Spain

国連 1988 発行
E S P A N A (V
切手で綴る スペインの大航海 (Conquist Voyage)
コンキスタドール
16世紀、Conquistador
新世界のスペイン人征服者

大航海物語
 スペイン編

PANAMA
新世界へ航海するスペインの船隊

パナマ 1968/5/7 発行
ECUADOR
南アメリカの地図

エクアドル 1961/2/27 発行

カリブ海周辺の地図
コロンブスの第1〜4回の航海地図)

ノンブレデディオス→
パナマシティ→
サンタマルタ→
サンミゲル→
ツマコ→



         矢印→ペルラス諸島













トリニダード島

サンタマリ・ラ・アンチグゥア・デル・ダリエン 1510、サン・セバスチャン・デ・ウラバー 1509
セント・ヴィンセント 1989/8/31 発行

1492年コロンブスの新世界発見以来、スペインからドット大勢の人々が新世界へと船出して、大西洋を越えて新世界を征服しました。中には貧乏貴族の失業軍人や食い詰め者やならず者などがいて、新世界で乱暴狼藉を働き、現地人から金銀財宝や食糧などを奪い取り、絶滅に追いやり、また一攫千金の夢が破れて母国に帰ることもなく、新世界の露と消えた者もいましたが、彼らは征服者 「コンキスタドール」と呼ばれました。

 
・無名のスペイン新世界征服者コンキスタドール列伝:〜16世紀
アギーレ アルカンタラ アルマグロ2世 アルヴァラード アンダゴヤ
アルヴァレス ボバディージャ F カルヴァハ−ル I カルバハ−ル カストロ総督
センターノ ディエゴ・コロン ダヴィラ総督 エンシソ エスピノザ
フェダーマン ギロン グリハルヴァ ルーケ メンデス
モリーナ メンドーサ副王 ナルヴァエス ニクエサ テハーダ
オルガネス エルナンド・ピサロ フワン・ピサロ ペドロ・ピサロ リオス
ロハス ルイス サラヴィア総督 テハーダ ヴェラ副王
ヴェラスケス . . . .
・各地の総督列伝:〜
ティエラフィルメ総督ダリエン総督パナマ総督ペルー総督・副王


ロペ・ド・アギーレ (1510頃〜1561/10/27)
  Lope de Aguirre

  ナバラ王国バスク生、ベネズエラのララ州々都バルキシメト51才頃没
  (near Arantzazu, Onati, Araotz Valley, Gipuzkoa province, Basque region, Spain)
  (1510/11/8〜1561/10/27, 説有)
アギーレはスペイン北部バスク地方にあったナバラ王国(Reino de Navarra, 824-1512、後カスティーリャ・アラゴン連合王国)現ギプスコア県で周囲を山に囲まれたデバ川(Deba River)のアラオツ谷盆地オニャーティ(Onati, Araotz Valley, Gipuzkoa)のアラントゥザス聖地(Arantzazu)近郷で生まれました。20才の時にスペイン南部の都市アンダルシア州セビリア県のグアダルキビール川(Guadalquivir, 657km)で大西洋に繋がっている港湾都市セビリア(Sevilla, Reino de Castile)に住んでいたアギーレは、新世界から戻ってきたピサロの話を聞いて、一攫千金を夢見てピサロのペルー遠征に参加しました。1536年頃にペルーに到着。クスコで馬の調教責任者になりました。1544年にヴェラ副王軍に加わりました。1544年にパナマのサン・ロレンゾ島(San Lorenzo Island)に幽閉されていたヴェラ副王の脱獄に聴訴官アルヴァレスとメルチョール・ヴェルデュゴ(Melchor Verdugo)と共に加わって、副王を自由の身にしました。ヴェラ副王はゴンサロ・ピサロに反撃するも、1546/1/18にヴェラ副王がゴンサロ・ピサロ軍のカラバハール将軍アニャキートの戦いで敗戦して戦傷後に斬首されると、アギーレはヴェルデュゴと33人でトルヒーリョ(Trujillo, Peru)から出帆して、ニカラグアへ逃亡しました。ヴェルデュゴはロドリゴ・ド・エスキヴァル(Rodrigo de Esquivel)とヌーノ・ド・グスマン(Nuno de Guzman, 1490-1558)を大佐に、アギーレを下士官の曹長(sergeant major)に、ヘナオ(P. Henao)を士官(コンタドール:Contador)にしたので不満を持ちました。1554年エルナデス・ギロンの反乱で、アルバラードが味方する兵士には恩赦を与える募集をしたので、アルバラード軍に加わって、ペルー南部アヤクーチョ州チュキンガの戦い(Battle of Chuquinga, Ayacucho)でギロン軍と戦い、重傷を負って足を引きずるようになって仲間から見放され、追放されました。1559年アギーレとヘナオは「アマゾンの奥地に黄金郷・エルドラード(El Dorado)があるという伝説」を信じて、パナマに居たペドロ・ド・ウルスア(Pedro de Ursua 1526(ナバラのバスダン:Baztan生)-1561)の「エルドラードを求める」アマゾン熱帯雨林(Rainforest)探検隊のオマグア(Omagua)遠征に参加しました。
エルドラードを求めての旅程は、1560年にアギーレが娘を連れてスペイン人300人と現地人数百人でウルスア遠征隊がリマを出発。ペルーのリマ北東約160kmの源流から、深く浸食されたアンデス山脈の谷を東に沿って北西の方向へ流れてから北東へと向きを変えてアンデスを横切り、マンセリチェ峡谷からウカヤリ川に合流してアマゾン川となる、マラニョン川(Rio Maranon, 水源標高1,070m, 2,400km)に沿って探検しながら、エルドラードを探しました。エルドラードは無く、1561年アギーレが隊長ウルスアと副隊長ヘナオを殺害して自らが隊長となってエルドラードを探すも成果はなかったので、現地人の集落を情け容赦なく略奪しながら、オリノコ河(Orinoco River, 2,140km)沿いに下り、遂にリマから6,000kmを踏破して河口に出ました。そこから船で航海して、1561年ベネズエラのヌエバエスパルタ州のマルガリータ島(Isla de Margarita)を襲って占領しました。 アマゾン河の古地図
エクアドル 1942/1/30 発行

1561/3/23にスペイン人186人の仲間に、ペルー・ティエラフィルメ・チリの王子(prince of Peru, Tierra Firma & Chile)と崇めさせ、「俺は神の怒り、自由の申し子、ティエラフィルメとチリのプリンスだ」(the Wrath of God, the Prince of Freedom, Lord of Tierra Firme & the Provinces of Chile)と、うそぶいたと伝えられています。こうしてアギーレは謀反人・狂人・略奪者のレッテルを貼られ、ベネズエラ北西部でカラカスの西方280kmのララ州の州都バルキシメト(Barquisimeto)で王統政府軍に包囲され、娘が敵の手に落ちる前に涙ながらに殺害。1561/10/27に敗戦した後に捕虜となって銃殺され、遺体は数個に切り分けられてベネズエラから各地に送られました。   マルガリータ島
ヌエバエスパルタ州
ヴェネズエラ 1970-71 発行
なお、アギーレのエルドラード探検は映画化され、
・1972年制作のドイツ映画〜
 「アギーレ、神の怒り」(Aguirre, der Zorn Gottes、英:Aguirre, the Wrath of God)
   1560年にスペインからの探検隊がキトーからアンデス山にわけ行って、ゴンサロ・ピサロ
   指揮で、彼らは伝説の都市エル・ドラードの発見に向かったというもの:
   YouTube:- Aguirre, la ira de dios:
    ”http://www.youtube.com/watch?v=pVrD-jfpRzU&feature=related”。
・1987制作のスペイン映画〜
 エル・ドラード(El Dorado)、カルロス・サウラ監督(Carlos Saura, 1932- )。
参考HP:〜
アマゾン河水系の地図
 (南米の地図、Lima、Napo・Maranon・Ucayali・Amazon、Orinoco川有)


フランシスコ・マルティン・ド・アルカンタラ (1500〜1541)
  Francisco Martin de Alcantara

  カスティーリャ王国エストレマドゥーラ州トルヒージョ生、リマ41才没
マルティン・ド・アルカンタはスペインのエストレマドゥーラ州カセレス県トルヒージョ村(Trujillo Villa, Provincia de Caceres, Extremadura Region. Reino de Castile(1035-1715)カスティーリャ王国)生れで、ゴンサロ・ピサロの異母兄(half-brothers)でした。1530年にフランシスコ・ピサロがインカ遠征の勅許を得るため一時帰国して参加者を募集したのに応募。ピサロ3兄弟と共に新世界へ渡航して、フランシスコ・ピサロのインカ征服に参加。インカ征服後はペルーのリマ(Lima)の壮大なピサロ屋敷に妻と共に住んで、フランシスコ・ピサロと1534年に与えられていたインカお姫様の夫人との間にできた子供達の教育係をしていました。ピサロ夫人はワイナ・カパックの娘でアタワルパの姉妹キスペ・シサ(Quispe Sisa, 1518-1559)、洗礼名イネス・ワイラス・ユパンキ(Ines Huaylas Yupanqui)でした。1541/6/26にリマの屋敷エル・モゾとアルマグロの残党に襲撃された時、アルカンタラはフランシスコ・ピサロと共に殺害されて亡くなりました。


ディエゴ・ド・アルマグロ2世 (1520〜1542/9/16)
  Diego de Almagro II

  別名:エル・モゾ(El Mozo)
  パナマ生、クスコ41才没
エル・モゾは父アルマグロ1世とパナマ現地人の娘との間に誕生した息子で、パナマで生まれました。1531年に父のペルー遠征に参加。1532/11/16のカハマルカの戦いにて、僅かスペイン兵
167人で、80,000人のインカ兵を破って、インカ皇帝アタワルパを捕虜にしました。1533年に父とカハマルカに行くも黄金を得られず、1533/7/26に皇帝アタワルパを処刑し、フランシスコ・ピサロ軍と共にインカの帝都クスコに進撃して占領しました。1535年にピサロがリマ市を建設している間、南へ往きました。1536年にマンコ2世がクスコを10万人のインカ兵で包囲したので、南からクスコに戻り、1537年に包囲を破って勝利し、クスコ に入城。1538/4/26に父アルマグロ1世がラスサリナスの戦いに敗れて捕虜となり、1538/7/8に処刑されたので、父の復讐を誓いました。1541/6/26にリマのピサロ屋敷を襲撃してピサロを殺害し、父の仇を打ちました。リマ総督(Nueva Toledo)を名乗ってリマ市を支配しましたが、ヴァカ・ド・カストロ総督(Nueva Castilla)がスペイン国王カルロス1世の命で、1541/9/25にキトーに赴任してきました。1542/9/16にクスコ近くのチュパスの戦いでエル・モゾが率いるアルマグロ軍とカストロ総督軍が戦って、エル・モゾが敗れました。同日(9/16)エル・モゾがクスコ市の広場で斬首の刑で処刑され、断頭台の露と消えて亡くなりました。 殺害したピサロ(兄)

ジブチ 2010 発行


アロンゾ・ド・アルヴァラード・モンタヤ・ゴンザレス・ド・セヴァロス・イ・ミランダ
  Alonso de Alvarado Montaya Gonzalez de Cevallos y Miranda (1500〜1556)

  カスティーリャ王国エストレマドゥーラ州バダホス生、リマ56才没
アロンゾ・ド・アルヴァラードはスペインのエストレマドゥーラ地方バダホス(Badajoz, Extremadura, Spain)の下級貴族の家に生まれ、サンティアゴ騎士団騎士(knight of the Order of Santiago)で、レコンキスタと呼ばれる国土回復戦争を戦い、戦争が終わると大西洋を渡ってペドロ・ド・アルバラードキューバ島征服、ユカタン半島探索隊へ参加し、1518年にエルナン・コルテスの遠征隊に合流して参加後、フランシスコ・ピサロのインカ征服に参加しました。インカ征服後に、
1536年マンコ2世の反乱サクサイワマンの戦いでのリマ攻撃で、リマに籠城。
1537年アルマグロとのアバンカイの戦いでのリマ攻撃で、リマに籠城。
1538年アルマグロとのラスサリナスの戦いで、アルマグロ軍と対戦。
1542年エル・モゾとのチュパスの戦い、アルマグロ2世軍と対戦。
1548年エル・モゾとのサクサワナの戦いで、アルマグロ2世軍と対戦。
1556年にリマ(Lima)で亡くなりました。


ファン・アロンゾ・アルヴァレス聴訴官 (生年不詳〜1546)
  oidor Juan Alonso Alvarez

  カスティーリャ王国ヴァリャドリード生、キトー没
  ペルー副王領リマの最高裁判所アウディエンシアの聴訴官
アルヴァレス聴訴官はスペインのカスティーリャ・イ・レオン州ヴァリャドリード県ヴァリャドリード市(Valladolid city, Valladolid province, Castilla y Leon region)で生まれたと伝えられています。
1543年ペルー副王領(Virreinato del Peru)のアウディエンシア(Real Audiencia de Lima、王立大審問院(聴訴院)最高裁判所)の最初の聴訴官(oidor)4人の一人として、テハーダ、セペダ(Diego Vasquez de Cepeda)らと共にヴェラ副王の遠征艦隊で新世界に渡航しました。ダリエン湾東方のティアラフィルメ(Tierra Firme)から、パナマのノンブレデディオス(Nombre de Dios)を経て、ペルーのリマに到着しました。1544/9/13にリマで起こったイリャン・ド・カルバハール刺殺事件の目撃者になりました。それはリマの副王宮殿で、ヴェラ副王の側近だったカルバハールが新法反対派を擁護する発言をなし、副王の怒りに触れて副王に剣で刺殺された事件でした。1544年ゴンサロ・ピサロとパナマの王立大審問院アウディエンシアがベラ副王を解任して、パナマを経て本国強制送還のため、1544/9/18にパナマのサン・ロレンゾ島(San Lorenzo Island)に幽閉しました。1544/9/24にサン・ロレンゾ島をスペインへと出帆後、アルヴァレス聴訴官が船長を金貨8.000ドゥカート(ducados)で懐柔して副王派となし、ベラ副王を助けました。こうして脱走に成功したベラ副王はその船でトゥンペスに向かい、エクアドルに本拠を構え反撃体制に入りました。1546/1/18のアニャキートの戦いではヴェラ副王軍と共に参戦するも、敗れて副王は重傷を負って捕虜となり、その後に斬首されました。アルヴァレス聴訴官は戦斧で頭を打たれて3ヵ所の傷を負いましたが、一命はとりとめました。戦後にキトーで夕食に招待され、何の疑いもなく出席して食べた食事に毒がもられていて、痛みに苦しんだ挙句に亡くなり、何の栄誉も与えられずにひっそりとキトーで葬られたと伝えられています。


パスクアレ・ド・アンダゴヤ (1495〜1548/7/18)
  Pascual de Andagoya

  ナバラ王国バスク生、クスコ53才没
パスクアレ・ド・アンダゴヤはスペインのバスク地方(Spanish Basque)アラバ県 (Province of Alava)にあったナバラ王国(824-1620)のカルタゴ谷のアンダゴヤ村(village of Andagoya, valley of Cuartango (Alava), Spain)で生まれました。1514/4/11に19才でペドラリアス・ダヴィラの船隊22隻に2,000人が乗船した遠征隊に参加して中央アメリカの新世界へ渡航しました。
1519年に居住者400人でパナマ市を建設。その後にコロンビア海岸に向かいサン・ファン(San Juan De Uraba)に到着し、総督になりました。其処の現地人に南の方に「ビルー」(Biru)というエルドラード(黄金郷)があると聞いて、1522年に遠征しましたが、惨めな失敗に終わり、体調を崩してパナマに戻りました。それで黄金郷ビルーの噂が広まり、フランシスコ・ピサロがインカ遠征に出帆することになりました。1536年に国王カルロス1世(Carlos I)からパナマ総督に任命され、また、1539年にヴィジタドール・ド・インディオ(Visitador de indios:インディオ訪問官、英:Representative of the Indians)の称号と権限を 与えられました.。1537/1/13にベラルカサールが建設したコロンビアの バリネル探検船

ポルトガル  発行
カウカ県ポパヤン(Popayan)で、1540年にポパヤン総督(-1542)を宣言しましたが、正当な総督のベナルカサールとの確執が続きました。1548/7/18にクスコで亡くなりました。


フランシスコ・ド・ボバディージャ総督 (生年不詳〜1502/7/11)
  Francisco de Bobadilla

  アラゴン王国アラゴン生、モナ海峡没
  インディアス総督(Governor of the Indies、1499-1502)
フランシスコ・ド・ボバディージャはアラゴン王国(Kingdom of Aragon, 1035-1715)で生れ、スペインで初めて設立された戦闘騎士団カラトラヴァ騎士団(Orden de Calatrava)の騎士になりました。1499年にスペインの新領土の西インド諸島の第2代総督(在任1499-1502)として、カトリック両王
がコロンブスの後任として任命し、コロンブスの統治査察官として派遣しました。1500/8月イスパニョウーラ島サントドミンゴ(Santo Domingo, Hispaniola)に到着。コロンブスの植民地運営の失敗の責務を非難して、コロンブスを鉄鎖に繋いでスペイン本国へ強制送還しました。1502年には国王がオバンド総督と交代させました。1502/7/11にスペインへと31隻で出帆後、帰路のモナ海峡(Mona Passage)でハリケーン嵐に遭遇、旗船エル・ドラード号(flagship, El Dorado)を含む20隻が遭難・破壊されて亡くなりました。嵐に助かった船の中にコロンブスが所有していた金を運んでいた船隊で最も弱い船アグハ号(Aguja)がありました。コロンブスが復讐心から魔法をかけて嵐を呼んで、ボバディージャを告発したのだと、巷(ちまた)での噂が騒がしく語られました。 嵐に見舞われる船隊

ジャージィ 1983/2/15 発行


フランシスコ・ド・カルヴァハ−ル (1464〜1548/4/10)
  Francisco de Carvajal

  カスティーリャ王国サラマンカ生、クスコ84才没
フランシスコ・ド・カルヴァハ−ルはスペイン西部のカスティーリャ・イ・レオン州サラマンカ県リャガマ村(Ragama, Provincia de Salamanca, Castilla y Leon)で生れました。カスティリア歩兵軍で国王カルロス1世のイタリア戦線で戦い、1527年には騎兵士官になってローマの反乱でローマに突撃・勝利して、金銀財宝の分け前に預かって蓄財しました。その資金で、1535年にヌエバ・エスパーニャ(現メキシコ)副王アントニオ・ド・メンドーサ(Antonio de Mendoza)が赴任する船隊に参加して、新設されたペルーのリマ市に渡航しました。そして、1536/5月にインカ軍の包囲攻撃フランシスコ・ピサロと共に戦い、勝利。1541/6/26にピサロ屋敷の襲撃でピサロが暗殺され、1542/9/16のチュパスの戦いで、ゴンサロ・ピサロ軍と共にアルマグロ2世軍と激突・勝利。ゴンサロの腹心として行を共にして、その猛将の勇猛な戦い振りは敵を圧倒して撃退・勝利。アルマグロ2世は捕虜となり、リマ市の広場で斬首されました。ペルーでの内戦が終わると、今度はペルー副王との戦いが起って、1546/1/18にアニャキートの戦いヴェラ副王軍が敗北、ヴェラ副王は戦傷後に斬首。その後、キトーからカハマルカ州サン・ミゲル(San Miguel, Cajamarca)、リマ(Lima)からグアマンガ(Guamanga)、そしてリマに戻ってアヤクーチョ州ルカナス(Lucanas, Ayacucho)からクスコ、プーノ州カヤオ(Collao, Puno)からアレキパ州アレキパ(Arequipa)、アレキパからボリビアのポトシ州チャラカス(Charcas)へと転戦しました。1547/3月にギアリーナの戦いでは、両軍がハキハグアナで対戦ゴンサロ軍の敗戦。勝利したラ・ガスカ軍はクスコへ入城し、ゴンサロと残党はアルト・ペルー方面に退散。1547/10/20にワリーナの戦いでラ・ガスカ副王軍とゴンサロ軍が戦い、数で劣るゴンサロ軍が巧みな戦術で勝利。1548/4/9にサクサワナの戦いでゴンサロ軍がペルー副王ラ・ガスカに敗北。捕らえられてゴンサロと共にクスコで処刑されました。


イリャン・ド・カルバハール (1503〜1544/9/13)
  Illan Suarez de Carbajal

  カスティーリャ王国タラベラ生、リマ41才没
イリャン・ド・カルバハールはフアン・スアレス(Juan Suarez de Carbajal)の弟で、スペインのカスティーリャ・ラ・マンチャ州トレド県タラベラ・デ・ラ・レイナ(Talavera de la Reina, province of Toledo, Castile-La Mancha, Spain.)で生まれました。兄フアン・スアレスと行を共にして、ピサロのインカ征服に参加したと伝えられています。1534年にはペルーでエルナンド・ピサロの大牧場の管理人になりました。1536/7/18にリマの市参事会カビルド(Cabildo colonial)議員。1544/5/17にヴェラ副王がリマに着任し、キトーで兵を集めはじめるとベラ副王の側近になりましたが、1544/9/13にリマの副王宮殿で、カルバハールが新法反対派を擁護する発言をなしたとして、副王の怒りに触れて、裏切者として副王に剣で刺殺されました。その時に宮殿に居合わせたアルヴァレス聴訴官が刺殺事件の目撃者になりました。


クリストバル・ヴァカ・ド・カストロ (1492〜1566)
  Cristobal Vaca de Castro

  カスティーリャ王国レオン生、ヴァリャドリード74才没
  ペルー総督 (在任1541-1544)
クリストバル・ド・カストロは現スペイン北部カスティーリャ・イ・レオン州レオン県々都レオン(Leon city, Leon province、Castilla y Leon region)で生まれました。カスティーリャ・イ・レオン州サラマンカ県々都サラマンカ(Salamanca)で法律を学んで、1536年に同州々都ヴァリャドリード(Valladolid)で、カスティーリャ王国の最高司法機関の王立大審問院(聴訴院=最高裁判所、Royal Audiencia of Valladolid)の判事(oidor) になり、1540/9/4にサンチャゴ騎士団(Order of Santiago)の騎士(knight)になりました。1540年にスペイン国王カルロス1世が、フランシスコ・ピサロディエゴ・ド・アルマグロによるペルー植民地での紛争を収束させ、エンコミエンダ制度を制限するために、ヌエヴァ・カスティリャ(Nueva Castilla:新カスティリャ)総督に任命されました。1541年にキトーに着任して、1542/9/16にチュパスの戦いでカストロ総督がアルマグロ2世のエル・モゾに率いられたアルマグロ残党軍を破って勝利。エル・モゾは捕虜となり、同日に市の広場で斬首の刑で処刑されました。1542年にカストロ総督がカルロス1世が発布したエンコミエンダ制度を制限する植民地新法「インディアス新法」(New Laws, in Spanish Leyes Nuevas)を施行しました。
・カストロ植民地総督の旅程:〜
1540/11/5、スペインのサンルーカルデパラメダ港を出帆。
1541/1月、パナマ着。しばらく滞在して植民地(Audiencia)を改革後、ペルーへと向うも
       嵐でコロンビアのブエナベントーラ(Buenaventura Colombia)に上陸、1536年にスペイ
       ンの征服者ベラルカサール(Sebastian de Belalcazar)が創建した標高995mにあるカ
       リ(Cali、現:コロンビア第3の都市)へ陸路で移動後、病で3ヵ月滞在。ベラルカサー
       ルとパスカル・ド・アンダゴヤ(Pascual de Andagoya)の紛争を調停
       その後、1537年にベラルカサールが創建した標高1,737mにあるポパヤン(Popayan)
       を視察して、ピサロの暗殺とエル・モゾがリマ総督なったことを知り、現地で軍を編成
1541/9/25、キトー着。
1542/9/16、チュパスの戦いでゴンサロ・ピサロ軍のフランシスコ・ド・カルヴァハールに率いられ
       たカストロ総督軍(Nueva Castilla)がエル・モゾに率いられたアルマグロ残党軍
       (Nueva Toledo)と戦って、カストロ総督軍が勝利し、捕虜のエル・モゾを処刑
1542/11/20、カストロ植民地総督がカルロス1世が発布したエンコミエンダ制度を制限する植民
       地新法の「インディアス新法」を施行
1543年、ディエゴ・ド・ロハスに兵200人を預けて、ペルーからラプラタ河の探検に送り出した遠征
      時に、現アルゼンチン北部サン・ミゲル・デ・トゥクマン市の元になるトゥクマンを発見.
1544/5/17、初代ペルー福王ヴェラがリマ(Lima)に到着
1544年、福王ヴェラがカストロ総督を、ゴンサロの反乱に組みしたとして逮捕、カヤオ(El Callao)
      で入牢後、船でパナマに送り、スペインへ強制送還しました。
      カストロ総督はスペインで3年間入牢後、解放されました。
その後、サンチャゴ騎士団のコマンドール(commander)となり、1557年からはカスティーリャ評議会(Council of Castile)の議長を務めました。1561年に引退し、ヴァリャドリードのサン・アウグスティン修道院(convent of San Agustin)で余生を送り、1566年に亡くなって、其処に葬られましました。カストロ総督はマリア夫人(Maria Magdalena de Quinones y Osorio)と結婚して、8人の子供に恵まれたと伝えられています。


ディエゴ・センターノ (1516〜1549/7/9)
  Diego Centeno

  カスティーリャ王国サラマンカ生、ポトシ33才没
ディエゴ・センターノはスペインのカスティーリャ・イ・レオン州サラマンカ県シウダ・ロドリーゴ市(Ciudad Rodrigo, Castilla y Leon, Provincia de Salamanca, Spain)で生れました。1535年にフェリペ・グティエレス船長(Felipe Gutierrez)の船で新世界に渡航してきて、アルバラードなどの中南米遠征(ニカラガなど)に参加。1536年20才でインカ征服後まもない頃のペルーに着きました。スペインの新しい植民地ペルーの支配をめぐって、ピサロとアルマグロの間に紛争が起り内戦に発展して、1538/4/26のラスサリナスの戦いでアルマグロ軍が敗れ、捕虜になったアルマグロが、1538/7/8に処刑されました。1541/6/26にはアルマグロ2世軍がピサロ屋敷を襲撃してピサロを殺害しました。1541/9/25にペルー内戦に対応するヴァカ・ド・カストロ総督(Nueva Castilla)がキトーに赴任してきて、1542/9/16にクスコ近くのチュパスの戦いでエル・モゾが率いるアルマグロ軍(Nueva Toledo)とカストロ総督軍が戦い、エル・モゾが敗れて処刑されました。ところが、1544年にペルー副王領が新設されて初代福王ヴェラが着任すると、カストロ総督をゴンサロに味方した
として逮捕し、スペインへ強制送還しました。1546/1/18に福王ヴェラがアニャキートの戦いでゴンサロ軍に敗れて処刑されました。

1547年に新任の副王ガスカが赴任してきたので、センターノはラ・ガスカ副王軍に加わりました。1547/10/20にワリーナの戦いでラ・ガスカ副王軍をセンターノが率いて、ゴンサロ軍のフランシスコ・ド・カルバハ−ルと戦い、数で劣るゴンサロ軍の巧みな戦術の前に敗戦しましたが、1548/4/9にサクサワナの戦いでゴンサロ軍と、再び決戦して勝利しました。捕虜になったゴンサロ・ピサロは処刑されました。1548年に戦勝の恩賞でパラグアイ総督(Gobernador del Paraguay)に任命されて同地への赴任の途中、ボリビアポトシ(Potosi:標高4,000m)にて突然の病で、1549/7/9に亡くなりました。 なお、1560年にヌフロ・ド・チャヴェスがボリビアに遠征して、サンタクルス市を建設しました。
ボリビアの地図
ポトシ銀山

ボリビア 1935/2/1 発行


ディエゴ・コロン・イ・モニス・ペレストレーリョ (1474頃〜1526)
  Diego Colon Moniz、西:Diego Colon y Moniz Perestrello、葡:Diogo Colombo

  ポルト・サント島生、スペイン52才頃没
  インディアス提督(Second Admiral、1509-1511、1520-1524)
  インディアス総督(Governor of the Indies、1509-1511)
  インディアス副王(Viceroy of the Indies、1511-1518)
ディエゴ・コロンはクリストファー・コロンブスと妻フィリパ・モニス・ペレストレーリョ(Filipa Moniz Perestrelo)の嫡男で、1479(1480)年にポルトガル領のマデイラ諸島ポルト・サント島で生まれたとも、1474年にポルトガルのリスボンで生まれたともいわれています。1526/2/23(2/26)に、スペインのラ・プエブラ・デ・モンタルバン(La Puebla de Montalban)で亡くなりました。


ペドラリアス・ダヴィラ総督 (1440〜1531/3/6)
  Pedro Arias Davila

  カスティーリャ王国セゴビア生、ニカラグアのレオン市91才没
  ダリエン総督 (在任:1514-1526)
ペドラリアス・ダヴィラはスペインのカスティーリャ・イ・レオン州セゴビア県の県都でマドリードから87kmにあるセゴビア市(Segovia)で生まれ、1485年に結婚して8人の子持ちになりました。1486〜1492年の間は軍務に服し、グラナダ王国や北アフリカの戦線で戦いました。1514年に齢い70才を過ぎてから、スペインのアラゴン国王フェルナンド2世(Ferdinand II of Aragon, 1452-在位1475:1513-1537)より、ダリエン植民地(Castilla de Oro)の初代総督(在任1514-1526)に任じられて、19隻の船隊に男1,500人と太平洋の発見者バルボアに対する査問官のエンシソニクエサを乗船させ、エルナンド・ド・ソトも参加して新世界への遠征航海に出帆しました。1514/7月にイスパニョーラ島に到着し、74才のダヴィラ総督とイサベラ夫人(Isabel de Bobadilla)がバルボア総督(パナマ総督:在任1511-1513)のいるダリエンへ渡航。1516年にはエルナン・ド・レオンに命じて
パナマ地挟地帯から西へと遠征して、コスタリカの西北部の探検をさせました。1519年にエルナン・ド・レオンとフアン・デ・カスタニェーダ(Juan de Castaneda)とに命じて、コスタリカの太平洋岸を探索後、ニカラグア征服(Nicaragua Expedition)を実施しました。また、1519年にパナマ市を建設して、1524年にそこを首都にして移り、ダリエンを放棄しました。1524年にヒル・ゴンザレス・ダヴィラ(Gil Gonzalez Davila)と、エルナンデス・ド・コルドヴァ(Francisco Hernandez de Cordoba)を北方の探検にパナマから出帆させました。1526年にはピサロアルマグロに南方の探検(ペルー遠征)を許可しました。1526/7月にダリエンの第2代 総督ペドロ・ド・ロス・リオスがパナマに着任したので、総督を代 ニカラグア地図とマヤ土偶

ニカラガ 1972/9/16 発行
わりました。1527/7/1にはニカラグアのレオン総督(Governer of Leon)を引退するも、其処で余生を送って1531年91才の長寿を全うして亡くなりました。


マルチン・フェルナンデス・ド・エンシソ (1470〜1528)
  Martin Fernandez de Enciso

  カスティーリャ王国セヴィリヤ生、58才没
フェルナンデス・ド・エンシソはスペイン南部の現アンダルシア州々都セビリア県々都セビリア市で生れました。1509年のオヘーダの航海にイスパニョーラ島サント・ドミンゴから、コロンビアを経てウラバー湾、パナマ地峡地帯(Isthmus of Darien (Panama):幅64km)の探検航海に参加した時、エンシソの船にバルボアが密航していました。その航海時に、1499年のオヘーダとコーサの探検航海で発見されたコロンビアのヴェネズエラ湾口にあるグアヒラ半島(Guajira Peninsula)にカーボ・デ・ラ・ヴェラ市(Cabo de la Vela)を”Nuestra Senora Santa Maria de los Remedios del Cabo de la Vela”と名付けてスペイン人最初の居住地を建設しましたが、度々戦火にあって再建され、1535年にはニコラス・ド・フェダーマンが再建するも、1544年には現在のリオハチャ(Riohacha)に移転しました。1510年に帰国したエンシソがバルボアの「悪業」を告発して、スペイン王室はバルボアのダリエン支配を認めませでした。その後、新世界で観察した動植物の解説書のスペイン語で書かれた最初の新世界探検の著作「スマ・デ・ゲオグラフィア」(Summa de Geografia que trata de todas las partidas e provincias del mundo)をセヴィリヤで1519年に発刊しました。その地理学発見大全(Summa de Geografia)で現地人の水上家屋の言葉から小ヴェニス(Little Venice)の意味で、後年にアメリゴ・ヴェスプッチが名付けたヴェネズエラ(Venezuela)を示唆。
参考HP:〜
 カーボ・デ・ラ・ヴェラの場所地図(グアジラ半島の地図)


ガスパル・ド・エスピノザ ( 1484〜1537/2/14)
  Gaspar de Espinosa and Moon

  カスティーリャ王国ヴァリャドリード生、クスコ59才没
ガスパル・ド・エスピノザはスペインのカスティーリャ・イ・レオン州ヴァリャドリード県ヴァリャドリード市メディナ・デ・リオ・セコ(Medina de Rio Seco, Valladolid city, Valladolid province, Castilla y Leon region)で生まれました。1514年20才でダリエン(Darien)湾岸の植民地カスティーリャ・デル・オーロ(Castilla del Oro, 1513-1537)初代総督に任命されたペドラリアス・ダヴィラ総督の遠征隊に参加して、新世界ダリエンのサンタ・マリア(Santa Maria)に渡航しました。同年(1513説有)にダリエン湾岸(Gulf of Darien)の植民地カスティーリャ・デル・オーロのヌエストラ・セニョーラ・デ・ラ・アンチグア市長(Nuestra Senora de la Antigua)に任命されました。1年後にダヴィラ総督がパナマのダリエン市長に移動させて、バルボアの支配を目指しました。1519年にパナマ市(Panama City)の建設に参加。サンタ・マリア・ラ・アンティグア市長(Santa Maria la Antigua)に任命されました。パナマから太平洋岸を北上する探検隊を指揮して、コスタリカグアナカステ州(Provincia de Guanacaste)のニコヤ半島(Peninsula de Nicoya)東岸にあるニコヤ湾(Gulf of Nicoya)に到達・発見し、同地に上陸して征服。スペインに帰国後、直ぐに新世界イスパニョーラ島サント・ドミンゴに戻って、パナマに行きました。ピサロとアルマグロのインカ征服に資金面で参加するも、両者の戦いで成功しませんでした。1525年にモルッカ諸島探検に資金を提供し、1537年にクスコで亡くなりました。
参考HP:〜
 カスティーリャ・デ・オーロの場所地図(1513頃、Santa Maria有)
 コスタリカの場所地図(Gulf of Nicoya有)


ニコラス・デ・フェダーマン (1505〜1542/2)
  Nicolas de Federman

  ドイツのバーデン生、スペインのヴァリャドリード37才没
フェダーマンはドイツのバーデン・ヴュルテンベルク州南部ウルム(Ulm Baden-Wurttemberg)で生まれました。フェダーマンが23才の頃、スペイン国王カルロス1世が神聖ローマ帝国の皇帝に選出されようと、ドイツのバイエルン州南西部アウクスブルクの大富豪で商人のヴェルザー家(Welser family of Augsburg,)に資金援助をしてもらって、1528/3/27に神聖ローマ帝国皇帝カール5世(Karl V, Holy Roman Emperor:在位1519/1/28選出-1556/1/16)になりました(戴冠式は1530/2)。選挙を応援したヴェルザー(Welser)家に30年間の期限付きで、1527年にスペイン人が入植して初期の植民地になっていたベネズエラの北西部一帯の開拓権をあたえました。1529/2月にヴェルザー家はアンブロシュウス・エヒンガー(Ambrosius Ehinger(アンブロシオ・フォン・アルフィンヘル:Ambrose von Alfinger), 1500-1533/5/31)を総督とし、副官ゲオルグ・デ・スペイエルと共にスペイン人入植地の現ベネズエラの北西部でカラカスの西約180kmにあるファルコン州々都コロ(Santa Ana de Coro)に派遣して内陸探検を開始し、ドイツのアメリカ植民地ケルン・ヴェネディッグ(Klein-Venedig (Little Venice:小ヴェニス) 1528-1546)が建設されました。
1530年にフェダーマンが37才で入植者(settlers)や山師(miners)を連れ、カルロス1世のヴェネズエラ探検許可の勅許状を持参して新世界のイスパニョーラ島サント・ドミンゴ(Santo Domingo)に向けて、スペインのセヴィリヤ港を出帆しました。フェダーマンがヴェルザー家エージェ ントとして、現ベネズエラのコロに着くと、エヒンガー総督が総督代理に任命しました。1530年にも移住者と山師を連れてセヴィリヤから、コロへ渡航しました。1530/7/30にエヒンガー総督が病気を理由にイスパニョーラ島に引き上げたので、フェダーマンがドイツ植民地ケルン・ヴェネディッグの責任者になりました。1530/9月にサント・ドミンゴのス ヴェネズエラの地図

ヴェネズエラ 1970-71 発行
ペイン政庁の承認無しに、歩兵110人、騎兵16騎、現地人100人でオリノコ河(Orinoco 2,140km)北部流域を南の海(太平洋)を探す探検に出発しました。1531/3/17に5,565ペソ(pesos、現$20万位)の黄金を持参してコロに戻りましたが、未承認探検だったため、新世界初訪問から4年間でエヒンガー総督に追放されて、ドイツに帰国ました。アウクスブルクに戻ったフェダーマンは新世界探検記(Indianische Historia. Ein schone kurtzweilige Historia Niclaus Federmanns des Jungern von Ulm erster raise)を執筆して、1557年に出版しました。

フェダーマンが去る(1531)と、エヒンガー総督がエルドラードを求めてベネズエラのコロからアンデスを越え、マグダレーナ河(Rio Magdalena, 1,540km)に到達。住民からザリーナ(Xerira)という豊かな地方の存在を知らされ、それは現ジェリダス(Jeridas, Colombia)高原で、当時はチブチャ王国(Chibchas:Muisca people)の北端(コロンビアのアンデス地方のボヤカ県:Departamento de Boyaca)を形成しグアネ(Guane)族が居住。1533年にエヒンガー総督は2度目の探検に出発。マグダレーナ河から逆上り、エルドラードを目指すも、現地住民の略奪と虐殺を続けた末に、1533/5/31にコロンビア北部アンデス地方のノルテ・デ・サンタンデール県(Departamento de Norte de Santander)チナコッタ(Chinacota Colombia)付近で現地人に殺害されました。1535年ホルヘ・デ・エスピラ(Jorge de Espira (独Georg von Speyer 1500-1540/6/11 コロ没:ヴェネズエラ総督在任1535-1540:独:Georg Hoemuth)がウェルザー家の総督として赴任。7年後(1542)に亡くなる迄ベネズエラの現地人から収奪を続けました。エスピラ総督はエル・ドラードの第一報告者としても有名になり、グアヤビータ湖(Lake Guatavita)付近でのインディオの神事(金粉を全身に塗る)をめぐって「エルドラード」伝説が広がりました。

1536年にフェダーマンが、度々戦火にあったスペイン人最初の居住地コロンビアのヴェネズエラ湾口にあるカーボ・デ・ラ・ヴェラ市(Cabo de la Vela)を再建(1535説有)して第2次探検の準備に取り掛かり、1537/12月にコロを出発。リャノス(Los Llanos, Venezuela)探索中に独断でエル・ドラードを求める探検の旅に切り替え、コロンビアに入ってカリブ地域北部の現ラ・グアヒーラ県(La Guajira Department)リオアチャ(Riohacha:Rio Hacha:斧の川)に、ヌエストラ・セノーラ・サンタ・マリア・デ・ロス・レメディオス・デル・カボ・デ・ラ・ベラ(Nuestra Senora Santa Maria de los Remedios del Cabo de la Vela:ラ・ベラ岬の救済の聖母マリア)という街を建設(1535説有)しました(現在のリオアチャ市)。フェダーマンがコロンビアのボゴダに到着すると、既にケサーダがボゴタを占領したところに、ベナルカサールがリマに戻って(1538/5)ピサロの許可を得てから再度コロンビアに向かい、中央山脈とマグダレーナ渓谷を横断してボゴタに到着してきていました。そこで、ベナルカサールがフェーデルマンと組んでケサーダの追放を画策するも、ケサーダから多額の財宝を受け取ったフェーデルマンが、ケサーダの支配権を認めたことから挫折しました。其処でケサーダ、ベナルカサール、フェダーマンの3者が会見し、それまでの征服地を互いの領土として尊重することにして合意しました。1539年にはキトーを失ったベナルカサールがフェダーマンと連合して、ケサーダのボゴタ支配に対する異議を唱えました。1538/8/6にケサーダが最初に建設したボタ市(Bogota, Colombia)を、1539/4/27にフェダーマンとベナルカサールが再建。フェダーマンがアンデス山脈の盆地で標高2640mにあるボゴタを原住民ムイスカ族系のバカダ族(Bachada, Muisca)からサンタ・フェ・デ・ボゴタ(Santa Fe de Bogota)と名づけました。1539/7/8にフェダーマンはジャマイカ島とキューバ島を経てドイツに戻りました。

帰国したフェダーマンは植民地開拓の失敗の責任を押し付けられて、エメラルド100,000ドゥカート(ducats, emeralds)分と黄金15,000ドゥカート(ducats, gold)分の賠償を請求されるも、払えなかったので、ベルギーのフランデレン地域アントウェルペン州の州々都アントワープ(Antwerp)の監獄に数週間ブチ込まれました。フェダーマンは最初にベルギー・フランデレン地域オースト・フランデレン州ガント(Ghent)で、次いでスペインのカスティーリャ・イ・レオン州々都ヴァリャドリード県々都ヴァリャドリード(Valladolid)のインディアス枢機会議(Council of the Indies)に訴えました。1541/10/19にフェダーマンの言い分が認められ、ヴェルザー家は請求を破棄しました。その上にフェダーマンはヴァリャドリードに住んで、コロンビのリオアチャ植民地を認められて富を得て、1542/2月にヴァリャドリードで亡くなりました。

なお、ドイツの南アメリカ植民地ケルン・ヴェネディッグは中世ヨーロッパの大富豪のヴェルザー家(Welser)で、1518年からの後継者バルトロメウス(Bartholomeus Welser 1475-1559)が有名なベネズエラ植民計画を企てるも、20年後に開拓は挫折して失敗し、1556年にはヴェルザー家の租借期限が終了して、ドイツの南米植民地は失われました。
参考HP:〜
 ケルン・ヴェネディッグの場所地図(現ヴェネズエラ北部の地図)


フランシスコ・エルナンデス・ギロン (生年不詳〜1554/12/7)
  Francisco Hernandez Giron

  カスティーリャ王国エストレマドゥーラ州カセラス生、リマ没
エルナンデス・ギロンはエストレマドゥーラ地方カセラス県カセラス(Caceres, Extremadura)で生まれました。1535年にペルーに到着。1537年にピサロ兄弟とアルマグロの内戦が勃発し、1538年にアルマグロが処刑され、ピサロがペルー総督になって、1541年にアルマグロ2世軍に暗殺されるも、どちらにも組みしませんでした。カストロ総督が、1542/9/16にチュパスの戦いでゴンサロ軍と連合してエル・モゾ(ディエゴ・ド・アルマグロ2世)に勝利して、エル・モゾを処刑しましたが、1544年にヴェラ副王が派遣されてくるとカストロ総督をスペイン本国に強制送還しましたので、ギロンはヴェラ副王軍に加わりました。1546/1/18にギロンはベラルカサールの部隊を率いてヴェラ副王に援軍として、アニャキートの戦いに参戦するも敗北して、ヴェラ副王は処刑されました。次の副王ペドロ・デ・ラ・ガスカが、1548/4/9にサクサワナの戦いでゴンサロ軍に勝利してゴンサロは処刑されました。1552/7月に暫定副王(viceroy of Peru 1552/7-1556/7、Royal Governor of Chile 1568-1575)のメルチョール・ド・サラヴィアが着任すると、ギロンは1553/11/13にサラヴィア副王の不平等な重税に対して大反乱を起こしました。1554年のペルー南部アヤクーチョ州チュキンガの戦い(Battle of Chuquinga, Ayacucho)で、アロンゾ・ド・アルバラードが率いる副王軍と戦い勝利して、副王軍のアギーレは重傷を負い、アルヴァラードはリマに逃亡しました。そして、遂にペルーの中央高地にあるフニン県プカラ(Pucara, Junin Region, Peru)でのプカラの戦い(batalla de Pucara)に負けて、1554/12/7にギロンはリマで処刑されて晒首にされました。


フアン・ド・グリハルヴァ (1489頃〜1527/1/21)
  Juan de Grijalva

  カスティーリャ王国クエジャル生、ホンジュラス38才頃没
フアン・ド・グリハルヴァはスペインのカスティーリャ・イ・レオン州セゴビア県クエジャル(Cuellar, Segovia province, Castilla y Leon region)で生まれました。グリハルヴァは後のキューバ総督ディエゴ・ヴェラスケスの一族だったともいわれており、1508年に大西洋を横断してイスパニョーラ島に渡航しました。1511年にはヴェラスケスのキューバ遠征に参加後、メキシコ方面を探検しました。1518/4月に4隻の船に170人(300説有)でキューバを出帆したと、コルテスが伝えています。ペドロ・ド・アルバラードの遠征隊で、キューバ島のグアニグアニコ岬(Cape Guaniguanico)に上
陸後、1518/5/1にメキシコ南部ユカタン半島北西のタバスコ州(Tabasco)でメキシコ湾に流れ込むグリハルバ川(Rio Grijalva, 600km)の河口付近に到着。川の名は彼に因なんで命名されました。1518年の探検航海〜
  キューバ島サンチャゴ・デ・クーバを出帆〜北回り〜
  サンアントニオ岬〜南下〜コスメル島〜
  ユカタン半島南部アセンション湾到達〜半島沿い北上航海〜
  カトチェ岬回航〜グリハルバ川〜ロホ岬〜パスコ川河口到達〜
  サンチャゴ・デ・クーバ帰港。
ダヴィラ総督のホンジュラスとニカラグア遠征に参加して、1527/1/27
バルカ探検船

ポルトガル  発行
に現ホンジュラスのオランチョ県(Olancho department, Honduras)で現地人に襲撃され、殺害されて亡くなりました。
参考HP:〜
 1518年グリハルヴァの航海地図(Rio Grijalva川有)
 オランチョ県の場所地図(ホンジュラスの地図)


エルナンド・ド・ルーケ (生年不詳〜1532)
  Hernando de Luque

  カスティーリャ王国カディス生、パナマ没
エルナンド・ド・ルーケはスペイン南部アンダルシア州の南西部カディス県オリヴェラ(Olvera, Cadiz, Andalusia)で生まれたスペイン人司祭で、インカ征服前に病没しました。1514年にペドラリアス・ダヴィラ総督の船隊で新世界のパナマに渡航。同年にパナマについて、ピサロのインカ征服遠征に資金を準備して、1526年にピサロとアルマグロを送り出しました。インカ征服後の1529年にトゥンペスの司祭(Bishop of Tumbes)とインディオ保護官(Protector of the Indians)になりました。1532年にパナマで亡くなりました。


ディエゴ・メンデス (1472頃〜1536/12/8)
  Diego Mendez

  カスティーリャ王国サモーラ生、ヴァリャドリード64才頃没
ディエゴ・メンデスはスペインのカスティーリャ王国(Reino de Castilla, 1035-1715)現カスティーリャ・イ・レオン州サモーラ県の県都サモーラ(Zamora)で生まれ、航海士となってコロンブスの第4回航海に参加したと伝えられています。1503/2月コロンブス船長はパナマ付近で住民が金を持っていたことからベレン川近くで金鉱を発見し、ベレン川河口にサンタ・マリア・デ・ベレンと名付けた居住地を造り、バルトロメ・コロンと80人を残すも、現地人の攻撃に晒されていました。3隻で探検航海から戻ったコロンブス船長がバルトロメ達を救援して、一緒にイスパニョーラ島に向かいました。キューバ島をへて1503/6/26にジャマイカ島に達し、傷んだ2隻を放棄して岸に乗り上げ砦に使用しながら、近くの現地人集落から物々交換で116人分の食料を得ました。コロンブスはイス
パニョーラ島へ救助を求めるために航海士のディエゴ・メンデスと他1人を、丸木船を漕いで100海里(x1852m=185.2km)彼方のイスパニョーラ島サントドミンゴへ送り出して、救援船を待つことにしました。カトリック両王への書簡などを託されたメンデスらは、1503/7月下旬にイスパニョーラ島にたどり着きました。着くとオバンド総督はイスパニョーラ島の西部ハラグア地方で現地人の制圧をしていましたので、メンデスが会えたのは8月になっていました。オバンド総督に救援船の要請をするも、オバンド総督はコロンブス船長に冷淡で、そのまま制圧作戦を続け、メンデスが許可を得て首都のサント・ドミンゴに戻っ 丸木舟

アンチグア 1970/8/19 発行
たのは1504/3月でした。オバンド総督の協力を諦めたメンデスは6月になって、サント・ドミンゴ港に着いた船の内の1隻を救援船としてジャマイカ島に派遣できました。その間ジャマイカ島では1504/1月にポーラス船長が仲間を集めて丸木船でイスパニョーラ島へ行こうとしましたが果たせず、反乱を起こしてジャマイカ島を荒らし回りました。また住民からの食料の量も少なくなってきました。2/29が皆既月食であることを知っていたコロンブス船長はそれを利用して食料危機を乗り切りました。その後オバンド総督が派遣した小型船が1隻着きましたが、食料とメンデスの手紙を置いて去っていきました。5月にバルトロメがポーラス船長を破り反乱は収束しました。6月末に救援船が着いてコロンブス一行は1504/8月にイスパニョーラ島に到着することができました。1509年メンデスはオバンド総督後継者でコロンブス船長の息子の第3代インディアス総督ディエゴ・コロンの財政秘書官に任命されました。1517年43才頃にフランシスカ(Francisca de Ribera)と結婚、2人の子供に恵まれました。1522年イスパニョーラ島で市長に任命されました。スペインに帰国したメンデスは、1536年にカスティーリャ・イ・レオン州バリャドリッド県ヴァリャドリード(Valladolid)で亡くなり、墓石には「カヌーを漕いで救援の知らせを成功させた海の英雄」と刻まれました。


アロンソ・ド・モリーナ (1514頃〜1579)
  Alonso de Molina

  カスティーリャ王国エストレマドゥーラ州カセレス生、65才没
アロンソ・ド・モリーナはフランシスコ会士(Franciscan priest)、文献言語学者(grammarian)で、スペインのエストレマドゥーラ州カセレス県(Provincia de Caceres, Extremadura)で生まれました。1522年に8才頃メキシコに到着。アステカ帝国の征服中のメキシコで育ち、ユト・アステカ語族言語ナワトル語(Nahuatl language)を話すようになりました。1528年にメキシコ・シティの修道院でフランシスコ会に入信して、修道士になりました。ベルバルディノ・ド・サハグン神父(Bernardino de
Sahagun 1499-1590)に従って、メキシコ・シティのトララロルコ(Tlatelolco)のトララロルコ学校(Colegio de Santa Cruz de Tlatelolco)で教鞭をとりました。モリーナは聖職者としての御務めを果たす傍ら、現地人の言語を研究して、1571年にユト・アステカ語族言語ナワトル語辞書を新世界で発刊しました。

なお、同姓のスペイン人クリストバル・ド・モリーナ神父(Cristobal de Molina, 1529アンダルシア州ハエン県バエサ(Baeza)生-1585クスコ没)は、現地インカの人々がヨーロッパ文化の影響をあまり受けていない時期に収録された「インカの伝説」を1576年に「インカ伝承の記録」(Relacion de las fabulas y ritos de los Incas)として作成しました。そこには皇帝トゥパック・インカ・ユパンキの父・8代皇帝のウィラコチャの先代までの王は伝説上の人物として登場。皇帝ウィラコチャは、なかば歴史的、なかば伝説的な王とされ、ビラコチャ神と混同して扱われている部分も有といわれています。
インカの街

アルゼンチン 1989 発行


ドン・ガルシア・ウルタード・ド・メンドーサ・イ・マンリケ (1535/7/21〜1609/5/19)
   Don Garcia Hurtado de Mendoza y Manrique, 5th Marquis of Canete
    チリ総督(Captaincy General of Chile,1541-1818)在任:1557/4-1561/2
    ペルー副王(viceroy of Peru)在任:1590/1/8〜1596/7/24
ドン・ガルシア・ウルタード・ド・メンドーサ副王はスペインの貴族カニャーテ侯爵家に生まれて、第5代を相続しました。父アンドレス・ウルタード・ド・メンドーサ(Don Andres Hurtado de Mendoza, 3rd Marquis of Canete 1500-1561/3/30リマ没)はペルー副王(在任1556/6/29-1561/3/30)でした。ドン・ガルシア・ウルタードはスペイン王カルロス1世に仕えて数々の戦場に従軍。父がペルー副王( 1556/6/29リマ着任)に指名されたので、新大陸へ渡航する許可を願い出て許されました。渡航時に、チリ総督ペドロ・ド・ヴァルデヴィアの後継者に指名されていたジェロニモ・ド・アルデレート(Jeronimo de Alderete y Mercado 1518-1556/4/7)に出会いましたが、アルデレードは赴任前にパナマで亡くなりました。アルデレード没後に後継者争いが起り、21才のドン・ガルシア・ウルタードはスペイン兵500人を率いてチリへと、1557/2月に出帆。その中にはアロンゾ・ド・エルシラなどの勇士がいました。





チリの場所地図
チリ 1960/12/1 発行
1557/4/5にチリ北部のアリカ・イ・パリナコータ州の港湾都市アリカ(Arica)に到着。4日間停泊後に出帆。4/23にコキンボ州のラ・セレーナ(La Serena)に到着、上陸して全員が下船。チョアポ川副総督(Lieutenant governor of Choapa River(160km), Atacama Desert)フランシスコ・ド・アギーレ(Francisco de Aguirre 1507-1581)と、チリ副総督(Lieutenant Governor of Chile)フランシスコ・ド・ヴィラガ(Francisco de Villagra Velazquez 1511-1563)の内紛の後始末で、アギーレとヴィラガを捕らえて、裁判のためにリマへ送還し、騎馬隊は陸路で南進させました。サンチャゴに到着後、1557/6/21出帆。6/21にコンセプシオン湾に到着。暴風雨でビオビオ・トメ・キリキナ島(Bio Bio Tome, Quiriquina Island)で足止めとなり、現地人と交流しました。ところが間もなく現地人アラウカーナ族(Araucana)の反発でサン・ルイス・デ・トレド砦(Fort San Luis de Toledo)を建設、戦いになり勝利しました。すると今度はマプチェ族(Mapuches)が攻撃してきて、アラウコ戦争が勃発しました。アラウコ戦争に勝利してチリの征服をなしたところに、父がリマで亡くなったことを知り、ペルーへ行き、スペインへ帰国しました。スペインではフェリペ2世ののとで働きました。1590年にペルー副王(viceroy of Peru)としてリマに着任。1596年に任期満了してスペインに帰国。1609年マドリードで亡くなりました。     14/8/10


パンフィロ・ド・ナルヴァエス (1470〜1528)
   Panfilo de Narvaez

  カスティーリャ王国バリャドリード生、ミシシッピ河々口デルタ58才没
パンフィロ・ド・ナルヴァエスはスペインのカスティーリャ・イ・レオン州セゴビア県ナヴァルマンザノのバリャドリード(Valladolid y Navalmanzano, Segovia province, Castilla y Leon region)で生まれました(クエジャル (Cuellar)説有)。ディエゴ・ベラスケス総督とは縁戚に連なり、アントニオ・ド・ナルヴァエス(Antonio Velazquez de Narvaez)という征服者の甥がいました。1509年にセヴィリア生まれのフアン・ド・エスキヴェル(Juan de Esquivel、ジャマイカ1513没)のジャマイカ島征服に参加して、新世界に渡航。1512年にベラスケス総督の命でキューバ征服に参加して、フアン・ド・グリハルヴァ遠征隊でラス・カサスと共にキューバ島東端まで遠征。1514年にはグリハルヴァ遠征隊でキューバ島西部の征服を主導。1518年にエルナン・コルテスがベラスケス総督の命を聞かずにメキシコ遠征に出帆したので、1520年にベラスケス総督の命でナルヴァエスがコルテスを追ってベラクルスに上陸。その知らせを受けたコルテスが急遽ティノチチトランから駆けつけると、ナルヴァエス軍兵士の多くがコルテスに寝返りました。1520/5/24にセンポアラの戦い(Cempoala, 現ベラクルス州)でナルヴァエスと残った部隊が敗れ、ナルヴァエスは負傷して捕虜となり、2年間ベラクルス(センポアラ説有)で投獄されました。ナルバエスは解放された後、スペインに帰国。その間に欧州人が持ち込んだ天然痘が現地で流行して、多くの現地人が亡くなりました。
・ナルヴァエスの探検航海(1527-1528)
1526/12/11にスペイン王カルロス1世がナルヴァエスを、フロリダのアデランタード(Adelantado、辺境総督)に、カベサ・ド・ヴァカを副総督に任命しました。1527/6/17にナルヴァエス遠征隊は船隊5隻に兵450人と奴隷150人で現アンダルシア州カディス県サンルーカル・デ・バラメダ港を出帆。カナリア諸島で補給後、大西洋を越えて、1527/8月にカリブ海のイスパニョーラ島サント・ドミンゴに到着。
ルーカス・ド・アイリョン(Lucas Vazquez de Ayllon 1475-1526:デラウェア没)遠征隊から戻った隊員に400〜600人が犠牲になったと聞きました。ナルヴァエス遠征隊も、この1ヵ月で死亡者100人になりました。1527/9月遅く、自宅のあるキューバ島サンチャゴに到着。トリニダードへ島の支援者に兵と馬の補給を依頼に、カベサ・ド・ヴァカとポントハ船長(Pantoja)の2隻を派遣。キューバ島東部南岸グアカナヤボ湾(Gulf of Guacanayabo)から別の4隻を派遣。10/30にトリニダード島に着きし、補給物資を満載して、帰途につくも、ハリケーンの嵐で兵60人と馬5頭の他、補給物資が海に藻屑となりました。それで、補給物資の調達のためキューバ島南岸シエンフエーゴス(Cienfuegos)へ、カベサ・ド・ヴァカの4隻を派遣。 カラヴェルパスカレザ船

ポルトガル  発行
4ヵ月間かかって調達。1528/2/20にナルヴァエスがシエンフエーゴスに2隻で到着。兵400人と80頭を得て、
カベサ・ド・ヴァカの4隻とフロリダ遠征行の準備のためハバナへ向かいました。ところが、2日後に嵐に吹かれてキューバ島南岸バタバノ湾(Gulf of Batabano)カナレオス(Canarreos Archipelago)で座礁。3月の第2週頃にやっと離礁。その後もっと大きなハリケーン嵐に吹かれ、海流の荒波に流されて遂に、1528/4/2にフロリダ半島のタンパ湾のジャングル・プラダ・サイト(Jungle Prada Site、現セントピーターズバーグ:St. Petersburg)に吹き寄せられて、遠征隊300人が上陸。そこから、ナルバエス遠征隊は内陸のフロリダを通って北方に進み、敵対的な現地人アパラチー族(Apalachee)の領域に到達。伝説上の黄金も財宝も発見できず、現地人の敵対心でナルヴァエスは、船でメキシコへと向かおうと、4艘の筏(rafts)で内陸から海へ向かいました。だが、嵐で4艘のいかだの内2艘が難破し、ナルヴァエス遠征隊のほとんど全ての隊員が亡くなり、船は嵐で破壊されました。嵐で生存した80人の男が、はるか遠くのメキシコシティーに向けて徒歩で行軍して行きました。 フロリダ半島

USA 1947/12/5 発行
ナルヴァエスはミシシッピ河々口デルタを渡河中に、嵐でボートが沈んで亡くなりました。その後は、カベサ・ド・ヴァカでお楽しみください。
・参考地図HP:〜
 ナルヴァエスの探検航海地図(1527-1528)


ディエゴ・ド・ニクエサ総督 (生年不詳〜1511)
  Diego de Nicuesa

  スペイン生、ダリエン沖の海で没
ディエゴ・ド・ニクエサは、1506年にコスタリカ総督(Costa Rica)を拝命するも、赴任途中の乗船がパナマ海岸沖で難破し、陸路で現地人の攻撃に出会いながら赴任地へ向かいましたが、現地人のゲリラ攻撃と熱病に悩まされて隊員の半数が死亡して、コスタリカ行きを遂に諦めてダリエン湾岸付近に滞留しました。1508年にアラゴン国王フェルディナンド2世からパナマ総督(在任1508/6-1511)として、現パナマ北部の植民地建設を命じられました。其処に、1509年にスペインを出帆したコーサが200人の移住者を乗船させた3隻とオヘーダが100人の移住者を乗船させた1隻の船隊4隻がコーサの指揮で到着しました。オヘーダと先着のニクエサ総督の間で論争が起きたので、パナマ地峡(Isthmus of Panama)にいたフランシスコ・ピサロの所へ行きました。ニクエサはオヘーダの領域を侵犯してコロンビアのカルタヘナに上陸していたので、コーサがより安全なウラバー湾の海岸に移住者を上陸させるように提案しました。上陸すると原住民の攻撃にあって、コーサは毒矢で打たれて同地で亡くなりました。1510年にニクエサ総督はダリエン植民地(Castilla de Oro)総督(在任1510-1513)兼務を命ぜられて、現パナマ北部コロン県コロンのノンブレデディオス(Nombre de Dios, Colon, Provincia de Colon)にパナマ地峡(Isthmus of Panama)で、最初のヨーロッパ人居住地を建設しました。ところが食糧不足、熱病、現地人の攻撃などで移動を余儀なくされて、バルボアが1510年に建設したダリエン(Santa Maria la Antigua del Darien)に、1511年にスペイン人移住者が移動しました。ニクエサ総督と忠実な部下17人は船でイスパニョーラ島サントドミゴに向かいましたが、行方不明となり海の藻屑となったものと推察されました。


ロドリゴ・オルガネス (1490〜1538/4/26)
  Rodrigo Orgonez

  スペイン生、クスコ48才没
ロドリゴ・オルガネスは軍務に服して5年後に大尉になり、アルマグロ1世と新世界に渡航してインカ征服に参加しました。1537年にアバンカイの戦いでアルマグロ軍で戦い、クスコのアマル・カンチャ宮殿(Amaru Cancha Palace)を包囲し、ゴンサロ・ピサロ軍に勝利してゴンサロエルナンド・ピサロを捕虜にしました。1538年のラスサリナスの戦いで、再びゴンサロ軍と戦い、敗れて捕虜となり、クスコ郊外でエルナンドに処刑されて断頭台の露と消えました。


エルナンド・ピサロ・イ・ド・ヴァルガス (1508頃〜1578頃)
  Hernando Pizarro y de Vargas

  カスティーリャ王国トルヒーリョ生、スペイン70才没
エルナンド・ピサロはスペインのエストレマドゥーラ州カセレス県トルヒーリョ(Trujillo, province of Caceres, Extremadura region)で、父ゴンサロ・ピサロ大佐(Colonel Gonzalo Pizarro y Rodriguez de Aguilar 1446-1522)と母イサベラ(Isabel de Vargas)の嫡子で、ピサロ兄弟の一人フランシスコ・ピサロ(フアン、ゴンサロ)の異母弟として生まれました。エルナン・コルテスとは又従兄弟でした。エルナンドは他の兄弟と違って、教育を受けてスペイン王室に出仕していました。
1530/1月にフランシスコと新世界に渡航して、インカ征服に参加。1533/1/5にエルナンドが現リマ近郊)のパチャカマ神殿で黄金を掠奪するためカハマルカを出発して持ち帰りました。同年にピサロ一族の中でスペイン王室に詳しかったので、スペインに一時帰国のためペルーを出帆。1533/10月に4隻の船に金70万ペソ(3屯相当)、銀5万マルコを積んでセビリアの港に入港して、アタワルパの身代金の一部を5分の1税として王室に献上しました。スペイン王室は献上額が少ないのを怪しんで、トマス・ド・ベルランガを団長とする調査団を現地に派遣。1535/11月に新兵を連れてペルーに到着、クスコ総帥に任じられましたが、ペルーに戻ってみると、1536/5月に リマのインカ神殿の遺跡

ペルー 1961/9/11 発行
マンコ2世の蜂起・反乱が勃発して、クスコが圧倒的多数のインカ軍に包囲されて、第2次クス包囲攻撃戦のサクサイワマンの戦い(1536/5-1537/3)が勃発して兄フアンが戦死していましたので、その鎮圧に参加。1536/8月にはインカ軍がクスコの包囲を解き、クスコ北方を流れるウルバンバ川近辺のオリャンタイタンボに退却。エルナンド隊が追撃して、オリャンタイタンボの街を攻撃するも守りが堅いため街が落とせずクスコへ退却して戻りました。すると、チリ遠征から何の成果もなく戻ってきたアルマグロ1世軍がクスコを包囲攻撃して、ゴンサロが捕虜になっており、そこへ戻ったエルナンド隊とアルマグロ1世軍が激突するも、エルナンド隊が敗れてエルナンドは捕虜になりました。その後、アルマグロ1世軍がマンコ2世を1537/1月オリャンタイポの戦いで攻撃するも、マンコ2世は戦わずにビルカバンバへ退却して、アルマグロ1世がインカ軍に勝利し、ビルカバンバの街を略奪しました。アルマグロはクスコ占領の後に、弟ゴンサロを解放するためピサロが送ったアロンソ・ド・アルヴァラードに率いられたピサロ軍と、1537/7/12にアバンカイの戦いで、アルマグロ軍のオルガネスがクスコのアマル・カンチャ宮殿を包囲してピサロ軍に勝利し、アルヴァラードを捕虜にしました。その後、ゴンサロとアルヴァラードは脱走して、リマのフランシスコ・ピサロ軍に合流しました。ピサロとアルマグロのその後の話合いにより、アルマグロへのクスコの完全な統治権と引き替えに、エルナンドの解放が決定され、解放されたエルナンドはピサロ兄弟と共に、1538/4/26にクスコ郊外のラスサリナスの戦いでアルマグロ軍に勝利しました。アルマグロ1世はエルナンド・ピサロの捕虜となり、スペイン王に対する上告の要求を無視され、アルマグロ1世が助命を請うもエルナンドに侮辱されました。形ばかりの裁判で、1538/7/8に国王に対する反逆罪のかどで死刑を宣告され、監禁中に斬首(62才)され、その遺体は反逆者としてクスコの大広場に晒されました。1539年にエルナンドは帰国して、金品をピサロ反対派にバラ撒くも、牢獄に20年間も放り込まれました。1560年に釈放されて、亡くなったのは100才だったとも伝えられていますが定かではありません。


フワン・ピサロ・イ・アロンゾ (1500頃〜1536/7)
  Juan Pizarro y Alonso

  カスティーリャ王国トルヒーリョ生、サクサイワマン36才没
フワン・ピサロはスペインのエストレマドゥーラ州カセレス県トルヒーリョ(Trujillo, province of Caceres, Extremadura region)で、父ゴンサロ・ピサロ歩兵大佐(Colonel Gonzalo Pizarro y Rodriguez de Aguilar (senior) 1446-1522)と母マリア(Maria Alonso)の嫡子で、ピサロ兄弟の一人フランシスコ・ピサロ(フアン、エルナンド)の異母兄弟、ゴンサロとは実の兄として生まれました。1530/1月にフランシスコ・ピサロと新世界に渡航して、1532年にランシスコのインカ征服に他の兄弟達と一緒に参加しました。1533/11/15にピサロ軍とピサロの友人アルマグロ軍がインカ帝国の神聖な帝都クスコを占領してインカ帝国を征服。インカ帝国アタワルパ皇帝(Atahualpa:幸福な鶏、1502年頃-在位:1532-1533/8/29)を処刑。フランシスコがペルーの北西部海岸の探検に出かけると、フアン・ゴンサロ・エルナンドの3兄弟がクスコに残留して支配しました。1536/5/6にマンコ2世(アンコインカ・ユパンギ:Manco Inca Yupanqui 1516-1544)の蜂起・反乱が勃発して、クスコが圧倒的多数のインカ軍に包囲されて、第2次クス包囲攻撃戦で起こったクスコ近郷でのサクサイワマンの戦い(1536/7)で、フアンが一軍を率いて包囲の突破を試みた時、インカの戦士が投げつけた「投石」が頭に当って、フアン・ピサロはサクサイワマンで戦死して亡くなりました。


ペドロ・ピサロ (1515頃〜1602頃)
  Pedro Pizarro

  カスティーリャ王国トレド市生、アレキパ87才頃没
ペドロ・ピサロはスペイン中央部の現カスティーリャ・ラ・マンチャ州々都トレド県々都で、マドリードから南に71kmの距離にあるタホ川河畔トレド市(Toledo)で生まれました。フランシスコ・ピサロの従兄弟(first cousin)で、ゴンサロ・ピサロ、エルナンド、フアンとマルティン・ド・アルカンタラの異母兄弟(half-brothers)でした。1530/1月フランシスコと他の兄弟達と共にサンルーカスデパラメダ港を出帆、1531/1月トゥンペスに到着。1533年頃から騎兵隊を率いて殆んど全ての戦いに従軍しました。インカ帝国征服の戦いではマンコ2世との戦い(サクサイワマンの戦い(1536/5/6〜1537/3上旬)などに従軍の後、1538/11/28にフランシスコ・ピサロから土地と原住民を、インカ帝国の第4代皇帝マイタ・カパック(Mayta Qhapaq、生没年不詳、在位1290頃-1320頃)の命で造られたというインカの都市で、現ペルー南部アレキパ県々都アレキパ(Arequipa)を与えられて、1540/8/15にアレキパ市を建設(完成)しました。そしてアルマグロ軍とのペルー内乱で、ラスサリナスの戦い(1538/4/26)、ピサロ屋敷の襲撃(1541/6/26)でのフランシスコ殺害で起こったチュパスの戦い(1542/9/16)ではカストロ総督と共に戦い勝利して、アルマグロ2世を処刑しました。その後に赴任してきた副王ヴェラに対してゴンサロが反乱を起こし、ゴンサロがペドロに参加するように頼むも断りました。ゴンサロは副王ヴェラとアニャキートの戦い(1546/1/18)を戦い、ゴンサロ軍が勝利し、戦後に副王ヴェラは殺害されました。その時ペドロがゴンサロ宛て書いた「断りの手紙」(1546/12/18)が捻じ曲げられてデ・ラ・ガスカの手に渡り、ガスカがゴンサロとペドロが国王に反乱を起こしていると忠信して、ガスカが国王使節の副王となったとも伝えられています。そして新世界に送り込まれてきた副王ガスカがハキハグアナの戦い(サクサワナの戦い 1548/4/9)で、ゴンサロ反乱軍に勝利してゴンサロを処刑しました。ペドロは幸運にもアレキパに豊かな領地を持っていたので、そこへ行って暮らし余生を送りました。ペドロは2度結婚し、最初の夫人はマリア(Maria Cornejo)で、後妻の方は知られていませんが、多くの子供に恵まれたといわれています。亡くなった頃のことは定かではありません。ただ、「ペルー王国の発見と征服」(Relacion del descubrimiento y conquista de los reinos del Peru 英:Relation of the discovery and conquest of the kingdoms of Peru)の著述を、1571年に書き上げ、アレキパで87才頃に亡くなったと伝えられています。


ペドロ・ド・ロス・リオス・イ・グティエレズ・アグアヨ (生年不詳〜1547/10/27)
  Pedro de los Rios y Gutierrez de Aguayo

  カスティーリャ王国コルドヴァ生、ボリビアのワリーナ没
ペドロ・ド・ロス・リオスはスペイン南部アンダルシア州北部コルドバ県々都でグアダルキビール川河畔のコルドヴァ(City of Cordoba, Province of Cordoba, Andalucia Region, Kingdom of Castile)で生れました。1526/5月にダリエン植民地(Castilla de Oro)の第2代総督(在任1526/5-1529/8)を拝命し、1526/7月にパナマ市に着任して政務をとりました。その後、ニカラガ(Nicaragua)総督(在任1526-1527)となるも、間も無くホンジュラス総督のディエゴ・ド・サルセド(Diego Lopez de Salcedo y Rodriguez 1502-1530)がニカラガのレオン(Leon)に着任したので、ダリエン総督に戻りました。ダリエン総督をアントニオ・デ・ラ・ガマに引継ぎ、中央アメリカでの任務が終ると、ピサロのペルー遠征に参加しました。インカの首都クスコに着くと、スペイン人最初の居住者となって住みつきました。1536年のクスコ奪回作戦で戦い、1542年のチュパスの戦いにも参加。1547/10/27にチチカカ湖の南東近くのワリーナの戦いでゴンサロ軍と共に戦い、戦死しました。


ディエゴ・ド・ロハス (生年不詳〜1544)
  Diego de Rojas

  スペイン生、アルゼンチンのエステロ没
  スクレ初代総督
ディエゴ・ド・ロハスはスペインのカスティーリャ・イ・レオン州ブルゴス県々都ブルゴス(Burgos city, Burgos province, Castile y Leon region)で生れたと伝えられています。1516年にイスパニョーラ島サント・ドミンゴに渡航。1522年にエルナン・コルテスのアステカ征服に参加。その後、ペドロ・ド・アルバラードキューバ島征服、ユカタン半島探索隊へ参加して、現メキシコ(Mexico)、ガテマラ(Guatemala)、エルサルヴァドル(El Salvador)征服に同行。1536年ペルーに渡り、フランシコ・ピサロのインカ征服軍に参加。1538年から1539年の間、ペドロ・ド・アンスレスのボリビアの中央南部チュキサカ県 (Chuquisaca)スクレ(Sucre)遠征の近く、ボリビア南西部 ポトシ県チャルカス(Charcas city, Charcas province, Potosi Department, Bolivia)の征服に参加して、スクレ(Sucre:Ciudad de la Plata de la Nueva Toledo)を建設し、初代総督に就任しました。その後、ロペ・ド・アギーレのエルドラード探索で、クスコ東部の森林地帯に居住するチュンチョ族(Chuncho)地域に探検に参加。1543年にロハスはカストロ総督の命で兵200人を連れて、ペルーからラプラタ河(Rio dela Plata)探検に出発。現アルゼンチン北部ミゲル・デ・トゥクマン市(San Miguel de Tucuman)の元になるトゥクマンを建設しました。1544年に現アルゼンチンのサンティアゴ・デル・エステロ州(Santiago del Estero)エステロで、毒矢で撃たれて亡くなりました。


バルトロメ・ルイス (1482〜1532)
  Bartolome Ruiz

  カスティーリャ王国アンダルシア生、トゥンベス50才没
ルイスはスペイン南部アンダルシア州西部ウエルバ県モゲル(Moguer Huelva province Andalusia region)で生れました。1511年にロレンソ・ドアルダナ(Lorenzo de Aldan)の航海で、パナマの海岸に到着。1524年にフランシスコ・ピサロのインカ征服遠征航海にパイロット(Pilot:水先案内)として参加しました。ピサロの第2次ビルー探検航海ではピサロと13人はゴルゴナ島で待機するも、ルイスはピサロの命で南下の探検航海を続けました。
・1524年の探検航海〜
  ピサロの第1次ビルー探検航海(1524-25)
  パナマ(Panama)〜
  「飢えの港」と名付けた所に上陸〜コロンビアのカウカ(Cauca)上
  陸〜プンタ・ケマーダの戦いで撤退、帰途につき〜ペルラス諸島
  近くに上陸した後、パナマに帰港。
・1526年の探検航海〜
  ピサロの第2次ビルー探検航海(1526-27)パナマ〜プエルト・ケマ
  ーダ(Puerto Quemarda)〜サン・ファン川(Rio San Fan)〜ゴルゴ
  ナ島(Isla Gorgona)〜ガリョ島(Isla del Gallo)〜サン・マテオ湾
カラック探検船

ポルトガル  発行
  (Bahia San Mateo)〜ゴルゴナ島(ピサロと13人は島で待機)〜アタカメス(Atacames)〜カラ
  クェス湾(Bahia Caraques)〜トゥンペス〜チャンチャン川(Rio Chanchan)〜サン・ファン川。
・1527年の探検航海〜
  サン・ファン川〜ゴルゴナ島〜ガリョ島〜サン・マテオ湾〜ゴルゴナ島〜アタカメス〜コアケ
  (Coaque)〜プエルト・ヴィエホ(Puerto Viejo)〜ラ・プラタ島(Isla La Plata)〜プエルト・サンタ・
  エレナ(Puerto Santa Elena)〜プンタ島(Isla Punta)〜トゥンペス〜チラ川(Rio Chira)〜サン・
  ミゲル・デ・ピウラ(San Migeuel de Piura)沖〜ピウラ川(Rio Piura)〜チャンチャン(Chanchan)
  〜サンタ川(Rio Santa)〜レグレソ(Regreso)〜パナマに帰港。
・1528年の探検航海〜
  パナマ〜〜ゴルゴナ島〜ガリョ島〜サン・マテオ湾〜ゴルゴナ島〜アタカメス〜チャラクェス湾
  (Caraques)〜サン・ロレンソ岬(Cabo San Lorenzo)〜プエルト・サンタ・エレナ〜プナ島(Isla
  Puna)〜トゥンペス〜マコラ(Mancora)〜プンタ(Punta)〜アクハ(Aquja)〜サンタ・クルス
  (Santa Cruz)〜ツジロ〜サンタ川(Rio Santa)〜パナマに帰港。
・1530年の探検航海〜
  ピサロの第3次ビルー探検航海(1530-1531)
  1530/12/27にピサロに率いられてパナマを、南の海の向こうの「黄金卿」ペルーへと出帆。1531/1月にペルー最北西部トゥンペス(現ツンベス:Tumbes)というインカの町に到着しました。1532年にアタワルパがカハマルカ(Cajamarca)で捕らえられた時に、ルイスは3隻の船でトゥンベスの海岸に到着後、突然の発熱で亡くなりました。
・参考HP:〜
 バルトロメ・ルイスの航海地図(1526、1527-28、Rio San Fan有)


メルチョール・ブラヴォー・ド・サラヴィア・イ・サトマヨール (1512〜1577/12/8)
  Melchor Bravo de Saravia y Sotomayor

  カスティーリャ王国ソリア生、ソリア65才没
  ペルー副王領リマのアウディエンシア(最高裁判所)の長官(在任1549-1556/6)
   (ス:Audiencia Gobernadora del Peru 1553-1556)
  ペルー暫定副王(interim Viceroy of Peru、在任1552/7-1556/6)
   (ス:Presidente de la Audiencia Gobernadora
      Capitan General del Peru 1553/4/11-1556/6/29)
  チリ総督(Royal Governor of Chile、在任1568-1575)
   (ス:Presidente de la Audiencia de Concepcion
       Gobernador del Reino de Chile 1568-1575)
メルチョール・ド・サラヴィアは現スペイン北部カスティーリャ・イ・レオン州ソリア県々都で、ポルトガルから大西洋に注ぐドゥエロ川(El Duero, 897km)河畔のソリア市(Soria city, Soria province, Castilla y Leon region, Castilla kingdom)で生まれました。1538年に学業を終えてイタリアのナポリ(Napoli)で判事になりました。1547年にカスティーリャ王国の最高司法機関の王立大審問院(聴訴院=最高裁判所)の新世界植民地アウディエンシア・グラナダ(Audiencia of Granada)長官に任命されmした。1549年に新グラナダ(New Granada)のアウディエンシア建設のため新世界へ渡航しました。同年に到着後リマのデ・ラ・ガスカ副王(在任1547-1550)の所へ行き、アウディエンシア長官の承認を受けました。ガスカ副王が帰国し、次の副王アンドレス・ド・シアンカ(Andres de Cianca 1552/7/21-)が、1553/4/11に亡くなると、サラヴィア長官が暫定ペルー副王(在任1552-1556)にリマで就任しました(名目上はヌエバ・エスパーニャ副王のアントニオ・ド・メンドーサ(在任1551-1552)がペルー副王に就任)。1553/11/13にエルナンデス・ギロンがサラヴィア副王の不平等な重税に対して大反乱を起こしました。1554年に副王が討伐軍をペルー南部アヤクーチョ州へ送り込み、チュキンガの戦い(Battle of Chuquinga, Ayacucho)で、アロンゾ・ド・アルバラード(Alonso de Alvarado)が率いる副王軍とギロン軍が戦い、ギロン軍が勝利。副王軍のアギーレは重傷を負い、アルヴァラードはリマに逃げて帰りました。1554/12月にペルーの中央高地にあるフニン県プカラ(Pucara, Junin Region, Peru)でのプカラの戦い(batalla de Pucara)では副王軍が勝利して、1554/12/7に捕虜のギロンはリマで処刑されて晒首になりました。1556年に新任のアンドレス・ウルタード・ド・メンドーサ(在任1556-1561)が着任して、ペルー副王を交代しました。1565年にフェリペ2世の勅許でチリ・アウディエンシア(Royal Audiencia of Concepcion, Royal Audiencia of Chili, 1565-1575)が設立されることになり、チリ総督に指名されました。1567/8月チリ・アウディエンシア(Royal Audiencia of Chile, 1565-1575)が確定し、1567/9月に総督(civil & military government of Chile)を拝命。1568年リマから着任(在任1568-1575)しました。チリ南部に居住の現地人マプチェ族とスペイン人征服者との間で続いていたアラウコ戦争(Arauco War、1536-1883)の終息に向けて、1569年にカンティライの戦い(Battle of Catirai, 1569/1/7)で、ビオビオ川(Bio Bio River, 380km, 源流標高1160m)南岸河川敷を焼払って戦うも惨敗して、現地人との戦いは続きました。1575年に任期を終えて、スペインに帰国。1577年に余生を送っていた生まれ故郷のソリアで亡くなりました。


フアン・リッソン・ド・テハーダ聴訴官 (生年不詳〜1545)
  oidor Juan Lisson de Tejada

  ナバラ王国ログローニョ生、バハマ海峡没
  ペルー副王領リマの最高裁判所アウディエンシアの聴訴官
テハーダ聴訴官は現スペイン北部ラ・リオハ州北端ログローニョ県々都エブロ川(Rio Ebro, 910km)河畔サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼路が交差するログローニョ(Logrono city, Logrono province, La Rioja region, Spain)で生まれたと伝えら得ています。1543/3/1に設立されたペルー副王領(Virreinato del Peru)のアウディエンシア(Real Audiencia de Lima、王立大審問院(聴訴院)最高裁判所)の最初の聴訴官(oidor)4人の一人として、アルヴァレス、セペダ(Diego Vasquez de Cepeda)、ザラーテ(Pedro Ortiz de Zarate)と共にヴェラ副王の遠征艦隊で新世界に渡航しました。ダリエン湾東方のティアラフィルメ(Tierra Firme)から、パナマのノンブレデディオス(Nombre de Dios)を経て、ペルーのリマに到着しました。1544/10/28にゴンサロ・ピサロとリマのアウディエンシアから、福王ヴェラのエンコミエンダ制限に対する反対意見の、国王への弁明の特使としてスペイン本国へ派遣されて出帆するも、カリブ海のバハマ海峡で乗船がハリケーンの嵐で遭難して、船もろとも海の藻屑となって亡くなりました。そのため、ゴンサロ達ペルー植民地の訴えはスペイン国王には届きませんでした。


バスコ・ヌニェズ・ヴェラ・イ・ヴィラルバ副王 (1490〜1546/1/18)
  
Blasco Nunez Vela y Villalba
  カスティーリャ王国アビラ生、エクアドルのキトー近郊アニャキート56才没
  ペルー副王(viceroy of Peru、在任:1544/5/15-1546/1/18)
   (governor & captain general of Peru、president of the Audiencia、captain general of Chile)
バスコ・ヌニェズ・ヴェラはスペインのカスティーリャ・イ・レオン州アビラ県々都で、マドリードから直線距離で西北西に約87kmのアビラ(Avila city, Avila province, Castile y Leon region)で、1403年頃から続いた貴族サンティアゴ騎士団(Orden Militar de Santiago)騎士の家柄に生まれ、国王の忠実な下僕(しもべ)の軍人になりました。1542/3月(52才)に年俸5,000ドゥカート(ducats:金1gX3.491g=17.455kgX@4430=77,325,650:現在価値7.7千万円:当時では10億円の値打ちか?)で初代ペルー副王に任命され、リマにアウディエンシア(王立大審問院(聴訴院)最高裁判所)を開設して、アウディエンシアの構成員となる4人のオイドール(聴訴官)と共にペルーに派遣されました。1542/11/3に福王ヴェラはスペイン南部アンダルシア州サンルーカルデパラメダ港(Sanlucar de Barrameda, Cadiz, Andalucia)を出帆。1544/5/17にリマ(Lima)に到着し、新法の完全実施を宣言して、北はパナマから、南はチリに至る南アメリカ大陸西側の支配権を確立しょうとしました。「世襲を禁止、先住民の奴隷化や強制労働の廃止」を打出したので、この厳しい新法はメキシコやペルーのエンコメンデロ、すなわち新世界の実力者達(エンコミエンダ領主)を大いに刺激し、スペインのアメリカ植民地に大きな動揺と混乱を引き起こしました。福王ヴェラのエンコミエンダ制限は、ピサロ一派から支配権を取り戻す意味合いもあって、それは厳しいうえに副王べラが”新法”の実施を急いだため、クスコのスペイン人有力者層は一斉に反発。ゴンサロ・ピサロが”新法”に反対するエンコメンデロの先頭に立って抵抗しました。1544年には福王ヴェラがカストロ総督をゴンサロに組みしたとして逮捕し、スペインへ強制送還しました。インカのマンコ2世は反ピサロの立場から副王に協力を申し入れるも、1544/6月にビトコス(Pisco, Peru)で旧アルマグロ軍崩れのディエゴ・メンデス・ド・セグラ(Diego Mendez de Segura 1475-1536)に暗殺されました。そして遂に、1546/1/18に勃発したエクアドルのキトー近郊アニャキートの戦いでゴンサロ軍がヴェラ副王軍を破り、副王べラは戦傷後に斬首されました。
・初代ペルー副王ブラスコ・ヌニェス・ベラ関連略年表:〜
1542/11/20 スペイン国王カルロス1世が「インディアス新法」を制定
(カスティーリャ王国のブルゴス法(Laws of Burgos 1512/12/27)の改正法)
1543/06月 インディアス新法、公布
1543年 ペルーのリマを首都とするペルー副王領(Viceroyalty of Peru)が設置され、初代副王にバスコ・ヌニェズ・ベラが任命される。また、リマに最高裁判所のアウディエンシアが設置され、長官(プレシデンテ:Presidente)1人、聴訴官(オイドール:Oidor)数人を設置

1544/1/10、ベラ副王がパナマのノンブレ・デ・ディオス(Nombre de Dios, Colon)に到着
1544/3/14、ベラ副王がペルー北西トゥンペス(Tumbes)到着、トルヒーロ(Trujillo)へ向う
1544/5/17、ベラ副王がリマに着任。強引にインディアス新法の徹底を試みて、新法の完全実施
     を宣言。ゴンサロを先頭とするクスコの有力者層は一斉に反発・反抗
     ベラ副王はキトーで兵を集めはじめ、
     マンコ2世は反ピサロの立場から副王に協力を申し入れる
1544/6月、マンコ2世がビトコス(Pisco, Peru)でディエゴ・ド・セグラに暗殺されたとする説がある
     ベラ副王がカストロ総督を逮捕して、本国へ強制送還
1544/9/13、ベラ副王がリマの宮殿でイリャン・ド・カルバハールを裏切者として刺殺
1544/9/18、ゴンサロがオイドールを巻き込んでアウディエンシアの支配権を獲得し、
     アウディエンシアはベラ副王の更迭を決定してパナマに送り、
     サンロレンゾ(San Lorenzo Island)の島に幽閉
1544/09/24、ベラ副王が本国強制送還でパナマ(San Lorenzo)を出帆後、
     聴訴官アルヴァレスが助けてベラ副王が脱走に成功し、船をトゥンペスに向かわせる
     エクアドルに本拠を構えて反撃体制に入る
1544/10/28、ゴンサロが現地人の精鋭1,200人を連れてリマに乗り込み、
     アウディエンシアがゴンサロを総督兼総司令官(captain general of Peru)に任命され、
     聴訴官の一人テハーダを本国に派遣する
1545/10月、ベラ副王が小部隊の軍と共にキト-近くのサンミゲル(San Miguel)に進出してから
     キト-を訪れてゴンサロと会見するも、話し合いは物別れに終わる
     ベラ副王はその後ポパヤン(Popayan)に行ってベナルカサールと会見して味方にする
1545年、エンコミエンダの廃止をインディアス新法から削除する
      アルト・ペルーの砂漠地帯ポトシ(標高4,700m)で銀山が発見される
1546/1/18、アニャキートの戦い、ヴェラ副王が戦傷後に斬首される。


ディエゴ・ベラスケス・ド・クエリャー (1465〜1524/6/12)
  Diego Velazquez de Cuellar

   カスティーリャ王国クエジャル生、
   キューバ島サンチャゴ・デ・クーバ、59才没
   初代キューバ総督(在任1511-1524)
   インディアス副王(第5代:在任1518-1524)
ディエゴ・ベラスケスは現スペインのカスティーリャ・イ・レオン州セゴビア県クエジャル(Cuellar, Segovia province, Castilla y Leon region)で生まれました。軍人となってナポリ王国(Kingdom of Naples)で従軍後、セビリア(Sevilla)でバルトロメ・コロンに出会いました。1493年コロンブスの第2回航海に司教ロドリゲス・ド・フ
キューバ島の古地図

キューバ 1973 発行
ォンセカ神父(Juan Rodriguez de Fonseca 1451-1524)を支援して参加しました。大西洋を横断してイスパニョーラ島に渡航し、同島に居住して、オバンド総督を助けました。1511年に第4代インディアス副王ディオゴ・コロンの命で、フアン・ド・グリハルヴァを伴ってキューバ島遠征をなし、征服して初代キューバ総督となり、多くの居住地を建設しました。1511年に現キューバ東部グアンタナモ州バラコア(Baracoa, Guantanamo)、1514/6/28現キューバ南東部サンチャゴ・デ・クーバ州々都でマエストラ湾岸(Maestra bay)のサンチャゴ・デ・クーバ (Santiago de Cuba) 、1515/8/15キューバ島の南岸(バタバノ湾側)にある現スルヒエドロ・デ・バタバノ(Surgidero de Batabano)の近くに居住地ハバナ(Havana)を建設(後に北西沿岸フロリダ海峡に接するキューバの首都ハバナ(Havana、サン・クリストーバル・デ・ラ・アバナ:San Cristobal de La Habana)となる)しました。1513年にはインディアスの人口減少で黒人奴隷の輸入を承認・認可しました。ベラスケス総督は西方の探検で、1517年にエルナンデス・ド・コルドバのユカタン半島探検(Yucatan expedition)ニカラグア遠征、1518年にはグリハルヴァのユカタン半島探検航海などの様々な探検を認可。1518年にインディアス副王となり、エルナン・コルテスのメキシコ遠征を最初は支援するも、コルテスがメキシコの占領と自身の領有権を主張するようになったので、コルテスの越権行為を非難し、パンフィロ・ド・ナルバエス(Panfilo de Narvaez, 1470-1528)にコルテスの逮捕を命じました。ところが1520/5/24にナルバエス軍は現メキシコのベラクルス州でのセンポアラの戦い(Cempoala)で、コルテス軍の奇襲を受けて敗北し、生存者はコルテスに降伏。ナルバエスは2年間投獄された後スペインに帰国しました。それでベラスケス副王はメキシコからの富を見ることも無く、1524/6/12にキューバ島サンティアーゴ・デ・クーバで亡くなりました。


参考:〜(日付は諸説有)
ティエラフィルメ植民地総督の列伝、パナマ植民地とされること有
 (Governorate of Nueva Andalucia=Province of Tierra Firme 1510-1537)
 首都:〜ダリエン(Santa Maria la Antigua del Darien)とパナマ市(Panama City)
 ・アロンゾ・ド・オヘーダ:〜:1501-1504
  (Nueva Andalucia -Coquivacoa- (mainland Venezuela)
 ・アロンゾ・ド・オヘーダ:〜:1510-1513
  (Nueva Andalucia- (mainland Colombia)
 ・ディオゴ・ド・ニクエサ:〜:1510-1513
  (Nueva Andalucia - (mainland Nicaragua, Costa Rica, Panama)
 ・1513年にペドラリアス・ダヴィラ総督のダリエン植民地に統合される

ダリエン植民地総督の列伝、パナマ植民地とされること有
 (Governorate of Castilla de Oro 1513-1537)
 首都:〜ダリエン(Santa Maria la Antigua del Darien)とパナマ市(Panama City)
 ・ペドラリアス・ダヴィラ:〜:1514-1526
 ・ペドロ・ド・ロス・リオス:〜:1526-1529
 ・アントニオ・デ・ラ・ガマ:〜:1529-1532
  (Antonio de la Gama、暫定総督)
 ・フランシスコ・ド・ベリョンヌエヴォ:〜:1533-1536
  (Francisco de Barrionuevo)
 ・ペドロ・ヴァスケス・ド・アキューナ:〜:1536-1539
  (Pedro Vazquez de Acuna)
 ・フランシスコ・ペレス・ド・ロブレス:〜:1539(パナマ総督が兼務)
  (Francisco Perez de Robles, President of the Audiencia of Panama)
 ・ペルー副王領(Viceroyalty of Peru、1542-1824)の新設で統合管轄となる

パナマ総督の列伝:〜
 (兼務ダりエン総督(Governors of Darien)、カルロス1世が任命)
 ・ディオゴ・ド・ニクエサ (1508/6-1511)
 ・ヴァスコ・ヌーニェス・ド・バルボア (1511-1513)
 (兼務カステリア・デ・オーロ総督(Governors of Castilla de Oro)、カルロス1世が任命)
 ・ペドラリアス・ダヴィラ(1513-1520)
 ・ロペ・ド・ソーサ(Lope de Sosa、1520)
 ・ペドラリアス・ダヴィラ (1520-1526)
 ・ペドロ・ド・ロス・リオス: (1526-1529)
パナマ総督(Governors of Panama)、
 (カルロス1世(1516-1556)の御代)
 ・アントニオ・デ・ラ・ガマ(Antonio de la Gama、1529-1532)
 ・フランシスコ・ベリオヌエヴォ(Francisco Barrionuevo、1533-1536)
 ・パスクアレ・ド・アンダゴヤ: (1536)
 ・ペドロ・ヴァスケス・ド・アクーニャ(Pedro Vazquez de Acuna、1536-1539)
   オーディエンシア統治(The Real Audiencia 1539 & 1543)
 ・ペドロ・ラミレス・ド・クィノーネス(Pedro Ramirez de Quinones、1543-1545)
 ・ディエゴ・ド・エレラ(Diego de Herrera、1545)
 ・エルナンド・ド・ビチャコ(Hernando de Bichacao、1545-1546)
 ・ペドロ・ド・リヴェロ(Pedro de Rivero、1546)
 ・ペドロ・アントニオ・ド・イノホサ(Pedro Antonio de Hinojosa、1546)
 ・ペドロ・デ・ラ・ガスカ(Pedro de la Gasca、1546)
 ・アロンゾ・ド・アルヴァレス(Alonso de Alvarez、1546-1548)
 ・ペドロ・ラミレス・ド・クィノーネス(Pedro Ramirez de Quinones、1548)
 ・フアン・バルバ・ド・ヴァレシロ(Juan Barba de Vallecill、1549-1550)
 ・サンチョ・ド・クラヴィホ(Sancho de Clavijo、1550-1553)
 ・アルヴァロ・ド・ソーサ(Alvaro de Sosa、1553-1556)
 ・ファン・ルイス・ド・モハラス(Juan Ruiz de Monjaras、1557-1559)
フェリペ2世の御代:〜
 ・ラファエル・ド・フィグエロア(Rafael de Figueroa、1559-1561)
 ・ルイス・ド・グスマン(Luis de Guzman、1561-1563)
 ・ファン・バストド・・ヴィレガス(Juan Busto de Villegas、1563)赴任せず
 ・ロペ・ガルシア・ド・カストロ(Lope Garcia de Castro、1563-1564)
 ・マヌエル・バロス・ド・サン・ミラン(Manuel Barros de San Millan、1565-1566)
 ・アロンゾ・アリアス・ド・エレラ・イ・マルドナド(Alonso Arias de Herrera y Maldonado、1566)
 ・ファン・ド・ピネド(Juan de Pinedo、1566)
 ・マヌエル・バロス・ド・サン・ミラン(Manuel Barros de San Millan: (1567-1569)
 ・ディエゴ・ロペ・ド・ヴェラ(Diego Lope de Vera、1569-1573)
 ・ガブリエル・ロアルテ(Gabriel Loarte、1573-1578)
 ・ファン・ロペス・ド・セペダ(Juan Lopez de Cepeda、1578、暫定総督)
 ・ペドロ・ラミレス・ド・クィノーネス(Pedro Ramirez de Quinones、1578-1585)
 ・ファン・デル・バリオ・セパルヴェダ(Juan del Barrio Sepulveda、1585-1587)
 ・フランシスコ・ド・カルディナス(Francisco de Cardenas、1587-1596)
 ・ファン・デル・バリオ・セパルヴェダ(Juan del Barrio Sepulveda、1596、暫定総督)
 ・アロンゾ・ド・ソトマヨー・イ・ヴァルメディアノ(Alonso de Sotomayor y Valmediano、1596-1602)

ペルー副王の列伝:〜
 (カルロス1世(1516-1556)の御代)
ペルー総督
  Governors of New Castile
、1528-1544
 ・フランシスコ・ピサロ
   Francisco Pizarro 1528-1541/1/26
 ・クリストバル・ヴァカ・ド・カストロ
   Cristobal Vaca de Castro 1541-1544
 ・ゴンサロ・ピサロ(反乱で総督を名乗る)
   Gonzalo Pizarro 1544-1548/4/9
ペルー副王
  Viceroys of Peru
、1544-1826
(カルロス1世(1516-1556)の御代)
 ・ブラスコ・ヌニェズ・ヴェラ
   Blasco Nunez Vela, 1544/5/15-1546/1/18
 ・ペドロ・デ・ラ・ガスカ
   Pedro de la Gasca, Dean of the Audiencia 1547/4/10-1550/1/27
 ・アンドレス・ド・シアンカ (任期中に亡くなる)
  Andres de Cianca 1552/7/21-1553/4/11)
  名目副王:アントニオ・ド・メンドーサ (ヌエバ・エスパーニャ副王:在任1535-1552)
   Antonio de Mendoza, Marquis of Mondejar, Count of Tendilla 1551/9/23-1552/7/21
 ・メルチョール・ブラヴォー・ド・サラヴィア (暫定服王)
  Melchor Bravo de Saravia, Dean of the Audiencia 1552/7-1556/6
(フェリペ2世の御代、Felipe II, 1527-在位:1556-1598)
 ・カニェーテ侯アンドレス・ウルタード・ド・メンドーサ
  Andres Hurtado de Mendoza, 3rd Marquis of Canete 1556/6/29-1561/3/30
 ・ディエオ・ロペス・オ・ズニガ
  Diego Lopez de Zuniga, 4th Count of Nieva 1561/4/17-1564/2/20
 ・フアン・ド・サーヴェドラ
  Juan de Saavedra, Dean of the Audiencia 1564-1564
 ・ロペ・ガルシア・ド・カストロ (オーディエンシア代表)
  Lope Garcia de Castro, Dean of the Audiencia 1564/9/2-1569/11/26

こちらで、
インカ征服の戦い
ペルー内戦・反乱での主な戦い
ピサロ13人とカンディア
スペインの大航海年表を、お楽しみください。

・参考HP:〜
イベリア半島の王国別地図(日本語)
 (1474年頃、カスティーリャ、ナバラ、アラゴン、グラナダ、ポルトガルが有)

モナ海峡の場所地図(イスパニョーラ島の東に有)
ティエラフィルメ植民地の場所地図(Nueva Andalucia 1510)
ダリエン植民地の場所地図(Castilla de Oro 1513)

ペルーの詳細地図(Quito、Tumbes、Cajamarca、Lima、Cuzco有)
ペルーの州(県)別地図(日本語)

バスチダスの航海地図(1500〜1507)
バスチダスの航海地図(1509〜1515)
バルボアのパナマ探検の航海地図(ウラバー湾、1513)
バルボアのパナマ探検の航海地図(ダリエンからサンミゲルへ1513)
バルボアのパナマ地峡の横断地図
インディアス地域の地図(Castilla de Oro 1513-1537)

ウラバー湾トゥルボの場所地図(日本語:コロンビアの地図)
ペルラス諸島の場所地図(日本語、パナマの地図)
パナマのノンブレ・デ・ディオスの場所地図(Nombre de Dios, Colon、 Portobelo有)
パナマの地図
エクアドルの地域別地図

フランシコ・ピサロのの航海地図(1524-25、1526-27、Rio San Fan有)
バルトロメ・ルイスの航海地図(1526、1527-28、Rio San Fan有)
バルトロメ・ルイスの航海地図(1526、1527-28)

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。     13/1/23、14/8/10
スタンプ・メイツ
Copyright(C):Spice
無断転載禁止