★アメリカ ボストン茶会事件
1773
Boston Tea Party
大航海物語★

US
Costa Rica

ボストン茶会事件200年記念
アメリカ 1973/7/4 発行
ボストン茶会事件200年記念
アメリカ 1973/7/4 発行

ボストン茶会事件(1773/12/16)
 Boston Tea Party

新大陸ではボストン茶会事件(Boston Tea Party)が1773年12月16日に起こりました。ボストン茶会事件はアメリカ・マサチューセッツ州ボストンで、イギリス議会の植民地政策に反対して起きた事件で、イギリスからの過酷な税に憤慨した植民地のアメリカ人たちが、アメリカ・インディアンに扮装して、港に停泊中のイギリス船に進入、東インド会社の紅茶の船荷を海に投げ捨てた事件でした。

当時、北アメリカではイギリスとフランスが植民地の獲得競争を繰り広げており、1754年にはフレンチ・インディアン戦争(1756-63)が始まりました。当初はフランス側が優位に立っていましたが、ヨーロッパで1756年に7年戦争(1756-63)が勃発。植民地での戦争も7年戦争の一環に組み込まれ、北アメリカではイギリス側が優勢になりました。この戦争でイギリス軍は2万の兵を派遣し、植民地の民兵と協力してフランス・インディアン連合軍を破り、1763年2月10日の「パリ条約」で、カナダの全部とミシシッピ川以東のルイジアナを獲得しました。しかし、この一連の戦争の戦費として、イギリスには1億3千万ポンドという巨額の負債が生じました。植民地にこの費用の一部を負担させようと、従来の「有益の怠慢」といわれた緩やかな統治を転換し始めるとともに、新たにフランスから獲得した土地への植民地人の進出をも禁止しました。

こうして出されたのが1756年の印紙法であり、67年の茶・ガラス・紙・鉛・塗料などに関税をかけるタウンゼント諸法でした。新聞・各種証書・パンフレット、果てはトランプに至るまで印紙を貼ることを義務付けた印紙法に対して、植民地側は「代表なくして課税なし」という決議を行って反対し、これを撤廃させました。(この印紙法に対する抵抗運動の過程で、課税に抵抗する各地の「愛国者」を「自由の息子達(Sons of Liberty)」と呼ぶようになりました)タウンゼント諸法への反対運動も激しく行われ、その中でボストン市民5人が駐留英軍に射殺されるボストン虐殺事件も起こりました。イギリスは譲歩を余儀なくされ、茶税だけを残してタウンゼント諸法は撤廃しました。

アメリカ独立の前哨戦としての「ボストン茶会事件」は、イギリスが1773年、新たに茶法を制定しました。これは、茶税を逃れようとして植民地側がオランダ商人から茶を密輸入していたのを禁じ、大量の茶の在庫を抱えて財政的に行き詰まったイギリス東インド会社に植民地での茶の販売独占権を与えるというものでした。東インド会社は当時の市価の半額の安値で茶を売り出そうとしました。これに対し、「植民地の貿易全体の独占を狙う第1歩ではないか?」とか「本国の課税権そのものが焦点であるにも関わらず、密輸品に比して茶税の課税後でも安価な東インド会社の茶が販売された場合、課税権を容認することになるのではないか?」と恐れ反対運動を展開しました。ボストンの過激な「自由の息子たち」は、東インド会社の茶の販売人を襲ってリンチにかけるなど、過激な運動を展開しました。

1773年12月、茶を積んだ東インド会社の貿易船がアメリカの四つの港に到着しましたが、陸揚げされなかったり、倉庫に実質的に封印されるなど、実際には販売されませんでした。この港のうちボストンでは東インド会社の貿易船に、荷揚げせずにボストンからイギリスに退去するよう求めました。現地のイギリス総督はこれを拒否し、貿易船は荷揚げの機会を待つため、船長はボストン港での停泊を継続しました。こうした情勢の中、1773年12月16日の夜に事件は起こりました。毛布や顔ペイント等でインディアン風の簡易な扮装をした3グループ、50人ほどの住人(Sons of Liberty)がボストン港に停泊していた東インド会社の船を襲撃し、「ボストン港をティー・ポットにする」と叫びながら、342箱の茶箱を海に投げ捨てたのでした。騒ぎを聞いて駆けつけた多くのボストン市民は、加勢も制止もせずこの様子を見つめていました。

以上が「ボストン茶会事件」と呼ばれる事件です。この時捨てられた茶の損害は1,000,000ドルに上るといわれています。当時、この事件にはアメリカ人の間においても賛否がわかれ、東インド会社の賠償請求に対してベンジャミン・フランクリンは私財をもって”茶の代金(茶税分を除く)”の賠償を試みようとしています(ただし結局、賠償はしていません)。 イギリス政府はこれに対して、翌年、ボストン港の閉鎖・マサチューセッツの自治の剥奪・兵士宿営のための民家の徴発などの強硬な「抑圧的諸法」を出してボストンを軍政下に置きました。植民地側は同年9月、フィラデルフィアに12の植民地代表を集めて第1回大陸会議を開き、本国議会の植民地に対する立法権を否認することと、イギリスとの経済的断交を決議しました。このような緊迫した情勢の中で、翌年4月、イギリス軍と植民地民兵が衝突し、ついに独立戦争が勃発したのでした。

また、この一連の茶法に反対する運動は、植民地の人々の間に、それまで愛飲していた紅茶をボイコットし代わりにコーヒーを飲む習慣を植え付けることになりました。これが現在でもイギリス人には紅茶党が多く、アメリカ人にはコーヒー党が多いという結果をもたらしたといわれています。イギリスからの移民が大多数を占める植民地人は、もともと親英的でした。アメリカ独立戦争が勃発した時点でも独立派は3分の1ほどであり、王党派でイギリス側が3分の1、残りが中立派でした。しかし、イギリスの植民地に対する政治的・経済的な抑圧が、植民地人を独立へと追いやる結果を招いたのでした。

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。   09/8/18追記

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