★ノールウェイ
トール・ヘイエルダール博士
1947
帆走筏コンチキ号で大平洋横断

大航海物語★
S.Tome E Principe
コンチキ号 ヘイエルダ|ル
サントメプリンシペ 1981 発行

PERU
コンチキ号の航海

ペルー 1969/6/17 発行
FIJI
太平洋と世界地図

フィジー 1997/4/12 発行

ノールウェイの人類学、民族誌学、海洋生物学の研究者ヘイエルダールはポリネシアの島々の住人の起源を調べるため、1947年にコンティキ号と名付けた帆走バルサ(葦)筏に5人の仲間と1羽のオウムとでペルーのカヤオ港からタヒチ島のラロイア環礁まで、約6920kmを101日間かけて大航海し、太平洋横断を成し遂げました。
トール・ヘイエルダール (1914/10/6〜2002/4/18)
 Thor Heyerdahl

トール・ヘイエルダールはノルウェー・ヴェストフォル県の街で、オスロの南西105キロにあるラルヴィック(Larvik)で生まれ、子供の頃に動物学(zoology)に興味を持ち、家に小さな博物館を造り、全長60cmほどで最大は104cmになり背に暗色の鎖状の斑紋が入る有毒のヨーロッパクサリヘビ(欧羅巴鎖蛇、Vipera berus)を、とっておきの見世物として飼っていました。
1933年にオスロ大学動物学科に入学、動物学(Zoology)と地理学(Geography)、民族誌学(en:ethnography)を学び、また同時期に個人的にポリネシアの文化と歴史を研究し、オスロの豊かなワイン商人のクロエペリン(Bjarne Kroepelin)氏の後援で膨大なポリネシア関連の書物や研究書を収集しました。このポリネシア・コレクションはオスロ大学に買い取られ、オスロのコンティキ博物館に収蔵されました。

大学卒業後すぐに1916年生れのリヴ(Liv Coucheron-Torp)と結婚し、未開の孤島で生物調査しようと南太平洋ポリネシアのマルキーズ諸島のファツ・ヒバ島に新婚の妻を連れて長期滞在し、トール・ジュニア(Jr)とビョーン(Bjorn)の2人の息子を設けました。1949年に離婚しました。同年35才で、ヨォーン(Yvonne Dedekam-Simonsen)と再婚し、アネット(Annette)、マリアン(Marian)、ヘレン・エリザベス(Helene Elisabeth)の3人の娘を設け、1969年に55才で離婚しました。1991年に77才のヘイエルダールは、1932年生れの59才のジャックリーン(Jaqueline Beer)と3回目の結婚をしました。

ヘイエルダールの大航海:〜
・1947:〜:大平洋横断、コンチキ号〜ペルーからポリネシアへ
・1970:〜:大西洋横断、ラー1世号〜5000km
・1970:〜:大西洋横断、ラー2世号〜バルバドス到達
・1977:〜:インド洋、チグリス号〜ペルシャ湾からアデン湾ジブチ

ポリネシア・コレクションで、ポリネシアとアメリカ大陸の風俗や美術品に共通点があることに気づき、。コロンブス以前にもアメリカ大陸から南太平洋までたどり着いた航海者がいたのではないか、という仮説を立案しました。その研究のために、1936年には穏やかで孤立している太平洋の島々グループに帆走して行き、その島の特色ある動物を調べ、特にマルケサス諸島(Marquesas Islands)に帆走して、そこの動植物を研究しました。帰国後の1938年には南部マルケサス諸島のフツヒヴァ島(Fatu Hiva)で暮したことを詳しく書いた「フツヒヴァ、楽園を求めて」(Paa Jakt efter Paradiset=Hunt for Paradise)を出版しましたが、ノルウェー以外ではあまり知られませんでした。1939年に調査のために北米に向かいましたが、折りからの第2次世界大戦(1939-1945)の勃発で、祖国ノルウェーが不運にもナチス・ドイツに占領されるという事態に見舞われ、その研究調査活動を一時中断し、ノルウェー北部フィンマルク戦線に出征し従軍することになりました。

戦後はペルーの神話や巨石の類似から、古代のアメリカとポリネシアのあいだに交流があったとするコン・チキ学説の証明のため、1947/4/28にバルサ材の帆走筏(raft)「コンチキ号」で5人の仲間と1羽のオウムと共にペルーのカヤオ港を出帆し、曳航船によってフンボルト海流を越えた後は漂流しながら、東太平洋のイースター島を目指しました。約6920km(4,300mils)を漂流、出港から102日後の1947/8/7に南太平洋ポリネシアツアモツ諸島のラロイア環礁に到達、座礁しました。漂流を開始してから彼らが用いた唯一の現代技術は無線機だけでした。

1948年11月ににヘイエルダールが「コンチキ号の冒険」(Kon-Tiki Ekspedisjonen)をノールウェイのオスロで出版しましたが、たいした評判にはなりませんでした。翌1949年にスウェーデン語に訳さ れ、スウェーデンで出版されると熱狂的に受け入れられました。1950年にロンドンとシカゴの出版社から英訳されて出版されると世界的なベストセラーに なりました。彼らの航海を描いた長編ドキュメンタリー映画「コンチキ、Kon-Tikiが、1951年のアカデミー賞長編ドキュメンタリー映画賞を受賞しました。

1722年にオランダのヤコブ・ロヘヘーンがイースター島を発見して出版していた書籍に反論して、インカ伝説のビラコチャ(海の泡、コン・ティキ・ヴィラコチャ、Con-Tici Viracocha)などからポリネシア起源説(Heyerdahl's theory of Polynesian origins)を唱えて、1953年にガラパゴス諸島を調査しました。さらに、「モアイの謎への遠征航海」(Expedition to Rapa Nui)を行い、1955-1956年にはイースター島のラパ・ヌイ島(Rapa Nui、Easter Island)の考古学調査をして「コン・チキ学説」を補強しました。

1969年には古代エジプトとペルーの交流を証明するため、エチオピアのタナ湖(Lake Tana)産のパピルス(reed)でチャド湖(Lake Chad)様式で作った「葦舟ラー号」(Reed boat Ra)でモロッコ(Morocco)の海岸から出帆して、大西洋横断を試みましたが5000kmを航海したところで破損して失敗しました。翌年にボリビアのチチカカ湖(Lake Titicaca)様式で作ったラー2世号(Ra II)で見事にカリブ海のバルバドス島に到達して大西洋横断に成功しました。そして航海中に大洋汚染のサンプルを取って、それらのレポートを国際連合に提出しました。

1977〜78年にシュメール型の葦舟チグリス号(Tigris)で11人のクルーと共に、アジアからアフリカへ古代の航海の可能性を探りました。チグリス号の探検の後、紅海やアデン湾の「アフリカの角」(ソマリヤ北部)などのでいたるところで荒れくるう紛争に対する抗議で、1978/4/3にチグリス号をジブチ(Djibouti)で焼きました。その後、インド洋モルジブ諸島、カナリア諸島のテネリフェ島などで発掘を行いました。

1960年代からリグリア・アルプスを北方に望むイタリア北西部のリビエラのコッラ・ミケリ村(Colla Micheri、Savona Province、Liguria region)に住んでいましたが、87才で北イタリアの病院で亡くなりました。(リヴィエラと言う呼び方はイタリア語の海岸や湖岸を意味するrivieraから来ている)

なお、1954年にアメリカのウィリアム・ウィルスは、筏に帆をはったセヴェン・リトル・シスター号で、南アメリカのペルーからアメリカ領サモアへの約1万800km(6700mils)という、コンチキ号の航海より約3540km(2200mils)も多い単独太平洋横断の大航海をしました。

参考HP:〜
 ・ファツヒヴァ島の場所地図
 ・チチカカ湖の地図
 ・イタリアン・リビエラの場所地図(Liguria region)
 ・サヴォナ・プロヴィンスの場所地図(Savona Province)             09/12/25

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