Myanmar

国連 2013/5/2 発行

              ミャンマー共和国
              Union of Myanmar
                 ( ビルマ )


大航海物語
地図編
BURMA
英領ビルマの地図と英国王 ビルマの地図とビルマ独立の英雄


|ジ
6世

ウン
・サン
第2次世界大戦の連合国勝利記念
英領ビルマ 1946/5/2 発行
ビルマ連邦独立記念、1948/1/4
ビルマ 1948/1/6 発行

UNION of BURMA
ビルマの地図

世界気象記念日
ビルマ 1979/12 発行
ビルマの代表的な9民族

国勢調査年記念、1973
ビルマ 1973/2/12 発行

ビルマ郵便切手 ビルマ ビルマ・シャン州
水田を耕す水牛
チーク材を運ぶ象
シャン州の女性
水牛車
加刷:シャン州の帰属、1943/12/24
大日本帝国占領地ビルマ
 1943/5 発行
大日本帝国占領地ビルマ
 1943/10/1 発行
大日本帝国占領地ビルマ・シャン州
 1944/11/1 発行


ウン
・サン
・ス

・チ
S.TOME E PRINCIPE
ア ウン ・サン ・ス ー ・チー

ノーベル平和賞の受賞者
サントメプリンシペ 2019 発行

ビルマ(ミャンマー共和国)
 Union of Burma
  Union of Myanmar
(ミャンマー共和国、1989/6/18改称)
面積:68万ku(日本の約1.8倍)、人口:53,582,855 (2017)
首都:ネーピードー、民族:ビルマ族(約70%)、他に多くの少数民族、言語:ミャンマー語
宗教:仏教(90%)、キリスト教、イスラム教等、国祭日:1/4独立記念日
GDP:3,298億ドル(2017)PPP:購買力平価説、(国際比較53位はこちらを参照)
国連:1948/4/19加入、1番切手:1926年英領インド切手”BURMA”加刷発行。

国家平和発展評議会(State Peace and Development Council、SPDC)がミャンマー軍事政権の最高決定機関なるも、2016/3/30に国民民主連盟(National League for Democracy, NLD、党首アウンサンスーチー)が選出した文民大統領が54年ぶりに就任。

・ミャンマー略史:〜
古くから、ミャンマー南部の地はモン族が都市国家を形成し海上交易も行っていた
7世紀、ピュー人が北部に驃国を建国、
9世紀、モン族と驃国(ピュー族の城砦)は南詔に滅ぼされ、南詔支配下となる
     チベット・ビルマ語系のビルマ族が無人の地となったエーヤーワディー平原(ミャンマー)に
     侵入してパガン王朝を樹立、アノーヤター王(在位1044-77)時に王都となる
1044-1287年、最初の統一王朝パガン王朝を建国
      その後タウングー王朝、コンバウン王朝などを経て、
13世紀、パガン王朝はモンゴルの侵攻を受けて滅び、ミャンマー東北部に住むタイ系のシャン族が
     強盛になり、ビルマ人のタウングー王朝が建国され、一時はアユタヤ王朝や
     ラーンナータイ王朝、雲南辺境のタイ族小邦を支配
17世紀、タウングー王朝は衰亡し、南部のモン族が強盛となる
18世紀中葉、アラウンパヤー王が出てビルマを再統一(コンバウン王朝)
1825年、イギリスブルーク中尉第一次ビルマ戦争で重傷を負う
1885年、コンバウン朝ビルマは英緬戦争で敗れて滅亡
1824-26年、第一次英緬戦争でビルマがインドを支配するイギリスに対してベンガル地方の
        割譲を要求、イギリス側が拒否すると武力に訴えたが敗れる
1852年、第二次英緬戦争でビルマは国土の半分を失う
1858-61年、新首都マンダレーを建設して遷都
1885年、第三次英緬戦争で王朝は滅亡
1886年、イギリス領であったイギリス領インドに併合されてその1州となる
      ティーボー・ミン国王 (Thibaw Min) と王の家族はインドのゴアに近いラトナギリに
      配流されて亡くなる。 ビルマ人の対英独立運動は第一次世界大戦中にはじまり、
      世界大恐慌以後若い知識層の間に広まる
1930年、タヤワディ地方で、農民が武装蜂起を行い、下ミャンマー全域に広がる
1931年半ば、鎮圧される
1937年、インドから独立してイギリス連邦内の自治領になる
1941/12/8、大日本帝国がフランス・イギリス・アメリカオランダに宣戦布告(太平洋戦争勃発
1942年、アウンサンがビルマ独立義勇軍を建軍(ミャンマー国軍)して大日本帝国軍と共に戦い
      イギリス軍を駆逐(ビルマ戦役の始まり)
1943年、大日本帝国の支援でバー・モウを元首とするビルマ国が建国され、インパール作戦の
      失敗など大日本帝国の敗色が濃厚になると、アウンサンが指揮するビルマ国民軍は
1945/3月、大日本帝国とビルマ国政府に対してクーデターを起こしイギリス側に寝返り、勝利
       連合軍がビルマを奪回すると、ビルマ国政府は大日本帝国に亡命
1945/08/15、大日本帝国無条件降伏、(イギリスによる植民地支配が復活)
1947/7/19、アウンサンが暗殺される
1948/1/04、イギリス連邦を離脱しビルマ連邦が独立(現ミャンマー連邦政府の建国)
      初代首相はアウンサンを継いでAFPFL(パサパラ)を率いるウー・ヌが就任するも、
      独立直後からカレン人が独立闘争を行い、ビルマ共産党は政権を離脱するなど、
      政権は当初から不安定な状態になる
1949年、国共内戦に敗れた中国国民党軍の残余部隊がシャン州に侵入し、雲南省反共救国軍
      としてゲリラ闘争を行い、米CIAが物資や軍事顧問団を援助し、タイへのアヘンの運び
      出しも行たので、ヌ政権は国連で中華民国と米国の策動に抗議、
      ヌ政権はシャン州一部に国軍部隊を展開
1950年代半ば、ヌ政権は国民党軍勢力を一掃、シャン州は依然として半独立状態が続き、独立
      意識の高いワ族やシャン族、コーカン族など諸民族の支援で、都市部から排除された
      ビルマ共産党が麻薬産業を継続支配。ヌ首相の仏教優遇政策はキリスト教徒の割合
      が多くキリスト教徒が支配的な立場を占めるカチン、チン、カレンなどの民族の強い反発
      を招き、独立を求める民族勢力(麻薬産業を背景にする北部シャン州と、独立志向の
      強いカレンなど南部諸州と概ね二つに分けられる)、国民党軍、共産党勢力との武力
      闘争の過程で、国軍が徐々に力を獲得し、ネ・ウィン将軍が政権を掌握する背景になる
1958-60年、ネ・ウィン将軍の選挙管理内閣
1962年、ネ・ウィン将軍が軍事クーデターを起こし、 ビルマ社会主義計画党(BSPP、マ・サ・ラ)の
      最高指導者となり、1988年まで軍事独裁体制を維持、経済政策の失敗から深刻な
      インフレを招くなど、ミャンマーの経済状況を悪化させる
1988年、ネ・ウィン退陣と民主化を求める大衆運動が高揚
1988/7月、ネ・ウィン将軍がBSPP議長を退く
1988/8/08、民主化運動の象徴のゼネスト・デモ(8888民主化運動)
1988/9/18、軍部がクーデターにより政権を掌握、総選挙を公約としたため、全国で数百の政党が
        結成され、軍部は国民統一党を結党し体制維持をはかり、民主化運動の指導者
        アウンサンスーチーは国民民主連盟 (NLD) を結党
1989年、選挙前にアウンサンスーチーは自宅軟禁され、長期軟禁と解放の繰り返しとなる
1990/5月、総選挙ではNLDと民族政党が圧勝するも、軍政は選挙結果に基づく議会招集を拒否
       民主化勢力の弾圧を強化
1991年、アウンサンスーチーがノーベル平和賞を受賞
2007/8/15、過去2年間で9倍以上に跳ね上がっていたガソリンなどの燃料価格を突然500%も
        引き上げたことに抗議する反政府デモ勃発、僧衣の色に因んでサフラン革命ともいう
2007/9/27、ヤンゴンでAPF通信の契約ビデオジャーナリスト長井健司さんが抗議デモの鎮圧を
        撮影中にミャンマー軍兵士に銃撃され死亡(日本人ジャーナリスト射殺事件
2008/4/27、サイクロン・ナルギス(Cyclone Nargis)がベンガル湾中央部で発生・発達
2008/5/02、ミャンマーのエーヤワディー川(イラワジ)デルタに上陸し甚大な被害をもたらす
2008/5/03、サイクロン・ナルギスはミャンマーとタイの国境付近で消滅
2010/10月、新国旗の制定
2010/11月、アウンサンスーチー率いる国民民主連盟 (NLD) が政党として再登録
2015/11/8、民政復帰後では初めてとなる総選挙が実施され、NLDが圧勝
2016/3/10、アウンサンスーチーが連邦議会で大統領候補に指名され、
2016/3/15、アウンサンスーチーが正式に大統領に選出、
2016/3/30、アウンサンスーチーが連邦議会の上下両院合同会議で新大統領就任式が行われる。ミャンマーで文民大統領が誕生するのは54年ぶりで、半世紀余に及んだ軍人(及び軍出身者)による統治が終結。さらに、NLD党首のアウン・サン・スー・チーが国家顧問、外務大臣、大統領府大臣を兼任して政権の実権を握ったことにより、新政権は「事実上のスー・チー政権」となる
2016/4/06、ミャンマー連邦共和国国家顧問就任。

ミャンマーは7つの管区(タイン)と7つの州(ピーネー)から構成され、州(State)と管区(Region)は「郡(District)」に分割される。郡は「町(Township)」に分割される。町は「区(Ward)」や「村(Village Tract)」に分割される。
・管区(Region)〜参考HP(番号区分)の黄色
1)エーヤワディ管区 (Ayeyarwady Region)、パテイン (Pathein)
2)ザガイン管区 (Sagaing)、ザガイン (Sagaing)
3)タニンダーリ管区 (Tanintharyi)、ダウェー (Dawei)
4)バゴー管区 (Bago)、バゴー (Bago)
5)マグウェ管区 (Magway)、マグエ (Magway)
6)マンダレー管区 (Mandalay)、マンダレー (Mandalay)
   2005/11月から首都となったネピドー(Naypyidaw)が管区南部にある
7)ヤンゴン管区 (Yangon)、 ヤンゴン (Yangon)。

・州(State)〜参考HP(番号区分)の桃色
1)カチン州 (Kachin State)、州都 ミッチーナー (Myitkyina)
2)カヤー州 (Kayah)、ロイコー (Loikaw)
3)カレン州 (Kayin)、パアン (Hpa-An)
4)シャン州 (Shan)、タウンジー (Taunggyi)
5)チン州 (Chin)、ハッカ (Hakha)
6)モン州 (Mon)、モーラミャイン (Mawlamyine)
7)ラカイン州 (Rakhine)、シットウェ (Sittwe)
※なおミャンマーは、2001/12/31時点では変更があって、
7地方域(State)、7州(Region)、1連邦領(Union Territory)に構成され、州や地方域などは、県(Districtに分割され、県は郡区(Township)に分割。郡区の中に町(Town)、小区(Wardッ)や村(Village Tract)が、村は集落(Village)が集まった区画。また、シャン州・ザガイン地方域には自治区(Self-Administered Zone)または自治管区(Self-Administered Division)が所属し、あわせて5自治区・1自治管区が有(詳細省略)。
参考HP:〜
  ・ビルマの地図(日本語)
  ・ビルマの地域区分地図(番号区分)         09/12/12

イギリス・ビルマ戦争  Anglo-Burmese Wars
・第1次英緬戦争 (1824/3/5〜1826/2/24)
 First Anglo-Burmese War

1824年にイギリスがビルマ攻撃を開始、1826年にヤンダボ条約を結んで、イギリスはベンガルと、ビルマの最南部アラカンとテナセリムを占領。

・第2次英緬戦争 (1852/4/5〜1853/1/20)
 Second Burmese War

イギリスの貿易政策・拡張政策はさらに進み、アヘン戦争(1840-1842)の勝利で中国(清)を開国させ、シク戦争(1845-1848)の勝利でインドのほぼ全域を
掌握。このためイギリスの目は再び隣国ビルマにおよび、1852年にイギリスは再びビルマに侵攻してペグーを占領、海に面した下ビルマを英領インドに併合。

イギリスはビルマ南部を手にすることで、より一層東アジアへの進出を目指し、アロー戦争(1856-1860)でフランスと共に清をさらに圧迫、有利な交易を展開。1857年にはインドのセポイの反乱を鎮圧してムガル帝国が滅亡、1858年に東インド会社を解散させて植民地経営と東方交易をイギリス政府の直轄とし、1867年にはマライ海峡植民地を直轄領として制海権を手にした。フランスも同時期にベトナムへの侵略をはじめ、清仏戦争(1884-1885)でインドシナの支配権を確立した。オランダはジャワ島からスマトラ島を攻略して一大植民地を建設。

・第3次英緬戦争 (1885/冬季、反乱が1887年頃迄続く)
 Third Anglo-Burmese War

1885/11月にイギリスはビルマの完全支配を目指して3度目の侵攻を開始、翌1886年にはビルマ王がイギリスに降伏し、上ビルマもイギリス領に併合され、イギリス領インドに組み込まれた。一部の将兵がイギリスの占領に反攻して戦闘を続けたが、1890年に完全に鎮圧されて戦争が終結。ビルマ王朝は滅亡し、1886年にイギリス領インドに併合されてその1州となる。ビルマ国王夫妻はイギリス領のインドのボンベイに流刑になり、その地で亡くなった。また1886/6月にはイギリスは北京にて中国清朝との間に「英清ビルマ条約(ビルマに関する条約)」を締結し、ビルマにおける事実上の主権を、元々事実上の宗主国であった中国にも認めさせた(代償として芝罘条約で付記したイギリスのチベットへの使節派遣特権及び通商権を放棄した)。 ビルマは1937年にイギリス領インドから分離して自治領となるが、完全に独立が回復したのは1948/1/4にイギリス連邦を離脱した時から。

アウン・サン・スー・チー
  (Aung San Suu Kyi、1945/6/19〜)
アウンサンスーチーは、ビルマの独立運動を主導し、その達成を目前にして暗殺された「ビルマ建国の父」ことアウンサン将軍(1915-1947)の娘で、ミャンマーで非暴力民主化運動の指導者、政治家。現在、国民民主連盟党首。2016/3/30にティンチョーを大統領とする新政権が発足して、外相、大統領府相を兼任、さらに新設の国家顧問にも就任。同国における国家元首は大統領でも、アウンサンスーチーが事実上の首相と紹介されることも有。敬虔なテーラワーダ仏教徒とされ、使用言語はビルマ語、英語、フランス語、日本語。2013年訪仏時にはフランス語で講演を行い、同年の訪日時には英語で記者会見を行いました。報道では「アウンサン・スーチー」「スーチー」などと表記されるも、ミャンマー人(現在のビルマ語族の大半)には姓(名字)は
アウンサンスーチー女史
なく、ミャンマー国内では通常「アウンサンスーチー」の一語で表記されています。
なお、上記の切手小型シートには、1974年受賞の佐藤栄作氏が無いと思うんですが。。。

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。      2019/10/20追記、令和元年 R.1/12/25

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