切手で綴る 冒険大航海 (Adventure Voyage)

★ロジャース物語
第1章
第2章
第3章第4章
United Kingdom

国連 1983 発行
第3章  航海日誌
ロジャーズ遠征隊・私掠船大航海
1708/8/1〜1711/10/14
デューク号航海日誌

大航海物語
  イギリス編
航海日誌マダガスカル

Bahamas
ウッズ・ロジャース船長

バハマ 1987/6/2 発行
Tazania
海賊旗を掲げる私掠船

タンザニア 1994 発行

FIJI
世界一周航海

太平洋と世界地図
フィジー 1977/4/12 発行
ESPANA
スパニッシュ・ガレオン船

スペイン 1964/7/16 発行

ロジャーズ遠征隊・私掠船(海賊)航海の
  デューク号航海日誌より

    (The Log of Duke Privateer Voyage、raids on the Spanish)
1708年
 08/01、ブリストル近くキング・ロード錨地に2隻の遠征船隊が投錨
      ・デューク号:司令官ロジャーズ船長、乗員117人
      ・ダッチェス号:コートニー船長、乗員108人
      英仏海峡に備砲46門フランス艦ジャーシー号出没で
      出港する船と10隻以上の船団を組む
 08/02、船団がアイルランドのコーク港へ出帆、ブリストル海峡マインヘッド沖を通過
 08/03、デューク号とダッチェス号の両船は遠洋航海向きの整備不良の上、
      乗組員は20人足らず以外は不慣れな連中で、コークで正規の船乗りを徴募する
 08/04、英仏海峡を突破、4隻が西へ行くので船団を離れる
 08/05、デューク号風向きが悪くコーク近くのサヴリンス・ボラックス岩島沖に投錨
 08/06、同行の船はコークに投錨、ダッチェス号は港口で待つ
 08/07、船隊の両船がコーク外港コーヴに投錨
 08/10、ノブレット・ロジャース氏徴募の入れ替え乗組員が集まる
 08/11、風強く悪天候。両船の帆走能力を高める改装を実施
 08/12、風強く悪天候、ブリストル乗船の新米水夫40人近くを解雇
 08/28、船底の清掃と樹脂塗り、新採用乗組員の収容などが完了

ロジャース遠征隊コーク港出帆時の船隊編成:〜
  ・デューク号〜フリゲート型320屯砲30門船、司令官ウッズ・ロジャーズ船長、乗組員183人、
    積載舟艇:ピンネス艇2隻、ボート数隻
    (frigate Duke 320t 30gun:公爵号)
  ・ダッチェス号〜フリゲート型260屯砲26門船、スティーヴン・コートニー船長、乗員151人、
    積載舟艇:ピンネス艇、ヨール艇、ボート数隻
    (frigates Duchess 260t 26gun:公爵夫人号)

1708年
 09/01、英仏海峡に備砲46門フランス軍艦ジャーシー号乗員151人の出没情報があるため、
      両船は軍艦ヘーティングス号に護送される形で商船々団20隻と共にコーク港を出帆
       ・デューク号ロジャーズ船長、司令官、乗員183人
       ・ダッチェス号コートニー船長、乗員151人
 09/02、遠征船隊の両船は船足が早くなり順調に航海
 09/02、デューク号の上半部が少々漏るのに気づく
 09/04、女王陛下の軍艦ヘーティングス号ポール艦長の昼食会に招かれる
 09/05、遠征船隊の両船乗組員に行き先を告げ、全員の了解を取り付けて
      成功を祈って乾杯する。船隊オーナーのバチェラー商会に報告書を出す。
 09/08、遠征船隊の両船の主だった者がデューク号で会食する
 09/09、初めての評議会を開催して、マデイラ島寄港と多量の酒類仕入を決議、6人が署名
 09/10、昨日追跡のフリゲー型22門240屯ハンブルグ船籍船を停船検査、敵性無しで放免
 09/11、昨日不審船検査乗船中にデューク号で反乱が起る、首謀者ボースン(掌帆長)ジャイルス・
      キャッシュと下士官3人を高級士官達に逮捕させる。水夫1人を鞭打刑、反乱者計10人を
      鉄足枷で拘禁、その他の比較的に罪の軽い者は鞭打罰で放免。ロジャーズ船長は
      士官数が多かったので反乱を鎮圧できたと思うと回想
 09/13、アレグザンダー・ウィンターを臨時掌帆長に任命
 09/14、風向きでマデイラ島寄港を止めカナリア諸島へ進路変更、マデイラ島へ行を共にしていた
      ガレー船クラウン号に反乱首謀者キャッシュをマデイラ島へ護送のため鉄枷で託す
 09/16、反乱の囚人達がおとなしく降参したので放免、元の階級に戻す
      助手だったジョン・ピラーをボースン(掌帆長)に昇進させ万事円満落着
 09/17、マデイラ島南方のサルヴァージン島を望見
 09/18、カナリア諸島のテネリフェ火山を望見
      スペイン25屯バーク船乗客45人を砲撃して捕獲
 09/19、テネリフェ島オラタヴァへ商人ヴァンブルーを
      バーク船長スペイン人と船を買い取らせる交渉に派遣
 09/21、バーク船を代価の食料で乗客共に放免、少しの積荷はダッチェス号と山分け
 09/22、カナリア諸島のゴメラ島、ラパルマ島を次々に望見
 09/25、初めて回帰線を通過する新米水夫60人を海水に漬ける儀式を挙行、
      他の嫌がる者は罰金半クラウン、帰国後の打上費用とする習わし
 09/26、スペインのバーク船分捕り雑貨品を乗員に競売で売る
 09/29、夜、大マストの帆を巻き上げ中の水夫が突然落下、海中へ消える
 09/30、カーボ・ヴェルデ諸島サル島を望見後、サンヴィセンテ島へ向い投錨
 10/01、油に使用していた樽を水用にするため、桶屋と5人で内側を燻蒸消毒
 10/03、通訳アレクザンダーに総督宛書簡を隣の島サント・アンタン島へボートで派遣
 10/04、両船の傾船修理を実施、薪と水を十分補給
 10/06、黒人の総督代理がボートで食料品などを持って来船、物々交換でそっくり貰うが、
      通訳アレクザンダーの消息が不明となる
 10/07、拿捕船の分捕り品の分け方について乗組員一同と申し合わせる
      ・まず、拿捕船の物資を両船で2等分する
      ・水兵や新米水夫は10ポンド相当分
      ・大工より下位の下士官は20ポンド相当分
      ・兵曹、砲手、掌帆長、大工は40ポンド相当分
      ・海尉と航海担当士官は70ポンド相当分
      ・両船長は100ポンド相当分
      ・特に際立った活躍をした者は報奨金が加算される
      ・さらに両船長には全体の5%を上乗せする
      ・50屯以上の拿捕船を最初に見つけた者は8レアル銀貨20枚を与える
      ・なお、24時間後に銀貨以上の物資を隠していたら罰して、分け前の資格を失う
      ・また、いざという時に泥酔したり、隠れたり、職場放棄したりすると厳しく罰する
 10/08、夕刻に総督代理をサント・アンタン島の寂しい海岸へ送って、出帆
 10/21、ダッチェス号でコートニー船長と会食
      ブラジルに寄ると脱走者の心配があるので、トリニダードへ向うことになる
 10/22、ダッチェス号副長クークに反抗したページ軍曹をデューク号へ移送後、海に飛込
      んで戻ろうとしたのを捕えて、脱走と反抗の罪にてデューク号で鞭打ち後、監禁する
 10/27、夕刻に赤道を越える
 10/28、英国国教会式礼拝を朝夕実施することにする
 10/29、ページ軍曹が前非を悔い改めると約束したので鉄足枷から解放
 11/02、スペインのバーク船からかつら1個、シャツ2枚、靴下1足を隠匿していた
      水夫2人に足枷の刑、その後に許しを請い謝ってきて改心を約束したので、解放
 11/04、トリニダード行きが困難となり、ブラジルのグランデ島へ向うことになる
 11/14、朝、ブラジル陸地を望見
 11/17、ピンネス艇でリオデジャネイロ西フリオ岬沖の島へ水先案内人ダンピール船長を
      偵察に派遣、海亀を持ち帰る
 11/19、ブラジル沖のグランデ島かどうか確認にダンピール船長を派遣、確認できて沖合いに投錨
 11/20、グランデ島西岸の湾の給水できる入江へ向ってロジャース船長がダッチェス号の
      ヨール艇で測鉛しながら、先任士官フライとダンピールのボート2隻を島の偵察に派遣、
      安全確認後、投錨。入江から来たポルトガル船にフランス側の略奪に遭ったと聞く
 11/21、コートニー船長が抗命で水夫8人を鉄足枷の刑とする
 11/22、ピンネス艇で副長クーク、ホープ中尉をポルトガル総督への使者として派遣、
      総督は留守でフランスの略奪にしょっちゅう遭っていると聞く。脱走者発生時の
      逮捕協力を依頼。ボートで漁網漁をすると大漁。船大工2人がマスト修理用材を
      探しに行く途中で墓地を発見、案内のポルトガル人から9ヵ月前に給水で来た
      フランス船2隻が乗員の半数を埋葬と聞く
 11/23、猛烈な暑さの中でダッチェス号が傾船修理。薪を多量に伐採。金山へ黒人奴隷輸送の
      ブリガンティーン型ポルトガル船が来港、近くに金山が有るらしいが聞き出せず
 11/24、傾船修理を続行、デューク号にポルトガル人が数隻のカノア舟で来船、もてなす
 11/25、デューク号のマスト取替修理完了、給水と薪補充も完了、来船のポルトガル人をもてなす
 11/26、マイケル・ジョーンズとジェームス・ブラウンの新米アイルランド水夫が脱走
 11/27、脱走者2人を連れ戻し、鞭打ち後、鉄足枷の刑
 11/28、両船長と大部分士官の計10人が「聖処女受胎日祭」のアングレ町へ上陸、
      アングレ総督の歓迎を受ける
 11/29、評議会を開催、船長としての信任を確認、署名してもらう
 11/30、ポルトガルのブリガンティーン船に本国への手紙を託す
 12/02、出帆して、グランデ島南端に投錨、
      その後は強風に見舞われながらも順調に航海
 12/07、掌帆長助手の下士官の職を解き、最優秀船員の内の
      ロバート・ホランビーを任命
 12/09、デューク号の掌帆長付下士官ベンジャミン・ロングと反抗的な
      ダッチェス号の掌帆長付下士官トマス・ヒューズを交代させる
 12/15、南緯43度30分に到達、寒くなって来た
 12/18、作午後にダッチェス号水夫がマスト見張台から転落亡くなる、
      本日水葬に付す
 12/20、濃霧の中でダッチェス号を見失うも再会
マスト見張台

セント・ヴィンセント 1992 発行
 12/23、フォークランド諸島の陸地を望見

1709年
 01/01、全員で航海の成功を祈って祝杯を挙げる
 01/02、仕立屋6人に毛布などで数週間掛りで用意させていた防寒衣類が準備できる
 01/05、暴風となり、寒さが非常に厳しくなる、南緯60度58分
 01/07、足が浮腫んでいた水夫ジョン・ヴィールが最初の病没者となり水葬に付す
 01/10、前人未到の南極海南緯61度53分に到達、ロンドンからの西経は79度58分
 01/14、ダッチェス号で壊血病の病没者が出て水葬に付す
 01/15、南緯56度でホーン岬を回航して南海(太平洋)に入る
 01/16、穏やな海面を順調に航海
 01/20、南海のパタゴニア海岸セント・スティーブンス港の高い陸地を望見
 01/22、加治屋ジョージ・ロスが亡くなる
 01/28、両船の病人の容態が悪化
 01/31、ファン・フェルナンデス島の近海に入る、南緯34度10分
 02/01、ピンネス艇ドーヴァー船長を島へ派遣
      火を見て戻り、フランス船だとの結論で戦闘準備する
 02/02、島に接近するも敵影は無く、武装6人をヨール艇で偵察に
      出すも戻らないのでピンネス艇を派遣すると、
      第3回ダンピール遠征隊セント・ジョージ号ダンピール船長
      に随伴するシンク・ポーツ号に航海長で乗組み、
      セント・ジョージ号と別れて同島寄港の時シンク・ポート号
      ストラッドリング船長に置き去りにされて4年4ヵ月過ごし
フアン・フェルナンデス諸島

チリ 1974/11/22 発行
      山羊の毛皮を縫い合わせたものを身につけているアレクザンダー・セルカークを乗せて
      戻る。ダンピール船長の証言でセルカークを士官(皆は総督と呼ぶ)に任命。
      夕刻に島の沖で投錨
 02/03、デューク号の病人は21人で、重傷は2,3人。ダッチェス号はもっと多く、気候の良い海岸に
      天幕を張って暮らしながら、漁獲も多く、セルカークが捕まえてくれた山羊と新鮮な青物
      との食事をとって、壊血病の病人は介抱へ向う。船の修理、薪の伐採と給水の作業
      にかかる。余剰の魚は塩漬けにする
 02/10、アザラシを捕って肉は食べ、油を煮詰めて灯火やバターの代用にするため貯蔵
 02/13、ダッチェス号で評議会を開き今後の行先などの方針を決定
 02/14、ファン・フェルナンデス島を出帆、
      まず本土へ向い、沿岸沿いに北上することにする
 02/16、両船4人づつの鹵獲品管理担当者()を決める
 02/28、弱風時に本船に代わる攻撃用でピンネス艇2隻に
      火砲を小型旋回砲式に据付け
 03/02、観測で、南緯17度3分、西経70度29分を得る
      (南アメリカ西岸を航行)
小型旋回砲

クリストファーネヴィスアンギラ1970発行
 03/04、水の制限を始める、各人一日@3パイント(約1.5リットル)とする
      ダッチェス号ボーイが後檣楼からデッキに墜落、足を折るも回復見込みあり
 03/09、エクアドルグアヤキル攻略ペルー沖ロボス島で大型ランチ建造となる
 03/14、乗組員が宝船の獲物にありつけないと不満を漏らし出す
 03/15、麦粉購入資金を持つ乗員6人16屯位小型バーク船をダッチェス号が捕獲、捕虜から4年前
      のダンピール船隊の来航以来、私掠船を見ず、ダンピール船長の僚船シンク・ポート号が
      コロンビア南西岸バルバコーレ海岸で難破してストラッドリング船長と6,7人がスペインの
      捕虜となり、リマ市で4年間虜囚となったことなどを聞く
 03/16、ロボス島を望見、ピンネス艇を偵察に派遣
 03/18、ロボス島に上陸、天幕を張って病人を収容、捕獲バーク船に砲4門搭載し
      ビギニング号と命名、ダッチェス号副長クークを船長に任命
 03/20、ビギニング号にデューク号の20人、ダッチェス号の12人を完全武装で乗船させる
 03/22、デューク号シルヴェスター・ラモスが亡くなり夜埋葬、
      壊血病者は2,3人になる
 03/23、船の清掃で船底のフジツボをとる
 03/26、ダッチェス号がグアヤキルからペルー北西トルヒーヨ行きの
      材木満載50屯位サンタ・ホセファ号を捕獲、曳航して戻る
 03/27、デューク号を傾船修理
      修理後に船底まで樹脂を塗る
      病人用天幕にいたオランダ人水夫が壊血病で亡くなり埋葬
傾船修理

ソロモン 1999 発行
 3/30、捕獲船サンタ・ホセファ号をインクリース号と命名、セルカーク伍長を船長に任命して
     病人を移し両船から船医2人をつける。ダンピール船長はセント・ジョージ号をロボス島で
     乗捨て捕獲スペイン小型バーク船で25人と東インディーズへと出帆している。
     乗組員には捕虜との接触を禁じる
 04/02、ピンネス艇々長フライ大尉が織物類・材木積載450屯ガレオン船アセンション号を捕獲
 04/03、ビギニング号が木材積載35屯船乗員12人を捕獲
 04/07、不行跡なヴァンブルー代理人を評議員から除名、サミュエル・ホプキンスを任命
 04/12、評議会でニュースペイン(エクアドル)のグアヤキルに上陸し町を攻略することを決議
 04/13、無秩序や船からの離脱防止に船員10人ごとに士官1人をつけることにする
 04/15、リマ船籍大型船ルアーヴル号乗員150人以上を、
      ピンネス艇に弟20才ジョン・ロジャース乗船、ダッチェス号ピンネス艇が襲撃、
      弟ロジャース中尉の他1人戦死、負傷3人で撃退される
 04/16、本船2隻でルアーヴル号を制圧・降伏させ、
      ルアーヴル号をノールマン曹長が指揮。戦死者を手厚く水葬に付す。
      ピンネス艇とビギング号が小型バーク船を捕獲
 04/17、グアヤキル上陸作戦を準備、完了させる
      上陸部隊201人は3隊に分かれ
       ・ロジャース船長の部隊
       ・コートニー船長の部隊
       ・ドーヴァー隊長の部隊、
         10人に1人の士官で真夜中に出発。
      残留部隊は
       ・デューク号:ロバート・フライ大尉指揮、
         42人、病人やボーイ含む
       ・ダッチェス号:エドワード・クーク指揮、37人、
スペイン入植地の街

ペルー 1936/8/27 発行
       ・ガレオン船:ジョン・ブリッジ指揮14人
       ・ルアーブル号:バート・ノールマン曹長指揮、14人
       ・ビギニング号:ヘンリー・ダック伍長指揮、4人、計111人
      ・なお、捕虜数は300人以上、スペイン人と現地人が半数以上で残り黒人
 04/18、グアヤキル湾入口プナ島南のサンタ・クララ島沖に到達
 04/19、サンタ・クララ島左側を通り抜けアレナ岬沖に投錨
 04/20、現地人案内でプナ島に上陸、現地人からフランス大型フリゲート艦数隻が近くに来ていると
      聞く。島人に見つかりブナ地区へ急報されるも、教会と人家30戸の町を占領、
      3月付ダンピール私掠船隊来襲のスペイン警告書を発見
 04/21、ダッチェス号コートニー船長とデューク号ダンピール船長をプナ島に残して偵察に出る
 04/22、バーク船2隻、ピンネス艇2隻、大型ランチ、ヨール艇などの船団で110人が川を遡上、
      グアヤキル市に接近、既に海賊襲来の警報が鳴っていることを視認
 04/23、総督に降伏を勧告交渉の手紙を捕虜2人に持たせて届ける。川遡上中逃亡バーク船4隻
      発見、捕獲、乗船の武官を岸へ戻すと。総督が来船、話合い後に街の身代金ペソ銀貨
      5万枚と捕獲船積荷と黒人奴隷の買取を要求、支払わずんば街を炎上させると脅して
      街に戻す。夜に贈物の肉などがボート1隻分届く。
 04/24、リマ市からの救援待ちで回答が引き伸ばされ、敵前上陸を決す
      兵力劣性の襲撃部隊の編制:〜(120)
       ・ドーヴァー隊長が6百ポンド砲2門搭載大型ランチ
       ・ロジャーズ船長がピンネス艇
       ・コートニー船長がピンネス艇の3隻に70人
       ・上陸用ボート3隻に武装乗組員40人
       ・グレンダル少尉がバーク船に10人で残り砲2門で街へ援護砲撃
      スペイン防衛隊の豪華な布陣:〜
       ・上陸正面広場に騎兵隊が整列
       ・家屋全面に砲兵隊が布陣
       ・家屋全面に歩兵マスケット銃隊が待機
      襲撃部隊が上陸の河岸で膝撃ち一斉射撃・装填を繰り返すと
      スペインは一度だけ射撃後、砲列まで後退、当方は着実に射撃前進
      すると敵騎兵隊は散を乱して敗走、街中の大教会前の野砲4門と交戦後鹵獲
      ダンピール船長と25人を砲兵として残留させて、追撃
      街外れ教会にドーヴァー隊長隊を配置して、街を占領
      その夜、ドーヴァー隊は森からの狙撃を受け、街外れに放火、街外れの市街が炎上
 04/26、コネリー少尉とセルカーク総督21人指揮で川上の偵察に派遣
      避難女性から首飾りなどの財宝を丁重に分捕って戻る
 04/27、プナで銀貨3万枚支払がまとまり撤退することになり、教会の壁・床・天井を剥がし、
      街の家屋を調べて多少の財宝と大型砲4門などを艇へ運ぶ
 04/28、運びきれない物資を残してグアヤキル街を出帆、アレナ岬の本船へ向い、プナ島へ
 04/29、プナ島着、ビギニング号クーク、フライ指揮と合流、
     捕虜逃亡予防で捕獲船バイタ発小型船を沈める。
     4/20ダッチェス号の重傷ロジャー・ブースが、4/24ウィリアム・エセックスが亡くなっていた
 04/30、サニア発小麦粉など積載30屯超バーク船を捕獲
 05/02、ブナ町全面に投錨・待機、スペインのボートが身代金一部銀貨22,000枚余を持参してくる、
      残金の到着が遅れると捕虜を連行して明朝に出帆すると告げる
 05/06、ダッチェス号がダンピール、ドーバー隊長と共にルアーヴル号を随伴、デューク号も出帆
 05/07、残りの身代金ペソ銀貨3,500枚が届く、
      捕虜の水先案内人などを除く捕虜全員を釈放、ビギニング号は売却
 05/08、サンタ・クララ島沖をガラパゴス諸島へ向けて出帆
 05/11、グアヤキルで数日前に猛威を振るっていた熱病に感染したと思われる
      悪性熱病にデューク号20人以上、ダッチェス号50人弱が発病、コートニー船長も発病
 05/13、捕獲船4隻が随伴
      バーク船ハットリー船長、ルアーブル号、ガレオン船、バーク船セルカーク総督船長
 05/14、デューク号50人位、ダッチェス号70人以上が病臥中となる
 05/15、毎日祈祷書を読んでくれたサミュエル・ホプキンス船医助手が亡くなる
 05/17、島影を望見、
      デューク号60人位、ダッチェス号80人以上が病臥中となる
 05/18、島に接近してボートを給水偵察に派遣、
      エドワード・ダウン水夫が亡くなる
 05/19、バーク船ハットリー船長・英人5人・捕虜2人・黒人3人乗船と
      ルアーヴル号が船団を離れる
      建具屋ジェームス・ダニエルが亡くなる
 05/20、ボートで給水場所を探すも無し
 05/21、ルアーヴル号は戻るもバーク船ハットリー船長の消息は依然不明
      オランダ人船乗ヤコブ・スクロンダーが亡くなる
ガラパゴス諸島

エクアドル 1936 発行
 05/22、ロレンス・カーニーが亡くなる、グアヤキルに上陸しなかった者は発病せず
 05/23、デューク号でトマス・ヒューズ水夫、ジョージ・アンダーヒル見習士官が亡くなり、
      ルアーブル号でジョン・イングリッシュが亡くなる
 05/25、ピーター・マーシャル水夫が亡くなる
 05/26、近くの島々を給水偵察するも水は無く、やむなく出帆することにする
      バーク船ハットリー船長は捜索の甲斐も無く発見できず。
      探し回っていたバーク船ハットリー船長は本土に
      接近しすぎてスペインに捕えられた後イギリスに生還を果たしていたと帰国後に判明
 05/27、ガラパゴス諸島最大の島サンタ・マリア(現:イサベラ)島探しを打ち切って出帆
      ポーンスフォールド・ウォール見習水夫が亡くなる
 05/30、捕虜が結託して船を乗っ取ろうとしている密告があったので、捕虜を各船に分散する
 06/06、パナマ発若干鉄材と布地積載90屯位セント・トマス号黒人11人と30人位乗船を捕獲
      我々のことは知らず、英ピータバロ卿(1658-1735)艦隊の襲来の噂を聞く
      捕虜の中に任地へ赴任途中のバルデビア総督ドン・ファン・カルドソがいた
 06/07、オロンバ南西沖のゴルゴナ島を望見、接近して給水を開始
 06/07、昨夜来追跡中のボート2隻が空荷35屯バーク船10人乗船を捕獲
      ダッチェス号で評議会開催されるもロジャーズ船長は体調悪く欠席
 06/09、加治屋ジョナサン・スミス兵器掛助手が亡くなる
 06/13、マラガ島へ向っていた船団がゴルゴナ島に再度投錨、補給と傾船修理を実施
 06/14、ルアーヴル号に砲20門を搭載して第3の僚船として整備
 06/15、病人70人位をガレオン船に移動、病気の士官はルアーヴル号に移す
 06/16、兵器掛と桶屋用に天幕を張る、病人用も準備する
 06/21、ダッチェス号の傾船修理が終わり、デューク号にかかる
 05/25、傾船修理が完了
 06/28、陸揚げ中の物を積み込んで外洋航海の準備をする
 06/29、ルアーヴル号の傾船修理に病人を浜の天幕に移す
 06/30、島内でルアーヴル号マスト材を伐採して取り換える準備をする
 07/03、ルアーヴル号再擬装に9日掛かって完了、マルキス号と改名
      船隊3隻準備完了で全員で乾杯。捕虜72人バーク船セルカーク船長の整備にかかる
 7/10、捕虜72人をバーク艇に移し、船荷の買戻し交渉をする。
     パナマで金を工面するまで沖で待つが、できない時は船ごと焼くと告げる
 07/11、捕虜72人をバーク艇とピンネス艇でゴルゴナ島南東約34kmの本土へ送る
 07/13、捕虜を送った艇2隻が食料を挑発して戻ってくる
      食料御挑発した村では我々のことを知っていたと聞く
 07/16、本土から村に奴隷で売られたジャマイカ自由黒人マイケル・ケンダルが逃亡してきて
      エドワード・ロバート船長隊106人がダリエン攻撃で、迎撃され虐殺で全滅したと話す
 07/21、マルキス号に大砲を増強して20門となる
 07/23、病人が30人そこそこになる
 07/25、マルキス号クーク船長、副長ホープ中尉の乗員を白人61人、黒人20人とする
 07/26、マルキス号の水漏れ修理、本土のカノア(丸木舟)に黒人6人を売る
 07/30、ガレオン船に戦利品を集め、配分の準備をする
      立会人オーナー代理人、フライ大尉、ホープ中尉、ストラットン大尉、コネリー少尉
 07/31、捕獲バーク船セント・トマス号船長パーソンズが積荷もろとも水没、積荷が駄目になる
 08/01、戦利品の評価に指名の士官4人がガレオン船で評価額決めを始める
 08/03、マルキス号クーク船長が水漏れを知らせてくる
 08/04、反乱の密告で首謀者4人を逮捕・足枷するも同調者多数で悔悛者を釈放
 08/07、捕獲船アセンション号とセント・トマス号を元の各船長に戻す
 08/08、昨夜バーク船を現地人で操船させていると、夜が明けると姿を消す
 08/12、ペルー沖のゴルゴナ島を望見、バーク船に再会、セルカーク総督を差し向ける
 08/13、ゴルゴナ島南西の小島ガロ島を望見
 08/15、ゴルゴナ島沖に投錨
 08/16、デューク号にスペインの屈強な黒人奴隷35人位を集め、今後の航海で敵フラス・
      スペイン船と戦って手柄を立てれば自由人にすると約束、ケンダルを黒人隊長に任命
 08/18、パナマ発リマ行きグワヤギル寄港予定70屯船を捕獲、乗客の他黒人男女24人乗船
 08/19、捕虜からジョージ公が1708/10/28没を聞くも信ぜずに公の健康を祝しに乾杯する
 08/20、ダッチェス号にスペイン旗を掲げて、船員と黒人のため模擬戦訓練を実施
 08/23、サンフランシスコ岬を望見
 08/27、テカメス村落へ給水に行った舟艇が戻り、食料調達の現地人との交易を始める
      傾船清掃の準備をする
 08/28、清掃を終え、水や食料などを積み込む
 08/29、マルキス号クーク船長が壊血病と梅毒のジョン・エドワードを埋葬
      感染源の黒人奴隷女を、釈放スペイン人に押し付ける
 08/31、テカメス湾を出帆、サンフランシスコ岬を望見
 09/08、ガラパゴス諸島の一つを望見
 09/10、ガラパゴス島偵察にピンネス艇を派遣、
 09/13、ダッチェス号は陸亀と海亀150匹、デューク号は海亀150匹、マルキス号も豊漁となる
 06/15、各船で食料用に魚を漁獲、豊漁で塩漬けにする、島で塩も見つかる
 09/16、船隊3隻がメキシコへとガラパゴス諸島を出帆
 09/19、デーヴィス船長が食料や水を補給したというイサベラ島を望見
 09/22、マルキス号の水漏れが酷くなり、デューク号大工を派遣して修理
 10/01、メキシコ本土を望見、ダンピール船長を呼んで確認してもらうが彼がマニラ・ガレオン船
      に出会ったのは昔のことのようだ。岸から見られないように用心して航海
 10/02、コリエンテス岬を望見、トレス・マリア島(3つのマリア島)へ進路をとる
      (注)ダンピール船長が1685年に望見したのはコロンビアの同名の別の岬
      病人が増え、2人に出血療法を施す
 10/06、食料が不足していているので、ピンネス艇フライ艇長を岬の近くの島へ派遣
 10/08、探し求めた飲料水を発見、海亀も豊漁で欧州からのパン粉も未だ持ちそうになる
 10/10、はぐれたマルキス号とバーク船の2隻の捜索を続ける
      デューク号は大掛りな手入れ中なので、海亀と薪を集めることにする
 10/11、船医ドーヴァー隊長がダッチェス号への異動を希望し認められる
 10/12、薪を取りにボートで上陸した黒人の内7人がマイケル隊長に反抗して逃亡
 10/13、ダッチェス号がバーク船を曳航、マルキス号を随伴して戻る
 10/15、4隻が島の給水地へ着、投錨、猛烈な暑さの中で給水作業を実施
 10/23、島で大蛇を捕獲、胴回り38cm 長さ2.5m。集めた海亀、薪、水を積み込む
 10/24、ダッチェス号に士官全員を集め評議会を開催、今後の方針を協議する、
     ダンピール船長の意見を基にカリフォルニアのサン・ルーカス岬沖を巡航することになる
 10/28、3つのマリア島を出帆して最西端島マリ・マドレ島の15リーグに到達
 10/30、デューク号に半年前乗船の黒人奴隷女が強酒飲酒で主任尉官ワッス船医用意の船室で
      わめきながら女児を出産。英語を話す黒人女は娼婦ではなく、炊事・洗濯・縫製掛で使用
 11/01、バハ・カリフォルニア半島サン・ルーカス岬を望見、船団を展開させる
 11/04、桶職人を脅す水夫と悪口雑言を言う水夫ピーター・クラークを鉄足枷刑とする
 11/05、ダッチェス号にヨール艇グレンダル少尉を連絡に派遣
 11/06、トレス・マリア島の海亀を食べ尽くす、食料より死骸を投棄した方が多くなっていた
      昔キャベンヂッシュ船長(1587)がマニラ・ガレオン船に出会った海域に入る
 11/12、「戦利品配分法」と「賭け事禁止」の書類に全員の署名をとる
 11/22、水を探しに舟艇で接岸し続けていて給水入江を発見、現地人は友好的で上陸。そこの
      現地人は貧しく余分な食料は無く、キャベンディッシュ船長が寄航した所とは別と思う。
      デューク号の水漏れが酷くなりポンプ排水を夜どうし実施
 11/29、食料庫が破られ犯人逮捕、スチュワード(司厨長)の監督不行届き厳重注意
      主犯ブリストル水夫を鞭打ち刑後、共犯オランダ人水夫と鉄足枷刑
 12/20、食料補給で何処かの町を襲撃するか、グアム島で補給するかの評議会を開催
      船の整備ができしだいグアム島へ向うことになる
12/21、キャベンディシュ船長命名のセグラ港へ航海中に不審船を発見
12/22、ピンネス艇を偵察に派遣、
    フランス旗を掲げる「宝船」マニラ・ガレオン船と判明
12/23、宝船に肉薄して、1時間半の交戦、宝船が降伏の旗印を掲げる。
    ロジャース船長が左頬と顎に重傷、アイルランド人ウィル・パウエ
    ル見習水夫が軽傷。ミズン・マストが吹っ飛ぶ損害で、宝船900
    屯艦砲20門とパテレロ旋回砲20門ヌエストラ・シニョーラ・デ・ラ・
    インカルナシオン・ディセンガニオ号乗員193人を捕獲
12/24、セグラ港投錨。ダッチェス号とマルキス号が、もう1隻の艦砲40門
マニラ・ガレオン船
      とパテレロ旋回砲40門大型宝船の捜索に出帆
 12/25、捕獲船フランス人船長が人質釈放代金で銀貨6000枚分のロンドン払小切手5枚を支払。
      それはグワヤキル人質より銀貨2000枚分多額。
 12/26、捜索の2隻が宝船を発見して応援を求めに戻ってくる
      捕虜170人位をバーク船に移して、船隊が出帆
 12/27、新造のベゴニア号乗員450人以上と激しく交戦、
      かなりの損傷を受ける、ロジャーズ船長が足を負傷
 12/28、船隊の損傷はなはだしく、食料不足の隊員では交戦は無理で撤退、敵船も去る

1710年
 01/01、セグラ港に再度の投錨。捕虜全員をバーク船にてアカプルコ迄の食料付きで釈放
 01/07、捕獲船のパン貯蔵が多くて喜び、船体の補修を続ける
 01/09、捕獲船バチェラー(ディセンガニオ:真実顕現の聖母)号の名目指揮官をドーヴァー代理人
      とし、フライ大尉とストレットン大尉を責任者とする
 01/10、セグラ港をグアム島へと4隻で出帆
 01/11、トマス・コナー見習水夫が海に落ちるも船載大型ボートで救助
 01/28、豚肉盗実行犯数人を鞭打ち刑後、共犯者と共に鉄足枷刑
 02/01、グワヤキルで連れてきたボイスが亡くなる
 02/05、食料盗常習の黒人デットフォードが亡くなる
 02/06、強風でも順調な航海となる
 02/13、バチェラー号捕虜スペイン人パイロットが喉の銃創で亡くなる
 02/14、船足が順調で船長と士官の配給パンを半ポンド増量
      英国流で士官とヴァレンタイン祭のパンチ乾杯する
 02/17、デューク号の水漏れが酷くなり、終日、ポンプを動かし重労働となる
      ロジャーズ船長の喉の腫れがひどくなる
 02/18、肺病と栄養失調の黒人が亡くなる、全員の健康状態が悪くなる
 02/25、12/26戦で脚を負傷し赤痢のウェールズの仕立屋トマス・ウィリアムズが亡くなる
 02/26、イルカ2頭を獲る、ありがたい新鮮な食料となる
 03/03、壊血病と水腫の黒人オーガスティンが亡くなる
 03/10、セルバナ島(現サイパン島)を望見
 03/11、グアム島からプロア快速帆艇が近寄る、
       午後、グアム島に投錨、総督使者が誰何に来る
 03/12、乗船のスペイン人使者1人を残して
      総督への補給以来の書簡を持たせて帰す
 03/13、返事を聞きに休戦旗でピンネス艇を浜へ派遣、
      物資を提供するとの返書が来る
 03/14、朝、雄牛4頭、ライム、オレンジ、ココナツ少々がくる
 03/15、バッチェラー号に総督使者を招待、士官全員と余興する
      動けないロジャース船長は椅子に座ったまま運ばれる
 03/16、総督の招待で数人の士官が贈物を持ってピンネス艇で
島に上陸して補給

ガーンジイ 1990 発行
      表敬訪問、歓待される
 03/17、食料の豚60頭、鳥99羽、トウモロコシ24籠、米14袋、ヤムイモ44籠、ココナツ800個がくる
 03/18、デューク号でスペイン人4人もてなしの余興、雄牛を貰い各船14ツ頭ずつになる
 03/21、弱っていた南海最初の捕獲バーク船捕虜のスペイン人を解放後、出帆
 04/11、オランダ領モルッカ諸島テルナテ島(現インドネシア)へと順調に航海
 04/15、セレベス島の北東部を望見
 04/16、モロタイ島南東部、ジャイロロ(ハルマヘラ)島北部を望見
 04/17、大荒れとなる
 04/29、ダンピール船長の意見でテルナテ島を止め、トゥラ島へ補給に行くことになる
 05/18、風と潮流でニューギニア海峡へ流され、通過する
 05/20、セラム島を望見
 5月末、ブトゥン島着
 10月上旬、ブトゥン島滞在を終え、出帆
 10/12、バタヴィアでオランダ人乗組員17人を各船に乗船させる
      あと一息とう段になってイギリスから共に来た脱走常習者の幾人かが脱走
 10/17、バナイタン島とジャワ岬の間の給水場に到着
 10/23、評議会で喜望峰からセント・ヘレナ島へ行くことを決める
 10/24、ジャワ島西部を出帆
 10/25、ジョセフ・ログが海に落ちて亡くなる
      主任外科医ジェームズ・ワッズ医師が亡くなる
 12/27、ファルソ岬(現ハンググリップ岬)に到達、喜望峰のテーブル・マウンテン(1087m)を望見
 12/28、喜望峰のテーブル湾ケープ港着、9発の礼砲を撃つ、返礼の7発を聞く
 12/29、16人の病人を上陸させる
 12/30、前檣員ジョージ・ラッセルが亡くなる

1711年
 01/05、ジョン・グラッソンが亡くなる
 01/08、今日迄食料や水の補給をする
 01/18、陸上で評議会開催。3隻の必需品や食料の買付にダッチェス号の金などを使用とになる
 02/01、バタヴィアからのオランダ護送船団を待って、一緒に出帆することになる
      待つ間にデューク号の傾船修理をして水漏れを治すことにする
 02/03、オーナー代理人ヴァンブルー、2等航海士アップルビー他21人が亡くなり、4人が脱走
 02/27、船の貨物を調べ、陸で売りさばくことにし、総督の許可をとるする
 03/15、セイロンから4隻が入港、その3隻はメーンマストが嵐で折れていた
 03/28、ブラジルからポルトガル船が入港、
      フランス艦5隻がリオデジャネイロに来襲するも撃退され400人が捕虜となると聞く
 04/03、ロジャース船長の体調悪く、黒人12人を売りさらなる水と物資の補給をする
 04/03、オランダ船団は出港の準備がなり出帆、デューク号船隊も随伴するも、
      風向きが悪く出港できず
 04/05、再度の出帆準備で、港入口のロペン島に集合
 04/06、オランダ船16隻とイギリス船9隻がペンギン島(ロペン島の別名)を出帆
 05/01、セント・ヘレナ島を望見
 05/07、アセンション島を望見
 05/14、18度目の赤道越えを果たす
 06/13、デューク号が速度の遅いバッチェラー号を曳航
 06/15、オランダの旗艦にイギリス船長達が招かれ余興でもてなされる
 06/28、濃霧が出て、旗艦と各船が空砲を撃って互いを確認する
 07/15、シェトランド沖合フェア島とファウル島を望見
 07/17、船オーナー宛の手紙に、テセル来航イギリス護送船団と落合うとの手紙を地元漁民に託す
 07/23、が亡くなるテセル港外に到着、無事に3隻が投錨
 07/24、船オーナーからの返書を受け取る。今後の指示を受ける
 08/01、バタヴィアと喜望峰で乗船の船員達を下船させる
 08/04、ダッチェス号とバチェラー号がオランダのテセルより良好なフリクテル停泊地へ移動
 08/05、船オーナーの訪問を受ける
 08/10、テセルに上陸し今航海の概要書を公証人の所で宣誓供述書を作成、
      英王室諮問機関に提出、英東インド会社の権利侵犯申立てに備える
 08/12、賃金支払い準備と物資購入用に船載金塊を通過に替える。
      水夫20ギルダー、明来水夫10ギルダー、士官は職階に応じて支払う
 08/13、事故に対する保険に対処して金塊は持たずにアムステルダムに行き、通貨を借りる
 08/31、船オーナー代理人ホリッジが乗船し、金銀財宝を確認後、
      ロンドン帰港時に乗組員が直ぐ徴兵にならぬよう兵役除外リストを作成
 09/01、ホリッジがテセルで船隊の関税を支払う
 09/05、ホリッジが帰国する
 09/20、テセルでイギリス護送船団と合流、
      イギリス軍艦はエセックス号、カンタベリー号、メッドウェイ号、ダンウィッチ号の4隻
 08/22、朝テセルを出帆
 10/01、イングランドのケント州東海岸ダウンズに投錨
 10/13、エセックス号の合図でテームズ河入口ザ・ホープ錨地へとダウンズを出帆
 10/14、デューク号、ダッチェス号とバチェラー号がテームス河南岸エリスに投錨。
      帰国を果たす

デューク号の主な乗組員:〜出帆時183人乗船
・船長 ウッズ・ロジャーズ Woodes Rogers 航海士
・副船長(船医) トマス・ドーヴァー Thomas Dover 海兵隊々長、合同評議会議長
・大尉 ロバート・フライ Robert Fly
・中尉 チャールズ・ホープ Charles Hope
・少尉 トマス・グレンダル Thomas Glendal
・マスター ジョン・ブリッジ John Bridge 航海長、曹長
・パイロット ウィリアム・ダンピール William Dampier 南海水域担当、3回世界一周経験
・見習士官 ベンジャミン・パーソンズ Benjamin Parsons 捕獲バーク船セント・トマス号船長
・見習士官 ジョージ・アンダーヒル George Underhill
・曹長 アレクサンダー・ヴォーン Alexander Vaughn
・軍曹 ランスロット・アップルビー Lancelot Appleruby ※士官代表、2等航海士
・伍長 セルカーク Selkirk 捕獲インクリース号艇長
・伍長待遇 ジョン・バレット John Barrett ダンピール第2回航海外科医
・掌帆長 ジャイルス・キャッシュ Giles Cash 反乱を起こし、マデイラ島へ護送
・臨時掌帆長 アレグザンダー・ウィンター Alexander Winter 反乱後臨時となる
・掌帆長助手 ジョン・ピラー John Pillar 反乱後ボースン(掌帆長)となる
・下士官 ベンジャミン・ロング Benjamin Long 掌帆長付
・下士官 デ−ヴィッド・ウィルソン David Wilson
・仕立屋 6人乗船 下士官待遇
・加治屋 ジョージ・ロス George Ross 兵器掛助手、壊血病でパタゴニア沖没
・建具屋 ジェームス・ダニエル James Daniel 下士官待遇
・水夫 サム・ウェルデン Sam Welden ※一般船員代表
・水夫 ロバート・ホランビー Robert Holambi 後に掌帆長助手
・水夫 シルヴェスター・ラモス Sylvester Ramos
・水夫 ジョン・ヴィール John Veil 最初の病死者
・オランダ人水夫 イェリック・デリクソン Yelik Delixon グアヤキル襲撃で重傷
・ポルトガル人砲手 ジョン・マルティン John Martin グアヤキル襲撃で戦死
・新米水夫 マイケル・ジョーンズ Michael Jones グランデ島で脱走
・新米水夫 ジェームス・ブラウン James Brown グランデ島で脱走
・通訳 ジョセフ・アレグザンダー Joseph Alexander サンヴィセンテ島に置き去り
・船医 ジェームズ・ワッズ James Wadds 主任外科医
・薬剤師 サミュエル・ホプキンス Samuel Hopkins 船医助手、ドーヴァーの親戚
・商人 カールトン・ヴァン・ブルー Carlton Van Blue 船主の代理人

ダッチェス号の主な乗組員:〜出帆時151人乗船
・船長 スティ−ヴン・コートニー Steven Courtney 航海士
・副船長 エドワード・クーク Edward Cook 中佐相当
・大尉 ウィリアム・ストレットン William Stretton
・中尉 ジョン・ロジャーズ John Rogers ロジャーズ船長の弟
・少尉 ジョン・コネリー John Connery
・士官 サイモン・ハットリー Simon Hatley ※士官代表
・曹長 ロバート・ノールマン Robert Norman
・軍曹 ページ Page
・軍曹 ヘンリー・ダック Henry Duck 上官反抗で鞭打ち
・下士官 トマス・ヒューズ Thomas Hughes 掌帆長付
・下士官 サイモン・ハットリー Simon Hatley
・下士官 バルト・ロー Balt Law
・水夫 サイモン・フレミング Simon Fleming ※一般船員代表
・商人 ウィリアム・バス William Bass 船主の代理人
・参考:〜
(※)は戦利品の管理担当者。
遠征隊の出帆時定員は333人で、イギリス人の中には鋳掛屋・仕立屋・農夫・行商人・楽士などで、
黒人1人、未成年のボーイが10人程いた。
各国人混成で、全員に武器を早急に教育し厳しくしつけるつもりとロジャース司令官は決意。

・スタンプ・メイツの覚書:〜
ロジャーズ船長はメキシコ沖の太平洋で、2隻の宝船を捕獲したとの説がありますが、航海日誌(船長著書「世界巡航記」1712年)では1隻となっています。

▼マダガスカル私掠船遠征航海
  (Madagascar Expedition Voyage、1713〜1715)
ロジャース船長は世界一周私掠船大航海(1708〜1711:デューク号とダッチェス号)から、1711/10/14にテームス河南岸に帰国を果たすも、その後に200人以上の乗組員や東インド会社から戦利品の分け前を要求されて裁判沙汰になり、私掠船航海の戦利品以上の分け前の支払いで、本からの利益もこれらの支払いをするのに十分ではなく、破産を余儀なくされ、家族を養うためにブリストルの家を売り払って、財政危機に陥りました。その解決のため、再度の私掠船遠征航海でマダガスカル島へ遠征して成功しました。
マダガスカル島の地図

フランス・ヴィシー政府発行
マダガスカル 1942 発行

財政危機に陥ったロジャーズは、経済的困難から抜け出すには新たな海賊に対する私掠船遠征航海をすると決断しました。1713年にマダガスカルで奴隷を購入し、今回はイギリス東インド会社の許可を得てオランダ領東インドに連れて行く、表面上は黒人奴隷の三角貿易という普通の商船隊を率いました。

ロジャーズの第二の目的は、マダガスカルの海賊の詳細を収集し、それら海賊を破壊または懐柔して将来のマダガスカル植民を望んでいました。それでロジャーズはマダガスカル島の海賊と海賊船に関する情報を収集して、多数の海賊が先住民族になったことに気づき、多くの海賊らを説得してアン女王に恩赦を求める請願書に署名させました。ロジャーズの遠征は有益でしたが、1715年にロンドンに戻ったとき、イギリス東インド会社はマダガスカルへの植民の提案を、少数の海賊が植民に対して大きな脅威であるとて拒否しました。それで、ロジャーズはマダガスカルから西インド諸島に目を向けました。1714年にアン女王を引き継いだ新しい王ジョージ1世の顧問官の何人かの伝手で、植民地の利益の一部を提供することで、海賊が蔓延している「バハマを管理する会社」との合意を結ぶことができました。第4章バハマ海賊ヴェーン船長へ続く。

参考HP〜
オラコーク島の場所地図
ノースカロライナの場所地図
バハマ諸島の地図
バハマ諸島の地図(日本語)
バハマ諸島の場所地図
カリブ海の地図

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。    11/10/11

★ロジャース物語:第1章遠征航海、第2章セルカーク航海日誌、第4章バハマ
スタンプ・メイツ
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