★スペイン ラス・カサス神父
1542
「インディアスの破壊に関する簡潔な報告」
大航海物語★

POSTA VATICANE
ラス・カサス神父

ヴァチカン 1992 発行
ESPANA
新大陸からスペインへお宝を運んだ
スパニッシュ・キャラック船
Spanish Carrack


スペインから新大陸へは人と物資を輸送
スペイン 1964/7/16 発行
REPUBLICA DOMONICANA
イスパニョーラ島

現在のドミニカ(右側の部分)
現在のハイチ(左側の部分)

ドミニカ共和国 1900 発行

ラスカサス神父は16世紀スペイン出身のカトリック司祭で、後にドミニコ会員、メキシコ・チャパス教区の司教になりました。当時スペインが国家をあげて植民・征服事業を進めていた「新大陸」(中南米)における数々の不正行為と先住民(インディオ)に対する残虐行為を告発して、インディアスに於けるスペイン支配の不当性を訴え続けました。生前から激しい批判を受け、没後も相反する評価を受けることが多かったのですが、「インディオの使徒」と呼ばれました。

バルトロメ・ド・ラス・カサス
 Bartolome de Las Casas (1484〜1566/7/17)

ラス・カサスはスペイン、アンダルシア州セビリア生まれで、3人の妹がいました。1493年9才で、「新大陸」を発見してスペインに戻ってきたクリストファー・コロンブスのセビリア訪問を目撃して強い印象を受けました。さらに父ペドロが兄弟と共にコロンブスの第2回航海に参加し、「新大陸」に渡りました。当時「新大陸」はインドであると考えられていたため、同地はインディアスと呼ばれました。1502年には18才でラス・カサス自身もに渡ることになり、新総督に任命されたニコラス・ド・オバンドの船団と共にイスパニョーラ島へ渡り同地に滞在しました。1504年3月にはイゲイ地方のインディオの「反乱」鎮圧軍に加わりました。イゲイから戻ったラス・カサスはコンセプシオン・デ・ラ・ベガの近くでインディオを使役しながら農場を経営しました。1508年スペインのセビリアに戻ったラス・カサスは司祭職を志して下級叙階を受けました。1507年にはコロンブスの息子ディエゴ・コロンのインディアスにおける特権回復の陳情のためローマへ赴き、そこで司祭に叙階されました。ディエゴの陳情活動は成功し、ディエゴはインディアス総督の任命をうけることができました。ディエゴとラス・カサスは1510年にイスパニョーラ島に戻り、ラス・カサスは同地で初ミサを捧げました。1511年12月ラス・カサスの運命を変えた最初の出来事が起こりました。サント・ドミンゴで生活していたドミニコ会員モンテシーノス神父が、スペイン人のインディオに対する不当な扱いを初めて非難したのです。この運動はやがてスペイン王室も動かし、フェルナンド2世(在位1479−1516)のもとにインディアス政策を検討するブルゴス会議が開かれ、1512年ブルゴス法(最初の植民地法)が制定されました。

1512年ディエゴ・コロンはキューバ島征服軍を出動させ、ディエゴの友人であったラス・カサスも従軍司祭として加わりました。軍勢の中には後にコンキスタドールとして悪名を馳せるエルナン・コルテスもいました。この軍事行動の中でおこなわれたインディオの虐殺を目の当たりにしたラス・カサスは激しい良心の呵責を感じるようになりました。1514年には従軍司祭の地位を捨て、農業に専念しながら聖書について観想する生活に入りました。1514/8/15、ラス・カサスの人生における「第一の改心」と呼ばれる出来事が起こりました。ラス・カサスは熟考の末、使役していたインディオを解放し、自らのエンコミンダを放棄し、サンクティ・スピリトゥスで行った聖母被昇天祭のミサの中でエンコミエンダ制の矛盾を厳しく糾弾しました。1515年インディアスでエンコミンダ制の不当性を訴えていたドミニコ会員たちと相談の上、王室に状況の改善を訴えようとモンテノーシスと共にスペインへ向かいました。しかし、フェルナンド2世はまもなく逝去したため、摂政として実権を握っていたフランシスコ・ヒメネス・ド・シスネロス枢機卿およびアドリアン枢機卿(後のハドリアヌス6世、ローマ教皇・在位,1522-23)に謁見して植民地の実情を訴えました。この時書かれたのが「14の改善策」といわれるもので、エンコミンダの廃止とインディオ虐待の即時中止、平和的キリスト教布教などが提案されていました。この頃のラス・カサスはインディオに代わる労働力としてアフリカから運ばれた「黒人奴隷の利用はやむなし」と考えていたと言われています。後に、これも不当であると考えるようになりますが、そのため、「ラス・カサスが新大陸に初めて黒人奴隷を導入した」といわれることもありましたが、これは誤りで実際には1501年から黒人が奴隷としてインディアスに運ばれていました。

ラス・カサスの提案により、シスネロス枢機卿の指示でインディアス審議会が発足し、インディアスへの調査団の派遣が決定しました。調査団はヒエロニムス会の修道士たちによって構成されており、ラス・カサスはインディオ保護官という肩書きで現地に同行しました。調査団は忠実に職務を遂行しましたが、ラス・カサスから見れば手ぬるいものであったため、まもなく両者は対立することになりました。調査団とラス・カサスがスペインに戻ると、死期が近づいていたシスネロス枢機卿はすでに権勢を失っており、まもなく亡くなりました。しかたなくラス・カサスは新王カルロス1世(在位1516−56、神聖ローマ皇帝カール5世・1519−56)に謁見することにし、謁見許可を待つ間、ドミニコ会神学院において法学・神学の知識を深めました。やがて王の側近ジャン・ル・ソヴァージュの知己を得ると、王から暴力的行動を禁止し、平和的植民のみを許可する勅令を得ることができました。これを実践しようとしたラス・カサスは自ら植民団をひきいてクマナー地方で平和的植民活動を行いましたが、うまくいかず植民者たちはラス・カサスのもとを去りました。インディアスのスペイン人たちの間でラス・カサスへの反感が強まり、生命の危険を感じたラス・カサスは、ドミニコ会員たちのすすめに従ってドミニコ会に入会、修道院にかくまわれる形で研究に専念しました。これが「第二の改心」と呼ばれています。研究活動の中で、当時の著名な神学者カジェタヌス枢機卿が「征服戦争の正当性を立証する神学的根拠は何もない」という意見を持っていることを知り、大いに励まされました。「布教論」と呼ばれる著作はこの頃書かれましたが、現在では一部分しか残っていないそうです。1526年9月、インディアス事情に精通しているということで、ラス・カサスはイスパニョーラ島に新しく出来たドミニコ会修道院の院長の任命を受けました。この頃、「インディアス史」の執筆を始めていますが、2年前にはすでにインディアス評議会は枢機会議に格上げされており、王の直属機関となっていました。これは当時スペイン国内でインディアスの扱いについての関心が高まっていたこと、植民者たちの目にあまる行為とインディオへの虐待を問題視する意見が強かったことを示しています。ラス・カサスはしきりに枢機会議に書簡を送っては現状を報告していました。その後はインディアス各地ですすめられたインディオ征服を批判しながら、インディオへの平和的布教に取り組みましだ。ラス・カサスの地道な啓蒙活動はヨーロッパにおいて徐々に評価されるようになってきて、1537年には教皇パウルス3世(在位,1534−49)がインディオの奴隷化を禁止する勅令「スブリムス・デウス」を出しました。またその頃、ラス・カサスはグァテマラからメキシコに赴いて活発な活動を続けました。

1540年インディアスでの宣教師を募るためと、宮廷において現状報告を行うため、ラス・カサスは20年ぶりにスペインの土を踏みました。国王カルロス1世はラス・カサスの報告を聞き、これを受けて1542年にバリャドリードにおいてインディアス評議会を召集し、インディアス政策の抜本的見直しとインディオ保護の方法を検討することを決めました。この評議会のために書かれた報告書がかの有名な「インディアスの破壊に関する簡潔な報告」なのです。1542年11月インディアス評議会はインディオ保護とエンコミンダ制の段階的廃止をうたった画期的な「インディアス新法」を公布しました。このことは植民地当局と植民者のラス・カサスへのいっそうの憎悪をあおることになりました。 ラス・カサスを宮廷から引き離そうとする反対者たちの画策と、インディアスにあって現状の報告者になってほしいと願う支持者たちの意思の不思議な一致の結果として、ラス・カサスはメキシコに設置されたチャパス司教区の初代司教に任命されました。チャパスについたラス・カサスは司教として植民地当局に「新法」の施行を厳しく求めましたが、植民者たちの激しい抵抗を受けました。結局、植民地全体のスペイン人の反発によって「新法」のうたったエンコミンダ制廃止は先送りになり、不完全なものとなってしまいました。ラス・カサスと植民者たちの間で繰り返された対立は泥沼化し、なんとか打開策を見出そうとしたラス・カサスは再びスペイン行きを決意してメキシコを離れました。

1547年6月再びスペイン宮廷に戻ってロビー活動を始めたラス・カサスの前にインディオへの征服活動の正当性を主張する強力な論敵が出現しました。アリストテレス研究の権威として知られた神学者ファン・ヒネス・ド・セプルベダです。1550年からバリャドリードで行われたインディアス会議ではセプルベダとラス・カサスが交互に出頭して自説を述べ、自らの意見こそ正しいと盛んに論じました。これが「バリャドリードの論戦」と呼ばれています。会議の中では植民者たちからエンコミンダの世襲制の許可が求められましたが、ラス・カサスの反対により見送られました。翌年以降ラス・カサスはバリャドリードのドミニコ会神学院に腰をすえて執筆活動と啓蒙活動に専念することを決意、チャパスの司教位を辞退しました。神学院で執筆活動に専念していたこの時期、インディアス史の資料としてコロンブスの第一回航海の日誌をまとめ、要約の形で書き写しました。現在、コロンブスの第一回航海の資料は失われているため、ラス・カサスによるこの要約のみが航海の様子を知る貴重な資料となっています。この後も継続的に執筆活動とインディオの権利保護のロビー活動を続けました。この頃の著作では自分が若き日にインディアスへの黒人奴隷の導入をやむなしとしたことへの悔恨と、奴隷制度自体の不当性を主張しています。ラス・カサスはいまや「全インディオの代弁者」となっていました。1561年になると、体力の衰えを感じたラス・カサスはマドリードのアトチャ修道院に移り、自らの著作をまとめ始めました。やがて急速に体力が衰え、1566/7/17ラス・カサスはアトチャ修道院で波乱に満ちた生涯を閉じました。遺言によってラス・カサスは著作のすべてをドミニコ会神学院に寄贈しましたが、時が来るまでそれらを公にしないよう言い残したと言われています。教皇ピウス5世(在位1566−72)が従来スペインのインディアス支配の根拠とされていた教皇アレクサンデル6世(在位1492−1503)の「贈与大勅書」がインディアス征服を正当化するものでないというローマ教皇庁の正式見解を示したのは、ラス・カサス没後2年目の1568年のことでした。

後世の評価はラス・カサスの没後、スペインのかつての勢いに陰りが見え始めた頃、ラス・カサスの著作は各国で盛んに翻訳・出版されました。それらはラス・カサスのまったく意図しなかった用途、すなわち諸国によるスペイン批判の道具として利用されたのでした。スペインのインディアスに於ける残虐性からスペイン全体の非人間性を攻撃する一連の批判はやがて「黒い伝説」と呼ばれるようになり、スペイン国内でラス・カサスは国の誇りを失墜させた男、祖国への裏切り者とみなされるようになりました。 さらに19世紀に入り、中南米諸国で独立運動が盛んになると、ラス・カサスはインディオの使徒、中南米解放運動の先駆者として独立運動の思想的なルーツとみなされました。しかし、独立後の困難の中で、逆にスペインによる中南米への文化導入が再評価されるようになり「白い伝説」と呼ばれました。20世紀後半においては中南米から盛んになった思想の新潮流、解放の神学においてラス・カサスは再び思想的先駆者、解放者として高く評価されることになりました。 ラス・カサスは常に、評価されると同時に批判されるという複雑な立場におかれてきましたが、ヨーロッパ中心主義が常識であった時代にあって、その正当性に懐疑の目を向けた先見性と高い問題意識、自らの命の危険を顧みずに果敢に行動した勇気が高く評価されることは当然ですね。

・主著は前述の通り、「インディアス史」、「インディアス文明誌」などがあり、「インディアスの破壊についての簡潔な報告」でも有名です。

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。        2006/10/10  08/12/30追記

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