★イギリス
ジョン・マックドゥアル・スチュアート
1844〜1862
南オーストラリア州・アウトバックの探検

大航海物語★
AUSTRALIA
ジョン・スチュアート

オーストラリア 1961/7/25 発行

GRENADA
スコットランドからオーストラリアへ移住


グレナダ 1998/4/26 発行
EIRE
オーストラリアの地図

アイルランド 1988/3/1 発行
NEDERLAND
オーストラリアの地図
ノーザンテリトリー(北部準州)




←クウィーンズランド州

←ニューサウスウウェールス州
←ヴィクトリア州
サウスオーストラリア州
オランダ 1988/8/30 発行

ジョン・スチュアートはイギリスのスコットランドから、24才でオーストラリアの南オーストラリア州へ移住し、州政府の土地関係の仕事をした後に、スタート大尉探検隊に参加しました。34才で奥地のアウトバックへ探検したのを皮切りに、6回に及ぶ探検をこなし、水不足・野菜不足で壊血病の症状を発症し、砂漠の砂と陽射しで目をやられ、49才でスコットランドに戻り50才で、ロンドンで亡くなりました。
ジョン・マックドゥアル・スチュアート (1815/9/7〜1866/6/5)
 John McDouall Stuart

ジョン・スチュアートはイギリス・スコットランドのフォース湾(Forth Bay)北のファイフ・ダイサート港(Dysart, Fife, Scotland、カークカルディ(Kirkcaldy)近郷)で9人兄妹の末っ子に生まれました。父は退役陸軍大尉で税関の役人でしたが、彼が幼い時に両親が亡くなり親戚の所で育てられ、土木工学(Civil engineering)を学びました。細身(55kg位)で繊細な長身(168cm)の青年に成長して、1838年23才でオーストラリアへ出帆。1839/1月に、3年前に建設されたばかりのサウス・オーストラリア州(South Australia)にインダス号(Indus)で到着・移住しました。そこはテントや木造小屋で混み合っていました。奥地のアウトバック(半乾燥地帯)で入植者や採掘者をブロックで区切る役所の仕事にありつきました。1842年に州政府の事業が縮小されて失業。それにめげずに自分で奥地をキャンプして移動しながら仕事をして回り、測量士の仕事に携わりました。

▼ジョン・スチュアートのオーストラリア・アウトバックと大陸縦断の探検
第0回:〜1844年、スタート大尉探検隊に参加
第1回:〜1858/05〜1858/09、クーパー・ペディ(現:オパール大産地)への探検
第2回:〜1859/04〜1859/07、グレート・アーテジアン盆地への探検
第3回:〜1859/11〜1860/01、エーア湖の西部地域への探検
第4回:〜1860/03〜1860/09、オーストラリアの「真ん中」への探検
第5回:〜1860/11〜1861/09、ニューカッスル・ウォーターへの探検
第6回:〜1861/10〜1862/12、ダーウィン南のインド洋海岸への探検

▼1844年スタート大尉の探検隊に地図製作者として参加しました。アデレードから(Adelaide)15人の部隊で200頭の羊と6台の荷馬車を引いて、ニューサウスウェールス州の北西探検へ出発しました。オーストラリア中央部へとダーリング河からマレー河に沿って進み、シドニーから約1160km(アデレードから約500km)離れているブロークンヒル(Broken Hill、銀・亜鉛・鉛の鉱山)に到達。夏日と補給物資の欠乏で現:ミルパリンカ(Milparinka)という所で6ヵ月間も立ち往生しました。雨が降りだすと北へと向かって出発し、現:スタート国立公園(Sturt National Park、貝塚や石の遺跡が有)にデポのフォート・グレイ(Fort Grey)を建設。スタート大尉とスチュアートと少数の部隊で進み、マランビジー川から、恐ろしく乾いたスタート・ストーニー砂漠(Sturt's Stony Desert)に到達。そしてシンプソン砂漠(Simpson Desert)に踏み込みましたが、副体長のジェームス・ポール(James Poole)が壊血病(scurvy)で亡くなりましたので、アデレードに戻るように提案、フォート・グレイへ戻り休養をとりました。2回目の挑戦を試みましたが、スタート大尉が壊血病で倒れ中止となり、約4,800km離れたアデレードに戻りました。戻ってスタート大尉はイギリスへ帰国しました。

スチュアートはその後ポ−ト・リンカーン(Port Lincoln)へ移動して、金持ちの田園詩人ウィリアム・フィンケ(William Finke)、ジェームス・チェンバース(James Chambers、1811-1862)の後援をとりつけました。そしてフリンダース山脈北部(northern Flinders Ranges)アウトバックの休養地へ移動後、個人の山師(private surveyor)として探検と鉱山の調査や試掘を続けることになりました。

▼第1回探検(1858/5〜1858/9)〜
  クーパー・ペディへの探検、4ヵ月で2400km踏破。
1858年に未探検ながら、水不足地帯と肥沃な土地があると知られていたサウスオーストラリアの北西(north-west)に鉱物資源と新しい農地を求めての探検にフォスター(George Forster)とベーカー(Barker)、アボリジニ(Aboriginal man)の若者との3人で、携帯磁石(羅針盤
フリンダース山脈

・腕時計・6頭の馬・物資6週間分とを持って、ジョン・チェンバース氏の最大補給所、フリンダース山脈の現:ブリンマン(town of Blinman)近郷のアーデン山オラツンガのトンプソン基地(Oratunga:Thompson's station, Mount Arden)を出発しました。
1858年:〜:
05/14、オラツンガを出発
06/09、オラツンガからトレンス湖(Lake Torrens)の南を通り、トレンス湖の西端沿いに北へ
     向かい、道なき道の影響で難渋を極めるもオータイナ(Ootaina)に到着
06/10、オータイナを出発、エーア山から20.9kmの所の平原で宿営、乾燥地帯へと翌朝出発
06/14、ベダ(Beda)を出発、水が無くなり探し回って、やっと少しの水を見つける
06/21、アンダムーカ・ウォーターホール(Andamooka Waterhole)を見つけて水を補給
     さらに北西へ進む
06/22、アンダムーカを出発、トレンス湖北西端を進む
06/26、孤立した涸れない泉を発見、後援者のチェンバースに因んでチェンバース・クリーク
     (Chamber's Creek、現:スチュアート・クリーク:Stuart Creek)と命名
     そこは後の探検隊の最重要の補給基地になりました。
07/01、ストーニー・ライジズ(Stony Rises)の翌日、大勢の現地人を見るも近寄ってこない
07/10、大きな岩だらけの平原西端ガム・クリーク(Gum Creek)で終日馬を休める
     翌朝さらに北西へ進み、トレンス湖の西のクーパー・ペディ(Coober Pedy)に到達、
     スチュアートはただ馬の蹄の邪魔になる石ころだらけの荒野を進み食料が欠乏して
     仕方なく500km南の海へと向かい、グレート・ヴィクトリア砂漠(Great Victoria Desert)
     東端に来て、アボリジニの若者は水気がない荒れ地で白人の2人は餓死すると思って
     戻ってしまいましたが、さらに南へと進む
08/16、ダニエル湾(Denial Bay)への進路をとり、西海岸のミラーズ・ウォーター
     (Miller's Water)に到達し、セデュナ(Ceduna)近郷方面へ出る
08/21、ストリーキー湾(Streaky Bay)岸に到着
08/22、セデュナ近郷ギブソン基地(Gibson's Station)にほとんど餓死状態で到着
     十分な補給を受ける
09/01、ギブソン基地を出発
09/06、フィーリング・レーンジ(Freeling Range)着
09/11、オラツンガ着
     4ヵ月で2400km以上踏破したスチュアートは壊血病の治療にアーデン山保養地(Mt Arden Station)で保養しました。スチュアートの冒険旅行はアデレードとロンドンで大評判となり、王立地学協会(Royal Geographical Society)から金時計(gold watch)を受章しました。

▼第2回探検(1859/4/2〜7/3)〜
  グレートアーテジアン盆地への探検。
1859/4月、チェンバース・クリーク・リージョン(Chambers Creek region)探検へ、3人の隊員、植物学のダヴィッド・ハーゴット(David Hergott the botanist)、ストックマン(stockmen)、ルイス・ミューラー(Louis Muller)、キャンベル(Campbell)と14頭の馬を準備して、1859/4/2にオラツンガのグレン基地(Mr. Glen's station、Oratunga)を出発。
砂漠のソーニーデビル

1859年:〜:
04/02、オラツンガを出発
04/07、デリューション山(Mount Delusion)頂上を越える
05/15、マーガレット・クリーク(Margaret Creek)でエメラルド・スプリング(Emerald
     Spring)を探して11.3km行くと、砂丘の上でバベッジのキャンプ跡(Mr. Babbage's
     Old Camp)を見つける、酷い砂嵐となる、此処を最終地として、
     キャンベルをオラツンガへ戻す、水は見つからず
05/16、ミューラー(Muller)が泉(Springs)を見つけてくる
05/23、デヴォンポート・レーンジ(Davenport range)へ向かう
05/30、デヴォンポート・クリーク(Davenport Creek)着
05/31、希望の泉(Spring of Hope)着、自噴泉が湧き出しているも塩辛く飲めない
     現:「グレートアーテジアン盆地」(Great Artesian Basin)で馬を休ませ、休養後、
     グレートアーテジアン盆地一帯を探検調査
06/28、ハミルトン・スプリングス(Hamilton Springs)から
     チェンバース・クリーク(Chambers Creek)へ向かう
06/14、ニール(Neale)で水が無くなる
06/15、ハンソン・レーンジ(Hanson range)に着いて、泉(Water Holes)を2ヵ所見つける
06/29、チェンバース・クリーク到着
07/02、グレゴリー・クリーク(Gregory Creek)着
07/03、ターミネーション丘(Termination Hill)を回って、
     オラツンガのグレン基地に帰着。

▼第3回探検(1859/11〜1860/1)〜
   エーア湖の西部地域への探検。
1859/8にチェンバース氏とフィンケ氏(Chambers' & Finke)の後援で、アデレード(Adelaide)をエーア湖(Lake Eyre)の西側地域を探検へ出発。1859/11/4にチェンバース・クリークでスチュアートはウィリアム・ケックウィック(William Darton Kekwick)、ベンジャミン・ヘッド(Benjamin Head)、ミューラー(Muller)の3人(計4人)と馬12頭と合流して、チェンバース・クリーク(現:スチュアート・クリーク)からエーア湖の西部地域への探検に出発。
オーストラリアの乾燥地帯

図案はウィランドラ湖群地域
1859年:〜:
11/04、チェンバース・クリークを出発
11/05、エメラルド・スプリングスを出発
11/06、エーア湖南岸(South Shore of Lake Eyre)着
11/10、ストラングウェイ・スプリング(Strangway Springs)着、目の具合が悪い
11/11、目が見えなくなる、馬が逃げたので探し回り、連れ戻して北へと出発、
     日が沈む頃ウィリアム・スプリングス(William Springs)着
11/12、ほとんど盲目になる、水を探しに3人を3方向に出発させるも見つからず
11/14、ウィリアム・スプリングスで休んで多少具合が良くなったので朝出発、
     金の有りそうな乾ききった塩の噴き出ている草の原を進み、
     夕方スプリング・オブ・ホープ(Spring of Hope、希望の泉)着、十分な水を得る
11/15、鉱物資源が有りそうな付近を探検してアン山(Mount Anna)命名、
11/16、具合が悪く出発せず、ミューラーが水場を見つけ現地人と遭遇するも接触できず、
     そこに行きジョージ・クリーク(George Creek)と命名、記念碑を造る
11/17、正午にホーカー・スプリングス(Hawker Springs)着、
11/18、本日マーガレット山(Mount Margaret)登頂、記念碑を造る
11/19、エーア湖西のチャールス山(Mt. Charles)で石造記念碑(Stone cone)を建造
11/20、ファニー・スプリング(Fanny Springs)着、
     付近を探検調査
11/26、ファニー・スプリングからパリー・スプリングス(Parry Springs)へと出発
11/29、プリムローズ・スプリングス(Primrose springs)で付近を調査
12/02、トレンス湖へ行く
12/03、プリムローズ・スプリングス着
12/07、プリムローズ・スプリングスからローダン・スプリングス(Louden Springs)へ向かい、
     スチーヴンソン山(Mount Stevenson)の西へ上る、目が痛む
12/14、ローダン・スプリングスからトレンス湖
12/18、ローダン・スプリングスからマーガレット山(Mount Margaret)へ
12/20、ガム(Gum Creek)からフリーリング・スプリングス(Freeling Springs)へ
     目の具合が悪くケックウィックを調査に出し金の様な良好な石英を見つけてくる
12/29、フリーリング・スプリングスからハンソン山脈(Hanson Range)へ
01/01、ハンソン山脈からフリーリング・スプリングスへ戻る
01/05、フリーリング・スプリングスからニール(The Neale)へ
01/06、馬がいかれて補給物資が底をついたので、ケックウィックとヘッドを
     チェンバース・クリークへ補給物資をとりに行かせ、
     数日後に馬13頭で3ヵ月分の物資がくる
01/07、ニールからヤングハズバンド山(Mount Younghusband)へ
01/08、ミルン・スプリングス(Milne Springs)へ
01/12、ウェスト・スプリングス(West Springs)へ
01/15、ミルン・スプリングスへ
01/21、チェンバース・クリーク帰着
エーア湖北岸を見極めるまで探検して、多くの素晴らしいクリークや、幾つかの自噴井(artesian springs、アーテジアン・スプリング)を発見し、有望な鉱物資源が有りそうなこととか、放牧に最適な草原地も発見して後援者を喜ばせましたが、スチュアートは猛烈な夏の日差しで目をやられました。1860/1/21にチェンバース・クリークに帰着して、第3回探検を終えました。

▼第4回探検(1860/3〜1860/9)〜
      オーストラリアの「真ん中」(centre of Australia)への探検。
1860/3/2にスチュアートはウィリアム・ケックウィックと、ベンジャミン・ヘッドの3人と13頭の馬でチェンバース・クリークを出発。3/18にニールズ・クリーク(Neale's Creek)、現:オオドナダッタ(Oodnadatta, South Australia)に到着。水の欠乏、野菜不足で壊血病を発症し、砂漠の砂と猛烈な陽射しで目を痛め、ほとんど盲目となりました。
砂漠のバンディクート
1860年:〜:
03/02、チェンバース・クリークを北西ハミルトン・スプリングス(Hamilton Springs)へと出発、
03/03、ハミルトン山(Mt Hamilton)ベレスフォード・スプリングス(Beresford Springs)宿営
     夜間寒く、昼間は暑い、現地人が襲ってくる
03/05、ストラングウェイ・スプリングス(Strangway Springs)着
03/10、ミルン・スプリングス着
03/18、ニール川(Neale River)ニールス・クリーク(Neale's Creek)
03/20、ハンソン山脈のニール川ギャップ(Neale River Gap, Hanson Range)
03/16、ニール川西(The Neale River West)着
03/31、スチーヴンソン(The Stevenson)着
04/03、ケックウィックに因んでダニエル山(Mount Daniel)命名
04/04、黒ボタンインコ(black cockatoo)やその他の珍しい鳥を見かける
     フィンケ川(Finke River)を後援者のフィンケ氏に因んで命名
04/12、アリス・スプリングス(Alice Springs)西の山脈をジョージ・マクドネル州知事
     (Sir Richard Graves MacDonnell KCMG CB 1814-1881)に因んで
     マクドネル山脈(MacDonnell Ranges)と命名
04/19、ヒュー山(Mount Hugh)、ヒュー(The Hugh)着
04/21、フィーリング山(Mount Freeling)着
04/22、アリス・スプリングス近くのスチュアート山の小さいガムクリーク(Small Gum Creek)
     に到達、そこがオーストラリアの真ん中(Centre of Australia)と判明
04/27、デニソン山(Mount Denison)着
05/12、デニソン山を出発
05/22、ハンソン(The Hanson)にて雨が降り水を得るも、その後は水が欠乏
05/26、ストルゼレッキ山(Mount Strzelecki)着
06/06、テナント・クリーク(Tennant Creek, McDouall Ranges、デヴィルズ・マーブル有)
     に着き、テナント・クリークと命名
06/09、草原(Grassy Plain)に出るも水が切れて馬は2夜水無しとなり水を探す
06/11、デイリー・ウォターを出発、正午過ぎにウッドコック山(Mount Woodcock)着、
     山の裾野を進んで日没前、やっと水場に到着、馬に水を十分呑ませる
06/12、ビショップ・クリーク(Bishop Creek)着、馬が弱ったので休む
06/18、ビショップ・クリークをフィリップ・クリーク(Phillips Creek)へと出発
06/23、ケックウィック・ポンド(Kekwick Ponds)着
06/25、ヘイワード・クリーク(Hayward Creek)命名、ケックウィック・ポンド出発
06/26、大きめのガム・クリーク(Gum Creek)で、水が無くなり、全員が壊血病の症状が
     ひどくなりました。現地人(Warramunga Aboriginal)に急襲されたので、そこを
     アタック・クリーク(Attack Creek)と命名。アデレードから2400km地点で帰路に
     着く、スチュアート山脈に目印の旗を立ててスチュアート山脈(Mount Stuart)と
     自分の名前を名付ける
08/26、ペーズリー・ポンド(Paisley Ponds)に着くと雨になる
09/01、ハミルトン山(Mount Hamilton)のハミルトン・スプリングス(Hamilton Springs)に到着
10/07、アデレードに帰着し、王立地学協会からリビングストンに次いで2人目のメダル(Royal Geographical Society's Patron's Medal)を受賞。1861/8/20にバーク隊(Burke & Wills)の探検が失敗に終わったことがメルボルンに知らされました。

▼第5回探検(1860/11〜1861/9)〜
      ニューカッスル・ウォーターへの探検。
前回の探検で現地人の襲撃に備えて護衛が必要なことがわかりましたが、州政府(South Australian Government)との話し合いが難交。折り合いがつき州政府が、「大陸縦断電信線敷設ルート」調査費として£2500ポンドの費用と10人の護衛をスチュアート探検隊につけることになりました。ヴィクトリア州政府がバーク探検隊に要した費用は£12,000ポンドだと伝えられており、バーク隊は
乾燥地帯で水を補給した所

図案はカカドゥ国立公園
湾1861/2/11にカーペンタリアに着きました。スチュアートは前回の探検からアデレードに戻って(10/7)間もなくだったのに、新たな探検に出かけることになりました。
1860年:〜:
11/01、アデレードを大陸縦断へと出発。
11/29、7人と13頭の馬でモーローロー(Moolooloo)を出発
12/01、グレンズ・ステーション(Mr. Glen's station)着
12/04、ゴーロング・スプリングス(Goolong Springs)を出発
12/08、ウェルカム・スプリングス(Welcome Springs)を出発
12/11、フィニス・スプリングス(Finniss Springs)を出発
12/09、チェンバース・クリーク着、
     そこで月末まで逗留。フィンケ氏の援助で増援隊が到着
01/01、13人(計14人)と49頭の馬と30週分の物資とでチェンバース・クリークを出発。
     真夏という最悪の時期だったので、馬のかいばと水を探すのに苦労の連続でした
     直ぐに弱ってきた2人を5頭の馬で返しました
01/08、ローダン・スパ(Louden Spa)を出発
01/09、レヴィス基地(Mr. Levi's station)を出発
01/01、11人(計12人)でチェンバー・クリークを出発
01/21、ニール・クリーク(Neale Creek)着、
     魚を獲ったのを食べると赤痢が発生。現地人が見えない所にいて
     キャンプ地の周りの芝状の枯れ草に火をつけたので、急遽出発する
01/27、ハミルトン(Hamilton)着。約56.3kmの苦しい旅程を踏破
02/11、南オーストラリア州の北部州境近くコグリン・クリーク(Coglin Creek)で宿営
02/22、マーチャント・スプリングス(Marchant Springs)着
     素晴らしい現地人の岩絵を発見
03/15、ジェームス山脈のヒュー(The Hugh, James Range)着、数滴の雨が降る
03/17、オーウェン・スプリングス(Owen Springs, The Hugh)着、夜間に少し雨が降る
03/19、バークレー・ブラフ(Brinkley Bluff, McDonnell range)着、
     マクドネル山地に入ってから雨が降らない、ローレンス(Lawrence)が
     甘くてサトウキビのような灌木の葉を食べたところ重病になる
03/21、ブリンキー・ブラフ(Brinkley Bluff, McDonnell Range)着、
     マクドネル・レンジに着いて宿営していると、夜間に雨が
     断続的に降ってきて大雨になり、地面が泥濘となり、足をとられて進めなくなる
03/23、断続的に降り続いた雨が止み、早朝に山越えへと出発、頂上でも地面が柔らかい
03/24、ハミルトン・スプリングス(Hamilton Springs)を出発
03/27、ロー・グラニテ山脈(Low Granite Range in Scrub)で半分の馬が逃げたので、
     2手に分かれてハミルトン・スプリンスグ迄探す
03/29、スワンプ(沼沢地)南端(South End of Swamp in Scrub)着
     サリヴァン(Sullivan)が馬3頭を連れてくる、翌日も2頭を連れてくる
04/02、グリーン・フラット(Green Flat in Scrub)を午後に出発、岩だらけの丘に着き、
     アデレードのハリス(Peter G. Harris)にちなんでハリス山(Mount Harris)と命名
04/04、ウィックステッド(Wicksteed, Reynolds Range)を
     朝フィーリング山(Mount Freeling)へと出発
04/09、フォスター山スティアリング(The Stirling, Forster Range)を朝出発、
     テイラー(The Taylor)と命名した所で宿営
04/11、クロフォード山脈モフェット山(Mount Morphett, Crawford Range)北側を朝出発、
     木々が茂る草原(Grassy Plain)のボニー(The Bonney)で宿営
04/16、ボニーを出発、ブリス山クウォーツ丘(Quartz Hill, West Mount Blyth)着
04/21、テナント・クリーク(Tennant Creek)を朝出発
04/23、ビショップ・クリーク(Bishop Creek)を朝出発
04/25、アタック・クリーク(Attack Creek)を朝出発
05/04、スタート・プレーン(Sturt Plains)を朝出発
05/12、アシュバートン山脈のホーカー・クリーク(Hawker Creek, Ashburton Range)出発
05/24、ローソン・クリーク(Lawson Creek)を朝、
     ニューカッスル・ウォーター(Newcastle Water, Sturt Plains)へと出発、日没頃着
05/25、ニューカッスル・ウォーターを朝出発
05/28、スタート平原(Sturt Plains)北で14頭の馬をなくす、
     夕方、連なった泉(Chain of Ponds)で水を見つける
06/10、連なった泉を出発
06/14、ニューカッスル・ウォーター西端(East End of Newcastle Water)を出発
06/16、スタート平原東(Sturt Plains East)を出発
06/17、ニューカッスル・ウォーター東(Newcastle Water East)を出発
06/20、ハンター・クリーク(Hunter Creek)で馬3頭をなくす
06/21、ハンター・クリークでシリングロー山(Mount Shillinglaw)命名
06/23、トムキンソン・クリーク(Tomkinson Creek)を出発
07/01、トムキンソン・クリークを出発
07/02、ラヴデイ・クリーク(Loveday Creek)命名
07/06、バーク・クリーク(Burke Creek)を出発
07/12、トムキンソン・クリークに戻って
     マーチソン山脈(Murchison range)北側のアン・クリーク(Ann Creek)着
     トムキンソン・クリークチソン山脈(Tomkinson Creekchison range)で北行を中止
07/30、トムキンソン・クリークチソン山脈南西で宿営
08/06、ブリンクレイ・ブラフ(Brinkley Bluff)で宿営
08/31、レヴィス基地(Mr. Levi's station)着
     その後、ローダン・スパ(Louden Spa)、ウィリアム・スプリングス(William Springs)、
     パイズリー・ポンド(Paisley Ponds)、ハミルトン・スプリングスを経て、
09/07〜10、チェンバース・クリークへと順次、到着
09/15、チェンバース・クリークのモーローロー(Moolooloo)着、
09/16、モーローローをポート・オーガスタへと起ち、蒸気船でアデレードへ出発
09/20、アデレードに帰着
ジョン・スチュアートはアタック・クリークに4/24に着き、ティモール海へと北流するヴィクトリア川(Victoria River 560km)へと北西へ進みました。5/25に、後にニューカッスル・ウォーター(Newcastle Waters)と名付けられた所(Glandfield Lagoon)に到達。その付近で5週間以上キャンプしましたが、土地のアボリジニが脅しをかけてきて戦いとなり、6ヵ月以上かかって来てあと少し(800km)で海に着くというに南へと引き返すことになり、1861/7/1についにチェンバース・クリークへと帰路につきました。1861/9/15にモールールー(チェンバース・クリーク)帰着、翌日ポート・オーガスタへ行き、蒸気船でアデレードへ行きました。

個人的な後援者:チェンバース兄弟(James & John Chambers)フィンケ氏(William Finke)
第5回探検隊員リスト:〜
・ジョン・スチュアート(John McDouall Stuart, Leader、隊長)
・ウィリアム・ケクウィック(William Kekwick, Second、セカンド・副隊長)
・スリング(F. Thring, Third Officer、サード・副長代理)
・エワート(Ewart, Storekeeper、補給物資主任)
・サリヴァン(Sullivan, Shoeing Smith、蹄鉄師)
・トンプロン(Thompson, Saddler、馬具師)
・ローレンス(Lawrence、隊員)
・マスターズ(Masters、隊員)
・ヲッドフォード(J. Woodforde、隊員)
・ウォール(Wall、隊員)
・ベイリフ(E.E. Bayliffe、隊員)
・トーマス(J. Thomas、隊員)
・ジョージ・ハミルトン(George Hamilton、Police Inspector、検察官)

▼第6回探検(1861/10〜1862/12)〜
   大陸縦断電信線敷設ルートの探検
   ダーウィン近郷のインド洋海岸に到達後、生還
バーク隊がクーパーク・リークで全滅してヴィクトリア州政府による大陸縦断探検計画が失敗したことがわかると、サウス・オーストラリア州政府は£200 ポンドの資金を提供して、ジョン・スチュアートに大陸縦断(across the continent)探検を要請しました。ショップキーパー氏(Shopkeepers)が
砂漠のスターフラワー
隊員を集め、博物学のフェデリック・ウォーターハウス(Frederick George Waterhouse、1815 - 1898)が参加することになり、チェンバース氏が馬76頭分の馬具一式を準備しました。スチュアートは1861/10月にアデレードを出発、飛び出してきた獣に馬が驚いて暴れ、スチュアートが右手を蹴られて骨折し、指は折れて垂れ下がる程の事故に遭い、予定より5週間も遅れ、12/20にモーローローに着き、隊員と合流して探検に出発しました。1862/3/28にアタック・クリーク着。そこで進むのをやめて引き返し、水が欠乏してきたので急いでデイリー・ウォーター(Daly Waters)と新州知事に因んで命名した所に着きました。7/24に現在のダーウィン(Darwin)近郷の下草の厚い海岸地帯に着き、インド洋海岸に到達しました。帰路では馬が次第に弱って、捨てながら、スチュアートは壊血病で弱り切った上に目をやられて3400kmもの帰路の道中ほとんどを担架で運ばれました。隊員たちも壊血病で弱りながらの旅となりました。厳しい旅程で馬や装備を失いながらも、1862/12/17にアデレードに帰着しました。
1861:〜:
10/21、アデレードを出発
12/10、スチュアート山基地(Mount Stuart Station)着
12/20、モーローロー着、隊員と合流して出発
12/29、フィニス・スプリングス着
01/08、チェンバース・クリークで全員と合流、10人(計11人)と71頭の馬を連れて出発
01/21、レヴィス基地着
02/15、マーチャント・スプリングス着、現地人が枯れ草に火をつけて迷惑をかけられる
02/23、ヒュー着
02/25、ヒューで、現地人と遭遇、周りの枯れ草に火をつけてくる
03/05、ヘイ山(Mount Hay)の草原を横切る、現地人が枯れ草に火をつけてくる
03/28、アタック・クリーク着
03/31、トムキンソン・クリーク着
04/05、ニューカッスル・ウォーター東端着、ケックウィックが数羽の鵞鳥を打ってくる、
     遠くに煙が上がるのを見る、現地人2人と遭遇、逃げ去る
04/21、ニューカッスル・ウォーター北端を出発
04/22、ハウエル・ポンド(Howell Ponds)着、スタート平原やデンス・フォレスト(Dense
     Forest)、キングス・連鎖ポンド(King's Chain of Ponds)、フリューズ・
     ウォーター・ホール(Frew's Water Hole)などで水を探し回る
05/16、フォエル・ポンドを出発
05/22、素晴らしい草原地帯(Fine Grass Country)着
05/23、マックゴリーリー・ポンド(McGorrerey Ponds)着、ポンドが続く、1週間休む、
     ヴィクトリア川(Victoria River)探しを5回試み北西へ進む、
05/29、ニューカッスル・ウォーター北150kmのデイリー・ウォーター(Daly Waters)着。
     ヴィクリア川を探しに北部準州のトップ・エンド(Top End)へ向かって進む
06/11、デイリー・ウォターから、ブルー・グラス沼沢地(Blue-Grass Swamp)着
06/14、ストラングウェイ川(River Strangways)着
06/26、ストラングウェイ川からローパー川(Roper River)着
07/01、ローパー川からチャンバース川リーディー沼沢地(Reedy Swamp, River Chambers)着
07/02、チャンバース川着
07/07、ウォーターハウス川(Waterhouse River)着
07/09、キャサリン(The Katherine)着
07/11、テーブルランド北西側アデレード川(Adelaide River, North-west Side, Table Land)着
07/01、メアリー川(Mary River)着
07/12、アデレード川メアリー(The Mary, Adelaide River)着
07/17、メアリーからアデレード川タイド・クリーク(Tide Creek, Adelaide River)着
07/20、アン・クリーク(Anna Creek)着
07/23、フレシュ・ウォーター沼地(Fresh-water Marsh)
07/24、沼地際のスリング・クリーク(Thring Creek, Entering the Marsh)着
07/25、チャールス・クリーク(Charles Creek, Chambers Bay, Van Diemen Gulf)から、
     チェンバース湾(Chambers Bay、現:ダーウィン)海岸に到達、
     インド洋の海岸で国旗を掲揚し国歌”God save the Queen”を唱和。
07/26、チェンバース湾チャールス・クリークで帰途につくことにする
07/30、アデレード川サイド・クリーク(Side Creek, Adelaide River)着
08/05、キャサリン着
08/08、チェンバース川、馬を休める
08/13、チェンバース川から(Roper River, Reedy Swamp)
08/19、ロック・キャンプ(Rock Camp)からロッキー谷(Rocky Gorge, River Strangways)へ
08/24、ストラングウェイ川ロッキー谷からパーディー・ポンド(Purdie Ponds)へ
09/02、イースト・ニューカッスル・ウォーター(East Newcastle Water)着
09/14、アタック・クリーク着
09/30、テイラー(The Taylor)着
10/10、テイラーからスターリング(The Stirling)へ
10/27、ヘイ山(Hills North of Mount Hay)北を出発
11/02、ヒューのバークレー・ブラフ(Brinkley Bluff, The Hugh)
11/13、フィンケのマーチャント・スプリングス着(Marchant Springs, The Finke)
11/20、マーガレット山基地(Near Mount Margaret Station)近くを出発
12/04、ハミルトン山基地を出発
12/06、チェンバース・クリークを出発
12/08、ターミネーション丘を回って
12/09、オラツンガのグレン基地に着き、スチュアート山基地へ進むと、
     チェンバース氏が大歓迎で出迎えてくれる
12/10、モーローローへチェンバース氏が連れて行ってくれる
12/17、アデレードに帰着しました。

第6回探検隊員リスト:〜
・ジョン・スチュアート(John McDouall Stuart, Leader、隊長)
・ウィリアム・ケクウィック(William Kekwick, Second、セカンド・副隊長)
・スリング(F.W. Thring, Third Officer、サード・副長代理)
・ジョン・マックゴリーリー(John McGorrerey, Shoeing Smith、蹄鉄師)
・オールド(W.P. Auld, Assistant、助手
・ベンジャミン・ヘッド(Benjamin Head(4,5に同行、隊員)
・ステファン・キング(Stephen King、隊員)
・ジョン・ビリアット(John Billiatt、隊員)
・ジェームス・フリュー(James Frew、隊員)
・ヘス・ナッシュ(Heath Nash、隊員)
・ウォーターハウス(F.G. Waterhouse、Naturalist、博物学)

1863/1/21の休日には州都アデレードの凱旋式典パレードで、ビルからビルへ渡された万国旗の中を大観衆から歓呼の声で大歓迎を受けしました。スチュアートは£2000ポンドを、隊員には£1500ポンドの賞与が授与されました。ウォーターハウスは一連の鳥(series of bird)、哺乳類の皮(mammal skins)、昆虫(insects)、植物(plants)の標本、なかでも非常に珍しいプリンセス・アレクサンドラ・オウム(Princess Alexandra Parrot、学名:Polytelis alexandrae)を発見して、州政府から£100ポンドの賞与を授与されました。

▼その後のスチュアートは、髪は真っ白になり、右目に眼帯をして目はほとんど見えなくなって、1864/4月にスコットランドの姉の元へとオーストラリア(アデレード)を出帆しました。サウス・オーストラリア州政府にクレームをつけ、さらに£1000ポンドを獲得して、ロンドンに移りました。ハードマン(W. Hardman)がジョン・スチュアートの探検記(The Journals of John McDouall Stuart)を編集して1864年に発刊しました。ロンドンで、1866/6/5に脳出血で亡くなり(50才)、ケンサル・グリーン墓地(Kensal Green cemetery)に葬られました。1904/7/4にアデレードでジョン・シュチュートの銅像が建立されました。ダーウィンにも銅像が有ります。スチュアートの名を冠した地名はオーストラリアに数多くあります。

参考:〜
参考HP:〜
ジョン・スチュワートの探検地図 (全回)
ジョン・スチュワートの探検地図 (全回)
ジョン・スチュワートの探検地図 (第6回)
トップエンドの地図(アリス、テナント、キャサリン、ダーウィン)
3州境界の地図 (中央地帯)

 ・ファイフの場所地図(イギリス・スコットランド)
 ・カークカルディの場所地図(イギリス・スコットランド)
 ・アデレードの場所地図(オーストラリア)
 ・トレンス湖西部付近の詳細地図
   (クーパーペディ、ウーメラ、ポート・オーガスタ、ブロークンヒル、
    セデュナ、ストリーキー湾、ポート・リンカーン、スペンサー湾、アデレード)
 ・トレンス湖とアンダムーカ・レンジの地図(ボスワース有)
 ・エーア湖盆地の地図(アリススプリング、ポートオーガスタ、ブロークンヒル)
 ・クーバーペディの場所地図(道路地図)
 ・ニューカッスル・ウォーターの場所地図(道路地図)
 ・スチュアート・ハイウェイの地図(大陸縦断)
 ・グレートヴィクトリア砂漠の場所地図(オーストラリア)
 ・南オーストラリアの地図(GoogleHP)
 ・北部準州の道路地図
   (ウルル、アリス・スプリングス、テナント・クリーク、ダーウィン有)
 ・NSWの道路地図
   (メルボルン、ワガワガ、キャンベラ、シドニー有)
 ・クウィーンズランド州の道路地図
   (ブリスベーン、ケアンズ有)
 ・サウス・オーストラリア州の道路地図
   (クーパー・ペディ、セデュナ、ポ−ト・リンカーン、アデレード有)
 ・オーストラリアの砂漠の場所地図
   (グレート・サンディ、ギブソン、グレート・ヴィクトリア、タナミ、シンプソン砂漠、
    リトル・サンディ砂漠、ナラーバー平原、ストルゼレッキ、スタート砂漠)
 ・オオドナダッタの場所地図(道路地図、ポート・リンカーン有)
   (オオドナダッタ、クーパー・ペディ、ウーメラ、ポート・オーガスタ、アデレード)
 ・フィンケ川付近の地図(エーア湖盆地)
   (アリススプリングス〜ブロークンヒル)
 ・ラヴァートンの場所地図(道路地図)
 ・ヴィクトリア川付近の地図(道路地図、赤い所が北部準州のTop End)

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。        2010/3/30

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