Netherland

国連 1989 発行
切手で綴る 冒険航海(Adventure Voyage)
ヘンリー・ハドソン船長
1609、
1610、
マンハッタン島を発見
ハドソン湾を発見


大航海物語
 オランダ編

DOMINICA
ハドソン船長


マンハッタン島に上陸
マンハッタン島の地図、1873
1609 ヘンリー・ハドソンのマンハッタン島発見400年記念 2009
ドミニカ 2009 発行


イギリス 1972 発行
BULGARIA
ハドソン船長 と ハーフムーン号

ブルガリア 1990 発行

CANADA
中央がハドソン湾
(カナダと付近の地図)


カナダ 1981 発行
POSTAGE USA
新大陸のオランダ領
ニューアムステルダム港
オランダ(ダッチガレオン)船


アメリカ 発行

Antigua Barbuda
世界最初のビーバー毛皮交易、マンハッタン島でのハドソン船長 1609

ニューヨークのブロンクスにある記念碑
1609 ヘンリー・ハドソン最初のビーバー毛皮交易400年記念 2009

アンチグアバーブダ 2009 発行

BERMUDA
大西洋の地図
1609年ハドソン船長の探検航海地図(赤線、往路:上、帰路:下)







コッド岬→
ハドソン川→





















←アムステルダム















 これはバーミューダ島で遭難のシー・ヴェンチャー号航海地図の切手小型シートで作成
バーミューダ 1984 発行

イングランド生れのバドソン船長はヨーロッパからアジアへ行く近道の航路を求めて、1607年から4度の探険航海に出帆し、ハドソン川やニューアムステルダム湾を発見、1610年の航海ではカナダ北部でハドソン湾を発見しましたが、折からの冬の到来と共に海が凍りつき氷に閉ざされてしまいました。ところが準備していた食料が不足・欠乏してきたため、乗組員が反乱を起こし、小船に追放されて行方不明となり、遭難したものと推測されました。
・ヘンリー・ハドソン船長
 
(Henry Hudson, 1550年頃(?)〜1611年)
ヘンリー・ハドソンはカナダ北東部などを探検したイギリスの探検家です。ハドソン湾、ハドソン海峡、ハドソン川は彼ハドソンの名にちなむものですが、一説によると「発見した所を、イギリス側とオランダ側双方の所有を主張」しました。前半生は定かではないですが、英国のイングランド(England)で生まれて、16才頃に船員となり、その後、船長になりました。

ハドソン船長の”アジアへ行く近道の航路”を求めての大冒険航海:〜
・1607年、バレンツ海のスパーバル諸島に到達、ホ−プウェル号
・1608年、バレンツ海のノヴァヤ・ゼムリャ島に到達、ホ−プウェル号
・1609年、北アメリカのハドソン川に到達、マンハッタン島を発見、ハーフ・ムーン号
・1610年、北アメリカのハドソン湾に到達、ディスカヴァリー号

1607年にイングランド勅許会社のモスクワ会社(Muscovy Company)に雇われ、シベリア沖の北極海を通ってヨーロッパとアジア(中国:太平洋)への近道の”北東航路”(Northeast Passage )の発見のため、ウィレム・バレンツが探検していたバレンツ海のスヴァールバル諸島スピッツベルゲン島グリーンランド島を探検航海して、北極点の577海里(1,069km)南にまで達するも、夏でも融けない厚い海氷に阻まれて先に進めなくなり引返し、イングランドに帰港しました。その航海で到達したスヴァールバル諸島付近で多数の鯨(Whales)を見つけたと報告したので、その直後からスヴァールバル諸島は捕鯨の拠点となり、イギリスとオランダとの間で激しいクジラ捕獲競争が繰り広げられ、スピッツベルゲン島の港はクジラの水揚げや鯨油生産などの産業で栄えたと伝えられています。

1608年にはイギリス東インド会社に所属し、今回も北極から太平洋に出る航路”北東航路”を探して探検航海し、バレンツ海のノヴァヤ・ゼムリャ島に到達しましたが、やはり氷に閉ざされて引返し、イングランドに帰港しました。

1609年には同じくアジアへの近道を求めるオランダ東インド会社(VOC)に雇われました。以前と同様の北回り航路(北東航路)発見の探検航海は、自分も含め以前の航海者が全て氷で行く手を阻まれてきたため無理だと考えました。同し頃に英国ヴァージニア植民地のジェームズタウンがキャップテン・ジョン・スミスによって建設されたことを聞いたハドソンは、北アメリカ南部からの横断航路を探すことにしました。そしてダッチ・ガレオン船ハーフ・ムーン号北西航路(Northwest Passage)を求める大西洋横断航海に出帆しました。ハーフ・ムーン号は現ワシントンDCの東に有るチェサピーク湾とデラウェア湾周辺を探検航海するも、これらの湾は太平洋にはつながっていないことが分かりました。1609/9月にはその北にあるニューヨーク湾へ入り、マンハッタン島を発見して上陸、現地人と
交易しました。その後、ハドソン川(Hudson River, 507km)を遡上、オルバニー(Albany, New York)にまで達するも、それより先は川幅が狭いため戻らざるをえませんでした。それは結局、北アメリカ大陸南部には太平洋への水路はなかったことが後に判明しました。ハドソン川の探検で、彼はモヒカン族(Mahican)やワッピンガー族(Wappinger)など多くの先住民と交易を行い、貝殻、ビーズ、そしてビーバーやカワウソの良質の毛皮を手に入れました。オランダはこの航海をきっかけに毛皮交易を始め、この地域への権利を主張するようになりました。1614年にオランダがオルバニーを建設後、マンハッタン島にニューアムステルダム(New Amsterdam)を建設して ビーバー

カナダ 1954 発行
ニュー・ネーデルラント(New Netherland)誕生。1625年にはハドソン川々口のマンハッタン島にその首都ニューアムステルダムが建設されました。

1610年8月には、イギリスのディスカヴァリー号(Discovery)に乗船し、北西航路の開拓を目指して再度、北米大陸沿岸を探検航海。ハドソン川を発見してさらに北上し、8月頃にカナダ北部のハドソン海峡やハドソン湾に到達。数ヵ月間を一帯の地図の作成と探検調査に費やし、11月頃、そこで海(ジェームズ湾)が氷に閉ざされたため越冬することになりました。その際に出航時には越冬を計算に入れていなかったため、食料の必要量を少なく見積もっていたことで、食料が著しく欠乏したために乗組員が反乱を起こしました。

1611/6/24払暁に反乱を起こされて、ハドソンは病人を含む忠実な部下7人と息子と共に本船を下ろされ、その9人は小舟に置き去りにされました。当時の一般的な置き去りとは違い、一切の水も食料も与えられませんでした。小船は南下したと見られていますが、その後の消息は不明となりました。後に妻のキャサリン(Catherine)が資金を出し、捜索が行われましたが、なんら成果を上げることはできませんでした。

反乱した者達はハドソン湾口のディッジス諸島へ向かいましたが、現地人との争いで反乱の首謀者と多くの乗組員が戦死し、かろうじて少人数(8人)がアイルランド南部に帰還しました。指揮官を置き去りにしたことが発覚して、一旦は生存者が逮捕されたものの、極限状況下の事件であるとして、結局は罪に問われず釈放されたと伝えられています。

ハドソン船長の大航海:〜
第1回、北東航路の探索への冒険大航海
1607年、ホ−プウェル号(Hopewell, 80tn)の航海
    16才の息子ジョン(John)とロバート・ジュエット(Robert
    Juet、日誌を記録)が同行
05/01、乗組員10人と息子と共にホ−プウェル号でロンドンを出帆
06/14、グリーンランド東岸に到達
    沿岸を探検航海
06/22、グリーンランド海岸を離れ、東方へ航海
06/27、スピッツベルゲン島を望見
    多数のクジラ(whales)を発見
07/13、北緯79度23分に到達、北極点の577海里(1,069km)南
07/14、スヴァールバル諸島のクジラ湾(Whales Bay)と呼んだ所に
    到達、その現クロスフョールデン島(Krossfjorden)北東端
スヴァールバル諸島
スピ
ッツベルゲン島
ノ|ルアウストランネ島
ノールウェイ 1986 発行
    を発見者のウィリアム・コリンズ(Boatswain William Collins)甲板長に因んでコリン
    ズ岬(Collins Cape、現カップミタ:Kapp Mitra)と命名
07/15、北方へ航海
07/16、スヴァールバル諸島の北西端ハークルイト・ヘッドランド(Hakluyt's Headland)到達
     北緯79度49分、最北端に到達
     グリーンランドからデーヴィス海峡(Davis Strait)へ向うも氷海で難渋する
09/15、ロンドンのテームス川ティルブリー(Tilbury)泊地に帰港。

第2回、北東航路の探索への冒険大航海
1608年、ホ−プウェル号の航海
     息子のジョンと、ロバート・ジュエットが同行
     再度、英東インド会社とモスクワ会社の要請で、北東航路の発見へと
04/22、ロンドンをホ−プウェル号で出帆
  ?   北極海ノヴァヤゼムリャ島(Novaya Zemlya)に到達
7月中、北極圏を探検航海
夏終り、4,020km航海後、
     氷海で難渋して帰途に着く
08/26、ロンドンのグレーヴセンド(Gravesend)に帰港。

第3回、北西航路の探索への冒険大航海
1609年、ハーフ・ムーン号(Half Moon 112tn)の航海
    息子ジョンとジュエット(航海日誌を記録)が同行
    オランダ東インド会社(VOC)の要請で、
    北東航路の発見へと
04/04、オランダのアムステルダム(Amsterdam)を
    ハーフ・ムーン号で出帆
5月中旬、ノールウェイ北部マーゲロイ島の現ノールカップ
ハーフ・ムーン号
    (Nordkapplataet, Norway)回航
    (そこは1533年にリチャード・チャンセラー(Richard Chancellor 1556没)が北東航
     路探検中にノース岬(North Cape)と命名)
07/02、ニューファウンドランド沖グランドバンクス(Grand Banks of Newfoundland)に到達
7月中旬、ノバスコシア半島ラハーヴ(LaHave, Nova Scotia)に到着
    10日間滞在してマストなどを修理
07/14、ペネブスコット湾(Penobscot Bay, Maine)に上陸、友好的な現地人と交易
07/18、ジョージ・ハーバー(George's Harbour)へ進入、投錨
07/25、上陸
08/04、現マサチューセッツ州東端ケープコッド(Cape Cod)に到着
  ?   チェサピーク湾(Chesapeake Bay)
  ?   デラウェア湾(Delaware Bay)
09/05、ヴェラザーノ船長発見(1524)のノースリバー
     (North River:現ハドソン川)河口付近の
     三角江(estuary)を再発見
09/06、現ニューヨーク港(New York Harbor)のコ
     ニーアイランド(Coney Island)とサンディ・
     フック(Sandy Hook)の間に上陸して、ジョン・
     コールマン(John Colman、2nd mate)
     が現地人の矢で首を射抜かれて亡くなる
09/07、現地人を追い払ってコールマンを埋葬
     その顛末をロバート・ジュエット(Robert
     Jouet、1st mate)が航海日誌に記録
09/11、上ニューヨーク湾(Upper New York Bay)へ
ハドソン川三角江付近の地図、1600
09/12、ハドソン川を10日間に渡って遡上、探検調査
  ?   現オールバニ(Albany, New York)に到達
09/23、母港への帰港を決定
11/07、英国デヴォン州ダートマス(Dartmouth, Devon)に帰港、英国王ジェームス1世
     (James I, 1603-1625)の怒りにふれて当局に拘留されるも、
     オランダ英国大使のはからいで、航海日誌がアムステルダムへ送付される

第4回、北西航路の探索への冒険大航海
1610年、ディスカヴァリー号(Discovery, 1602:ship, 50tn)の航海
     息子のジョンと、ロバート・ジュエットが同行
     英国ヴァージニア会社(Virginia Company)の要請で、北西航路の発見へと
04/17、イングランドのロンドンを21人で出帆
05/11、アイスランド到達
06/04、グリーンランド到達
  ?   デーヴィス海峡へと航海
     氷海の風と潮流で西方へ流されてレゾリューション島(Resolution Island)到達
  ?   レゾリューション島とラブラド−ル半島北を通過
     (幸運島(Good Fortune Island)と呼んだ所が現レゾリューション島になる)
06/25、ラブラド−ル半島北のハドソン海峡(Hudson Strait)に進入
  ?   アンガヴァ湾口(Ungava Bay)アクパトク島(Akpatok Island)を通過
  ?   ハドソン湾口ディッジス諸島(Digges Islands)と
     ラプラドール半島北西端ウルステンホーム岬(Cape Wolstenholme)の間を通過
     プリケットにバイロットとグリーンを付けてボートでディッジス島を調べるも食料は無
08/02、ハドソン湾(Hudson Bay)を発見、進入
     測量して地図作成の探検調査を実施
10月、ハドソン海峡から1000km南下したハドソン湾奥のジェームズ湾(James Bay)発見、
    進入・探検調査
11月、湾南東端ルパート川口(Rupert River 763km)付近で氷漬けとなり、
    上陸、ジョン・ウィリアムズが亡くなるも、スタッフが小屋を作って越冬準備
    越冬 (そこは1631年にジェームス湾と命名される)
    全員が厳寒と飢えと、壊血病での関節痛、内出血、歯の脱落に苦しむ
1611年
06/12、母港への帰港へと出帆
06/23、夜にジェームス湾のチャールトン島(Charlton Island)着
     グリーンとウィリアム・ウィルソンがプリケットの部屋に行き反乱計画を告げる
06/24、夜明け頃に反乱が勃発
     ハドソン船長、息子ジョン、ウッドハウス、スタッフ(含病人)など9人が
     小型ボート(shallop)に追放され、行方不明となる
  ?   バイロットがディスカヴァリー号をディッジス諸島へと航海、
  ?   上陸後に現地人との戦いでグリーン他1人が没
  ?   反乱者13人中8人がアイルランド南部にボロボロのディスカヴァリー号で到着
  ?   救助された8人がロンドンに送還され、生還・帰港
  ?   当局に逮捕されるも、
     持ち帰った日誌や地図などで、ハドソン船長の業績が高く評価される
1618年
  ?   生還した反乱者8人の裁判が始まる
    (生還者8人中4人が殺人罪に問われるも無罪となる)
  ?   全員おとがめなしとなる

主な乗組員:〜
・ヘンリー・ハドソン船長、(行方不明)
・ジョン・ハドソン、19才の息子、(行方不明)
・ロバート・バイロット(Robert Bylot)、ディスカバリー号の舵を取って帰国、生還
・ウィリアム・ウィルソン(William Wilson)、ディッジス岬(Cape Digges)で現地人に殺害
・ロバート・ジュエット(Robert Juet)、飢えて没
・ジョン・ジェーンズ(John Janes)
・フィリップ・スタッフ(Philip Staffe, the carpenter)、大工、(行方不明)
・ジョン・キング(John King)
・ジョン・ウィリアムズ(John Williams, the gunner)、砲手
・陸者(おかもの:4人)
 ・ヘンリー・グリーン(Henry Greene)、勘当者、ディッジス岬で現地人に殺害される
 ・エドワード・ウィルソ(surgeon Edward Wilson)、外科医
 ・アバカック・プリケット(navigator Abacuk Pricket)、日誌を記録、生還
  (ドゥドレイ・ディッジス(Sir Dudley Digges, 1583-1639)の従者)
 ・トーマス・ウッドハウス(mathematician Thomas Woodhouse)、数学者、(行方不明)
・その他9人(計21人説有)

主な反乱者:〜
・ヘンリー・グリーン、反乱の首謀者、(没)
・ロバート・バイロット、反乱の副長、ディスカバリー号の舵を取って帰国、(生還)
・アバカック・プリケット、航海日誌を記録、(生還)
・ウィリアム・ウィルソン、(没)
・ロバート・ジュエット、(没)
・その他8人(計13人説有)

・ハーフ・ムーン号の装備:〜
  Halve Maen
、(Half Moon)、1608 (VOC Amsterdam)
蘭語ではハーヴ・ミーン号(Halve Maen)で、1609年にヘンリー・ハドソンがオランダ東インド会社の依頼で北米大陸沿岸を探検航海しました。現在のハドソン河をさかのぼり、広大な平地(現ニューヨーク)を発見。この時の船がダッチ・ガレオン船ハーフ・ムーン号でした。
船 型 ダッチ・ガレオン船 (Ducth Galeon) ハーフムーン号

ドミニカ 2009 発行
帆 柱 3本マスト (高さ 23.80m)
長 さ 25.90m (甲板 Deck)
19.70m (キール Keel)
 5.27m (ビーム Beam)
深 さ  2.59m (ドラフト Draft、喫水)
重 量 112屯 (積荷 80屯)
武 装 砲4門
乗 組 20人
進 水 1608年、アムステルダム(Amsterdam)
所 属 オランダ東インド会社(Dutch East India Company)
最 後 1618年、ジャカルタでイギリス船と交戦後に炎上、沈没
なお、1909年と2009年に「ハドソンの航海300、400年」を記念してオランダでレプリカ(複製)が建造され、米国ニューヨークへ航海しました。表内の数は全て、およそ(約)で推定。

参考:〜
ニューアムステルダム
 (New Amsterdam)
オランダ植民地時代のニューヨークの名称。1609年アジアに通じる”北西航路”を発見するためオランダ東インド会社に雇われた英人ヘンリー・ハドソンが発見しました。当時アメリカ大陸の全容は未知で、アジアに通じる”北西航路”があると信じられていたため、東インド会社が探検隊を送りました。ハドソン船長はハドソン川を
ニューアムステルダム、1653






アメリカ 1953/11/20 発行
遡って流域一帯をオランダ領ニューネーデルラント(New Netherland, 1614-1674)と宣言しました。ハドソン川の名称はハドソン船長に因むものです。その後、オランダ西インド会社の管轄に移され、ビーバーなどの毛皮が取れるハドソン川流域の植民が行われました。

ニューヨーク州
 (State of New York) 人口19,651,127人(2013)
アメリカ北東部、大西洋側から五大湖のオンタリオ湖とエリー湖に至る扇状形の州で、州都はニューヨーク市からハドソン川上流に有るオルバニーです。1609年、オランダ東インド会社に雇われたイギリス人ヘンリー・ハドソン船長が、ハーフムーン号でニューヨーク湾を発見し、さらにハドソン川を遡上してオルバニーに到達。オランダは1614年に、原住民との間で皮革の交易を行う拠点としてフォート・ナッソー (Fort Nassau) をオルバニーに建設。その後、ヨーロッパから移民団が渡り、1624年
ニューヨーク州旗

USA 1978 発行
にニューネーデルラントで最初の永続的植民地フォート・オレンジ (Fort Orange) が建設されました。1652年に、オランダ西インド会社はフォート・オレンジから発展した村落共同体の名をベヴェウィク (Beverwyck) としました。1664年にオランダ領ニューネーデルラントは、イギリス領となり、それにあわせてベヴェウィクがオルバニーに改称されました。これは、オールバニ公ジェームズ・ステュアート(後のジェームス2世)に敬意を表しての命名でした。そして1686年、市制を施行。なお、ニューヨーク州の死刑制度は1995年にパタキ州知事(George E Pataki, 第53代:1995-2007)の下で再導入されるも、2004年にニューヨーク控訴裁判所が「市民対ラバレ事件」判決でニューヨーク州憲法に違背していると裁定しました。残っていた死刑宣告者は「市民対ジョン・テイラー事件」判決で終身刑に減刑され、死刑囚監房は2008年にパターソン知事(David A Paterson、第55代:2008-2010)の執行命令で解体されました。1963年以来ニューヨーク州で死刑執行は行われていません。

ニューヨーク州(state of New York)の主な10都市:〜
01.ニューヨーク市 (New York City)8,274,527人(2010)
02.バッファロー市 (Buffalo, Erie County)279,745人
03.ロチェスター市 (Rochester, Monroe County)211,091人
04.ヨンカーズ市 (Yonkers, Westchester County)196,425人
05.シラキュース市 (Syracuse, Onondaga County)141,683人
06.オルバニー市 (Albany, Albany County)93,523人
07.ニューロシェル市 (New Rochelle, Westchester County)72,967人
08.マウントバーノン市 (Mount Vernon, Westchester County)67,924人
09.スケネクタディ市 (Schenectady, Schenectady County)61,280人
10.ユーティカ市 (Utica, Oneida County)59,336人

参考HP:〜
ハドソンの航海地図
ディッジス諸島の場所地図(日本語、Google Map)
下ニューヨーク湾とサンディ・フックの場所地図
コニーアイランド半島の場所地図(航空写真)
上ニューヨーク湾の場所地図
ニューヨークの地図(日本語、Google Map、上&下ニューヨーク湾とサンディフック湾が有)

チェサピーク湾の場所地図
デラウェア湾の場所地図(緑色)
ハドソン川の場所地図
マンハッタンの場所地図
アイルランド島の地図
バレンツ海の場所地図

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 2008/11/11追記, 10/6/10, 14/12/14, 令和6年 2024/2/3
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