊(Canadian Arctic Expedition)がステファンソン教授(Vilhjalmur Stefansson)の北方隊(北極点探検)と、別動の南方隊(カナダ北極探検)が、アメリカ地理学協会とアメリカ自然史博物館(American Museum of Natural History)の後援で、1913年に計画されました。そして、同年に建造後29年の老朽捕鯨船ブリガンティン型蒸気帆船カールック号(brigantine HMCS Karluk, 321t, 39m long、1912年カナダ政府が購入)バートレット船長が、北方隊の民族学ステファンソン教授の旗船(flagship)として、アラスカからカナダ・ユーコン準州に属し、州最北端で北極海の一部の北米大陸から5km沖にあるボーフォート海(Beaufort Sea)に浮かぶ島ハーシェル島(Herschel Island、1826年ジョン・フランクリンが発見)での僚船スクーナー型アラスカ号(small gasoline-driven
氷に閉じ込められた機帆船,

図案はベルジカ号ベルギー 1997/9/22 発行
schooner Alaska)と3番船メアリー・サックス号(schooner, Mary Sachs)とのランデブー(会合)地点へと
1913年
06/17、ヴァンクーバー島最南端エスクィマルト(Esquimalt, Vancouver Island, Canada)を出帆
07/02、濃霧の中でベーリング海に到着
07/08、アラスカのノーム(Nome)に到着
     其処で僚船アラスカ号と3番船メアリー・サックス号に出会い
     ノーム北部ポート・クラレンス(Port Clarence, Alaska)で犬ゾリ(dog-sled)用犬28頭を積込む
07/27、カールック号がポート・クラレンスを出帆
     ベーリング海峡(Bering Strait)を突破
07/28、北緯66度33分の北極線を横切る、その以北が北極圏(Arctic Circle)
07/31、アラスカのポイント・ホープ(Point Hope, Alaska)着
     イヌイット猟師(Inuit hunters)ジェリー(Jerry)とジミー(Jimmy)が乗船
08/01、流氷(Ice pack:Drift ice)を望見。突破しょうとするも押し戻される
08/02、ポイント・バロー(Point Barrow)の40km先で氷海に閉じ込められて漂流
08/05、ポイント・バロー近くのスミス岬(Cape Smythe)で開けた海に着く
     ステファンソン教授はポイント・バローで下船後、犬ゾリで北極点を目指す
08/11、ステファンソンがカールック号に戻る
     スミス岬でイヌイット猟師ケラルク(Keraluk)、カタクトヴィク(Kataktovik)、
     ケラルクの家族3人、妻ケルク(wife Keruk)、子供のヘレン(Helen)とマグピ(Mugpi)が乗船
08/13、ポイント・バロー東378kmで観測(最東端)
09/10、ポイント・バロー東316kmで観測
09/19、ステファンソン達が下船して北極点を目指す準備を始める
09/20、ステファンソン達6人が出発
09/23、カールック号が氷海に捕まり、一日48kmから97kmも氷と共に西へ流され、
     次第にハーシェル島から遠ざかり、ステファンソン達は戻れなくなる
     こうして、ボーフォート海とチュクチ海(Chukchi seas)を漂流
1914年
01/10、遂にチュクチ海(Chukchi Sea)で氷に閉じ込められ、翌日
01/11、カールック号が氷に破壊されて沈没、シップレック・キャン
     プ(Shipwreck Camp)を設営。乗員25人の内、バートレッ
     ト船長と13人は氷上を徒歩でウランゲル島(Wrangel
     Island)に到達。ウランゲル島東端部ワーリング岬(Cape
     Waring)にキャンプ地を設営するも11人は着く迄に没
04/24、シベリアのチュクチ半島(Chukchi Peninsula, Siberia)
     エマ・タウン(Emma Town)に到達
05/16、プロヴィデンス湾エマ港(Emma Harbor、現:コムソモルス
     カヤ湾:Komsomolskaya Bay)に到達。チュクチ海からの
     徒歩行進は1130kmにもなる、キャンプを設営
09/07、キャンプ地沖にシアトル建造の2本マスト漁船キング&
氷上での越冬

図案はシャックルトン隊のもの
ロス地域 2002/11/6 発行
     ウィンゲ号(fishing schooner King & Winge, 143t)が現れて生存者11人を救出
09/13、生存者がノームに到着して、地元民に大歓迎されました(日付には諸説有)。

なお、ステファンソン達は北極点到達を中止して、別途ウランゲル島に到達しました。バートレット船長はイギリスの王立地理学会(Royal Geographical Society)から最高栄誉賞を授与されました。その後、カナダ北極探検隊は1915年に購入されたポーラー・ベア号(small schooner North Star)で、1916年夏に南方隊が再度出帆。ビクトリア島(Victoria Island)南のバサースト入江(Bathurst Inlet, Coronation Gulf)の地図を作成しました。また、ステファンソンは新たに購入した小型スクーナー船ノース・スター号(small schooner North Star)で探検を続けました。

クロッカーランド探検隊を救助、1917
  (Crocker Land Expedition 1913-1917)
バートレット船長が、4年間も氷に閉ざされていたマックミリアンのクロッカー・ランド探検隊(MacMillan's ill-fated Crocker Land Expedition)の隊員を救助しました。1917年にネプチューン号(Neptune)にてアメリカ自然史博物館の支援で、ドナルド・バクスター・マックミリアン隊長(Donald Baxter MacMillan 1874-1970)が指揮したクロッカーランド探検隊の生存者を救助しました。クロッカー・ランドは1906年にピアリー隊長がエルスミア島北西海岸のコルガタ岬(Cape Colgate)頂上で望見したという大きな島でしたが、それは後に、でっち上げの幻だったことが判明しました。
1913年
07/02、ブルックリン海軍工廠(Brooklyn NY Naval Shipyard)をクロッカー・ランド探検隊の蒸気船ダイア
     ナ号(steamer Diana)が出帆
07/17、船長が酔っ払って氷山(Iceberg)に衝突
     エリク号(Erik)に乗り換える
08月、第2週に北西グリーンランドのエター(Etah, Greenland)着
     3週間かかって船を探検用に整備
1914年
03/11、クロッカーランド探検に出帆
04/11、北極海の端(edge)に到着
04/27、南西に大きな島を望見するも、蜃気楼(mirage)
05/04、別動隊のグリーン(Green)がピュガートック(Piugaattoq)を撃ち殺したことを告白
1915年
03月、中旬にエター帰着
夏期、3本マストのスクーナー船(three-masted schooner)でコマー船長(captain George Comer)が
    救助に出帆するも、氷海に捕まり、2年後に虚しく帰港
1916年
夏期、2番目の救助船が派遣されるも、
    グリーン、タンクゥアリー(Tanquary)、アレン(Allen)が犬ゾリで米国に帰国
1917年
夏期、3番目の救助船ネプチューン号バートレット船長が派遣され、
    残りの生存者が救助されました。

エフィー・モリッシー号の航海、1925-1945
  Fishing Schooner, Effie M. Morrissey, 1894、120gross tons
1925年にバートレット船長が、1894年建造120総屯のスクーナー型帆船エフィーM.モリッシー号(Effie Maude Morrissey)を従兄弟のハロルド・バートレット(Harold Bartlett)から購入。アメリカ各地の博物館や探検クラブ(Explorers Club)、アメリカ地理学協会(National Geographic Society)などの要請での科学的探検を20年間も指揮しました。
(1)1926年(51才)
  アメリカ博物館グリーンランド遠征
   (American Museum Greenland Expedition)
スクーナー帆船

シェラオーネ 1984 発行
  アメリカ自然史博物館の要請で、北西グリーンランドへ探検航海
  ・主な随行者:〜
   ・ジョージ・パルマー・プトナム(George Palmer Putnam 1887-1950)、作家
   ・ウィリアム・H・ホッブス(William H. Hobbs 1864-1952)
     ミシガン大教授、地質学者(University of Michigan Professor, geologist)
(2)1927年
  北西バフィンランド遠征
   (Western Baffin Land Expedition)
  アメリカ地理学協会と国立アメリカ・インディアン博物館(National Museum of the American Indian)、
  ヘイ財団(Heye Foundation)の要請で、北西バフィンランドへ探検航海。
  なお、ヘイ財団の考古学者ジョージ・ヘイ(George Gustav Heye 1874-1957)が収集した工芸品(ア
  ーティファクト:artifact)コレクションは博物館の主要展示品となりました。
  ・主な随行者:〜
   ・ジョージ・パルマー・プトナム、作家
   ・ロバート・E・ピアリー(Robert E. Peary, Jr. 1903-1994)、ピアリー少将の息子
(3)1928年
  ストール・マックグラッケンのシベリア北極遠征
   (Stoll McCracken Siberian Arctic Expedition)
  アメリカ自然史博物館の要請で、アリューシャン列島(Aleutian Islands)、ベーリング海峡から
  北極(Arctic)へ探検航海
  ・主な随行者:〜
   ・チャールス・ストール(Charles H. Stoll 1894-1971)
   ・ハロルド・マックグラッケン(Harold McCracken 1894-1983)、作家でグリズリー・ハンター
(4)1929年
  ラブラドール海岸遠征
   (Labrador Coast Expedition)
  ラブラドール映画会社(Labrador Motion Picture)の要請で、
  ラプラドール半島の海岸沿いを探検航海
  ・主な随行者:〜
   ・モーリス・ケラーマン(Maurice Kellerman 1883-1943)、カメラマン
(5)1930年
  北東グリーンランド遠征
   (North East Greenland Expedition)
  国立アメリカ・インディアン博物館の要請で、
  北東グリーンランドを探検航海
ラプラドール半島の地図

USA 1908 発行
(6)1931年
  ノークロス・バートレット遠征
   (Norcross-Bartlett Expedition)
  スミソニアン学術協会(Smithsonian Institution)、ヘイ財団の要請の他、アメリカ自然史博物館は野
  鳥(wild fowl)オーシャン・ホール(Ocean Hall of Life)は一角鯨(narwhal)とアザラシ類(seals)、ニュ
  ーヨーク植物園(New York Botanical Garden)は花植物(flowering plants)の標本収集、米海軍は海
  洋学(oceanography)・水路学(Hydrography)・気象学(meteorology)の観測の要請で、
  北東グリーンランドへ探検航海。
(7)1932年
  ピアリー記念遠征
   (Peary Memorial Expedition)
  ピアリー少将の孫達の要請で、記念碑建設の航海
  ・主な随行者:〜
   ・エド・スタッフォード(Ed Stafford)とその母
   ・ロバート・ピアリー(Robert E. Peary)とその母
   ・マリー・ピアリー・スタッフォード夫人(Mrs. Marie Peary Stafford)
   ・アーサー・D・ノークロス(Arthur Dickinson Norcross 1848-1916)、マサチュセッツ州上院議員。
(8)1933年
  バートレットの北西グリーンランド遠征
   (Bartlett Northwest Greenland Expedition)
  アメリカ自然史博物館、国立アメリカ・インディアン博物館、アメリカ地理学協会、アメリカ海軍(Navy
  Department)の要請で、ハドソン海峡(Hudson Strait)、フューリー海峡(Fury Strait)、ヘクラ海峡
  (Hecla Strait)から北西グリーンランドへ探検航海。
(9)1934年
  グリーンランド・エルスミアランド遠征
   (Expedition to Greenland and Ellesmere Land)
  ドレクセル大学(Drexel University)フィラデルフィア・アカデミー自然科学院(Philadelphia Academy
  of Natural Sciences)の要請で、グリーンランドとエルスミアランドへ科学的標本収集の探検航海。
(10)1935年
   北西グリーンランド遠征
    (Northwest Greenland Expedition)
   シカゴのフィールド自然史博物館(Field Museum of Natural History)、 スミソニアン博物館を運営
   するスミソニアン学術協会(Smithsonian Institution)の要請で、北西グリーンランドへ探検航海
   ・主な随行者:〜
    ・ラマー・ソッター博士(Dr. Lamar Soutter 1909-1996)
     マサセッチュ薬科大学(University of Massachusetts Medical School)の学部長、創立者。
(11)1936年
   バートレットの北東グリーンランド遠征
    (Bartlett Northeast Greenland Expedition)
   スミソニアン学術協会、アメリカ地理学協会、シカゴ動物学協会(Chicago Zoological Society)、
   シカゴ・フィールド自然史博物館の要請で、北東グリーンランドへ探検航海。
(12)1937年
   バートレットの北西グリーンランド遠征
    (Bartlett Northwest Greenland Expedition)
   スミソニアン学術協会とシカゴ動物学協会の要請で、北西グリーンランド探検航海。
(13)1938年
   北西グリーンランド遠征
    (Northwest Greenland Expedition)
   スミソニアン学術協会とオハイオ大学クレヴァランド自然史博物館(Cleveland Museum of Natural
   History)、スミソニアン博物館(United States National Museum)協会の要請で、
   北西グリーンランド探検航海。
(14)1939年
   北東グリーンランド遠征
    (Northeast Greenland Expedition)
   ニューヨーク動物学協会(New York Zoological Society)とスミソニアン学術協会の要請で、
   北東グリーンランドへ探検航海。
(15)1940年
   グリーンランド遠征
    (Greenland Expedition)
   エフィーM.モリッシー号が北極点から1,070 kmで北緯80度22分到達(最北到達を記録)の偉業を、
   フランスのパテ映画会社(Pathe Newsreels, Paris, 1896)が映画撮影
(16)1941年
   グリーンランド遠征
    (Greenland Expedition)
   サンフランシスコの女流探検家ルイス・アルマー・ボイド(Louise Arner Boyd (September 1887-
   1972)の支援で、バフィン湾(Baffin Bay)地区の北極探検。それはアメリカ合衆国の国立標準技術
   研究所 (National Institute of Standards and Technology)の最初の電離層(ionosphere)観測。
(17)1942年
   アンガヴァ湾・フロビシャー湾の遠征航海
    (Voyage to Ungava Bay and Frobisher Bay)
   アメリカ陸軍航空隊(US Army Air Forces)の航空基地クリスタル・ワン(Crystal One)と、アメリカ
   海軍航空隊(US Navy Air Forces)の航空基地クリスタル・ツゥ(Crystal Two)の建設調査航海。
(18)1943年
   フロビシャー湾の遠征航海
    (Voyage to Frobisher Bay)
   米軍基地(US military bases)への補給のための調査航海。
(19)1944年
   南方・東方グリーンランドの遠征航海
    (Voyage to southern and eastern Greenland)
   米観測基地(US weather bases)への補給のための調査航海。
(20)1945年(70才)
   北西グリーンランドの遠征航海
    (Voyage to northwest Greenland)
   米軍基地(US military bases)への補給のための調査航海。
なお、エフィー・モリッシー号はバートレット船長の没後に売却されました。

第2次世界大戦(1939-1945)中は米国政府(United States Government)のために北極観測(survey the Arctic)をなしました。1946年にニューヨークで71才で亡くなり、故郷のブリガスに埋葬されました。

受賞など
1909年、米国のナショナル・ジオグラフィック協会(National Geographic Society、アメリカ地理学協会)
      からハバード・メダル(Hubbard Medal)を受賞
      船上に立つバートレットとピアリーの銅像がラブラドールのバトル・ハーバー(Battle Harbour,
      Labrador)に建立される
1927年、ボーイスカウト米国連盟から名誉スカウト(Honorary Scout)を授与される
1918年、アメリカ地理学協会から名誉会員(Honorary Fellowship、フェローシップ)を授与される
1925年、チャールズ・デイリー(Charles Patrick Daly 1816-1899)記念賞を受賞
1978年、ホーソン・コテージがカナダの国立歴史公園(National Historic Site of Canada)となる
2009年、カナダ郵便が「バートレットのルーズベルト号航海100年記念切手」を発行しました。

参考HP:〜
カールック号とバートレット船長の航海地図
ルーズベルト号の写真
北極圏の地図(北極線”Arctic Circle”は点線)
アラスカの地図(日本語:ノーム、バロー有)
アラスカの地図(英語:Nome、Pt Hope、Pt Barrow有)

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。     13/10/13、 14/11/13
スタンプ・メイツ
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