★スウェーデン 博物学探検(Natural history Expedition)
カール・フォン・リンネ博士
1735
自然の体系(Systema Naturae)を発表
大航海物語★
SVERIGE
リンネ博士、Linne

スウェーデン 1939/6/2 発行

リンネ博士

Enneandria
Systema naturae
リンネソウ

Linnae borealis
1707 リンネ生誕300年記念 2007
スウェーデン 2007/1/25 発行

スウェーデンの場所地図
ベーリング↓海峡

スウェーデン↑(黒い所)
ストックホルム、1989
スウェーデン 1989/8/22 発行小型シートより スウェーデン 1991/1/30 発行

スカンジナビア半島の古地図、1662
・ラップランド:スカンジナビア半島北部
・ボスニア湾:中央
・バルト海:中央下部
・フィンランド湾:その東
スカンジナビア半島 ロシア
ゴットランド島→
エーランド島→
デンマ|ク
リンネ博士は中央下部のバルト海の島々を探検調査
スウェーデン 1991/1/30 発行 (200%)

スウェーデン生まれのリンネ博士は植物分類学の父といわれ、ルンド大学で医学を学び、その後ウプサラ大学に移り、1741年に医学部教授、翌年には植物園長になりました。ウプサラはスウェーデンの首都ストックホルム北66kmの亜寒帯針葉樹林気候で、リンネ博士の住まいの周りは極めて植物の貧弱な土地でしたが、家の中は植物のスケッチで埋まっており、植物の分類において初めて「種」(Species)という概念を用いて、世界で最初の生物の分類体系を提案し、それが改良されて現在に引継がれました。
カール・フォン・リンネ博士 (1707/5/23-1778/1/10)
 Dr. Carl von Linne

  ラテン語名:カロルス・リンナエウス(Carolus Linnaeus)
  別名:大リンネ(同名の息子と区別するため)
  スウェーデンの博物学者(Swedish Naturalist)、
            動物学者(Zoologist)、植物学者(Botanist)、医師(Physician)
  分類学の父(Father of modern taxonomy)
  生地:スウェーデン・バルト帝国、スモーランド地方ステンブルーフルト生
  没地:スウェーデン・バルト帝国、ウプサラ市70才没
リンネ博士はスウェーデンの博物学者(Naturalist)、植物学者(botanist)、動物学者(zoologist)、内科医(physician)で、スウェーデン・バルト帝国(Swedish Empire, 1611-1721)の現スウェーデン南部イェータランド(Gotaland)のスモーランド地方クロノベリ県エルムフルト・ステンブルーフルト・ラスホルト村(Rashult village, Stenbrohult, Almhult municipality, Kronoberg County, Smaland Province, Gotaland, Sweden)で、父ニルス・インゲマション (Nils Ingemarsson) の最初の子として生まれました。若い頃には父親や母方の祖父と同様に聖職者となると思われていましたが、村の内科医から教えられた植物学(Botany)に興味を持ち、イェータランド地方スコーネ県ルンド市(Lund city, Lund Municipality, Skane County, Scania Province, Gotaland, Sweden)にあるルンド大学(Lund University:創立1666)入学、1年後にスウェーデン中部ウップランド地方(Uppland)ウプサラ県々都ウプサラ市(Uppsala city, Uppsala municipality, Uppsala county, Uppland province, Uppland, Sweden、ストックホルム北約70km)にあるウプサラ大学(Uppsala universitet、1477年北欧最古の創設)へ移りました。この間に、リンネ博士は植物の分類の基礎が花のおしべとめしべにあると確信するようになり、論文を書いて助教授になりました。

・リンネ博士の冒険調査旅行:〜
  ・ラップランド探検、1732
  ・ダーラナ探検、1734
  ・ヨーロッパ旅行、1735
  ・エーランド・ゴットランド探検、1742

・ラップランド探検
  (Lapland Expedition、1732/5/12-1732/9/10)
スカンジナビア半島北部のラップランド(Lapland)は、1695年にスウェーデンのオルロフ・ルドベック兄(Olof Rudbeck, Elder 1630-1702)が探検していましたが、その記録は七年戦争(Seven Years' War 1756-1763)の戦火で消失しました。1732/4月にウプサラのスウェーデン王立科学協会(Royal Society of Sciences, Uppsala)がリンネ博士の、当時は未知だったラップランドへの支援を決定しました。リンネ博士は1732/5/12に植物学・鳥類学(Ornithology)のラップランド探検を、徒歩と乗馬で始めました。スウェーデン中央部ノールランド地方東部イェヴレボリ県にある都市で県都イェヴレ(Gavle)付近で、大量のカンパネラ・セルピリフォリア(Campanula serpyllifolia, 後の(Linnaea borealis)リンネソウ)を発見しました。その後、ボスニア湾(Gulf of Bothnia)沿いに北上してウメオ(Umea:現在はヴェステルボッテン県の大学の街)、ルレオ(Lulea)、フィンランド・ラップランドのトルニオ(Tornio, Lapland, Finland)へと旅しました。4ヵ月で2,000kmを踏破して、1732/9/10にスウェーデンのウプサラに戻ってきました。

その後にリンネ博士は当時、多くの分類法に使用された複雑で扱いにくい記述法を簡潔で現在の身近な種名に変えました。リンネ博士は個人的に常識的と感じた方法で分類群を命名し、より上位の分類群が作られ、簡単で規則的な方法で配列された、現在の二名法(Binomial nomenclature)として知られるシステムは、その200年前にボーアン兄弟により開発されるも、リンネ博士が科学界へそれを普及させたといわれています。それはラップランド探検の結果をオランダのアムステルダムで「自然の体系」(Systema Naturae 第1版、1735)として発表(出版)しました。そしてさらにラップランド探検の結果を、多様な生物の分類を実用的に分類した最初の図書として534種を掲載して、1737年に「ラップランド植物学大全」(Flora Lapponica, Amsterdam, 1737)としてアムステルダムで出版。そこで、種の学名(種名)を”属名+種小名”で構成し、この表し方を二名法として体系化し、「分類学の父」と呼ばれるようになりました。なお、現在の分類学(Taxonomy)には細菌が加わり、種小名に”属名+種形容語”が使用されています。哺乳動物の定義の1つが子に乳を与えることから、乳腺(mammary gland)に因み哺乳類(mammalia)と名づけ、他の動物と哺乳動物を区別する全ての特徴から、リンネ博士が生まれながらの母性の重要性に関する個人的な意見としてこれを選んだといわれています。そして、高貴な女性でも自らの子への授乳を誇りに思うべきであると宣言して、彼は乳母の習慣へ反対運動をしました。

・ダーラナ探検
  (Dalarna Expedition 1734)
1734年にダーラナ総督の命で、スウェーデン中部スヴェアランド地方のダーラナ地方(Dalarna)へ学生の小グループで探検旅行をなし、ソール・トロンデラーグ県レーロース(Roros, Sor-Trondelag)の鉱山などを調査しました。

・ヨーロッパ旅行
  (European excursion、1735/4-1738/6/28)
1735/4にリンネ博士はクレス・ショルベルグ(Claes Sohlberg)とオランダのハルデルウェイク大学(University of Harderwijk 1648-1811)で医学博士の学位(doctoral degree, medicine)を得るためにウプサラからオランダへと出発。ドイツのハンブルク(Hamburg)で市長と会見し、オランダ人アルベルタス・セラ(Albertus Seba, 1665-1736)のザサウルス(Thesaurus 1734)に描かれているギリシア神話に登場する怪物の7つの首を持つヒュドラー(seven-headed Hydra)の剥製(Taxidermy)を見物しました。そして、その剥製はヨハネの黙示録(Apocalypsis Johannis)に出てくるサタンの化身の姿(Beast of Revelation)である赤い竜(Great red dragon)を真似てキツネなどの毛皮で造った偽物だと見破りました。1735年に28才で博士の学位を取得し、自然の体系(Systema Naturae、1735)の全13巻の第1巻をアムステルダムで出版。最期の13巻はドイツのザクセン州ライプツィヒ(Leipzig, Zaksen, Germany)で1770(別巻3は1793)年に出版しました。なお、1788〜1793の間に、ドイツの医師、博物学者、植物学者、昆虫学者、爬虫両棲類学者、軟体動物学者ヨハン・フリードリヒ・グメリン(Johann Friedrich Gmelin、1748-1804)が同一タイトル”Systema Naturae”を出版しています。

・結婚
1739/6/26にリンネ博士は医師の娘サラ・エリザベス・モレア(Sara Elisabeth Moraea, 1716-1806)と結婚。2年後にウプサラ大学の薬学の教授となり、すぐに植物学の教授にかわりました。動物に分野を拡げて分類を研究し続け、当時の博物学では自然に存在するものを植物界・動物界・鉱物界の三界に分類していたので、鉱物についても研究しました。リンネ博士は自然界の要素を分類する便利な方法を研究しました。1753年に「植物の種」(Species Plantarum)を出版。植物の学名は現在でもここが出発点とされています。

・エーランド・ゴットランド探検
  (Oland & Gotland Expedition、1742)
1741年にウプサラ大学の医学部教授(Professor of Medicine)に指名されました。1742年植物園長になり、同年(1742)に大学の学生6人と、バルト海にあるスウェーデン領のエーランド島(Oland Island:面積1,342ku、現在はスウェーデン本土とは北欧で2番目に長い橋梁(6,070m)のエーランド橋で対岸のカルマル市と通じている)と、バルト海で最も大きなスウェーデン領ゴットランド島(Gotland Island:面積2,994ku)を探検調査しました。1742/6/21にエーランド島からゴットランド島ヴィスビー(Visby)へと出帆。約1ヵ月滞在後、ウプサラへ戻りました。100種の未知の植物を発見し、後に「オーランド・ゴットランドの植物と動物」(Olandska och Gothlandska Resa)を出版しました。

・終章
スウェーデンのアドルフ・フレドリク王(Adolf Fredrik, 1710-1771)が、1757年にリンネ博士を貴族に列し、枢密院が叙爵を確認した後にリンネ博士は「姓」のフォン・リンネ(von Linne)を取得しました。当時のスウェーデン人の多くは姓を持たずに父称を用いて、リンネの祖父はインゲマル・ベングトソン(Ingemar Bengtsson:ベングトの子)と名乗り、同じく父はインゲマション(Ingemarsson:インゲマルの子)と名乗っていましたが、ラテン語の姓リンネを採用し、カール・フォン・リンネ(Carl von Linne)となりました。これは彼の家族が育てていたシナノキ(セイヨウボダイジュ、sv:Lind)に由来するもので、彼の親戚は同じくシナノキのラテン名にちなむティランデル (Tiliander)、リンデリウス (Lindelius) という姓を名乗りました。

1778年にリンネ博士は首都ストックホルム(Stockholm)の北にあって、北はボスニア湾に面し、南はメーラレン湖に面するストックホルム県の北で、ストックホルム都市圏のほぼ外輪にあるウプサラ(Uppsala City, Uppsala County, Sweden、スウェーデンを代表する学園都市)で亡くなりました。

ウプサラにはリンネ記念公園(植物学者リンネの旧宅と植物園)有。リンネ博士の仕事は息子のカールに引き継がれるも、カールはリンネの死からわずか5年後に急逝し、リンネの高弟であったカール・ツンベルクがその後を引き継ぎました。

・主な業績
リンネ博士は自然物を整理し、それまで複雑な「アリストテレス(Aristotle BC384-BC322)の分類」が絶対とされていたのを、博物学での三界説を認めて、
博物学〜
・動物界(動くもの)
・植物界(動かないが成長するもの)
・鉱物界(成長しないもの)、
の簡潔な三界を扱った著作の
・自然の体系
  Systema Naturae 第1版、1735
  (第十版が動物の命名法の基準となる)
・植物の属
  Genera Plantarum、1737
・植物の種
  Species Plantarum 第1版(植物の命名法の基準となる)、1753
を出版しました。
リンネ博士は植物を雄しべと雌しべの数や形に基づいて区分し、分類の基本単位である種の他に、綱、目、属という上位の分類単位を設け、それらを階層的に位置づけました。そして、それまでに知られていた動植物についての複雑な情報を整理して、生物分類を体系化し、それぞれの種の特徴を記述し、類似する生物との相違点を記した分類表を作り、生物の学名を2語のラテン語に制限することで、学名が体系化されるとともに、その記述が簡潔になりました。これで、近代的分類学が初めて創始されました。現在の生物の学名は、リンネ博士の考え方に従う形で、国際的な命名規約に基づいて決定されています。リンネ博士当時知られていた植物を7,700種に分類しました。この分類に用いた方法は、属と種小名の2つをラテン語で列記し、さらに、これに命名者の名前を記載する、二名法(binomial nomenclature)を提案しました。なお、現在は細菌の細胞構造が他の生物と根本的に異なっていることが発見されたので、四界説や五界説などに発展してきています。それはリンネ式階級分類(Linnean system)の国際コード(国際動物命名規約、International Code of Zoological Nomenclature:ICZN)といわれています。また、国際藻類・菌類・植物命名規約(International Code of Nomenclature for algae, fungi, and plants:ICN)なども有。

例:ツバキ(椿):〜
ツバキはリンネ博士が命名者で、学名”Camellia japonica Linnaeus”、属名
”Camellia”、種小名”japonica”、命名者名”Linnaeus(Linneのラテン語名)”

和名(Japanese name):ヤブツバキ
英名(English name):Camellia、別名:Rose of winter
学名(Binomial name):Camellia japonica L.
分類(Category):
  目(Order):ツツジ目、Ericales
  科(Family):ツバキ科、Theaceae
  属(Genus):ツバキ属、Camellia L
  種(Species):ヤブツバキ種、C. japonica
となっています。
つばき

日本 1961/3/20 発行

この「ツバキ」は、18世紀にイエズス会の助修士で植物学に造詣の深かったゲオルク・ジョセフ・カメル(Georg Joseph Kamel 1661:チェコ生-1706:マニラ没)がフィリピンでこの花の種を入手してヨーロッパに紹介しました。その後、リンネ博士がこのカメルにちなんで、椿にカメルという名前をつけました。
この二名法は、その後の植物の命名法の出発点となり、国際植物命名規約の基準とされて現在に引き継がれています。このように、世界の植物についての知識を整理して体系化することで、植物の種に関する知識を多くの人々が共有することが可能になりました。日本で普通にみられる樹木のイチョウ(イチョウ属”Ginkgo”)、マツ(マツ属”Pinus”)、イチイ(イチイ属”Taxus”)、ヤマモモ(ヤマモモ属”Myrica”)、クルミ(クルミ属”Juglans”)、ヤナギ(ヤナギ属”Salix”)などの属名はすべてリンネ博士の命名によるもので、この他にも多数あります。リンネ博士はカール・ツンベルグ(Carl Peter Thunberg, 1743-1828)など、多くの人材を育てました。 カール・ツンベルグ

スウェーデン 1973/9/22 発行

そんなリンネ博士がリンネソウの花を「私の花」と呼んで愛でていたと伝えられています。
こちで、リンネソウ(Linnaea borealis)をお楽しみください。

リンネ博士ゆかりの人々:〜
リンネ使徒
  Apostles of Linnaeus(リンネ・アポストル)
リンネ使徒とはカール・フォン・リンネ博士の高弟達でダニエル・ソランダー博士(オーストラリア探検)やカール・ツンベルク博士(日本探検)など世界各地に生物標本の採集に派遣されたスウェーデンの博物学者のことで、現在では「リンネ博士の使徒達」と呼ばれています。その多くは、スウェーデン東インド会社(Swedish East India Company(ス語:Svenska Ostindiska Companiet:SOIC)、1731-1813)の商船カルマル号(Calmar)などで、希望峰を回ってアジアへ大航海しました。

こちらで
カール・ツンベルク博士(リンネ使徒)
ペール・カーム博士(リンネ使徒)
アンデシュ・スパルマン博士(リンネ使徒)
バンクス男爵
ダニエル・ソランダー博士
ヘルマン・スペーリング博士
クック船長
をお楽しみください。

参考地図HP:〜
ラップランド探検の地図(リンネ博士の探検旅行地図)
スウェーデンの地図(Uppsala、Umea, Lulea有)

参考HP:〜
新種の化石発見とその命名(川村学園女子大学HP:女子大は四季の風にうたう:2013/7/31)

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。     13/12/13、2017/2/24
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