Spain

国連 1988 発行
切手で綴る スペイン(Espana II)
スペイン無敵艦隊
(Armada)


大航海物語
 参考資料
 スペイン切手編
ESPANA
スペインの無敵帆船
ナオ船

コロンブスの乗船
Nao Santa Maria

コルベット船

Corbett

ガレー船

Galley
ジーベック船

Xebec
ガレオン船

Galeon
スペイン 1964/7/16 発行
スペインの無敵艦隊(アルマダ)1588
アルマダはフェリペ二世が1587年初頭から用意した艦隊のことで「Armada」(艦隊の意)と呼ばれました。無敵艦隊とは後世にイギリスで名付けられたようです。当時のヨーロッパはカトリック諸国とプロテスタント諸国が抗争を繰り返していて、1587年2月にイギリスのエリザベス一世がカトリックのスコットランド女王メアリー・スチュアートを処刑したことから、スペインのフェリペ二世がフランドル駐屯軍でイギリス征服を企てました。1588年7月中旬2万2,000の兵を乗せた130隻のスペイン艦隊がラ・コルニャを出帆、まもなくイギリス艦隊が迎撃に出て、ドーバー海峡で9日の間、砲撃戦を戦いました。射程の長い軽砲を備えた小型船を主力とする英海軍は地中海流の衝角戦で挑むスペイン海軍を巧みにかわして、かなりの損害を与え、戦意をくじきました。その後スペイン海軍は北海の嵐によって、さらなる損害をこおむり、約半数の船だけがスペインに帰着することが出来ました。これにより、三分の二近い将兵が失われる、という大打撃を受けてしまいました。アルマダの大敗でスペインは制海権を失い、この後オランダの独立イギリスの台頭を招くこととなったわけです。アルマダ初代総司令官にはフェリペ二世の命でぺデロ・メネデンスが就任しました。上記は英国のネルソン提督で有名なトラファルガーの海戦とは別です。
上記の切手はその当時に使用されていたと思われる帆船群です。

・フェリペ 2世 (1527〜1598)
 Felipe II 在位(1556〜1598)

1556年父帝退位により29才でスペイン王位と共にネーデルランド・ミラノ・ナポリ・シチリア等のヨーロッパ所領と新大陸およびアジアの植民地を継承し、さらに1580にはポルトガルとその海外領土を併合し、まさに「日の没することの無い」大帝国が出現しました。しかしこの強大さがヨーロッパの勢力均衡を破壊した事から、フランス・イギリス・教皇庁の警戒心をよび、これら諸国を敵に回す羽目に陥り、又カトリックの護持のための絶え間ない戦争に駆り立てられました。治世前半は、1559年に有利な条件のカトー・カンブレンジの和約をフランスと締結して長年続いたイタリア戦争を終結させ1571年のレパントの海戦でのオスマン・トルコ艦隊撃破による勝利、又オランダ(ネーデルランド)独立戦争をも一応の制圧などの実績を挙げました。
フェリペ 2世

FELIPE II
マドリード首都
400年記念
IIV CENTENARIO DE LA
CAPTALIDAD DE MADRID
スペイン 1961 発行
治世末期は、しだいに強まるフランスの内乱への深入り、1588年にはアルマダ(無敵艦隊)がイギリスに大敗を喫するなど、外交・軍事面での後退を余儀なくされ、外国への過剰な介入は、西インド諸島(アメリカ新大陸)からの銀の流入(ポトシ銀山)にもかかわらず、対外債務を増大させ、再三にわたる国家財政の破綻を招きました。15世紀末から、いちおうの発展をみていた農業と手工業も、対外戦争追行に伴う重税と国家の適切な保護の欠如から、治世最後の10年は衰退に向かいました。対プロテスタント戦争という側面をもつ、これらの対外戦争は国内にも大きい精神的緊張をよびました。彼の正統信仰護持の姿勢は、異端に対する厳重な弾圧だけに留まらず、祖先に異教徒の血を持つ者をも追求し、外国との知的交流を断つ結果となり、このこともスペインの没落を促す要因となりました。彼は死の直前まで国王としての使命感にあふれ、政務に精励し、1598年9月13日 42年間の在位の後にエル・エスコリアル宮殿で71才で没しました。
なお、1584年に日本からの天正遣欧少年使節を謁見しています。









闘牛の情景
こちらで、
スペインの闘牛
お楽しみください。

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。   令和 R.2/12/20 (2020)追記
スタンプ・メイツ
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