大航海物語
ゴールデン・ハインド号の大航海
1577〜80
、世界一周航海
フランシス・ドレーク船長

参考資料
NORFOLK ISLAND
ゴールデン・ハインド号

Golden Hind
ノーフォーク発行
Gambia
ゴールデン・ハインド号

ガンビア  発行
CISKEI
ゴールデン・ハインド号とドレーク船長の
世界一周航海地図


シスカイ 1993/5/19 発行


・ゴールデン・ハインド号の大航海
  Golden Hind
、(金の子羊号)
  1577〜1580、世界一周航海
ゴールデン・ハインド号はイングランド王国のガレオン船(Galleon ship)で、エリザベス女王の支援のもとに、フランシス・ドレーク船長私掠船(Privateer ship)として用いるためにスパニッシュ・ガレオン型に似せて改造したことで有名になりました。1577年に建造され、当初はペリカン号(Pelican)という300屯の船でしたが、ドレーク船長の乗船となって改装後100屯の快速船となり、出資者のクリストファー・ハットン卿(Sir Christopher Hatton 1540-1591)の紋章にちなんでゴールデン・ハインド号(金の子羊)と改名されました。世界周航の時にはスペインの貨物船を襲撃して相当の財宝を強奪して、帰国後に出資者に相応の配当が渡されました。その後の記録はありませんが、現在イギリスに実物大レプリカ船(複製)2隻が保存されています。

1578/9月にスペインを警戒してマゼラン海峡を抜けずに南下して、南太平洋で暴風雨に遭って、ホーン岬付近に漂着した後、大西洋へ戻されました。それで、南太平洋側から南大西洋へと流れ込む、東向きの南極環流が流れていることが発見され、この「海峡」の存在が、初めて知られ、ドレーク海峡と名付けられました。ホーン岬を発見した後、その沖のドレーク海峡を発見してから、もう一度太平洋に入り、北上中にペルー沖でスペイン船に遭遇、拿捕しました。その船に積まれていた25,000ペソ(pesos)相当のペルー金貨37,000ドゥカート(ducats、現在価格£7百万ポンド:@1008円=70億56百万円)を奪いました。

1579/3/1にはエクアドルのエスメラルダ(Esmeraldas, Ecuador)沖の太平洋上で、通常カカフェゴ号(Cagafuego)と呼ばれていたスペインのペルー〜パナマ航路(Peru〜Panama route)の最大級財宝運搬ガレオン船ヌエストラ・セニョウラ・デ・ラ・コンセプション号(Nuestra Senora de la Concepcion 120t 1570、英:Our Lady of the (Immaculate) Conception:純潔の聖母号)に遭遇、ゴールデンハインド号はスペイン船に偽装していたので、容易に接近して、降伏を勧告するも、スペイン船の船長サン・ファン・デ・アントン(San Juan de Anton)が降伏しなかったので、開戦しました。ゴールデンハインド号の一斉砲撃で、カカフェゴ号後部ミズンマスト(mizzenmast)がへし折られました。同時に接舷してマスケット銃(muskets)と石弓(crossbows)の一斉射撃で、カカフェゴ号は戦意を喪失、なすすべもなく降伏しました。こうして、360,000ペソ(Pesos)以上の財宝を奪い、その積替えに6日間かかったと伝えられています。

カカフェゴ号の財宝は80ポンド(lb)の金(gold)、26トンの銀塊(uncoined silver)、13箱分の貨幣と装飾品(royals of plate)など、計400,000ペソ(pesos、20万ポンド)相当で、現在価値では£12百万ポンド(円高の2012/8/1換算@122.5円=14億7千万円:固定相場時@1008円(1949-1967)=120億96百万円)に相当でした。

帰国後に、エリザベス女王に謙譲した財宝の額は、30万ポンドを越え、当時のイングランドの国庫歳入よりも多かったといわれています。3年ぶりの帰国の後、テムズ川に停泊中のゴールデン・ハインド号の船上に乗り込んだエリザベス1世女王の前に、ドレーク船長がうやうやしくひざまずきました。すると、女王は剣の峰でドレーク船長の肩を三回叩き、彼に爵位を与え、ナイト(騎士)に叙任しました。

そしてこの財宝からそれ相応の配当が出資者に渡されました。出資者については、まず£160,000ポンドを全ての借金返済にあて、£40,000ポンドをロンドンのレヴァント(Levant, London)の出資者である新貿易会社(new trading company)に分け与え、£47をその他の£1投資者(investors)に配当して、配当率は実に4,700%(47倍)に達したと伝えられています。
ナイト授与式

ヴァ−ジン 1980 発行

ゴールデン・ハインド号の大航海:〜
1577、テームス河造船所で進水
1577/12、ゴールデン・ハインド号と小型船5隻で164人が出帆
1578/春、ブラジル沖に到達
1578/6/30、アルゼンチンのサン・フリアン(San Julian)にて
        トーマス・ドウティ(Thomas Doughty 1545-1578)を反逆罪で処刑
1578/9月、マゼラン海峡を迂回してホーン岬沖ドレーク海峡から太平洋に入る
1579/3/1、エクアドルのエスメラルダ沖でカカフェゴ号を襲撃・拿捕、財宝を奪取
1579/6/19、サンディエゴのロマ岬(Point Loma, San Diego)に上陸、
        ニュー・アルビオン(New Albion)と命名
1580/7/22、希望峰からシェラレオーネ(Sierra Leone)に到達
1580/9/26、ゴールデン・ハインド号の80人中56人だけがプリマス港(Plymouth)に
        マゼラン船長の世界一周航海に次ぐ2番目の快挙として帰港
        後に、テームス河(Thames Estuary)河口上流デプトフォード(Deptford)へ移動
        エリザベス女王が乗船、ドレーク船長を英海軍中将に任命して爵位を授与。

・ゴールデン・ハインド号の装備:〜
  Golden Hind
、1577
船 型 スパニッシュ・ガレオン型
イギリスの私掠船
ゴールデン・ハインド号

ノーフォーク 1994 発行
帆 柱 3本、メインマスト高:27m
帆面積 386u
船速 8knots(帆走15km/h)
全 長 36.5m
全 幅 6.7m、(ビーム:Beam)
喫 水 4.1m、(ドラフト:Draught)
排水量 100屯、当初305屯
乗組員 80〜85人
進 水 1577年、当初の船名ペリカン(Pelican)
最 後 400年前頃(1600?)、崩壊
武 装 ペトラ砲(Petera canon):船首×2、船尾×2
ファルコン砲(Falcon canon):船首×2、船尾×2
ミニオン砲(Minion canon):砲列甲板x14門、計22門
備 考 レプリカ船2隻有(St Mary Overie Dock, London)、(Brixham, England)

参考HP:〜
テームス河の地図(Thames Estuary)

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。     2012/8/1
スタンプ・メイツ
Copyright(C):Kosyo
無断転載禁止