United Kingdom

国連 1983 発行
冒険大航海 (Adventure Voyage)
アーサー・フィリップ提督
1788
オーストラリア囚人流刑植民地の初代総督

大航海物語
 オーストリア編
AUSTRALIA
アーサー・フィリップ提督

オーストラリア 1986/8/6 発行

Australia
地図上にオーストラリア国旗

オーストラリア 1981/8/4 発行
RF NOUVELLE-CALEDONIE
ペルーズ船長とフィリップ提督

ボタニー湾会見図
←赤い服が
フィリップ提督
NORFOLK ISLAND
シリウス号

ノーフォーク島 1967-68 発行

ペルーズ船長とフィリップ船隊

ニューカレドニア 1988 発行

フィリップ提督(赤服)とラ・ペルーズ(青服)との
ボタニー湾での会見200年記念
オ|ストラリア→
1788 La Perouse & Commdore Phillip 1988
1788/1/24 Botaney Bay

ニューカレドニア 1988 発行
ポート・ジャックソン




現在のシドニー市街地





ボタニー湾






フィリップ提督は1788年にオーストラリアNSW総督になってオーストラリアに行き、同年に太平洋探検航海の途中で寄港したフランスのペルーズ船長とボタニー湾で会見しました。その後1792年までオーストラリアに留まって、流刑地(現シドニー)の建設に貢献しました。
総督アーサー・フィリップ提督 (1738/10/11〜1814/8/31)
 Admiral Arthur Phillip RN、 NSW Governer (NSW総督在位:1788〜1792)

フィリップ提督は1738年にドイツ人教師ジェイコブ・アーサーとフランクフルトで英語教師をしていたイギリス人女性エリザべス(Elizabeth Breach)との子供として、イギリスのロンドンで生まれました。彼の母はイギリス海軍々人(艦長)と結婚していましたが、夫の死後ジェイコブと再婚しました。フィリップはグリニッジ病院の学校で学び、13才で商船員として船に乗り、海に出ました。彼は15才でイギリス海軍に入隊し、18才で七年戦争(イギリス・プロイセン対オーストリア・ロシア、1756-1763)中に、バイング提督(John Byng)指揮の地中海”ミノルカ島の海戦”(Battle of Minorca、1756/5/20、イギリス対フランス・スペイン連合艦隊)で戦いましたが、イギリス艦隊の敗戦となりました。

1762年に海軍大尉に任官しましたが、七年戦争が終わると予備役待遇(half-pay、半額給与)となりました。この時期にマーガレット(Margaret)と結婚し、イギリスのハンプシャー州に牧場を買いました。1774年にはスペインに対する戦争に参加するため、ポルトガル海軍に艦長として入隊し、ポルトガルからブラジルへの囚人輸送艦隊の指揮を執って、非常に安い賃金で囚人を輸送しました。これが、後のシドニー遠征航海の原因となったといわれています。1778年に本国イギリスが戦争に反対したため、彼はイギリスに戻りました。そして1779年にバシリスク号(HMS Basilisk)に乗船し、1781年に艦長になりしました。英仏海峡艦隊(Channel Fleet)のアリエイドン号(HMS Ariadne、20-gun post ship)に乗組み、1780/1月にフィリップ・ギドリー・キング少尉が乗組んできました。1783年にエウロパ号(HMS Europe、64-gun third rate ship 1370t)に転任となり、キング少尉も乗組みインドへ航海しましたが、1784年に再び予備役になりました。






ニューサウスウエールス総督
イギリス最初のオーストラリア流刑植民地への航海
1787/5/13〜1788/1/26
イギリス最初のオーストラリア囚人移民船団
Australia
(1)イギリスのポーツマス出帆、1787/5
乗船待ちの囚人 フィリップ総督夫妻 乗組員 シリウス号
オーストラリア 1987/5/13 発行

(2)カナリア諸島のテネリフ島に到着 1787/6

オーストラリア 1987/6/13 発行

(3)ブラジルのリオデジャネイロで補給、1787/8

オーストラリア 1987/8/6 発行

(3)南アケープタウンで補給、1787/10

オーストラリア 1987/10/13 発行

(4)オーストラリア到着
TuValu
フィリップ提督のシドニー・コーヴ上陸、1788/1/26

(ブリッグ艦, サプライ号, HMS Supply, 1780)
ツバル 1999 発行

AUSTRALIA
シドニー・コーヴ上陸

1788 ニューサウスウェールス150年記念 1938
オーストラリア 昭和12年 1938/10/1 発行
NORFOLK ISLAND
シドニー・コーヴ上陸、国旗掲揚

ノーフォーク島 1987-88 発行

Cocos (Keeking) Island
シドニーコーヴ到着、上陸、1788/1/26

ココス島 1988/1/26 発行

1786年10月にフィリップはイギリス海軍の新造艦シリウス号(HMS Sirius、520t)の艦長に任命されました。そして友人の推薦で、オーストラリア東海岸のイギリス流刑植民地(penal colony)である”ニューサウスウェールズ”(NSW)の総督に指名されました。フィリップがそれを引受けたので、NSW初代総督(1788-92)となりました。この任命はジョージ・ローズ(George Rose 1744-1818)によるものであるとされ、フィリップの牧場の近所に住んでいたローズは牧場でのフィリップをよく知っていました。フィリップは8ヵ月もかかる危険なオーストラリアまでの航海の乗組員を集めるのは大変で、希望者がトテモ少なくその募集は困難を極めました。彼は新しい植民地で何が見つかるか分からなかったため、必要な物は全てイギリスから運ばなければなりませんでした。航海のための援助はほとんどなく、農業や建設や手工業の経験がある人物を乗組員に含ませるべきだという彼の考えは聞き入れられませんでした。また、護送する囚人の内の多くがロンドンのスラムの窃盗犯でした。

フィリップ総督は海兵隊の部隊と植民地を経営する役人数人と共に旗艦シリウス号(ジョン・ハンター艦長 John Hunter 1737-1821 第2代NSW総督 1795-1800)で、イギリス最初の流刑植民地への囚人護送船団11隻で編成し、778人の囚人を乗せて流刑植民地へと、1787/5/13にイギリスのポーツマス港を出帆し、カナリア諸島・テネリフ島とブラジルのリオデジャネイロと南アのケープタウンで補給して喜望峰を回航、1788/1/18に先頭の船がオーストラリアのボタニー湾に到着しました。そこは1770年にクック船長が発見していましたが、ジョセフ・バンクス(Sir Joseph Banks 1743-1820 クックの第1回航海に随行)の勧めに従い「安全な停泊地がなく水源がないとの理由で、この地は入植するのに適さない」と決めました。数日間北方への探検航海後、彼は好適地を見つけて、1月26日にシドニー近郊のポート・ジャクソン(Port Jackson)に停泊し海兵隊と囚人たちを上陸させました。入植の初期には物資は限られ、食料の生産が急を要しましたが、シドニー近郊の土地はやせており、その生活は混乱と困難を極めました。さらになれない気候、そしてほとんどの囚人が農業の知識を持っていなかったことがそれに拍車をかけました。農業器具は少なく、囚人たちは農業労働には反抗的でした。そのため植民地は長期間厳しい飢餓状態に陥りました。多くの点で自らを統制しなかった海兵隊員たちは、囚人の統制には関心を示しませんでした。そのためフィリップ総督は、囚人の中から監視員を選び他の囚人を監督させなければなりませんでした。これは1811年以後の第5代マックワイアー総督の改革で最高潮に達した囚人解放の始まりとなりました。彼はニューサウスウェールズ(NSW)は流刑植民地としてだけでは経営することができないとの認識を持ちました。

キング中尉にノーフォーク島で衛星植民地(penal colony)建設を命じ、キング中尉の一行は1788/2/14にシドニーを、ハンター艦長(第2代総督)のシリウス号で出帆しました。

その頃、2人の囚人(Henry、Suzannah Kable)が航海中に荷物を盗まれたとして、アレクサンダー号のシンクレア船長(Alexander Duncan Sinclair)を訴えようとしました。当時イギリスの囚人には訴訟を起こす権利はありませんでしたが、フィリップ総督は訴訟を起こす権利を認めるだけでなく、2人の囚人を支持し、訴えられた船長に補償を命じました。彼はイギリスを出発する前に「植民地には奴隷制は存在せず、従って奴隷は存在しない」と語っていました。だがこれにもかかわらず彼は統制を重んじており、鞭打ちの刑や絞首刑は日常茶飯事でした。

彼はまた先住民アボリジニー(Aboriginal)のエオラ族(Eora、シドニー周辺に住んでいた)に対する政策を実施しました。それは、住人に対してエオラ族を公正に扱わなくてはならないと命じ、彼らを殺した者は絞首刑にするとしました。彼はエオラ族のベナロング(Bennelong)に力を貸し、イギリスに連れて行きました。マンリー海岸(Manly)で誤解が生じ、彼はエオラ族に背中を槍で突かれましたが、使用人に口外しないように命じ大事には至りませんでした。その後入植者がエオラ族を不当に扱っている中で、彼はエオラ族を信頼して帰還しましたが、すぐに天然痘(Smallpox)などのヨーロッパ人が持ち込んだ伝染病によって、エオラ族の人口は急激に減少しました。

1788年にフランスペルーズ船長が太平洋探検航海の途中で寄航し、ボタニー湾で会見しました。

フィリップ総督が直面していた一番の問題は大規模な土地の譲渡を求めた軍人たちに関してでした。軍人たちは食糧の生産を第一に求められていましたが、彼らは食糧生産よりも土地を得ることに熱心になっていました。結果として壊血病が流行し、1788年10月には必需物資を取り寄せるためにケープタウンへシリウス号を派遣しました。やがて食糧の配給制を開始し、食糧の窃盗をした者は絞首刑に処しました。1790年までに状況は安定しました。約2000人の住民は家を持つことができ、食物を生産することができるようになりました。彼は囚人ジェームズ・ルースにローズ・ヒル(現パラマッタ)で農場を開くよう命じました。1790/6/28にイギリスから第2陣の船団が到着しました。しかし、この船団には1000人以上の囚人が乗っていましたが、彼らのほとんどが病弱で働くことができませんでした。

シリウス号は1790年3月にノーフォーク島で難破して、必要な物資が失われていました。その中でフィリップ総督は人口の密集を解消するため、後に激しい虐待の地として悪名高くなるノーフォーク島に衛星入植地を建設しました。

フィリップ総督は1790年12月までにイギリスに戻ることになっていましたが、植民地は政府に忘れられており何の指示もありませんでしたので、彼はそのまま流刑植民地のシドニーに留まりました。1791年にイギリス本国政府から2つの囚人船団と必要な物資が毎年送られるとの報告を受けました。しかし、その年の7月に2000人の囚人を乗せた第3陣の船団が到着しようとしていたとき食糧は再び底をつきましたので、フィリップ総督はインドのカルカッタに船を派遣して食料を調達しました。

シドニーは木造の小屋やテントしかない集落でしたが、1792年までに植民地は落ち着き始めました。捕鯨業が普及し、貿易船がシドニーを訪れ、刑期を満了した囚人は農業に従事するようになりました。マッカーサー(John Macarthur 1766-1834 オーストラリア羊毛業創始者)と他の役人たちは羊を輸入し羊毛の生産を開始しました。植民地にはまだ農民や職人、商人が少なく、また囚人たちは自分たちの食糧を生産するだけに限られていました。 1792年の終わり頃フィリップ総督は食糧の不足から体調を崩しついにイギリスに戻る指示を受けました。そして1792/12/11に彼はエオラ族のベナロングと数多くの動植物の標本と共にアトランティック号(HMS Atlantic)で帰国の途に着きました。彼の帰国時、NSWにおけるヨーロッパ人は4,221人で、その内3,099人が囚人でした。植民地開発の初期は苦闘と困難に直面していましたが、最も厳しい時期は過ぎNSWでは更なる飢餓は発生しませんでした。

フィリップ総督は1793年5月にロンドンに到着し、辞表を提出、そして年間500ポンドの年金の支給を受けました。妻は1792年に亡くり、同年イサベラ(Isabella Whitehead)と再婚しました。少しの間イギリス・サマーセットのバース(Bath, Somerset)で生活しました。彼の健康は徐々に回復し、1796年に対仏戦争で艦隊司令官に任命され、艦隊の指揮をするため海軍に復帰しました。1799年1月には大英帝国青色艦隊の海軍少将になり、1805年に67才で海軍大将に昇進して海軍を引退しました。その後の晩年のほとんどをバースで過ごし、ニューサウスウェールズの友人と連絡を取り続け植民地行政の手助けをし続けました。1814/8/31にイギリス・サマセット州北東部のバース(Bath, Somerset, England)にて享年75才で亡くなり、バサンプトン(Bathampton)の聖ニコラス教会に埋葬されました。

墓は長年所在がわからなくなっていましたが、1897年に発見され、ニューサウスウェールズ州のパーケス知事(Henry Parkes)によって修復されました。オーストラリアでは、彼を記念してポートフィリップ湾やフィリップ島の他、多くの通りや公園、学校に彼の名がつけられています。

なお、第4代総督はキャップテン・ブライでした。    2007/4/30

・フィリップ提督の生涯略年表
記 事 備 考
1738 ロンドンで誕生 英国生
1751 13 商船に乗り組み、海へ出る
1756 18 ミノルカ島の海戦、従軍するも敗戦
1762 24 海軍大尉となる。マーガレットと結婚、牧場を購入
1763 25 七年戦争終結、予備役待遇(給料が半減)
1774 36 ポルトガル海軍入隊、ブラジルへの囚人輸送艦の艦長 低賃金
1778 40 イギリスに帰国
1779 41 バシリスク号に乗組み Basilisk
1781 43 バシリスク号の艦長 Basilisk
1784 46 予備役となる Half Pay List
1786 48 新造の戦艦シリウス号の艦長、
友人の推薦で、流刑植民地”NSW”総督に指名される
HMS Sirius
1787 49 第1回オーストラリア囚人移民船団がポーツマス出帆 旗艦シリウス号
1788 50 1月NSW総督としてオーストラリア到着、10月に食料緊急輸入のためシリウス号をケ−プタウンへ派遣 シリウス号
1790 52 3月シリウス号が遭難、
7月第2陣の囚人移民船団が到着
1791 53 第3陣の囚人移民船団が到着
1792 54 マーガレット夫人が亡くなり、イサベラと再婚
1793 55 ロンドンに帰国、バースに居住
1799 61 海軍少将 青色戦隊
1805 67 海軍大将、退官 青色戦隊
1814 75 バースで亡くなる 英サマセット州北東部

こちらで
・第1船団の構成:〜
 ・シリウス号、旗艦
   (HMS Sirius、14-gun 6carronades store ship 520t)
   艦長ジョン・ハンター大尉(Lieutenant John Hunter)
 ・シリウス号と10隻の船名
ノーフォークマツ(別名パインツリー)を、
お楽しみください。

参考:〜
七年戦争(1756(8/29)〜1763/2/15)
  Seven Years' War

7年戦争は、ヨーロッパではイギリスの財政支援を受けたプロイセンと、オーストリア・ロシア・フランス・スウェーデン・スペイン(1762年参戦)及びドイツ諸侯との間で行われた戦争。それに並行して、1756/5/18にイギリスが正式にフランスに対して宣戦布告して英仏間で、北アメリカ・インド・各大洋上で陸海に渡る戦いが繰り広げられました。プロイセンとオーストリアとの戦争を第3次シュレージエン戦争、北米での戦争をフレンチ・インディアン戦争(1755/9月に北アメリカでフレ ンチ・インディアン戦争が勃発)、インドでの戦争を第2次カーナティック戦争とも呼び、これらの戦争を総称して「七年戦争」と呼ぶ
7ポンド砲

アセンション 1985 発行
 
ことがあります。オーストリアがフランスと同盟を結んだ外交革命、400万人対8千万人という圧倒的な人口格差など、当初プロイセンは敗勢を余儀なくされ、その命運も尽きるかと思われましたが、プロイセン王フリードリヒ2世(フリードリヒ大王)の適切な戦争指導と、エリザヴェータ女帝の死によるロシアの離反によって戦局は打開され、幸運にも戦争はイギリス・プロイセンの側に有利に帰着しました。1762年スペインの参戦で、イギリスは大艦隊を編成してスペインの植民地であるキューバのハバナやフィリピンのマニラを占領しました。オーストリアも戦費の負担にあえぎ、またオスマン帝国の脅威にも対処せねばならなりませんでした。同様の理由により、1761/10月にはイギリスがプロイセンへの支援を打ち切りました。1762/1月にロシアのエリザヴェータ女帝が急死、後を継いだピョートル3世はフリードリヒ2世の信奉者でしたので、プロイセンとの戦争を中止しました。オーストリア単独での戦争継続は困難となり、停戦交渉が始められ、最初に講和したのはスウェーデンで、1762/5月にスウェーデン王妃ロヴィーサ・ウルリカを介してプロイセン、スウェーデン間との和議が成立しました。同年11月にフランスの主導でイギリス・フランス・スペインによるフォンテーヌブロー仮条約が結ばれ、1763/2/10に英仏間でパリ条約が締結。2/15にはプロイセン、オーストリア、ザクセンがフベルトゥスブルク条約を締結して七年戦争は終結しました。

・イギリス海軍の色別戦隊
 (Coloured squadrons of the Royal Navy)
イギリス海軍の色別戦隊とは
1625年から1864年まで続いたイギリス海軍艦隊の区分の方法です。
・赤色戦隊 (the Red Squadron)
・青色戦隊 (the Blue Squadron)
・白色戦隊 (the White Squadron)。

・国旗と軍艦旗(Ensign(エンスン)エンサイン)
(National flag of the United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland)
・ユニオン・フラッグ(the Union Flag)は通常の国旗の場合の呼び名で
・ユニオン・ジャック(the Union Jack)は軍艦に掲げられる時の国旗
 (Flag of Her Majesty's Naval Service of the British Armed Forces)。

・戦隊旗:〜
 ・赤色艦隊戦隊旗(Flag of the Red Squadron, 1801-1864)
 ・白色艦隊戦隊旗(Flag of the White Squadron, 1801-1864)
 ・青色艦隊戦隊旗(Flag of the Blue Squadron, 1801-1864)。
1782年当時の軍艦旗

ドミニカ 1976 発行 

 ・現在は:〜
  かつての赤色艦隊の戦隊旗は、今や商船旗
  かつての白色艦隊の戦隊旗は、今や海軍旗で、
  かつての青色艦隊の戦隊旗は、今や予備役旗です。
  ※年代によっても変わっています。

参考HP:〜
シドニー市の場所地図

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。平成 H.22:2010/3/3追記、10/7/25、令和 R.2:2020/7/8
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