コスタリカ
Republic of Costa Rica

COSTARICA
コスタリカの州(7)別地図

(Costa Rica Los Resellos Guanacaste、1985/4)
コスタリカ 1888 発行 切手帳のカバー表紙(?)

コスタリカの地図

州(7)区分地図
ウォーカーの作戦地図

グアナカステ州の地図
グアナカステ州&ニコヤ半島の地図

グアナカステ州の企業買収を示す地図
コスタリカ 1965/12/20 発行
ウィリアム・ウォーカー戦争(1856-57)1周年記念
コスタリカ 1957/6/21 発行
世界遺産
ココ島の地図
(Isla del Coco National Park)


コスタリカ 1936/1/29 発行
グアナカステ州の地図
(Guanacaste Map)


グアナカステ州(Nicoya)合併100年記念
コスタリカ 1924 発行

 
BELIZE
中央アメリカの地図
コスタリカの場所地図
農 業
漁 業
カルタゴ農・牧畜・工業博覧会記念 1950
コスタリカ 1950/7/27 発行
 
メキシコ→

グアテマラ→

エルサルバドル→



←ベリーズ
 (赤)

←ホンジュラス


←ニカラガ


コスタリカ

←パナマ
1948 米州機構50年記念 1998
ベリーズ 1998/7/22 発行

コスタリカ共和国
 Republic of Costa Rica

面積:51,100ku(九州と四国を合わせたほどの広さ)、人口:約452万人(2008)、首都:サンホセ(San Jose)、民族:スペイン系及び先住民との混血95%、アフリカ系3%、先住民他2%、言語:スペイン語、宗教:カトリック教(国教、但し信教の自由あり、スペインから独立:1821/9/15、通貨:コスタリカ・コロン(Costa Rican colon(CRC), 1896-)、1番切手:1862年発行。

独立に付いて
・1821/9/15〜スペインから独立(グアテマラの一部でスペインから独立)
・1823/7/01〜メキシコ帝国から独立
・1847/3/12〜中央アメリカ連邦共和国の一部で独立
・1848/8/30〜コスタリカ自由独立共和国の独立宣言(完全独立)
・1850/5/10〜スペインが独立を承認

コスタリカは1949年に憲法の規定で常備軍隊を廃止した世界最初の国です。又、チリウルグアイと共にラテンアメリカで最も長い民主主義の伝統を持つ国であり、中央アメリカでは例外的に政治的に安定が続き、かつ経済状態も良好な国家でしたが、1990年代以降は麻薬の横行により治安の悪化と社会の不安定化が進行中。主な輸出品は、コーヒー、バナナ、サトウキビ、パイナップル、メロンなどと、1990年代後半のインテル社の進出でコンピュータ部品の輸出が開始されました。

紀元前900年から紀元前300年頃の遺跡が有。メソ・アメリカの一部で、チブチャ系民族やナウアトル文化の交錯する地帯で、13世紀までには神官を中心とする階級制社会が築かれていました。その後アステカ帝国に服属し、緩やかな支配を受ける形で中央アメリカと南アメリカの交易の仲介地点となり、カリブ人も定住していました。16世紀初め頃には約40万人の先住民が居住していたと推測されています。

BC12000頃、狩猟民族がコスタリカ地域に定着
BC8,000頃、植物の栽培が行われるようになる
BC1,000頃、農耕が定着
1502/9/18、コロンブスがリモン湾ウビタ島(Isla Uvita, Limon
    Bay)カリアイ(Cariari)に上陸、ウェルタ(La Huerta)と命名
1519、ペドラリアス総督が太平洋側の拠点としてパナマ市(8/15)
    を建設後にそこを拠点としてスペインによる中米征服が始
    まり、エルナン・ポンセ・ド・レオンとフアン・デ・カスタニェー
    ダ(Juan de Castaneda)が海岸沿いに探検してコスタリカ
    付近まで達する
1522、ペドラリアス総督派遣のヒル・ダヴィラ(Gil Gonzalez Davila,
    1543没)がパナマを出発して太平洋岸を北上探検航海後、
    コスタリカ西海岸に上陸、チョルテカ系住民から金などの
    贈り物を受けて”コスタ・リカ”(豊かな海岸)と命名
コロンブスのコスタリカ(カリアイ)上陸

コスタリカ 1923-26 発行
    同年、ダビラの部下アンドレス・ニーニョ(Andres Nynio)がニカラグアからエルサルバドルまで
    進出するも現地人の反乱でパナマに敗走
1523、ヒル・ダヴィラがニコヤ村(Nicoya, 当時の人口6,063人)に到着
1524、コルドバがパナマからコスタリカに進出。ニコヤ湾地方を征圧、現在のプンタアレナス付近にコ
    スタリカ最初の居住地ビリャ・ブルセラス(Villa Bruselas)を建設、さらにニカラグアへと向かう
1527、先住民を奴隷輸出、太平洋側北西部のカシカスゴ制度の急速な崩壊を招くも、先住民の攻撃
    でビリャ・ブルセラス居住地が消滅
1534、フェリペ・グティエレス(Felipe Gutierrez y Toledo)がパナマから上陸探検
1535、ビリャ・デ・ラ・コンセプシオン(Villa de la Concepcion, Alajuelita canton, San Jose)を建設
1538、ヌエバ・エスパーニャ副王領のパナマ市アウディエンシアの管轄下に置かれる
1539、エルナン・サンチェス・デ・バダホス(Hernan Sanchez de Badjoz, 1546没)がコスタリカの辺境総
    督(Adelantado de Costa Rica)となる
1540、パスクアレ・ド・アンダゴヤがパナマからカリ地方に進出
    エルナン・サンチェス・デ・バタホスの遠征隊がコスタリカを探検
    ロドリゴ・デ・コントレラス(Rodrigo de Contreras y La Hoz, 1502-1558リマ没)ニカラガから探検
    マルベリャ(Marbella)などが建設されて、先住民の抵抗沈静化を試みるも、いずれも失敗する
1542、グアテマラがアウディエンシアとなり、
    その辺境の地にコスタリカを含むニカラグア領がグアテマラ総督府に編入される
1543、ディエゴ・グティエレス(Diego Gutierrez y Toledo, 1544没)がヌエヴァ・カルタゴ・イ・コスタリカ総
    督(Gobernador de la provincia de Nueva Cartago y Costa Rica)となるなど、
    複数の征服者が激しい武力衝突が繰り返す
1544、最後の征服者ディエゴ・グティエレスの死を以って、しばらくの間は放棄される
1560、ファン・デ・エストラダ・ラバゴ(Juan de Estrada Lavago)がニカラグアのグラナダ(Granada,
    Nicaragua)からボガス・デル・トーロ(Bocas del Toro, Panama)に到達、カスティリョ・デ・アウス
    ト(Caseria de Autos)を建設
1561、フアン・デ・カヴァリョン(Juan de Cavarion)が本格的殖民を試みてコスタリカに侵入し内陸部を
    探検、カスティーヨ・デ・ガルシムニョス(Casteria de Galcimnios)がグァテマラからコスタリカ遠
    征でランデチョ(Randecho)を建設、ペドロ・ド・ロス・リオス(Pedro de los Rios)がグァテマラ
    からコスタリカ遠征などスペイン人が多くの居住地を建設するも先住民の抵抗激しく、非常に
    危険な情勢となる
1564、コロナ-ドの叔父フアン・バスケス・デ・コロナード(Juan Vasquez de Coronado y Anaya 1523-
    1565)がコスタリカ総督に就任し、中央盆地にカルタゴを建設、以降独立までコスタリカの政治
    と経済の中心となり、グアテマラ総督府から来たフランシスコ会士とドミニコ会の聖職者が布教
    を始め、コスタリカ征服がほぼ完了すると、激しく抵抗した現地人はほとんどが絶滅
1566、コロナードが総督権征服者の称号を受けに本国へ帰還中に、船が難破して亡くなり、スペイン
    国王は息子のゴンサロ・デ・コロナードをコスタリカ州知事に任命
1568、先住民の攻撃でカルタゴ放棄寸前まで陥いるも、救援物資を運び込んだペラファン・デ・リベラ
    (Perafuan de Riviera)が救援を果たす
1570年以降、交易は多様化が進み、工業品の輸入と引き換えに、トウモロコシ、蜂蜜、豆類、塩、小
    麦粉、ニンニクなどの食料をはじめ、陶器、毛布、ハンモックといった工芸品や、真珠、インディ
    ゴ、綿糸、アガベ、ラードなど様々な物資が輸出される
    征服の過程での疫病などで先住民人口は17世紀初頭に約1万人になり、労働力や金銀等の鉱
    物資源が足りなかったためにスペイン人入植者の数は少なく、コスタリカはスペイン植民地最
    辺境の地として孤立。カカオのプランテーションが築かれ、時折海賊の襲撃はあるも、植民地
    時代に大きな変化はないままとなる
1573、最初の植民者50家族がカルタゴに到着
1574、アングシアナ・デ・ガンボア(Alonso Anguciana de Gamboa)が
    太平洋岸にエスパルサ(Esparza)の町を建設
1590、ラバによる交易が始まる
1601、「王の道」と呼ばれるカルタゴとニカラグアを結ぶラバを用いた陸上ルートが拓かれる
    また、カリブ海側ではスエレ港、モイン港(Moin, Limon)、マティナ港(Matina, Limon)、太平洋岸
    ではカルデラ港(Caldera, Puntarenas)、アバンガレス港(Abangares, Guanacaste)、アルバラド
    港(Alvarado)などが繁栄
1611頃〜1709頃、スペインの征服活動が続くも、思うような戦果が上がらず。
    中央盆地でスペインの支配が確立するも、激しく抵抗する一部先住民はカリブ海沿岸のジャン
    グル、サンカルロス平原、タラマンカ山地など、スペイン支配が行き届かない辺境地へ逃亡
    次第に労働力の供給は現地ではなく、黒人奴隷の輸入という形態が取られるようになる
1611、人口総数19,293人(先住民15,489人、メスティソを含むスペイン人2,695人,ムラートを含む黒人
    1,145人.白人入植者330人)、鉱物資源もなく,先住民もほぼ絶滅して事実上無人の野となり、
    白人自営農民中心の比較的平等な自活社会が形成される
1609、グアテマラ総監領(Captaincy General of Guatemala, -1821)に編入される
1650、カカオ・ブーム到来(輸出市場を席巻)、植民地経済はさらに活性化した
1660、カカオ栽培が活発化し、黒人奴隷が輸入されるようになるも、このブームは長くは続かず、ベネ
    ズエラのカラカス、マラカイボ、エクアドルのグアヤキルなどの優良なカカオ産地との生産競争
    に敗れ、次第に衰退
1676、大西洋岸のマティーナ港を海賊が襲撃し、その後の百年間で10回以上の襲撃で廃墟となる
1685、太平洋岸のエスパルサが英海賊の襲撃により壊滅するも、
    その後に海岸から少し離れた場所に再建される
1705、エレディア(Heredia)が中央渓谷に建設される
1723、カルタゴ北東10キロのイラス火山が爆発
1737、サンホセ市が中央渓谷に建設され、コスタリカ商業の中心として発展
1742、大西洋岸のマティーナ港が、モスキート海賊の襲撃を受けてサンフェルナンド要塞が炎上
1760、タバコ栽培が活発化する
1763、サンホセの北西、バルバ渓谷のクブフキーに新しい植民地エレディアが建設される
1782、アラフェラ市(Alajuela)が中央渓谷に建設される
1789、フランス革命が勃発
1801、人口調査で総人口52,591人(内ラディノとメスティソが30,413:57.9%)純粋の先住民人口8,281人
1808、中央アメリカで最も早くコーヒー(カフェ・アラビカ)がキューバからコスタリカに移植される
    (1830年頃からのイギリスでの高級品コーヒーブームで、コスタリカでもブームが起る)
    フランス皇帝ナポレオン・ボナパルトのフランス軍がスペインへ進軍して、スペイン国王フェルナ
    ンド7世(Fernando VII, 1784-在位1808、1813-1833)を退位させ、ナポレオンの兄ジョゼフ・ボナ
    パルト(Joseph Bonaparte、1768-1844)がスペイン王ホセ1世(Jose I, 在位1808-1813)に即位
    すると、スペインでは反フランス暴動がやがてスペイン独立戦争へと発展。新大陸のインディア
    ス植民地は偽王への忠誠を拒否。その後、各地のクリオーリョ達がラテンアメリカ解放のため
    に立ち上がり、メキシコでミゲル・イダルゴ(Miguel Hidalgo、1753-1811)とホセ・モレーロス
    (Jose Maria Morelos 1765-1815)らによって、南米大陸でシモン・ボリーバル(Simon Jose
    Bolivar 1783-1830/12/17)とホセ・デ・サン・マルティン(Jose de San Martin, 1778-1850)らに
    よって解放戦争が続けられ、多くの植民地が独立を果たす
1814、グアナカステ地方がニカラグアからコスタリカに編入される
1821/9/15、スペインがメキシコ独立戦争(The Mexican War of Independence 1810-1821)で敗戦する
    と、グアテマラ総監領(中米)が中央アメリカ連合州となる。コスタリカは”9/15”が独立記念日
1821/9/16、中央アメリカ連合州(Federal Republic of Central America, -1838)がスペインから独立
1822、アグスティン・デ・イトゥルビデ皇帝(Agustin de Iturbide, 1783-皇帝アグスティン1世(Agustin I)
    在位1822/5/19-1823/3/19-1824/7/19)の第一次メキシコ帝国(First Mexican Empire, 1821-
    1823)が他の中米諸国と共にコスタリカを併合
1823/4/1、メキシコ帝国の崩壊で、チアパス州を除く旧グアテマラ総監領の五州が再び中央アメリカ
    連邦(中米諸州連合(Federal Republic of Central America), 1823-1838)を結成して独立
1823/4/5、オチョモゴの会戦(Battle of Ochomogo 1823)、(コスタリカ最初の内戦)
    4都市の集まりのコスタリカでメキシコ帝国との合併派(カルタゴ市とエレディア市)と
    独立共和国の設立派(サンホセ市とアラフエラ市)との内戦が勃発
    カルタゴ近郊のオチョモゴ丘(Ochomogo Hill)でカルタゴ軍とサンホセ軍が戦い、
    フアン・モラ・フェルナンデス将軍の率いるサンホセ軍がカルタゴ軍に圧勝
1823/6/24、中米会議が開催される、メキシコ帝国崩壊でグアテマラ市に5州の代表が集合
    ・中央アメリカ連合州(Federal Republic of Central America, -1838)として独立することを決定
    ・奴隷制廃止を宣言
    ・エルサルバドルの保守派ホセ・アルセ中佐(Manuel Jose Arce, 在任1824/3/15-1824/10/20,
     & 大統領1825-1829)が僅差で中米連邦共和国の初代大統領となるも、自由主義者のフラン
     シスコ・モラサン(Francisco Morazan,1792-1842, Honduras)をはじめとするエルサルバドル派
     と保守主義者のラファエル・カレーラ(Jose Rafael Carrera Turcios,1814-1865)をはじめ
     とするグアテマラ派の内戦が勃発
1823/7/1、
    中央アメリカ連邦共和国
    (Federal Republic of Central America)が、メキシコ帝国から独立
    中央アメリカ連邦共和国はアメリカ合衆国をモデルとして建国され、1823〜1838/5/31まで中央
    アメリカに存在した国家で、独立当初の首都はグアテマラ市(1834年サンサルバドルに遷都)
    スペイン植民地時代に中央アメリカのヌエバ・エスパーニャ副王領の下位行政組織だった
    グアテマラ総督領を構成していた
    ・グアテマラ
    ・エルサルバドル
    ・ホンジュラス
    ・ニカラグア
    ・コスタリカ、で構成されて独立時にメキシコ南東のチアパス州はメキシコに帰属
    1838〜1840年の内戦で、連邦は崩壊
1824、連邦への積極的な加盟を勧めるフェルナンデス将軍が、スペインの植民都市カルタゴから
    サンホセ市に政庁を移すことを決定、サンホセが首都となる
    コスタリカで奴隷解放令が公布される
    ニコヤ半島(Nicoya Peninsula, Guanacaste province)がコスタリカに編入される
1825、フアン・モラ・フェルナンデス将軍がコスタリカ州代表(国家元首:1825-1833)となり、
    コーヒー産業の育成に尽力
1833、コスタリカの金山が最盛期を迎え、輸出額の45%を金が占め、最初の硬貨が鋳造されるも、
    その後急速に枯渇
1835/9/26、フェルナンデス将軍の後継者ブラウリオ・カリージョが統領に就任すると、自由主義的な
    改革と新税の導入を推進して独裁を始めると、サンホセ市の支配的傾向に対する他都市の反
    感が強まり、カルタゴ・エレディア・アラフェラの三市同盟軍が反乱してサンホセ市を攻めるも、
    同盟軍は同盟戦争(War of the League 1835、2回目の内戦)に敗れる
1838、ホンジュラスが中米連邦から離脱すると、他の地域と同じくコスタリカも共和国として独立
1839、コスタリカ統領ブラウリオ・カリーヨが終身統領を宣言
    教会に納めるディエスモ税を廃止して強権の下に近代化を進める
1840、中米連邦共和国が崩壊
1841、エルサルバドルの離脱で中米連邦は完全に瓦解
1842/4、ホンジュラス出身の元中米連邦大統領のフランシスコ・モラサンがカリーリョ(エルサルバ
    ドルに亡命)を追放して大統領となり、中米連邦再興のためにニカラグア侵攻を企てるも失敗
1842/9/15、ニカラグアとエルサルバドル、ホンデュラス3国がチナンデガ協定を結び連邦制度を復
    活。モラサンがコスタリカ軍を組織してグアテマラに進攻するが敗北、
    モラサン政権が転覆
1842/11、コスタリカに逃げ込んだモラサンが反対派にカルタゴに追い詰められたあと捕えられ、
    サンホセで銃殺される
1842/12、コスタリカが大統領制を施行。自由党のホセマリア・カストロが最初の大統領に就任
1845、元独裁者ブラウディオ・カリーヨが亡命先のエルサルバドルで殺害される
    プンタレナス港(Puntarenas)を免税港(除く:コニャックなどアルコール度数の高い酒類)に指定
1848/8/30、ホセマリア・カストロ大統領が、中米諸州連合から分離してコスタリカの独立を宣言して国
    旗・国歌を制定し、国名を「コスタリカ自由独立共和国」と宣言、現在も公式にはこの国名
1849、コーヒーの生産が急速に拡大し、チリ経由でヨーロッパに運ばれる。旧来の商人・地主ボスに
    代わって新興コーヒー農園主をバックにした保守党が力を伸ばす
    カストロ政権を打倒してファン・ラファエル・モーラが大統領に就任
1856/3月、隣国ニカラグアでアメリカ合衆国南部人の傭兵隊長ウィリアム・ウォーカー(William Walker
    1824-在任1856/7/12-1857/5/1-1860/9/12)が大統領となり、中米四国はウォーカー排除を
    決定して連合軍を結成。ウォーカーの率いるニカラグア軍との国民戦争(ウォーカー戦争)で、
    コスタリカ軍は反ウォーカーだったイギリスとアメリカ合衆国のヴァンダービルト財閥などの支
    援を受けて中米連合軍の中で主要な役割を果たす
1856/3/20、ウォーカー軍シュレジンジャー大佐(colonel Schlessinger)のニカラグア軍がコスタリカに
    侵入、サンタ・ロサの戦い(Battle of Santa Rosa)でコスタリカ軍に敗れる
1856/4/11、ウォーカー軍を追撃したコスタリカ軍が、リヴァスの決戦(Second Battle of Rivas)で
    勝利。決死の戦闘後に壮絶な戦死を遂げたムラートの鼓兵フアン・サンタマリーアは現在も
    国民的英雄となる。ウォーカー軍はグラナダを焼き打ちした後に撤退
1856/11、コスタリカ大統領フアン・ラファエル・モーラが中米連合軍の総司令官となる
1857、軍隊が持ち帰ったコレラがコスタリカ国内で猛威を振るい国民10人に一人が死亡した
    といわれ、戦争を開始したモーラ大統領に対する反感が広がる
1858、ニカラグアがグアナカステ州のコスタリカ帰属を承認
1859、モーラ政権崩壊、トマス・グアルディア・グティエレスが政権を握る
1860/9/12、ウィリアム・ウォーカーがホンジュラス軍に処刑される
1862、1番切手が発行される
1870、国民戦争後、自由主義者のトマス・グアルディア将軍がクーデターで政権を握る。グアルディア
    の主導により、一院制議会と強い大統領権が認められて自由主義の時代となり、主産業のコ
    ーヒー・プランテーションが拡大され、コーヒーを基盤に経済が発展
1871、憲法が制定され、1948年までのコスタリカは基本的にこの路線に沿って発展
    ラテンアメリカ全体でも特異なコスタリカの民主的な社会が成立する素地となる
   内陸部の首都サンホセ〜カリブ海リモン港間のコーヒー輸送のための鉄道建設が契約される
1877、死刑が廃止される
1882、グアルディアが亡くなると、自由主義派の流れを継いでベルナルド・ソトの支配が続く
1889、ソトがカトリック教会と結んだ保守派のホセ・ロドリゲスに選挙とデモで破れ、
    自由主義政権が終る
1890、輸出の80%がコーヒーとなる。鉄道が完成、積出し港としてカリブ海側のリモンが発展。鉄道建
    設の負債を補うためにパナマ地峡からバナナが導入され、アメリカ人のマイナー・キースはそ
    の後、熱帯雨林を切り開いた跡地でのバナナのプランテーション栽培に力を入れ、バナナブー
    ムが到来。コスタリカの土地所有形態は植民地時代からの中小独立自営農民による中規模土
    地所有が主体だったので、他の中米諸国やブラジルのような大プランテーションは発達せず、
    また、コスタリカは中米で最も早くコーヒー栽培が開始されたため、コスタリカを通してグアテマ
    ラ、エルサルバドルにコーヒーの生産技術が伝播することとなり、この時期にブエノスアイレス
    やカラカスをはじめとする他のラテンアメリカの多くの国の首都がそうなったように、エリートに
    よって首都サンホセ市はパリ風に改造され、カリブ・ヴィクトリア朝を真似た邸宅が建ち並ぶ
1890/12/7、サンホセ市〜リモン港までの鉄道全区間が開通
1891、英雄フアン・サンタマリアの像が建てられる
1897年 国立劇場が建てられる
1899、キースが設立したユナイテッド・フルーツが中央アメリカの事実上の支配者となる
1902、民主主義時代の始まる
1905頃、バナナはそれまでの主産業だったコーヒーを抜いて輸出の60%を占め、20世紀に入っても
    コスタリカはバナナとコーヒーのモノカルチャー経済の下で発展が続く
1910、サンホセまで鉄道が全通し、コーヒーの鉄道輸送が完成
1913、直接投票が導入される
1916、第一次世界大戦による輸出収入減により、所得税が導入される
1917、フェデリコ・ティノコ・グラナードス将軍がクーデターを起こす
1919/8/13、アメリカ合衆国の圧力で独裁制は崩壊
1920、インフルエンザが大流行し、2000人以上の死者が出る
1921、アメリカ合衆国の支持で、パナマとコト戦争(Battle of Coto)を起こし、パナマから領土を併合
1925、無記名投票が導入される
1927、厚生省が設立される
1929、世界恐慌がコスタリカのモノカルチャー経済に大打撃を与え、
     コーヒー価格の低落のために社会が不安定となる
1930、経済危機
1936、選挙で国民共和党(PRN)からファシズムに傾倒したレオン・コルテスが大統領になる
1940、大統領選挙で社会民主主義のカルデロン・グアルディア政権が誕生し、労働法を制定、社会保
     障の制度化、コスタリカ国立大学の創設など、労働者や中間層よりの政策を進める
1941、大日本帝国真珠湾攻撃で太平洋戦争が勃発すると、米国に先駆けて枢軸国に宣戦布告
    敵性国民となったドイツ系地主の資産を接収
    カルデロン派とコルテス派による政治不安が起る
1944、大統領選挙ではテオドロ・ピカード・ムチャイスキが大統領に就任
1948、大統領選挙は与党のカルデロンと野党のオティリオ・ウラテの一騎打ちとなり、開票の結果は
    ウラテの勝利が確定するも、与党はこの選挙結果を無効とする、こうした中で、グアテマラ大
    統領フアン・ホセ・フィゲーレス・アレバロの支援を受けた野党のホセ・フェレールが反乱を準備
1948/3/12、ホセ・フィゲーレス・フェレールの反乱で
    市民戦争(Costa Rican Civil War 3/12-4/24)が勃発
1948/4/24、市民戦争でホセ・フィゲーレス・フェレールの市民軍が勝利
    大統領選挙の結果が不正であることが明らかになり、野党のホセ・フィゲーレス・フェレールが
    反乱を起こしてコスタリカ内戦が勃発。6週間の内戦後にフィゲーレスは政府軍に勝利。ニカ
    ラグアに亡命した旧政府軍はアナスタシオ・ソモサ・ガルシアに支援された傭兵軍と共にニカ
    ラグアからコスタリカに侵攻するも撃退される
1948/4/28、テオドロ・ピカード大統領(在任1944-1948)が退陣、内戦が終結
1949、現行の憲法が制定(軍隊の保有を禁止)され、親米を基調として、政治を混乱させる装置にし
    かならない軍隊は廃止され(第12条 常設的機関としての軍隊を禁止)、それまでの軍隊の
    担当役割は警察に移管され、女性や黒人の政治参加も認められる。常備軍の廃止で、その
    後のコスタリカは他のラテンアメリカ諸国で繰り広げられたような軍事クーデターは起こらず
1953、大統領選挙で国民解放党(PLN)のフィゲーレスが勝利し、フィゲーレス政権は「兵士の数だけ
    教師を」を合言葉に、軍事予算を教育予算に回し教育国家に転換
1955/1、元コスタリカ大統領テオドロ・ピカードの息子ピカード2世が再びソモサ一族に支援されて、
    傭兵軍(ニカラグア国家警備隊々隊員も含)と共にニカラグアからコスタリカに侵攻、陸空約
    1,000人のピカード2世軍が幾つかの都市を攻略
1955/2、コスタリカ武装警察が反撃し、米州機構(OAS:Organization of American States)が仲介して
    停戦し、侵攻軍は武装解除される
1949、憲法による政治の安定が国家の成長を助け、コスタリカ経済はこの時期に伝統的なバナナ、
    コーヒーの輸出に加えて、外資による工業化をも達成することになる
1960、中米共同市場(CACM:Central American Common Market)が発足
    初のテレビ放映
1963、コスタリカは中米四ヵ国に遅れるも、中米共同市場に加盟
1961/4、キューバでピッグス湾侵攻事件が勃発
    コスタリカ保守党政府は反革命集団の支援に加わる
1963、イラス火山が噴火、1年間も繰り返す
1965/4、ドミニカ共和国で内戦が勃発、
    米国ジョンソン大統領が反共を掲げて海兵隊を主体とする軍をドミニカ共和国に派遣する
1965/5、ドミニカ共和国でボッシュ政権と民主主義の復活を訴えるクーデターが勝利、
    コスタリカ政府は反革命を支持してブラジル軍を主体としたドミニカ占領軍に部隊を派遣
1974/2/10、北朝鮮と国交樹立
1978、国家としては反共でありながらも、ニカラグアの政権を支配した親米のソモサ一族を嫌ったコス
    タリカは、ニカラグアのサンディニスタ民族解放戦線が全面蜂起すると、
    それを全面的に支援してニカラグア革命を支える
1979、ニカラグア革命(FSLN:サンディニスタ革命)が米国海兵隊に勝利して政権を打倒
    その後サンディニスタ内での路線対立でFSLNの司令官だったエデン・パストラ(Eden Atanacio Pastora Gomez、1937-)がコスタリカに亡
    命してパストラ司令官がコントラ(Contra:反革命組織)一派民主革命同盟(ARDE)が組織する
1980、コスタリカは米国からの援助1,600万ドルを受け、アメリカ合衆国による対ニカラグア作戦のコン
    トラ基地となる(中立原則が揺らぐ)
1983、米国の援助額が2億ドルへ急増。政府予算の1/3で、多くがひも付き援助でコスタリカの政策決
    定に深刻な影響を与え、コスタリカの人民前衛党がニカラグア問題をめぐり分裂し、マヌエル・
    モーラ(Manuel Mora 1909-1994)がコスタリカ人民党(PPC)を結成
1983/11/17、非武装・中立宣言、米国は宣言に対し正式な見解を発表せず、
    ルイス・アルベルト・モンへ大統領が「コスタリカの永世的、積極的、非武装的中立に関する大
    統領宣言」を行う中立宣言式典にウィンザー米大使が欠席することで不快感を表明
1883/12/6、コスタリカはラングーン事件に抗議して北朝鮮と断交
1986、モンヘ大統領を破ってアリアス大統領が就任、アメリカの対ニカラグア強硬政策に追随せず、
    コスタリカ国内のARDEの基地は撤去され、さらに中米紛争そのものの解決のためにも尽力
1987、アリアス大統領が中米和平実現のために努力に対してノーベル平和賞を受賞
1990、大統領選挙でキリスト教社会連合党(PUSC、中道右派)のフルニエル大統領に就任
1991/12/25、ソビエト連邦が崩壊
1994、大統領選挙、中道左派の野党国民解放党(PLN)から、ホセ・フィゲーレス・フェレールの息子
    ホセ・マリア・フィゲーレス大統領が就任
1997、米国インテル社(INTEL)が操業を開始
1998/2、大統領選挙で、PUSCのミゲル・ロドリゲス大統領が就任
1999、ロドリゲス大統領がメキシコの実業家カルロス・ゴンサレス(Carlos Hank Gonzalez 1927-2001)
    から不正献金を受け取っていたことが発覚
2001、アメリカの9.11テロ後、アメリカのアフガニスタン攻撃を支持
2002、パチェコ大統領が就任
2002、大統領選挙で、PUSCからアペル・パチェコ大統領が就任、米国のアフガニスタン攻撃を支持
2003/3、パチェコ大統領がイラク戦争開始で米ブッシュ政権を支持する声明に署名、
    するとコスタリカ大学の学生が「常備軍を廃止した同国の平和憲法の精神や国際法に違反し
    ている」と最高裁の憲法々廷に提訴
2004/12、最高裁がパチェコ大統領の声明を無効とし、米ホワイトハウスのホームページからコスタリ
    カ名を削除するように命じると、パチェコ大統領は判決に服し実行したので、コスタリカの米国
    支持はなかったことになる
2005、大統領を違憲で訴えた学生が来日し公演を行う、
    元大統領のカルデロンとロドリゲスの2人が汚職で逮捕される
2006/5、アリアス大統領が就任
2006、再任した(連続再任ではない)アリアス大統領が大統領を務める
2010/2/7、大統領選挙で、国民解放党(PLN)のラウラ・チンチージャ前副大統領が大差で当選
2010/5、チンチージャ大統領が就任
    初の女性大統領となり、現在は親米外交、人権擁護、民主主義を原則とした国家となる。

▼コスタリカは7つの州(Provincias)に分かれ、
 州はさらに合計81のカントン(cantones)に分かれる。
1)アラフエラ州(Alajuela)、
   州都:アラフエラ、(15)、108 9,757.53ku、716,286人
2)カルタゴ州(Cartago)、
   州都:カルタゴ、(8)、48 3,124.67ku、432,395人
    1822、カルタゴが大地震で壊滅的打撃を受けるも、その後に再建される
    なお、1841、1910、1963(イラス火山(Irazu Volcano, 3,432m)噴火)にも大地震が有
3)グアナカステ州.Guanacaste)、
   州都:リベリア(Liberi)、(11)、10,140ku、71 264,238人
4)エレディア州(Heredia)、
   州都:エレディア、(10)、2,656.98ku、354,732人
5)リモン州(Limon)、
   州都:リモン、(6)、9,188.52ku、389,295人
6 プンタレナス州(Puntarenas)、
   州都:プンタレナス、(11)、11,265.69ku、357,483人
7)サン・ホセ州(San Jose)、
   州都:サン・ホセ、(20)、118 4,965.90ku、1,345,750人
小さな村だったサン・ホセは、1824年に国家元首フアン・モラ・フェルナンデス (Juan Mora Fernandez) がスペインの植民都市だったカルタゴからサンホセに政庁を移すことを決定して首都となり、それで町は急成長。そのため18世紀半ばに都市の起源を持つサン・ホセは、他のラテンアメリカの首都と異なり、スペインの植民都市の雰囲気が全くありません。北緯10度、標高約1,170mに有。人口:86,900人(1950)、329,154人(1997)。

コスタリカは自然が豊かで、独立当初は国土の95%が密林に覆われているも、現在の森林面積は国土の40%以下になりました。コスタリカは太平洋から大西洋まで、最も狭いところで119km、最も広いところで226kmしか距離がなく、細長い国土なるも、国土の中央をグアナカステ山脈、ティララン山脈、中央山脈、タラマンカ山脈が貫き、国土中央の標高は2,000mに達する中央盆地があります。国内最高峰はチリポ山(3,901m)。カリブ海岸の低地は熱帯性気候で雨が多く、太平洋岸にはニコヤ半島や、ニコヤ湾があるグアナカステ低地と、オサ半島やドゥルセ湾のある低地があり、気候は太平洋岸の南北で異なります。


コスタリカ大統領の列伝:〜(氏名、任期、政党、備考)
  ・中央アメリカ連邦共和国のコスタリカ代表(1848年までの名称は国家元首)
   (Heads of State of Costa Rica, 1825-1848)
・フアン・モーラ・フェルナンデス
 (Juan Mora Fernandez, 1784-1854) 1825-1833
・ホセ・ラファエル・デ・ガジェーゴス
 (Jose Rafael de Gallegos y Alvarado) 1833-1835
・ブラウリオ・カリーリョ
 (Braulio Carrillo Colina) 1835-1837、第一期
・マヌエル・アギラール・チャコン
 (Manuel Aguilar Chacon) 1837-1838
・ブラウリオ・カリーリョ
 (Braulio Carrillo Colina) 1838-1842、第二期
・フランシスコ・モラサン
 (Francisco Morazan Quesada) 1842/4月-9月
・アントニオ・ピント
 (Antonio Pinto Soares) 1842/9月
・ホセ・マリア・アルファロ
 (Jose Maria Alfaro Zamora) 1842-1844、第一期
・フランシスコ=マリア・オレアムノ
 (Francisco Maria Oreamuno Bonilla) 1844-1846
・ホセ・マリア・アルファロ
 (Jose Maria Alfaro Zamora) 1846-1847、第二期
・ホセ・マリア・カストロ
 (Jose Maria Castro Madriz) 1847-1848
・ホセ・マリア・カストロ
 (Jose Maria Castro Madriz) 1848-1849、第一期

※国家元首から大統領となる
  ・コスタリカ共和国の大統領
   (Presidents of Costa Rica, 1848〜現在)
・ミゲル・モーラ・ポラス
 (Miguel Mora Porras) 1849年
・フアン・ラファエル・モーラ
 (Juan Rafael Mora Porras) 1849-1859
・ホセ=マリア・モンテアレグレ・フェルナンデス
 (Jose Maria Montealegre Fernandez) 1859-1863
・ヘスス・ヒメネス
 (Jesus Jimenez Zamora) 1863-1866、第一期
・ホセ・マリア・カストロ
 (Jose Maria Castro Madriz) 1866-1868、 第二期
・ヘスス・ヒメネス
 (Jesus Jimenez Zamora) 1868-1870、第二期
・ブルーノ・カランサ・ラミレス
 (Bruno Carranza Ramirez) 1870/4月-8月
・トマス・グアルディア・グティエレス
 (Tomas Guardia Gutierrez) 1870-1876、第一期
・アニセト・エスキベル・サエンス
 (Aniceto Esquivel Saenz) 1876/3月-7月
・ビンセント・エレーラ
 (Vicente Herrera Zeledon) 1876-1877
・トマス・グアルディア・グティエレス
 (Tomas Guardia Gutierrez) 1877-1882、第二期
・サトゥルニーノ・リサーノ・グティエレス
 (Saturnino Lizano Gutierrez) 1882年
・プロスペロ・フェルナンデス
 (Prospero Fernandez Oreamuno) 1882-1885
・ベルナルド・ソト
 (Bernardo Soto Alfaro) 1885-1890
・ホセ・ホアキン・ロドリゲス
 (Jose Joaquin Rodriguez Zeledon) 1890-1894
・ラファエル・イグレシアス・カストロ
 (Rafael Yglesias Castro) 1894-1902、二期連続
・アセンション・エスキーベル・イバラ
 (Ascension Esquivel Ibarra) 1902-1906
・クレト・ゴンサレス・ビスケス
 (Cleto Gonzalez Viquez) 1906-1910、第一期
・リカルド・ヒメネス・オレアムノ
 (Ricardo Jimenez Oreamuno) 1910-1914、第一期
・アルフレド・ゴンサレス・フローレス
 (Alfredo Gonzalez Flores) 1914-1917
・フェデリコ・ティノコ・グラナードス
 (Federico Tinoco Granados, 1868-1931) 1917-1919、二期連続
・フアン・バウティスタ・キロス・セグラ
 (Juan Bautista Quiros Segura) 1919/8月-9月
・フランシスコ・アギラール・バルケーロ
 (Francisco Aguilar Barquero) 1919-1920
・フリオ・アコスタ・ガルシア
 (Julio Acosta Garcia) 1920-1924
・リカルド・ヒメネス・オレアムノ
 (Ricardo Jimenez Oreamuno) 1924-1928、第二期
・クレト・ゴンサレス・ビスケス
 (Cleto Gonzalez Viquez) 1928-1932、第二期
・リカルド・ヒメネス・オレアムノ
 (Ricardo Jimenez Oreamuno) 1932-1936、第三期
・レオン・コルテス
 (Leon Cortes Castro) 1936-1940
・ラファエル・アンヘル・カルデロン=グアルディア
 (Rafael Angel Calderon Guardia) 1940-1944
・テオドロ・ピカード
 (Teodoro Picado Michalski) 1944-1948
・ホセ・フィゲーレス・フェレール
 (Jose Figueres Ferrer, 1906-1990) 1948-1949、国民解放党 (PLN)、第一期
・オティリオ・ウラテ
 (Luis Rafael Otilio Ulate Blanco) 1949-1953
・ホセ・フィゲーレス・フェレール
 (Jose Figueres Ferrer) 1953-1958、国民解放党 (PLN)、第二期
・マリオ・エチャンディ
 (Mario Echandi Jimenez) 1958-1962、統一連合 (PU)
・フランシスコ・オーリ・ボルマリク
 (Francisco Orlich Bolmarcich) 1962-1966、国民解放党 (PLN)
・ホセ・ホアキン・フェルナンデス
 (Jose Joaquin Trejos Fernandez) 1966-1970、統一連合 (PU)
・ホセ・フィゲーレス・フェレール
 (Jose Figueres Ferrer) 1970-1974、国民解放党 (PLN)、第三期
・ダニエル・オドゥベル
 (Daniel Oduber Quiros) 1974-1978、国民解放党 (PLN)
・ロドリゴ・カラソ・オディオ
 (Rodrigo Alberto Carazo Odio) 1978-1982、キリスト教社会連合党 (PUSC)
・ルイス=アルベルト・モンヘ
 (Luis Alberto Monge Alvarez) 1982-1986、国民解放党 (PLN)
・オスカル・アリアス・サンチェス
 (Oscar Arias Sanchez) 1986-1990、国民解放党 (PLN)、第一期
・ラファエル・アンヘル・カルデロン・フォルニエル
 (Rafael Angel Calderon Fournier) 1990-1994、キリスト教社会連合党 (PUSC)
・ホセ=マリア・フィゲーレス・オルセン
 (Jose Maria Figueres Olsen) 1994-1998、国民解放党 (PLN)
・ミゲル・アンヘル・ロドリゲス
 (Miguel Angel Rodriguez Echeverria) 1998-2002、キリスト教社会連合党 (PUSC)
・アベル・パチェコ
 (Abel Pacheco de la Espriella) 2002-2006、キリスト教社会連合党 (PUSC)
・オスカル・アリアス・サンチェス
 (Oscar Arias Sanchez) 2006-2010、国民解放党 (PLN)、第二期
・ラウラ・チンチージャ
 (Laura Chinchilla) 2010〜、国民解放党 (PLN)、コスタリカ初の女性大統領

▼コスタリカの鉄道
1871、内陸部の首都サンホセ〜大西洋岸のリモン港間のコーヒー輸送の鉄道建設がアメリカのマイ
    ナー・キース(Minor Cooper Keith 1848-1929)の叔父ヘンリー・メイグス(Henry Meiggs, 1877
    没)とトマス・グティエレス大統領によって契約され、プンタレナス〜サンホセ〜リモン港間を結
    ぶ太平洋横断鉄道の建設が開始され、最終的にコスタリカ国内の肥沃な地域を結び、ニカラ
    グアとパナマの鉄道に接続する鉄道網の中核として形成される
1873、アラフエラ(Alajuela)〜サンホセの区間で鉄道敷設工事が完了
1877、マイナー・キースが叔父の没後に鉄道建設を引き継ぐ
1879、ニコヤ湾プンタレナスのエスパルサ(Esparza)の町まで鉄道が開通
    コーヒーは元々、山岳地帯から牛車(カレータ)で運ばれていたが、鉄道輸送となる
1890/12/7、サンホセ〜リモン港までの鉄道全区間が開通
1897、太平洋側へ向かう鉄道建設事業が、資金・自然・政治的な困難に再び直面する
1910/7/23、太平洋側の鉄道が公式に開通
    最初の機関車マリア・セシリア(Maria Cecilia)が、
    サンホセに向けて乗客と貨物と共にプンタレナスを出発
大西洋岸の鉄道はマティーナの小さな港から、レベンタソーン川を渡り、二手に分かれて北部山脈を横断するまでの範囲をカバーしていました。一方の分岐はイラス火山の北側を迂回し、もう一方の分岐はオチョモゴ峠を越えていました。サンホセでこれらの分岐は合流し、アラフエラを経由して太平洋岸にあるティビベスの小さな港やプンタレナスへと続いていました。鉄道路線は部分的に国家とコスタリカ鉄道会社(Costa Rica railway company)によって所有されています。
1904、幾つもの支線が大西洋沿岸にあるバナナ農園を結ぶ
1926、電化を決定
1930/4/8、サンホセ〜プンタレナスまでの区間を最初の電車が運行される
1991、地震で鉄道網が損害を被る
1995、運行が停止される
2000、コスタリカ鉄道公団(インコフェル:Incofer:Instituto Costarricense de Ferrocarriles)が
    鉄道輸送の再建に向けて動き出す
現在の状況:〜
    コスタリカ鉄道公団が軌間1,067mmの狭軌鉄道を運行中
2006、コスタリカには次の区間で鉄道路線が運行されるも、
    パナマとニカラグアとは接続していない
・ティコ・トレイン・ツアー
    サンホセ〜カルデラ (91km)
    インコフェルの路線を使用して民間企業のアメリカン・トラベルが観光客向け列車を運行
・通勤列車
    サンホセ〜サンペドロ (4km)
    サンペドロ市内にあるラティーナ大学までの路線、インコフェルが運行
・通勤列車
    サンホセ〜パバス (6km)
    ティコ・トレイン・ツアーと同じ路線を使用してインコフェルが運行
・貨物列車
    サンホセ〜太平洋岸のカルデラ港(91km)
    ティコ・トレイン・ツアーと同じ路線を使用してインコフェルが貨物列車を運行

▼コスタリカのユネスコ世界遺産:〜
 自然遺産が3件有
 1件はパナマにまたがっての自然遺産。

(1)ココ島(イスラ・デル・ココ)
  (Isla del Coco)
  別名:ココス島、英:Cocos Island
  1978、国立公園に指定
  1997、ユネスコの自然遺産に登録
       世界遺産:イスラ・デル・ココ国立公園
       (Cocos Island National Park)
  登録年:1997、拡張年:2002
ココ島は中米コスタリカの南西約500kmの太平洋上に浮かぶコ
ココ島の地図

Isla del Coco National Park
スタリカ領の島です。1526年にスペインのホアン・カベサスル(Joan Cabezasl)が発見。1684〜1821年の間に海賊達が島で財宝を隠したと言われ、後にハンター達が海賊が隠した財宝を求めて探索するも、未だに発見されていません。小説及び映画「ジュラシック・パーク」シリーズの恐竜が生息する架空の島「ソルナ島とヌブラル島」はココ島がモデルだと言われています。なお、インド洋に浮かぶ絶海の孤島のココス島とは別の島です。

(2)グアナカステ保全地域
  (Area de Conservacion Guanacaste)
  1989/8/16、コスタリカの保全地域として設定される
  1994、フンキリャル湾国立野生生物保護区が加わる
  1999、保全地域内の
      ・グアナカステ国立公園
       (Parque Nacional Guanacaste)
      ・サンタ・ロサ国立公園(海域を含む)
       (Parque Nacional Santa Rosa)
      ・リンコン・デ・ラ・ビエハ火山国立公園
       (Parque Nacional Volcan Rincon de la Vieja)
      ・フンキリャル湾国立野生生物保護区
       (Bahia Junquillal National Wildlife Refuge)
      ・オリソンテス試験森林、
       (Horizontes Experimental Forest)
      ユネスコの世界遺産リストの自然遺産に登録される
       世界遺産:グアナカステ保全地域
       (Area de Conservacion Guanacaste)
  登録年:1999、拡張年:2004
  2004、サンタ・エレナ地区
       (Santa Elena Sector)
      が拡大登録される。
コスタリカの保全地域の一つで、コスタリカは全国の国立公園や自然保護区を11の保全地域にグループ分けして管理を行う SINAC (Sistema Nacional de Areas de Conservacion de Costa Rica)という制度を導入しており、グアナカステ保全地域は、その内のコスタリカ北西部グアナカステ州一帯にある保全地域です。

(3)タラマンカ山脈=ラ・アミスター保護区群とラ・アミスター国立公園
  (Talamanca Range-La Amistad International Park)
  1983、コスタリカの世界遺産として、
    7つの国立公園や自然保護区がまとめて、世界遺産に
    「タラマンカ山脈=ラ・アミスター保護区群」として登録される
       世界遺産:タラマンカ山脈=ラ・アミスター保護区群とラ・アミスター国立公園
       (Talamanca Range-La Amistad Reserves / La Amistad National Park)
      ・イトイ・セレレ生物圏保護区
       (Hitoy Cerere Biological Reserve)
      ・ラ・アミスター(タラマンカ)国立公園
       (La Amistad (Talamanca) National Park)
      ・チリポ国立公園
       (Chirripo National Park)
      ・バルビジャ国立公園
       (Barbilla National Park)
      ・タパンティ国立公園
       (Tapanti National Park)
      ・リオ・マンチョ森林保護区
       (Rio Macho Forest Reserve)
      ・ラス・タブラス保護地域
       (Las Tablas Protected Area)
  登録年:1983
  拡張年:1990
  1988、パナマとコスタリカが共同管理する国際平和公園のラ・アミスター国際公園ができる
      その一部に「タラマンカ山脈=ラ・アミスター保護区群」が加えられる
  1990、国際平和公園のラ・アミスター国際公園が世界遺産となる
      ・ラ・アミスター国立公園
       (La Amistad National Park)
タラマンカ山脈=ラ・アミスター保護区群は、コスタリカとパナマにまたがる世界遺産です。

その他の主な国立公園:〜北から
・ボルカン・テノリオ国立公園
・アレナル・ヴォルケーノ国立公園(アレナル湖南東岸)
・パロ・ヴェルデ国立公園
・トルトゥゲロ国立公園(東海岸)
・ロス・ケツァレル国立公園
・チリボ国立公園
・コルコバド国立公園(南西海岸)

参考HP:〜
コスタリカの地図
コスタリカの地図(詳細地図)
コスタリカの地図(グーグル日本語地図)
コスタリカの区分地図
ココ島の地図
ココ島の場所地図
中米の区分地図

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。        2014/5/8
スタンプ・メイツ
Copyright(C):Spice
無断転載禁止