★イギリス
デイヴィット・コリンズ大佐
1788、第1船団でシドニー流刑植民地到着
1804、タスマニアのホバート居住地を建設

大航海物語★
AUSTRALIA
デイヴィット・コリンズ

オーストラリア 1986/8/6 発行

シリウス号

ノーフォーク島 1967-68 発行
オーストラリアの地図

アイルランド 1988/3/1 発行
オーストラリアの地図
ノーザンテリトリー(北部準州)




←クィーンズランド


ニューサウスウェールス

タスマニア
サウスオーストラリア州、 ヴィクトリア州
  オランダ 1988/8/30 発行

ボタニー湾 (Botaney Bay)、1788
オ|ストラリア→
ニューカレドニア 1988 発行
ポート・ジャックソン


現在の
シドニー市街地



ボタニー湾




ロンドン生まれのコリンズは14才でプリマスで王国の海兵隊に入隊し、新大陸でアメリカ独立戦争のボストン包囲攻撃戦に従軍し戦功を挙げ、海兵大尉に昇進してハリファックスで結婚。海兵大佐に昇進しましたが、戦後は本国に帰国して予備役となり平和な一時を過ごしました。フィリップ提督のイギリス最初の流刑植民地への囚人護送船団に、海軍大臣指名の新植民地副判事として参加し、1788年にオーストラリアに到着しました。そこで8年間に渡って困難な植民地司法をつかさどり、イギリスへ帰国し、「英国のNSW新植民地について」を執筆、出版して好評を博しました。おりしもフランス艦隊がオーストラリア南部に出没しているとの情報に接した英国海軍省は新植民地に詳しいコリンズをバス海峡植民地副総督に指名して、新たな植民地の建設を命じました。1803年に囚人と移住者と共にメルボルンに到着したものの、そこが新植民地に相応しくないと、タスマニア島南部へ移動して新植民地を建設しました。そこが現在のホバートとなりましたが、コリンズは陸軍大佐に昇進して、苦労の連続の新植民地司令官を6年余勤めて、イギリスに帰ることもなく56才で突然に亡くなりました。

デイヴィット・コリンズ大佐 (1754/3/3〜1810/3/24)
 Colonel David Collins

  ヴァン・ディーメンズ・ランド(タスマニア)南部副総督:在任:1804〜1810/3/24
   (Lieutenant Governor in the south of the Colony of Van Diemens Land)
デイヴィット・コリンズは後にポーツマス軍管区で海兵隊少将になった海兵士官アーサー・コリンズ(Arthur Tooker Collins)とアイルランドのヘンリエッタ(Henrietta Caroline)夫人の3番目の息子としてロンドンで生まれ、エクスター初等学校(Exeter Grammar Schoo)に通いました。14才で父親のプリマス軍管区で王国の海兵隊(Royal Marines)に入隊しました。1771/2/20に海兵中尉(second lieutenant)に昇進しました。1772年にサザンプトン号(HMS Southampton)乗組み中に、デンマークのクィーン・マチルダ号(Queen Matilda of Denmark)を救助しました。1775/3月北アメリカに転属。アメリカの独立戦争(1775-1783)中の、1775/6/17に勃発したボストン包囲攻撃戦(Siege of Boston、1775/4/19〜1776/3/17)のバンカー・ヒルの戦い(Battle of Bunker Hill)に遭遇しました。米国大陸軍のイズラエル・パットナム将軍が12000人で包囲して、ボストンを守るイギリス軍は4500人の援軍を率いて到着したウィリアム・ハウ将軍(William Howe, 5th Viscount Howe, KB, PC 1729-1814)が指揮を執って、英軍は1000人以上の戦死者を出しながらも、辛くも勝利した時、コリンズ海兵中尉はチャールストンの丘(heights of Charlestown)を占領しました。マサチューセッツ湾の港内艦隊は海軍の旗艦サマーセット号
(HMS Somerset 1,459t)に座乗していたサミュエル・グレイブス提督(Admiral Samuel Graves RN 1713-1787)が指揮して陸上を艦砲射撃していました。翌週コリンズは海兵大尉(first lieutenant)に昇進しました。1776/11月まで、1749年建設のカナダ・ケープブレトン島ハリファックス基地(Halifax, Nova Scotia)で服務して、プロクター大尉(Captain Charles Proctor)の娘メアリー(Mary Proctor)と出会い、1777/6/13にセント・ポール教会(Church of St Paul )で結婚しまし ハリファックス、1749
た。そしてチャタム軍管区(Chatham Division)の副官(adjutant)に指名されました。1779/8月に海兵中佐(captain-lieutenant)に昇進し、1780/7月に海兵大佐(Captain)に昇進しました。1781/2月に英仏海峡艦隊(Channel Squadron)所属のカレイジャス号(HMS Courageux 32-gun sailing frigate)に転属して乗り組みました。1783/1月にイングランドのケント州チャタム軍港(Chatham, Kent, England)に帰国し、平時の習いで同年9月に予備役待遇(half-pay、半額給与)となり、平和な一時を過ごしました。
1786年にアーサー・フィリップ総督イギリス最初の流刑植民地への囚人護送船団の隊員を募集していた時に父親の勧めで、1786/10/24付け海軍大臣指名の新植民地の副判事(deputy judge)として、参加することになりました。そして1787/5/13に総督フィリップ総司令官とハンター艦長の旗艦シリウス号(HMS Sirius)に乗り組み、11隻で編成された第1回囚人輸送船団に778人の囚人を乗せて流刑植民地へと、イギリスのポーツマス港を出帆しました。カナリア諸島・テネリフ島とブラジルのリオデジャネイロと南アの喜望峰で補給し
シドニー・コーヴ上陸

オーストラリア 1938/10/1 発行
1788/1/18に先頭の船がオーストラリアのボタニー湾に到着しました。船団は1788/1/20に到着、フィリップ総督の命により船団は、6日後にシドニー・コーヴ(Sydney Cove、現:ポート・ジャックソン、Port Jackson)に到着、上陸しました。コリンズはフィリップ総督のもとで植民地判事として、植民地全体の法律を責任を持って策定し、全ての令状、召喚状、および審理などを処理しました。ところが海兵隊のロバート・ロス少佐(Major Robert Ross 1740-1794)が治安判事の権限を行使するとして、ことあるごとに対立しました。1790/3/24にロス少佐がノーフォーク島第2代副総督(lieutenant-governor)に指名され、シドニーから離れてやっと収まりました。

1788/6月にフィリップ総督がコリンズ大佐を副官(専属秘書官、Secretary to the Governor)に指名し、8年間精勤しました。第2回の囚人輸送船団でニュー・サウス・ウェールス軍団(New South Wales Corps)が到着すると、海兵隊員は帰国するか軍団の指揮下に入るかを選択することになり、1791/12/13にロス少佐とほとんどの隊員がゴーゴン号(HMS Gorgon)で帰国しました。1792/12/11にフィリップ総督が後事をフランシス・グロス副総督(在任:1792-1794)に託して、帰国しました。1793/10月に父親が亡くなったとの妻マリアの知らせで、帰国を願い出ましたが、グロス副総督が離しませんでした。1795/9月にハンター総督(在任:1795-1800)が着任しましたが、やはりなかなか離しませんでした。1796/8月に帰国の許しが出てブリタニア号(HMS Britannia)でポート・ジャックソンを出帆し、1797/6月にロンドンに到着しました。イギリスへ帰国すると妻のマリアが病床に伏せっていました。

1798/1/1に陸軍中佐(lieutenant-colonel)に転属、昇進。1798年に「イギリスのニュー・サウス・ウェールス植民地について」(An Account of the English Colony in New South Wales)の第1巻を発刊。好評を博してドイツ語版が1799年に出版され、続刊が1802年に出版されました。1804年に要約本をマリアが出版しました。1802年にバス海峡(Bass Strait)植民地(タスマニア島)の新居住地建設司令官に選任されました。

タスマニア島南部には、1793年の早期にダーウェント川東岸のリズドン湾(Risdon Cove)にジョン・ヘイス大尉(Lt. John Hayes)がデューク・オブ・クラレンス号(HMS Duke of Clarence)で到達し、乗組みのリズドン中尉(William Bellamy Risdon)に因んでリズドン・コーヴと名付け、ダーウェント川と共に海図に記入しました。

1803/3/11に23才の若きボーウェン大尉(John Bowen 1780-1827)がグラットン号(HMS Glatton)で、イギリスから、ポート・ジャックソンへ囚人を輸送して到着しました。直ちにキング総督
タスマニア島アドヴェンチャー湾

ピトケーン 1989/4/28 発行
ヴァンディーメンズランド(タスマニア)への囚人輸送を命じました。ボーウェン大尉はジョージ・バス船長の勧めで、タスマニア島のリズドン湾付近に新居住地を建設するべく、ポート・ジャックソンを出帆しました。1803/9/8にボーウェン大尉がブリッグ型補給帆船レディー・ネルソン号(Brig HMS Lady Nelson 61t)で囚人24人(男21人と女3人)とNSW海兵隊軍団(marines of the New South Wales Corps)の看守を輸送して、1803/9/12には捕鯨船アルビオン号(whaler Albion)が自由移民とその家族(両船計:49人)を輸送して、タスマニア島アドヴェンチャー湾から、ダーウェント川(Derwent River、1,545m高山から、延長249km)を約50km遡上した東岸のリズドン・コーヴに到着・上陸し、新居住地を建設しました。1804/1月にボーウェン大尉はフェレット号(Ferrett)でポート・ジャックソンへ戻るためにリズドン・コーヴを出帆しました。シドニーに着いたボーウェン大尉は、折から勃発した対仏戦争のために帰国しょうとするのを、キング総督が慰留してタスマニア探検を依頼し、4年間に渡り探検航海をしました。ボーウェン大尉はリズドン・コーヴに住んでマーサ・ヘイズ(Martha Hayes)と結婚し2人の娘をもうけました。石炭を発見した所をコール川(Coal River)と命名し、1804/5月にはヒューオン川(Huon River)を探検しました。1804/8月に補給船オーシャン号(storeship HMS Ocean)でポート・ジャックソンへと家族と共に戻りました。キング総督から£100ポンドの賞与を受取って、1805/1月にレディー・バーロー号(HMS Lady Barlow)でポート・ジャックソンを出帆してイギリスへ帰国しました。

その頃コリンズ陸軍中佐は、1803/1/4にヴァン・ディーメンズ・ランド南部副総督(在任:1804-1810)に指名され、1803/4月に妻と別れてカルカッタ号(HMS Calcutta)でロンドンを出帆。1803/10/9にメルボルンのポート・フィリップ湾(Port Phillip Bay)内の現:ソレント(Sorrento)近くのサリヴァン湾(Sullivan Bay, Victoria)に到着し、2日後に補給船オーシャン号が到着、囚人や自由移民が上陸し、物資を陸揚げしてヴィクトリア(Victoria)居住地の建設にとりかかりました。コリンズ副総督はカルカッタ号のタッキー大尉(First Lieutenant James Hingston Tuckey)とハリス(George Prideaux Harris 1775-1810、博物学者・副測量士、タスマニア・デヴィルの発見者)にポートフィリップ湾奥部の探検を命じました。探検の結果、良い飲料水や木材などが無かったので、バス海峡対岸のタスマニア島へ移動することをキング総督に提案すると、総督は承認しました。

1804/2/16にコリンズ副総督の一行がタスマニア島南部のリズドン・コーヴェに到着しましたが、居住地には不適当だとして、ハンター島(Hunter Island)近くのダーウェント川の対岸(西岸)のサリヴァン・コーヴ(Sullivans Cove、現:ホバート)にオーシャン号で到着し、岩だらけの島を見つけてハンター島(Hunter Island)と命名し、その近くの川岸に、囚人と看守を上陸させました。1804/2/21にはレディー・ネルソン号(HMS Lady Nelson)が到着し、自由移民と家族が上陸してサリヴァン・コーヴと命名しました。そこが後にホバート居住地(Hobart Town)と命名されました。居住地の建設に取りかかりましたが、農業経験者がいなかったことやお粗末な農機具の不足、その上に慣れていない気候で限られた小人数の移住者や囚人といった悪条件が重なって、植民地での食料の生産がなかなか出来ず、その上にシドニーからの補給物資が滞ったり、輸送中の家畜類が途中で死んで数を減らしたりして、飢餓状態に陥る始末でした。そこで野生の獣、カンガルー狩りをして、飢えをしのぎました。ところが、その辺りは元々、半遊牧民のモーヘニーア族(Mouheneer)現地人(Aborigines)の居住地でしたので、彼らの獲物を狩りとってしまう結果となり、紛争が起きました。1804/5/3に現地人の集団がカンガルー狩りで獲物を追って、イギリス居住地に入ってきたのを、侵入者だと思って数人を撃ち殺しました。それを契機に戦いが起こり、100人以上を殺害するという大虐殺になりました。

シドニーの総督のもとへ何度も救援を訴えましたが、シドニー自体も食料が不足している時期でしたので、なかなか補給船が来ませんでした。1805年にロンドンに特使を派遣したり、翌年喜望峰の最高司令官に訴えましたが、なんの救援も有りませんでしたので、パターソン副総督(在任:1800-1808)、ブライ総督(在任:1806-1808)、フォウヴォウ副総督(在任:1808-1809)などの歴代のNSW行政長官に訴え続け、捕鯨船が入港すると鯨肉を買ったり、ベンガル牛(Bengal cattle)を輸入したりしました。1808/4月に陸軍大佐(colonel)に昇進しましたが、植民地の問題の解決には何の役にも立ちませんでした。1808/10月には550人以上もの移住者が到着し、居住地の移住者人口が倍以上に膨れ上がりました。その後、現地アボリジニの人達はヨーロッパ人との交戦や移民からもたらされた伝染病の影響で人口は減少し、自由移民や囚人の人口が急速に増加しました。

その上に、1809/3/30に「ラム酒の反乱」から解放されたブライ総督が「イギリスに直接、帰国する」という解放条件を無視して、パーパス号(HMS Porpoise 10-gun storeship)でホバートに到着しました。コリンズ副総督は丁重に出迎えましたが、ブライ総督は何かと植民地行政に口を出してきましたので、シドニーへ問い合わせ、その解放条件を知り、それをブライ総督に突きつけると、ブライ総督はパーパス号を出帆して、最初はダーウェント川中流(midstream)で、終いにはストーム湾航路(Storm Bay passage)で、入港船から通行税を取り始め、従わなければ砲撃を加え、1810/1/14に後任の総督マックワイアー将軍がシドニーに到着したと聞くまで続きました。その後、ブライ総督はシドニーに戻り約6ヵ月滞在して、1810/5/12にシドニーをロンドンに向け出帆しました。

コリンズ大佐は1810/3/24に56才で突然亡くなり、軍隊葬をもってホヴァートのセント・デヴィッド大聖堂(St David's Cathedral)に手厚く葬られました。コリンズの名はタスマニア島のコリンズヴィル(Collinsvale)、ホバートのコリンズ・ストリート(Collins Street, Hobart)やメルボルンの(Collins Street)などにその名を残しています。

ヴァン・ディーメンズ・ランド(タスマニア)南部副総督:〜(NSW衛星植民地)
 (Lieutenant-Governors in the south), founded in 1804,Australia.
・初 代:デイヴィッド・コリンズ(Colonel David Collins、在任:1804〜1810)
・第2代:エドワード・ロード(Edward Lord 在任:1810/3〜1810/7)
・第3代:マーレイ大尉(Captain J. Murray 在任:1810 〜1812)

参考HP:〜
 ・ポートフィリップ湾の地図(メルボルンのポートフィリップ湾、詳細)
 ・ロンズデール湾 三角江 ”The Rip”の地図(メルボルンのポートフィリップ湾口)
 ・サリヴァン湾の場所地図(メルボルンのポートフィリップ湾内)
 ・オーストラリア南東部の地図(タスマニア島有)
 ・タスマニア島の地図(日本語)
 ・タスマニア島の地図(詳細)
 ・ダーウェント川の地図(サリヴァン・コーヴ(ホバート)、リズドン・コーヴ有)
 ・タスマニア島の地図(タマー川(Tamar River)有)

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。      2010/4/15

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