★スペイン ガンボア船長
1582
マゼラン海峡の地図を製作

大航海物語★

CORREOS DE HILE
マゼラン海峡の古地図、1584
チリの地図 ガンボア船長
Capt.Pedro Sarmiento de Gamboa
1584 マゼラン海峡地図400年記念 1984
チリ 1984/7/31 発行 (200%)


16世紀の地図
マゼラン海峡の地図
Es trecho de Magallanes


EXPEDICION DE
JUAN LADRILLERO 1557

マゼラン海峡探検400年記念

Juan Ladrilleroの海峡探検400年記念
チリ 1959/8/27 発行
現在の地図
マゼラン海峡の地図
マゼラン海峡地帯拡大地図

CENTENARIO OCUPACION DEL
ESTRECHO DE MAGALLANES
1843-1943

マゼラン海峡占領100年記念
チリ 1944/3/2 発行

ペドロ・サルミエント・ド・ガンボア
  Capt.Pedro Sarmiento de Gamboa (1532 〜 1602)

ガンボアはスペインのガリシア県ポンテヴェドラ(Pontevedra)で生れました。18才でヨーロッパ戦争によりスペイン帝国陸軍に入隊しました。1550年から5年間は神聖ローマ皇帝チャールス5世のもとで戦いました。

1555年23才で大西洋を横断してメキシコに渡り、2年間過ごしました。ところが何かの取調べを受けたので、ペルーへ出帆し、ペルーで20年以上も暮らしました。リマでモーゼの教義を書いた2個の不思議な指輪と不思議なインクを持っていたとの嫌疑をかけられて批難された様ですが定かではありません。副王トレドの命による仕事をして名前を残すことになりました。スペイン領ペルーの副王トレドが「インカ王朝が纂奪者の始めた専制君主のものであることを立証し,スペイン王のペルーにおける主権の正当性を明らかにするため」としてガンボアに「インカ史」の執筆を命じました。そして、1572年に「インカ史」を発行しました。

1567年頃ガンボアが「インカ史」を書き上げた時に、インディオから聞き取っていた伝説の中に「インカの船乗り”パウジ・トゥパク・ユバンギ”が9ヶ月におよぶ南方航海の後に、莫大な富を持ち帰った」という話がありました。ガンボアはこれを実現しようとアルバロ・ド・メンダーニャ・ド・ネイラに持ちかけ、メンダーニャはこれを信じて、あわよくば一山当てようと目論ろんで、ガンボアと共に探検隊を組織しました。そして、ガンボア船長とメンダーニャは1567年11月にペルーのリマから太平洋を西へと出帆して、1568年にソロモン諸島を発見し、1568年の夏にペルーに帰港しました。

1578年イギリスのドレーク船長がペルーとメキシコを攻撃に来た時、ガンボアは太平洋スペイン艦隊の司令官になり、ドレークを迎え撃ちました。1579年11隻の艦隊で、ドレーク攻撃にペルーのカラオ港を出帆し、喜望峰周りで1780年スペインへ戻りました。1581年24隻で2500人の移住者を乗せてマゼラン海峡の探検遠征隊を、ヴァルデズ(Diego Flores Valdez)と共に指揮してスペインのカディス港を出帆しました。8隻は嵐で沈み、ヴァルデスはガンボアとの意見の衝突でマゼラン海峡に着く前に12隻を連れてスペインへ戻りました。ガンボア船長は残る4隻で航海を続け、1582年にマゼラン海峡の地図を製作しました1583年1月好適地を見つけてレイ・ドン・フェリペ(Rey Don Felipe)と名づけて、砦を建設し300人の守備隊を置き、植民地を建設しました。

1583年11月には、副王トレドが大西洋からやってくる激しい海賊の襲来に手をやいて、ガンボアにマゼラン海峡の封鎖を命じました。副王はドレーク海峡の存在を知りませんでしたが、ガンボアは嵐に流されて偶然にドレーク海峡に達し発見しました。そしてマゼラン海峡に「ノンブレ・デ・ディオス」の要塞を建設しました。

ガンボアは要塞建設中に嵐に流され,リオデジャネイロまで漂流しました。そこで船を修理し船員を集めて、マゼラン海峡の要塞に向かいました。しかしまたも嵐に見まわれバイアに流されました。そこで、リオデジャネイロに戻りふたたび基地を目指しました。こんどは、この船が1548年海賊に襲われ、ガンボアは英国まで連れてゆかれました。英国では幸運にもサー・ウォルター・ローリーに保護され、彼の冒険談はエリザベス2世女王の耳に届きました。彼は女王の接見を受けた後、旅費と旅券(パスポート)をもらい、本国に帰ることにしましたが、帰国途中のフランスでユグノー教徒に誘拐されました。身代金が払えないまま1588年まで虜囚の身となりました。1589年の末に釈放されてスペインに戻ることができました。そして彼は結局マゼラン海峡には戻れなかったと伝えられています。
彼の最後はスペイン新大陸航路のガレオン船アルマダ(無敵艦隊)大艦隊の司令官に提督として任命され、リスボン付近の船上で、1602年に70才で亡くなったと伝えられています。

参考:〜レイ・ドン・フェリペはマゼラン海峡のブエバ湾(Buena Bay)西側のプンタ・アレナス(Punta Arenas)の約58km(36 miles)南に有って、短期間で消滅し、イギリス私掠船のトーマス・キャベンディッシュ(Thomas Cavendish)が1587年に寄航してみると、廃墟になっていましたので、ポート・ファミン(Port Famine、現Puerto del Hambre)と名付けました。その後、イギリス海軍の基地として使用されました。

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。        12/4/14追記
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