Pirates of Caribbian
Jolly Roger

海賊エドワード・イングランド船長
1720
モーリシャス島に置き去りにされる

大航海物語
 ★カリブ
Bahamas
エドワード・イングランド船長

バハマ 1987/6/2 発行

Turks & Caicos Islands
商船を襲う海賊船

タークスカイコス 1971/7/17 発行
Saint LUCIA
海賊船の襲撃

セント・ルシア 2007 発行

Turks & Caicos Islands
孤島置き去りの刑

タークスカイコス 1971/7/17 発行
MAURITIUS
モーリシャス島

モーリシャス  1978/3/12  発行

St.VINCENT
アメリカ南部、メキシコ湾、カリブ海の地図  

メキシコ湾
カリブ海

大西洋
セントヴィンセント 1980/12/4 発行  

アイルランド生まれのエドワード・イングランドは新大陸ジャマイカ島に渡って船乗りをしていましたが、海賊の一味に加わり、やがてバハマの海賊ヴェーン船長の海賊船に乗り組んで、捕獲船を与えられて海賊船長になりました。西アフリカ沿岸から、遠く希望峰をこえてインド洋まで遠征航海して略奪をはたらきましたが、捕獲船捕虜の処分をめぐって部下に反乱を起こされ、インド洋中の絶海の孤島モーリシャス島に置き去りにされました。
海賊エドワード・イングランド船長 (生年不詳〜1720)
 Edward England

  (カリブ海、アフリカ沿岸とインド洋での活動期間:1717-1720)
エドワード・イングランド海賊船長はアイルランドのエドワード・シーガー(Edward Seegar)で生まれましたが、詳しい消息は定かではありません。

イングランドは新大陸のジャマイカ島に渡り、スループ船(Sloop)に乗組んで航海士(mate)になりました。航海中にバハマ島のニュープロヴィデンス島(New Providence Island)ナッソー港(Nassau harbour)を基地にして活動していたイギリス海賊クリストファー・ウインター船長(Christopher Winter)に船を捕獲されましたが、そのままウインター船長の一味に加りました。

1718/3月にイングランドは海賊チャールス・ヴェーン船長(Charles Vane 1680-1721/3/29)の海賊スループ船ラーク号(Lark)に乗組み、操舵長(quartermaster)になりました。ラーク号はイギリス海軍の軍艦に捕えられましたが、イングランド操舵長と多くの乗組員が脱出して、バハマ島ナッソーに辿り着きました。バハマ諸島のウッズ・ロジャース総督(Governor of Bahamas)が、1718/9/5迄に降伏した海賊達にイギリス国王の恩赦(King's pardon)が与えられると発布したのを受け入れて、多くの仲間と共にイングランドも許されました。

その後にヴェーン船長がイングランドに捕獲船を与えイングランドは船長となりました。海賊船パール号(Pearl)の船長になり、船名をロイアル・ジェームス号(Royal James)に改めたと伝えられています。イングランド船長はアフリカ西海岸へ航海して、多くの奴隷船を襲い、大きな成果を上げました。彼らは時々、海岸の町に上陸しては水や食料を略奪して補給し、女性問題も起こしました。住民が反抗してくると町を焼き払って出帆しました。1719年にはアフリカで24隻以上の船を捕獲しました。勇気があり、海賊にしては人道的でしたが、それが後に彼を失墜させることになりました。

1720年頃にイングランド船長はファンシー号(Fancy)に乗りかえて、クロス・ボーン印に髑髏(Cross Bone & Scull)のジョリーロジャー(Jolly Roger)の旗印を掲げて、インド洋に航海しました。マダガスカル北東部に浮かぶインド洋に面する南北60km、東西10kmの細長い島で海賊の拠点になっていたサント・マリー島(Ile Sainte-Marie、ノシ・ブラハ:Nosy Boraha)で海賊仲間のオリヴェー・ラバスール(Olivier Levasseur)とも言われるフランス海賊オリヴァー・ラ・バス船長(Oliver la Buse 1688-1730/7/7)に出会い、ジョン・テイラー(John Taylor)と共に合流して船隊を組みました。当初インドの南西マラバル海岸沖にあるラクシャディープ諸島(Lakshadweep)にまで遠征航海して、略奪をはたらきました。

▼モーリシャス島に置去り:〜
イングランド船長は人道主義的な感情を捨てきれないアイルラン魂の持ち主で、どちらかというと弱い海賊でした。1719−1720年には多くの船を襲い多くの収穫を得ましたが、インド洋でジェームス・マックラエ船長(James Macrae)のイースト・インディアマン号(East Indiaman:英東インド会社の商船)を襲撃した時、マックラエ船長は海岸へ向かって逃走をはかりましたが、追いすがって船を捕獲し、船長や乗組員達を捕虜にしました。イングラン
孤島置き去りの刑
ド船長はジョン・テイラー操舵長に船長を生かしておくように命じましたが、テイラー操舵長はそれを不服として怒り出して、「船長の免職」を乗組員の投票にかけました。その結果、免職派が多数となって反乱を起こされ、当時フランスが支配していたモーリシャス島に2人の部下と置き去りにされました。

イングランド船長は何とか小船(raft)を作り、マダガスカル島への脱出に成功しました。イングランド船長はマダガスカル島のセント・オーガスティン湾(St. Augustine's Bay, Madagascar)で1720年の終わり頃に亡くなり、そこが終焉の地になったと伝えられています。

参考HP:〜
カリブ海の地図
ホンジュラス湾の地図
インド洋の地図(モrシャス島、ラクシャディープ諸島が有)
ラクシャディープ諸島の地図(Lakshadweep)
サント・マリー島の地図(Nosy Boraha)
マダガスカル島の地図(セント・オーガスティン湾は南西の”Toliary”に有)

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。      11/12/11
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