★スペイン ニコラス・ド・オヴァンド
1502
インディアス第3代総督
大航海物語★

Republica Dominicana
オバンド総督
Nicolas de Ovando


ドミニカ共和国 1988/10/14 発行

ESPANA
新大陸からスペインへお宝を運んだ
スパニッシュ・キャラック船
Spanish Carrack


スペインから新大陸へは人と物資を輸送
スペイン 1964/7/16 発行
REPUBLICA DOMINICANA
初期のインディアス(イスパニョーラ島)
現在:西がハイチ、東がドミニカ


ドミニカ共和国 1900 発行

カステリア王国生れで貴族出身のオヴァンドはアルカンタラ騎士団の騎士でスペイン軍人でしたが、国王からヌエヴァ・エスパーニャの総督に任命され、スペインから新大陸へ大航海して渡り、1502年から7年間、西インド諸島のイスパニョーラ島の第3代総督を務めました。

ニコラス・ド・オヴァンド (1460〜1518/5/29)
 Fray Nicolas de Ovando y Caceres

  Governor of the Indies:Hispaniola、(1502〜1509)
ニコラス・ド・オバンドはカスティーリャ王国でディエゴ・フェルナンデス・ド・カセレス・イ・オバンド(Diego Fernandez de Caceres y Ovando、?-1487)と、エルナン・コルテスの遠い親戚である第1夫人のイザベル・フローレス・デ・ラス・ヴァリーリャス(Isabel Flores de Varillas) の息子として、カスティーリャ・レオン王国カスティーリャ・イ・レオン州ヴァリャドリッド(Valladolid)の敬虔な貴族の家庭に生まれ、ディエゴ・デ・カサレス・イ・オバンド (Diego de Caceres y Ovando)と名付けられました。オバンドはテンプル騎士団(Order of Templars)と比較され、1156年に設立されたアルカンタラ騎士団(Order of Alcantara)に入隊して騎士(Knight)になり、司令官(Commander-Major)に昇進しました。指揮官として名を挙げたオバンドはスペイン国王フェルナンド2世や特に女王イザベル1世に高く評価されました。

1501/9/3にスペイン王は、西インド諸島のインディアス(Indies、イスパニョーラ島)第2代総督フランシスコ・ド・ボバディリャ(Francisco de Bobadilla、?-1502)に対するクリストファー・コロンブスの不満と更迭要請があったので、ボバディリャに代えてオバンドを西インド諸島のインディアス総督(Governor)に任命しました。

1502/2/13にオバンドは、新大陸へ向かう過去最大規模の30隻の船隊を組織し、スペイン社会を代表する個人資格の入植者2,500人を乗船させてスペイン各地を出帆しました。そこには、後に南米ペルーを探検してインカ帝国を征服したフランシスコ・ピサロがオバンドの船に乗船していましたし、また別の船には、後に「インディアンの保護者」として知られる18才のラス・カサス神父も乗船していました。1502年に知人であり遠い親戚であったエルナン・コルテスもオバンドと共にアメリカに行く計画でしたが、コルテスが不倫をして人妻の寝室から飛び出して怪我をしたので、その渡航は延期されたと伝えられています。

1502/4/15に、バルトロメ・コロンが1496年にイスパニョーラ島南岸に建設したサント・ドミンゴ港(Santo Domingo)に到着し、直ちに政権を確立し、西インド諸島を経済的に発展させ、スペインの政治的、宗教的、行政的な影響をこの地域に拡大する計画を実施しました。

1502/5/9にコロンブスが4隻、140人で第4回の航海にスペインを出帆し、帰路を除きイスパニョーラ島への寄港は禁じられていましたが、第2回航海とほぼ同じ航路をとって、イスパニョーラ島サント・ドミンゴ港の沖に着き、6/29にコロンブスはハリケーンが近づいているという理由で入港を求めましたが、オバンド総督はそれを断りました。オバンドが乗船してきた船隊がスペインへの帰途へと出帆しょうとしていることを知ったコロンブスは、嵐(ハリケーン)が接近しているるため、出帆を1週間遅らせるように知らせました。オバンドはそれを無視して、7/1に29隻の船隊がイスパニョーラ島からスペインのカスティーリャ王国へ向け出帆しました。そしてハリケーンに襲われ大部分の船は大破・沈没し、帰国途中の前総督ボバディリャが遭難して亡くなり、約500人が海の藻屑になりました。この船隊の内でスペインに帰りついたのは、差し押さえられたコロンブスの財産を積んだアグア号だけだったと伝えられています。コロンブスの4隻の船隊(140人乗組み、12才の息子フェルナンドも乗船)は、サント・ドミンゴの港には入港できず、小さな入江で嵐の接近をやり過ごしてから、西方のジャマイカ方面へ向かいました。

1502年にオバンドがイスパニョーラ島に到着した時に原住民インディオの反乱が起りましたが、軍隊を差し向けて反乱を容赦なく鎮圧しました。イスパニョーラ島におけるオバンド総督の統治時代は、インディオを最も残酷に扱った時代でもありました。1492年にスペイン人が到着した時の原住民人口は約500,000人と見積もられていますが、15年後の1507年の調査によると、戦闘やヨーロッパ人が持ち込んだ天然痘などの疫病のせいで、その人口は60,000人にまで減少していたと伝えられています。

イスパニョーラ島の友好的な種族アナカオナ女王(Queen Anacaona)の一族がスペインの圧政に反乱を起こすと、騎馬兵10騎と重武装歩兵300人で襲撃し、反抗するものを皆殺しにして、生け捕りにした女王はサント・ドミンゴ市に連れてこさせ、絞首刑にしました。その半年後にザグア村での大虐殺(massacre at Xaragua)事件も引き起こし、その跡地にサンタ・マリア・デ・ラ・ヴェルダデラ・パズ(Santa Maria de la Verdadera Paz)の町を建設しました。1504年にはヒグエイ地区(province of Higuey)の平定に乗り出し、多くの現地人を虐殺し、反抗した族長は見せしめのために火焙りで焼き殺しました。或る時は600人を一ヵ所の小屋に押し込め、刃に掛けました。こうしてイスパニョーラ島の完全なスペイン支配が確立し、現地人々口は激減しました。 16世紀の歩兵

イスパニョーラ島の鉱山労働力が不足すると、バハマ諸島(Bahamas)へ遠征隊を派遣して、現地人の子供をさらって(kidnap)きて、奴隷として労働に使役しました。 オバンド総督の現地人に対する残酷な取り扱いは島の発展には功を奏して、幾つもの町を建設し、奴隷労働で鉱山も開発して金の採掘をしました。食料の生産にも原住民奴隷を使用し、カナリア諸島からサトウキビ(sugar-cane)の移植に成功して、砂糖プランテーションが始まりました。また奴隷狩りと新発見の航海へと遠征隊を派遣しました。 弓矢を持つ現地人

1501年にオバンドはアフリカ訛のあるスペイン語話者の奴隷を、アメリカへ輸入することを命じました。多くのスペイン人高官達は自宅で召使として少数の奴隷を使役しました。奴隷の多くは砂糖プランテーションの労働に送られました。1509年オバンドは国王フェルナンド2世に呼び出されて、スペインに戻りました。国王はオバンドとの約束を守り、女王イザベル1世の最期を看取ることを許しました。オバンドの後任の総督はディエゴ・コロンブス(Diego Columbus)に引き継がれましたが、オバンドの全ての財産の所有継続は認められました。

1518/5/29に彼はスペインのマドリッドで亡くなり、サン・ベニート・デ・アルカンタラ(San Benito d'Alcantara)教会に埋葬されました。

参考:〜
インディアス総督列伝
  Governor (Viceroy) Of the Indies(New Spain)

・初 代:クリストファー・コロンブス、在任:1492〜1499
     (Christopher Columbus, as governor or viceroy of the Indies)
・第2代:フランシスコ・ド・ボバディリャ、在任:1499〜1502
     (Francisco de Bobadilla, as governor of the Indies)
・第3代:ニコラス・ド・オヴァンド、在任:1502〜1509
     (Nicolas de Ovando y Caceres, as governor of the Indies)
・第4代:ディオゴ・コロンブス、在任:1509〜1518
     (Diego Columbus, as governor of the Indies until 1511, thereafter as viceroy)
・第5代:ディオゴ・ヴェラスケス・ド・クエリャー、在任:1518〜1524
     (Diego Velazquez de Cuellar, as adelantado (governor-general) of Cuba)

サントドミンゴ市のコロンブス霊廟
  mausoleum of Christopher Columbus

1506年スペインのバリャリッドで亡くなったコロンブスの遺体は臨時にセビリア近くの僧院に埋葬されました。1539年にコロンブスの長男のデイエゴ(1526年没)がエスパニョーラ島の総督になった時、妻の副王マリア・デル・トレドは、スペイン国王カルロス5世から、それをサント・ドミンゴ市に建設したばかりの大聖堂へ移す許可を得ました。1544年に彼女とその子のルイスはコロンブスとデイエゴの遺体をサント・ドミンゴへ運び、大聖堂の祭壇の前に埋葬しました。ドン・ファン
サントドミンゴのコロンブス霊廟
のモデルといわれるルイスも1572年に亡くなった後、2人の墓の隣に埋葬されました。その後、イギリスの海賊ドレーク艦隊のサント・ドミンゴ襲撃や、過疎による町の荒廃などもあり、大聖堂に埋葬された墓のどれが誰のものなのかかも不明になりました。1795年パシリア条約によりエスパニョーラ島全体がフランス領になった時も、コロンブスの遺体はスペインの土地に留まるべきだと考えていたスペイン当局が、大聖堂からの発掘とスペイン領だったキューバ島への移動を命じました。1992/10/12に「コロンブスの新大陸発見500年記念」で行われたコロンブス記念灯台博物館の披露式典が行われ、巨費を投じたために国民の反対運動が起りました。当時のバラゲル大統領はその時に、コロンブスが1494年に建設したイサベラ市跡近くのイザベラ岬に「コロンブス記念博物館」をスペイン政府と共同で建設しました。サント・ドミンゴのオサマ川を渡った東側の小高い丘の上にその建物が建っていて、オサマ砦のコロンブス像があり、オサマ砦一帯は「ユネスコの世界遺産」に登録されています。「サントドミンゴの植民都市」(Ciudad Colonial(Colonial City)、Santo Domingo)は1990年にユネスコの世界遺産(文化・自然遺産)に登録され、その中にある”サンタ・マリア・ラ・メノル大聖堂”(アメリカ首座大司教座聖堂)は1540年に建造され、コロンブスの遺体を安置していることで知られ、スペインのセビリア大聖堂をモデルにしており、総サンゴ石造りの大聖堂です。また、コロンブス宮殿(Alcazar de Colon)は、かつてはクリストファー・コロンブスの一族が居城として用いた建物で、1510年に建てられ、現在は博物館として整備され当時の調度品などが展示されています。

参考HP:〜
 ・カリブ海の地図(西インド諸島の地図)
 ・ドミニカ共和国の地図(サントドミンゴ市有)

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。    2010/5/15

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