United Kingdom

国連 1983 発行
United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland
(V)イギリス人の私掠船大航海
Great Voyage of Britain
大航海物語
 イギリス編

スペイン船に偽装したイギリスの私略船
ゴルデンハインド号


ノーフォーク島 1953/11/20 発行

・イギリス人の私掠船の大航海
1568年に「サン・ファン・デ・ウルーア島の戦い」が起ったのですが、そもそもの発端は1558年11月、女王エリザベス1世がイギリス国王として即位したことに始まります。イギリス商人の西アフリカへの渡航はますます活発になり、さらにアメリカ大陸の存在が大きくクローズアップされるに至ってきました。
1562〜65年にかけてジョン・ホーキンズの船団がイギリス〜西アフリカ〜カリブ海のスペイン植民地をまわって商品を売り買いして利益をあげました。ただし、彼がこの時やった商売には西アフリカで買った黒人奴隷をスペイン植民地に売り付けるというものも含まれており、これは実はスペイン人以外には禁止されていましたので、ホーキンズはスペイン当局に目を付けられました。1568年9月、再びカリブ海に現れたホーキンズの船団は嵐のためスペイン領のサン・ファン・デ・ウルーア島に退避しました。そこに、スペインの船団12隻がやってきました。ホーキンズはあくまで平和的に食糧の確保と嵐で傷んだ船の補修のみを望んだのですが……スペイン側の指揮官はホーキンズを「海賊」と決めつけてこれを攻撃しました。イギリス人たちはすぐさま反撃してスペイン船2隻を撃沈したものの、自らも大損害を受け2隻だけで島から逃走し、うち1隻は夜中に黙って姿を消しました。 大西洋三角貿易の地図

奴隷解放150年記念
ホーキンズの手元に残った小型船1隻は逃走の際に他の船から乗り移ってきた船員たちで定員オーバーになっていました。食糧の不足に苦しんだ船員のうち100人はメキシコの無人海岸で自発的に下船し、残りの連中だけが飢えと病気に苦しみつつ数ヵ月かけてイギリス本国に帰還しました。生存者はホーキンズ以下15人だけ、メキシコで降りた連中はインディアンかスペイン人に捕まって殺されるか、運がよくてもガレー船漕ぎの奴隷にされてしまいました。この事件が起こったのとちょうど同じ頃(1568年)、スペイン領ネーデルランド(現オランダ・ベルギー)にて大規模な反乱「オランダ独立戦争」が勃発しました。そこで、スペイン本国からネーデルランド駐留軍へと莫大な軍資金が運ばれることとなりましたが、その輸送船がイギリスの港に立ち寄ったとき、ホーキンズの災難を聞いて「サン・ファン・デ・ウルーアを忘れるな!」といきり立ったイギリス当局がこれを差し押さえてしまいました。この事件は後の英西全面戦争の序幕となるものでした。ヘンリ8世の「イギリス国教会」創設以来対立を深めてきた両国はいよいよ武力対決の道へと歩んでいくのですが、しかしこの時点のイギリス政府はまだスペインと正面きって戦う考えを持っておらず、スペインの方はネーデルランドの反乱鎮圧や同時期にフランスで起こった内乱への介入に手をとられていました。ただし、イギリス人の船乗りたちはエリザベス1世の黙認や密かな援助のもと、スペイン領への海賊的な襲撃を繰り返しました。イギリス・スペイン関係が表向き平和な1573年1月、ドレーク船長の一味がパナマ地峡 に上陸、フランス人の海賊やシマロン(逃亡奴隷(Maroon)マルーン)とともにスペインの銀輸送隊を襲撃しました。ドレークは元々貧乏農家の生まれから身を起こして20才前後で武装商船の船長となり、「サン・ファン・デ・ウルーアの戦い」にも参加した男でした。その4年後の1577年11月、改めて5隻160名の艦隊を率いるドレーク船長がイギリスのプリマス港を出帆しました。この時彼はエリザベス1世から「太平洋に入り、スペイン領ペルーを攻撃せよ」との密命を受けていたといわれています。1578年11月〜翌年3月、ドレーク艦隊はスペイン領南アメリカの太平洋沿岸地域への襲撃を繰り返し、特に3月1日には赤道付近で銀を満載した輸送船”カカフェーゴ号”を捕捉、砲撃でマストをへし折った後、斬り込み攻撃をかけて40万ペソ相当の銀を奪い取りました。ドレーク艦隊はその後太平洋を横断して東南アジアに出て、モルッカ諸島香料を買い付けたりして1580年9月に母港プリマスに帰還しました。マゼランにつぐ史上2番目の「世界一周航海」で、出発以来2年と10ヵ月の間に60万ポンド相当の収獲をあげました。当時のイギリス国王の年収が20万ポンドであったので、これは大変な大略奪行であり、しかも表向きはイギリス・スペイン関係が平和な時期にやってのけたのだから凄まじい話ですね。ドレーク艦隊への最大の(極秘の)出資者であったエリザベス1世は4700%の配当を受け、財政赤字を残らず解消してしまうことが出来ました。当時、スペインは中南米の植民地から搾り取った金銀を財政にあて、イギリスやフランスはそのスペインの富を半公認の海賊船(私掠船)を用いて横取りして国家の財源としていたので、カリブ海は略奪の海となっていました。なお、英西戦争はエリザベス女王が1587年スコットランドの女王(カトリック)を処刑したことにより始まります。
なお、”私掠船”とは、16世紀頃からイギリス商人による貿易や交易が盛かんとなり、先発国のポルトガル・スペインとの間で西アフリカやカリブ海で摩擦が起ってきました。中には先発国の船から掠奪を働く海賊まがいの武装商船が出没してきました。その中でも国王が免許状を与えたものが私掠船(Privateer)と呼ばれました。免許状の無いものはただの海賊として取り締まられました。(仏:Corsaire)。ドレーク船長の5隻の船団は西インド諸島のスペイン植民地やスペイン船を襲い、その戦利品(海賊行為で奪った財宝)を、ただ1隻生き残ったゴールデンハインド号でイギリスに持ち帰って、エリザベス一世女王から”サー”(Sir:卿)の称号を与えられ「ナイト」に叙せられる名誉を得ました。スペインにとってはイギリスの海賊でしたが、これこそが、いわば国営の海賊船の集団で”私掠船”と呼ばれました。 海賊旗を掲げる私掠船

タンザニア 1994 発行
・1581年オランダがスペインから独立
1568年以来、ネーデルランドがスペインの支配に対する反乱を起こしていたことは前述の通りですが、ネーデルランドの北部(現オランダ)はプロテスタント、南部(現ベルギー)はカトリックで、スペインもカトリックであることから南部は戦線から脱落してしまいますが、北部7州はその後も徹底抗戦を続け、1581年には”ネーデルランド連邦共和国”の設立を宣言しました。これがオランダの始まりです。イギリスのエリザベス1世個人としては、オランダの反乱には興味はなかったのですが、ただスペインが必要以上に強大になることを警戒するのみで、基本的にケチな性格(?)からして正規の軍事介入などもっての他でした。しかし前述の南ネーデルランド脱落に加え、独立宣言3年後の1584年にはオランダの指導者オラニエ公が暗殺されると、さすがにスペインとの対決を想定しない訳にはいかなくなってきたのです。もしオランダが敗れれば、そこから狭い海を隔てたイギリスが直接スペインの脅威を受けることになるからです。去る1580年、スペイン王フェリペ2世はポルトガル王位を兼任してその領土と植民地を手にいれていました。フェリペ2世の絶頂期で、イギリス海賊の跳梁は既に我慢の限界を越えており、そろそろ頃合とみたスペインはエリザベス暗殺をはかった(1583年)上に1585年春にはスペイン領内のイギリス船を抑留しました。イギリスからは非公式の報復艦隊が次々と出撃。1585年8月、正式にイギリス・オランダ同盟が締結されました。年末にはオランダに派遣されたイギリス軍がスペイン軍と交戦し、ここにイギリスとスペインは正規の戦争状態に突入しました。

1588年アルマダの海戦
フェリペ2世がイギリス本土上陸作戦を認可。まず「スペイン艦隊によるイギリス本土攻撃案」については1571年の「レパントの海戦」で活躍したスペイン艦隊司令長官サンタ・クルーズ侯からの上申があり、これにオランダ方面のスペイン軍を指揮するパルマ公から提出された「陸軍によるイギリス本土上陸作戦計画」をミックスして、輸送船による陸軍の上陸作戦を本国艦隊によって援護しようというのでした。スペインが準備を進めていた1587年4月末、ドレイク艦隊23隻が大西洋沿岸のカディス港のスペイン艦隊を奇襲攻撃、スペインのガレー船33隻を撃沈しました。ドレイク曰く「カディスでスペイン王のひげを焼いた」のです。これは実に大きな出来事でした。いうまでもなくガレー船は舷側から突き出した何十本ものオールを漕いで動かす乗り物で、夏の地中海のような穏やかな海では実に機動的な操船が可能です。ガレー船を用いての戦闘は古代ギリシアの時代から基本的に変わっていませんでした。ガレー船は船首部に「衝角」という特別に頑丈に造られた部位を持ち、これを敵艦の横っ腹に激突させて大穴をあけるか、または敵艦に漕ぎ寄せて斬り込み攻撃をかけるという戦法でした。ただしガレー船は巨大なオールを漕ぐ必要上、平底かつ舷側が低いせいで大西洋の荒波には向いていませんでした。その点、ドレイク艦隊の船はどれも単なる帆船で、船底が深く舷側が高いおかげで大洋での操船に向いており、”カディスの海戦”でもモタモタしているガレー船に遠距離から大砲を撃ち込んで大打撃を与えました。その結果、スペインは艦隊の主力をガレー船から帆船に切り替えました。ポルトガル(この時はスペインと同君連合)が持っていた大型帆船や南イタリアのナポリ(ここもスペイン領)の艦隊も動員されました。1588年2月、スペイン艦隊司令長官サンタ・クルーズ侯が亡くなりました。後任の司令長官に任じられたシドニア公は海についてはまったくの素人であり、本人も断ろうとしましたがフェリペ2世は何故か頑として聞き入れようとしませんでした。

7月12日、いよいよスペイン「無敵艦隊(アルマダ」が出撃。1000トン以上の艦7隻、800トン以上の艦17隻、500トン以上の艦32隻、それ以下の艦19隻を主力とし、その他の輸送船等まであわせると総勢130隻に大砲2430門、乗組員2万4000と陸兵6000人という大部隊でした。さらに南ネーデルランドにはパルマ公率いる歩兵3万、騎兵4000が輸送船を揃えてイギリス上陸の機会を待っていました。艦隊に対するフェリペ2世の命令はあくまで陸軍のイギリス上陸援護を第一とするものであり、イギリス艦隊との戦闘は二の次とされていました。対するイギリス海軍の全戦力は、1000トン以上の艦2隻、800トン以上の艦3隻、500トン以上の艦24隻、その他の小型艦153隻でした。当時のイギリス海軍はよく「海賊の寄せ集め」と評されますが、彼等は実際には普通の船乗り商人で、副業(本業より儲かる)として、イギリス王の黙認と密かな出資のもとにスペイン植民地やそこから本国に向う「財宝船」を襲っていたことから「海賊」と言われたのです。

7月19日、スペイン艦隊がイギリス本土を視界におさめました。南ネーデルランドにあるパルマ公の輸送船団はイギリスのシーモア艦隊とオランダのローゼンタール艦隊の封鎖にあって身動きがとれませんでした。

21日午前9時、プリマス港からイギリスの主力艦隊が出撃。司令長官はハワード元帥、ドレイク、プロフィッシャー等の猛将を左右に従えて、世界戦史に名高い英西艦隊の戦い、世にいう「アルマダ海戦」はイギリス艦隊出撃当日の21日からさっそく始まりました。南ネーデルランドを目指して英仏海峡を東に進むスペイン艦隊と、それを阻むイギリス艦隊の戦闘が約1週間に渡って続くことになりました。アルマダの海戦は1588/7/21〜30日の戦いで、西国艦隊は英仏海峡から北海へ脱出して嵐に遭遇しました。この「アルマダ海戦」以降、スペインは次第に落ち目になっていきました。

1589年、フランスでプロテスタント派のアンリ4世が即位して内乱(1562年から続いていた「ユグノー戦争」)をほぼ収拾し、1596年にはイギリス・フランス・オランダの3国が対スペインの同盟を結成しました。スペインは相も変わらず中南米の植民地から巨万の富を吸い上げつづけているとはいえ、その多くは本国に運ぶ途中でイギリス海賊に強奪され、オランダ独立戦争の鎮圧や無敵艦隊の整備、フランス内乱への介入、ポルトガル王位継承工作等々々に用いられました。予算は収入をはるかに上回り、増税によって商工業を沈滞させ、国内の非カトリック教徒を徹底的に弾圧したことは労働力の不足を招きました。フェリペ2世は1598年に亡くなり、跡を継いだフェリペ3世、次の4世は全くの凡人で、経済も活力を失っていきました。1609年、財政難に耐えられなくなったスペインはオランダと休戦し、国王がかわったイギリスとも講和しました。以後、世界貿易・植民地獲得の主役はプロテスタント的勤勉さを持つオランダ・イギリス、そしてフランス(プロテスタントは少数)にとってかわられていきました。

参考HP〜
アルマダの海戦地図

こちらで
(I)
(II)
序章イギリス
初期大航海
(III) 私掠船団 ホーキンス
ドレーク
キャベンディッシュ
(IV)
(V)
(VI)
殖民大航海
探検大航海
南極探検
をお楽しみください。

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。   令和 R.2/11/13(2020)追記
グレートブリテン及び北アイルランド連合王国 (V)
スタンプ・メイツ
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