★イギリス
ジョン・ハンター提督
1795
オーストラリア植民地の第2代総督

大航海物語★
ジョン・ハンター

オーストラリア 1986/8/6 発行

ハンター艦長の乗船シリウス号
ノーフォーク島で遭難

ノーフォーク島 1982 発行
オーストラリアの地図

アイルランド 1988/3/1 発行

シドニー、1788

ココス島 1988/1/26 発行

イギリス・スコットランド生まれのジョン・ハンターはイギリス海軍の軍人として、ロドニー提督やハウ提督の艦隊で活躍し、オーストラリア植民地の第1回囚人護送船団にシリウス号艦長で参加しました。到着後にシドニーのパラマッタ川を探検しました。その後ノーフォーク島への輸送任務中にシリウス号は遭難しました。帰国後に植民地の行政官となって、初代総督フィリップ提督のあとを引き継いで、第2代ニューサウスウェールズ総督としてシドニーへ着任しました。5年に渡る植民地経営の後に帰国し、海軍中将となって大英帝国の提督として、ロンドンでその生涯を閉じました。

海軍中将ジョン・ハンター (1737/8/29〜1821/3/13)
 Vice-Admiral John Hunter
  ニュー・サウス・ウェールス植民地第2代総督(在任:1795/9/11〜1800/9/27)

ジョン・ハンターは父の商船々長ウィリアム・ハンター(William Hunter)、母ヘレン(Helen)の9人兄弟で、イギリス・スコットランドのレイス(Leith, port of Edinburgh)で生まれました。少年時代に父がノールウェイ海岸で遭難して亡くなったので、ノーフォークのリン(Lynn、Norfolk)に住んでいた叔父ロバート(Robert Hunter)の所へやられました。エジンバラ大学へ入学後、間もなく退学して、1754/5月に17才で戦列艦グランパス号(HMS Grampus、70-gun third-rate ship of the line 1459t)にトーマス・クナックストン艦長(Thomas Knackston)の従卒(captain's servant)として乗り組みました。1755年に上等水兵(able seaman)になってセンター号(HMS Centaur)に乗り組み、15ヵ月後士官候補生(midshipman)となり、 ユニオン号(HMS Union)から、クノールス提督(Vice-Admiral Charles Knowles 1754-1831)の歴代旗艦ネプチューン号(HMS Neptune)へと転属しました。1760/2月に士官昇任試験に航海術(navigation)と天文術(astronomy)で合格して海軍少尉(lieutenant)になりましたが、1780年まで昇進しませんでした。

1760〜64年の間、ロイアル・アン号(HMS Royal Ann 2,079t)、プリンセス・アメリア号(HMS Princess Amelia)、ダレル提督(Vice-Admiral Philip Durell 1707-1766 )の旗艦ロイアル・ジョージ号(HMS Royal George 2,047t)に乗艦し、フリゲート艦ツィード号(frigate HMS Tweed 660t)に乗艦して、ニューファウンドランドへ航海しました。1766年にダレル提督がランセストン号(HMS Launceston)で北アメリカ基地へ赴任する時に、ハンター少尉を航海士(master's mate)に指名しました。1767年に航海長代理(acting master)、1768年に航海長(master)に指名されました。1769年に水先案内協会試験(Trinity House examination for his fourth-rate qualification)に合格。1769〜71年の間はジャマイカ基地でキャリスフォード号(HMS Carysfort)に乗艦して服務しました。同艦がマーテャーズ環礁(Martyr's Reef)で沈没しかかった時に、ハンター航海長は危うく命拾いをしました。1772〜74年はイントレピッド号(HMS Intrepid)の航海長として東インドへ航海しました。1775年にジャービス艦長のケント号(HMS Kent)に乗組み、ファウンドロヤント号(HMS Foudroyant)へ転属し、ハウ提督(Admiral Lord Richard Howe, 1st Earl Howe KG(ガーター勲章) 1726-1799)のイーグル号(HMS Eagle)に乗り組んで、北アメリカ基地へ転属しました。デラウエアー(Delaware)の戦いと、サンディー・フックの防衛戦(defence of Sandy Hook)に従軍しました。

アメリカ独立戦争(1775-1783)中の1780年にロドニー提督(Admiral Rodney)のバーウィック号(HMS Berwick 1622t)で海軍大尉(lieutenant)に昇進し、西インド諸島で服務しました。1782年にハウ提督の艦隊で服務中に提督の3等航海士(admiral's third lieutenant)に指名され、間もなく戦艦ヴィクトリー号(HMS Victory)の1等航海士(first lieutenan)に就任する栄誉が与えられました。その後、火船スピットファイアー号(fireship HMS Spitfire 422t)の艦長となり、1782/11月にポーツマス軍港(Portsmouth)所属スループ艦マルケス・ド・シグナリー号(sloop HMS Marquis de Seignelay)艦長に転属しました。

1786/10月にアーサー・フィリップ提督が新造艦シリウス号(HMS Sirius、511t)の艦長に任命され、ハンター大尉は副長(second-in-command)に抜擢されました。フィリップス提督が初代オーストラリア東海岸のイギリス流刑植民地(penal colony)、クック船長が名付けたニュー・サウス・ウェールスの総督(Governor of the colony of NSW)に任命されると、フィリップス総督は総司令官として指揮をとり、シリウス号は11隻からなるイギリスのオーストラリア流刑植民地(penal colony)へのイギリス最初の流刑植民地への囚人護送船団の旗艦となり、艦長にはジョン・ハンターが昇格しました。護送する778人の囚人の多くはロンドンのスラム街の窃盗犯でしたので、フィリップ総督は海兵隊の部隊と植民地を経営する役人数人と共に旗艦シリウス号に乗艦しました。

1787/5/13に囚人護送船団はイギリスのポーツマス港を流刑植民地へと出帆しました。同年6月カナリア諸島のテネリフ島で補給、ブラジルのリオデジャネイロ、さらに同年10月に喜望峰ケープタウンに寄航、補給して、1788/1/18に先頭の船がオーストラリアのボタニー湾に到着しました。そこは1770年にクック船長が発見していましたが、ジョセフ・バンクス(Sir Joseph Banks 1743-1820 クックの第1回航海に随行)の勧めに従い「安全な停泊地がなく水源がないとの理由で、この地は入植するのに適さない」と決めました。数日間北方への探検航海後、彼は好適地を見つけて、1788/1/26にシドニー近郊のポート・ジャクソン(Port Jackson)に停泊し、海兵隊と囚人たちを上陸させました。入植の初期は物資は限られ、食料の生産が急を要しましたが、シドニー近郊の土地はやせており、その生活は混乱と困難を極めました。さらになれない気候、そしてほとんどの囚人が農業の知識を持っていなかったことがそれに拍車をかけました。農業器具は少なく、囚人たちは農業労働には反抗的でした。そのため植民地は長期間厳しい飢餓状態に陥りました。多くの点で自らを統制しなかった海兵隊員たちは、囚人の統制には関心を示しませんでした。そのため、囚人の中から監視員を選び他の囚人を監督させなければなりませんでした。これは1811年以後のマックワイアー総督(Lachlan Macquarie 1762-1824 第5代総督 1810-1821)の改革で最高潮に達した囚人解放の始まりとなりました。NSWは流刑植民地としてだけでは経営することができないと思われました。

フィリップ総督が直面していた一番の問題は大規模な土地の譲渡を求めた軍人たちに関してでした。軍人たちは食糧の生産を第一に求められていましたが、彼らは食糧生産よりも土地を得ることに熱心になっていました。結果として壊血病が流行し、1788/10/2に必需物資を取り寄せるためにケープタウンへシリウス号を派遣しました。やがて食糧の配給制を開始し、食糧の窃盗をした者は絞首刑に処しました。1790年までに状況は安定しました。約2000人の住民は家を持つことができ、食物を生産することができるようになりました。1790年6月にイギリスから第2陣の船団が到着しました。しかし、この船団には1000人以上の囚人が乗っていましたが、彼らのほとんどが病弱で働くことができませんでした。

フィリップ総督は1790年12月までにイギリスに戻ることになっていましたが、植民地は政府に忘れられており何の指示もありませんでしたので、彼はそのまま流刑植民地のシドニーに留まりました。1791年にイギリス本国政府から2つの囚人船団と必要な物資が毎年送られるとの報告を受けました。しかし、その年の7月に2000人の囚人を乗せた第3陣の船団が到着しようとしていた時には食糧は再び底をつきましたので、フィリップ総督はインドのカルカッタに船を派遣して食料を調達しました。そこでフィリップ総督は人口の密集を解消するため、後に激しい虐待の地として悪名高くなるノーフォーク島に衛星入植地の建設を意図しました。

ハンター艦長は1788年にシドニーへ流れ込んでいるパラマッタ川(Parramatta River)の探検を実施しました。アイアイン・コーヴ(Iron Cove)、ファイブ・ドック湾(Five Dock Bay)、ヘン・チキン湾(Hen and Chicken Bay)などを探検。その後に1778/2/5にシドニーで朝食中に見つけた所をブレックファスト・ポイント(Breakfast Point、朝食ポイント)と命名しました。ハンター艦長とシリウス号は1788/10/2まで植民地に留まり、食料やその他の必需品をケープタウンから輸送する任務でシドニーを出帆し、約7ヵ月かけて世界一周航海後に、1789/5/8に飢えているNSW植民地へと輸送しました。その後は植民地で行政官として服務するかたわら、ポート・ジャックソン付近の探検に着手し、1790/2/13にホークスベリー川(Hawkesbury River)のスケッチと探検報告書をロンドンに送りました。

ハンター艦長は、フィリップ総督の方針によりシリウス号でノーフォーク島への移民の輸送に従事し、1790/3/19にノーフォーク島海岸で物資の揚陸中に強風に煽られてシリウス号が遭難沈没しました。乗組員は1791/2/21まで同島に留まり、その後全員救助されイギリスへ帰りましたが、必要な物資は全て失われました。1791/3/1にハンター艦長はフィリップ総督にカスケード湾(Cascade Bay)の方がノーフォーク島上陸に都合が良いと提案し、その後はそこが揚陸場所に使用されました。

1792/4月にオランダ船(Dutch snow Waaksamheyd)でイギリス・ポーツマスに到着、帰国しました。1793年にロンドンで「ポート・ジャックソンとノーフォーク島探検記」(An Historical Journal of the Transactions at Port Jackson and Norfolk Island, With the Discoveries That Have Been Made in New South Wales and the Southern Ocean Since the Publication of Phillip's Voyage)を発刊しました。

参考HP:〜
 ・エジンバラの地図(レイス有)
 ・スコットランドの地図(エジンバラ有)
 ・イギリスの州別地図
 ・イギリスの州別詳細地図

 ・シドニーとパラマタ川の地図
 ・シドニーとパラマタ川の地図(詳細地図)
 ・ノーフォーク島の地図(Cascade有)
 ・ノーフォーク島の場所地図







★イギリス
ジョン・ハンター総督
1795
シドニー植民地へ到着

大航海物語★
ハンター総督と”サイン”

オーストラリア 1986/8/6 発行
オーストラリアの地図
ノーザンテリトリー(北部準州)




←クウィーンズランド州

ニューサウスウウェールス州
←ヴィクトリア州
サウスオーストラリア州
オランダ 1988/8/30 発行

フィリップ提督(青服)とラ・ペルーズ(赤服)とのボタニー湾での会見200年記念
オ|ストラリア→
1788 La Perouse & Commdoore Phillip 1988
1788/1/24 Botaney Bay

ニューカレドニア 1988 発行
ポート・ジャックソン


現在の
シドニー市街地



ボタニー湾




1792/12/11にフィリップ総督はシドニーを出帆して、1793/5月にロンドンに到着し帰国すると、1793/7月辞表を提出しました。ハンター艦長は1793/10月に総督に指名され、1794/1月に総督を受託しました。1795/2月にロンドンを出帆。1795/9/7にリライアンス号(HMS Reliance 400t)でシドニー到着。1795/9/11に執務を始めました。

ハンター総督が着任した時のシドニーは、木造の小屋やテントしかない集落でしたが、1792年までに植民地は落ち着き始めていました。捕鯨業が普及し、貿易船がシドニーを訪れ、刑期を満了した囚人は農業に従事するようになりました。マッカーサー(John Macarthur 1766-1834 オーストラリア羊毛業創始者)と他の役人たちは羊を輸入し、羊毛の生産を開始しました。植民地にはまだ農民や職人、商人が少なく、また囚人たちは自分たちの食糧を生産するだけに限られていました。フィリップ総督の帰国時、NSWにおけるヨーロッパ人は4,221人で、その内3,099人が囚人でした。植民地開発の初期は苦闘と困難に直面していましたが、最も厳しい時期は過ぎ、NSWでは更なる飢餓は発生しませんでした。

フィリップ総督が1792/12/11に帰国すると、シドニーは副総督フランシス・グロス少佐(在任:1792/12/13〜1794/12/17、空白:1795/9/20〜1800/9)が軍政を取り仕切り、無情にも囚人を悪用していました。軍政は腐敗しきっており、NSW軍団の士官達は酒類の販売で儲けていましたが、ハンター総督はNSW軍団の軍政に押し切られ、政治的にはうまく統制出来ませんでした。1798年にカモノハシ(Platypus)の毛皮とスケッチをイギリスに送ったのが、ヨーロッパ最初となりました。

1799/11/5にハンター総督はポートランド公爵(Duke of Portland)から呼び戻しの通知を受け、1800/4/20に受取り、1800/9/28に後事をフィリップ・ギドリー・キング総督に託してシドニーを出帆し、1801/5/24スピットヘッド(Spithead)に到着、帰国しました。予備役(half-pay、半額給与)の待機艦長になり、「NSW植民地の圧政と虐待に関する意見書」(Governor Hunter's Remarks on the Causes of the Colonial Expense of the Establishment of New South Wales. Hints for the Reduction of Such Expense and for Reforming the Prevailing Abuses)をロンドンで、1802年に出版しました。

1804年に英仏海峡艦隊(Channel Fleet)のヴェネラブル号(HMS Venerable of 74 guns)の艦長を命じられました。ヴェネラブル号は1804/11/24にトーベイ(Torbay)を出帆し、パイントン・クリフ(Paignton Cliff)沖を通過していると霧で海岸に乗り上げ座礁し、インペツゥクス号(HMS Impetueux)とゴライアス号(HMS Goliath)が救助に来ましたが、多くの乗組員と共に沈没しました。ハンター艦長は軍法会議に呼び出されましたが、無罪放免となりました。

1807/10/2にハンター艦長は海軍少将(Rear Admiral)に昇進。1810/7/31に海軍中将(Vice-Admiral)に昇進し、ロンドン(Judd Street, New Road, Hackney, London)で暮らし、海に出ることはありませんでした。1821年に83才で亡くなり、ハックニー教会墓地(St John at Hackney Old Cemetery London)に葬られました。ハンター提督は生涯にわたり結婚しませんでした。

シドニー北方のハンター川(Hunter River)、ハンター・ヴァレー(Hunter Valley)、シドニーのハンター・ヒル(Hunters Hill)、ニューカッスルのジョン・ハンター病院(John Hunter Hospital in Newcastle)などにその名を残しています。

参考HP:〜
 ・シドニーの地図
 ・シドニーの地図(日本語)
 ・シドニーの地図(広域地図)
 ・シドニーの中心街地図(日本語)
 ・シドニー付近の地図(シドニー、ハンター・ヴァレー、ブルーマウンテン有)
 ・シドニーの場所地図(日本語)

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。       2010/4/10

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