Namibia No.20

国連 1997 発行

               ヒンバ族
             (Himba people)
NAMBIA
ヒンバ族の女性
ナミビア 2002 発/行

ヒンバ族
 (Himba people)
ヒンバ族は、ナミビア北部のクネネ州に住んでいる民族で、総人口は約2〜5万人といわれていて、牛と山羊を育てながら生活しています。また、赤い泥と脂肪を混ぜたものを髪と肌に塗る習慣があります。

・ヒンバ族の略史:〜
メリー・ヴォルクマン氏

ナミビア 2002 発行
1904年 ドイツの軍人トロータ中将がドイツ帝国領の南西アフリカ(SWA:現ナンビア)で先住民に対しジェノサイド(ヘレロ・ナマクアの虐殺)を行い、9割の先住民が死亡
1980年代 大干ばつが発生、放牧羊牛の9割死滅、住民の多くが放牧をあきらめ、都市部のスラム地帯で難民化
1990年 ナミビア独立
ナミビア独立以降、ヒンバ族は政府の保護政策の下で、放牧のほか、野生生物の保護や観光客向けの自然保護で生計を立てて生活。
参考:〜
ヘレロ・ナマクアの虐殺
 (Herero and Namaqua genocide)、1904-1908
ヘレロ・ナマクアの虐殺は、ドイツ領南西アフリカ(German South West Africa, 1884-1918:現ナミビア)において、ドイツ帝国が先住民族に対して行った虐殺。アフリカ分割の動きの中の1904年から1907年にかけて行われ、20世紀最初のジェノサイド(Genocide:集団大虐殺)と考えられています。

1904/1/12、ドイツによる南部アフリカへの侵攻で土地を追われた先住民族のヘレロ族が酋長サミュエル・マハレロ(Samuel Maharero, 1856-1923)の指揮の下、ドイツ人への無差別攻撃を開始して勝利(ホッテントット蜂起)。
人の頭がい骨

イギリス 1971 発行
ホッテントット蜂起(第一次ウォーターバーグの戦い)で敗北したドイツは、1904/8月の第二次ウォーターバーグの戦いで勝利後、現地人を大虐殺しました。

ヘレロ族は、1904/8/11の第二次ウォーターバーグの戦いで、大砲30門と機関銃14門を使ったドイツ植民地軍に敗北し、残りのヘレロ族(女性、子供、高齢者を含む)はナンビア中東部オマヘキ州のカラハリ砂漠(Kalahari Desert)に追いやられました。何万人ものヘレロ族が渇き、飢餓、または病気で亡くなりました。降伏しようとした人たちは撃たれました。民族浄化の命令がベルリンから要求された後、捕らえられた生存者はカラス州リューデリッツ(Luderitz)にあるシャーク島の強制収容所(Shark Island Concentration Camp, 1905-1907/4)に送られ、多くが亡くなりました。

ドイツは1904/8月、ロタール・フォン・トロータ将軍の指揮でヘレロ族を攻撃(2nd Battle of Waterberg, 1904/8/11)、三方から包囲してカラハリ砂漠に追い込みました。英領ベチュアナランド(現ボツワナ)を目指して脱出したヘレロ族は途中で多くが渇きのために死亡。ベチュアナランドに辿り着いたのは1,000人以下だといわれています。1904/10月にはナマクア族(ホッテントット人)も蜂起するも、同様の結果に終わりました。

第二次ウォーターバーグの戦い
  (2nd Battle of Waterberg, 1904/8/11-)
  場所:ナミビア中部オチョソンデュパ州 オチワロンゴ南東68kmのウォーターバーグ台地
     (Waterberg Plateau, 68km South-east of Otjiwarongo, Otjozondjupa Region, Namibia)
・ドイツの装備:〜1904/6月
指揮官 ロタール・フォン・トロータ中将
兵 士 15,000人以上
近代的ライフル 1,625丁
機関銃 14門、ベルト装弾式マキシム機関銃
大 砲 30門

・ヘレロ族の装備:〜
指揮官 酋長サミュエル・マハレロ (Samuel Maharero, 1856-1923/3/14)
兵 士 家族と共に3,500-6,000人の戦士、総数は推定25,000〜50,000人
武 装 キリ(Kirri.)という伝統的な近接戦闘武器(ヤリと刀)で武装

ヘレロ族が集中していたオチョソンデュパ州ウォーターバーグ台地(Waterberg Plateau)は、ドイツの物資の供給源から東に100キロ離れていたので、ドイツ補給部隊は予想される場所に牛車で軍隊や物資を運ぶのに約3ヵ月(6月、7月、8月の一部)を費やしました。その間にヘレロ族は、約60,000人の男性、女性、と子供たちが、同数の牛を飼っていて、ドイツ人からの攻撃を受ける前に、ほんのわずかな草と水しかありませんでした。

戦後、ドイツは先住民を強制収容所へ収容したり強制労働に従事させました。結果、戦後の人口統計からみて、約6万人のヘレロ族(Herero、全人口8万人の内、80%)、1万人のナマクア族(Namaqua、全人口2万人の内50%)が死亡。ヘレロ族の死者数は24,000人〜最大10万人とする推計も有。

この虐殺の特徴は、1つは餓死であり、もう1つはナミブ砂漠に追いやられたヘレロ族とナマクア族の使用する井戸に毒を入れたことによる中毒死だといわれています。

酋長マハレロはヘレロ族の人々の約1,000人をイギリスの植民地ベチュアナランドへ導くことに成功しました。彼は亡命したヘレロ族の指導者となり、また北部ベチュアナランドの首長セガソレア・レトゥラテベ(Sekgatholea Letsholathebe)の重要な家臣となりました。酋長マハレロは1923/3/14にそこで亡くなり、彼の遺体は一時的にベチュアナランドに埋葬され、1923/8/23に彼の遺体はオカハンジャに戻され、彼の先祖と並んで儀式的に埋葬されました。
2004年、ヘレロ戦争(Herero & Namaqua genocide)100周年を記念して、ドイツ経済協力・開発大臣ヴィーチョレック=ツォイル(Heidemarie Wieczorek-Zeul, 1942-)女史は、追悼と謝罪の意を全ドイツ人を代表して表すも、ヘレロ族は財政的賠償を求め、ヘレロ・ジェノサイド財団のエスター・ムインジャンゲ議長は「ドイツ政府が本当に謝ったとは思っていない」として、ドイツ連邦議会での決議のような公式な謝罪をすべきとの考えを示し、また、ドイツによるこの虐殺が後のナチス・ドイツによるユダヤ人虐殺につながったとの見方をしています。 ナチス鍵十字

ドイツ 1934 発行
ホッテントット蜂起
  別名:第一次ウォーターバーグの戦い
      (1st Battle of Waterberg, 1904/1/12-)
ホッテントット蜂起は、1904年にナミビア中部オチョソンデュパ州オカハンジャで、ドイツ帝国植民地軍と現地人ヘレロ族との戦闘事件。ドイツ帝国軍との平和交渉が決裂。なお、ホッテントット人とはナマ人(Nama People、現ナマクア族)の蔑称。

ヘレロ族酋長マハレロは、ボーア人の侵入と、1878年にウォルビスベイを併合したケープ植民地政府に対抗するため、1885年にドイツ帝国と保護領条約を締結したオカハンジャ生まれの首長マハレロ・カチャムアハロ(Maharero kaTjamuaha, 1820-1890)の息子(長男)で、ヘレロ族の勇敢な戦士でした。酋長マハレロは1869年に洗礼を受け、地元のルーテル教会の学校に通っていました。そこで彼は聖職者と見られていましたが、父親が1890年に亡くなったとき、彼はオカハンジャ地域で首長になりました。当初、彼はドイツの総督ロートヴァイン大佐の元でドイツ植民地政権とかなり良い関係を維持して、1890年5月にドイツ人と条約を ボーア人のナミビアへの侵入

SWA 1974 発行
再確認しました。ところが、ドイツ人農民による攻撃、経済的な困難と害虫の発生、そしてオタヴィ鉄道(Otavi railway line)建設のためのヘレロの土地使用を含む問題の増加、などは関係を悪化させました。ヘレロ部族を綿花その他の輸出作物の安価な労働力と見なしていたドイツ人入植者と、植民地時代の管理者によるヘレロ族の人々への虐待に悩まされました。首長マハレロは密かにドイツに対する反乱を他の首長たちと計画しました。

1904/1/12に始まった酋長マハレロ反乱の最初の攻撃で、ドイツはオチョソンデュパ州ウォーターバーグ台地でヘレロ族との一連の小競り合いで中程度の軍事的成功を収めました。しかし、次の攻撃ではヘレロ族が成功し、主にドイツ人の地主123〜150人が殺害されました。1/14までに、ヘレロ族はオマラサ(Omarasa)に到着し、第一次ウォーターバーグの戦い(Battle of Waterberg, 1904/1/15)勃発で、ワルダウ(Waldau)とウォーターバーグ(Waterberg)の郵便局は破壊されました。また、ウォーターバーグのドイツ軍基地はヘレロ族が占領、軍曹グスタフ・ラーデマッヘル(Unteroffizier Gustav Rademacher)の指揮下にある全兵士が殺害されま ナミビア(首都ウィントフック,1904)の郵便局

SWA 1988 発行
した。ヘレロ族の指導者である酋長マハレロは、少数のドイツ人女性と子供を持つ宣教師がオカハンジャへの自由な通過を許可しました。彼らは1904/4/9に目的地に到着しました。

1904/1/16にオマヘケ州ゴバビス(Gobabis, Omaheke Region)は包囲され、ドイツ軍は待ち伏せされて、オチョソンデュパ州オチワロンゴ(Otjiwarongo, Otjozondjupa Region)の近くで全滅しました。1904/6/11まで、ドイツの軍事努力はドイツの植民地総督ロートヴァイン大佐によって指揮されていました。総督ロートヴァイン大佐は、軍事的圧力の方針とヘレロ族とのコミュニケーションを組み合わせて、平和的解決を交渉していました。

この敗北の後、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世はドイツの軍事指導者を総督ロートヴァイン大佐から、ロタール・フォン・トロータ将軍にかえて、決定的な軍事的勝利で反乱を終わらせることをトロータ将軍に期待しました。トロータ将軍は15,000人の軍隊を連れて、首長マハレロの捕獲のために5,000マルクの賞金を掛けました。

オカハンジャ
  (Okahandja, Otjozondjupa Region, central Namibia)、ナミビア中部オチョソンデュパ州
オカハンジャはヘレロ語で「川の合流地点」を意味し、1800年ごろにヘレロとナマの人々が建設。
1827年にドイツ人牧師ハインリッヒ・シュメーレン(Heinrich Schmelen, 1776-1848)がヨーロッパ人として初めて町を訪れ、1844年には2人のドイツ人宣教師が来訪。1894年にドイツが軍事基地を設営。また、オカハンジャは東のカプリビ回廊と連絡しています。首都ウィントフックは南70kmに有。

なお、オチョソンデュパ州グルートフォンテイン(Grootfontein)近郷で、60トン以上もある世界で最も重い隕石”ホバ隕石”(Hoba meteorite)が1920年に発見されました。
ホバ隕石

SWA 1988 発

テオドール・ロートヴァイン大佐
  (Theodor Gotthilf Leutwein, 1849/5/9-1921/4/13)テオドール・ロートヴァイン大佐
テオドール・ゴットシルフ・ロートヴァイン大佐は、ドイツのバーデン=ヴュルテンベルク州ネッカー=オーデンヴァルト郡ヴァルトブルン (Waldbrunn, Neckar-Odenwald-Kreis, Baden-Wurttemberg, Germany) で生まれました。1868年にプロイセン陸軍(Prussian Army)に入隊。1899年に少尉(Lieutenant)、 1901年に大佐(Colonel)に昇進。1894年にドイツ植民地シュッツトルペ軍団(Schutztruppe)の司令官として、ドイツ南西アフリカ(German Southwest Africa、首都(1891)現ウィントフック)に着任して行政官を兼務し、1894年にドイツ南西アフリカの総督になりました。

1904/1/15に第一次ウォーターバーグの戦いに遭遇して敗北し、第3代 ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世 (Wilhelm II., 1859-1941)により、現地軍司令官をロタール・フォン・トロータ将軍と交代させられました。1906年にロートヴァイン大佐は自伝 "ドイツ南西アフリカの総督としての11年"(Eleven Years as Governor in German South West Africa)を出版。1921年にドイツ南西部バーデン=ヴュルテンベルク州フライブルク・イム・ブライスガウ(Freiburg im Breisgau)で亡くなりました。

ロタール・フォン・トロータ中将
 (Lieutenant general Adrian Dietrich Lothar von Trotha, 1848/7/3-1920/3/31)
将軍エイドリアン・ディートリッヒ・ロタール・フォン・トロータ(マクデブルク生、ボン没)は、ドイツ帝国(German Empire, 1871-1918)の軍人。義和団の乱(1900/6/20-1901/9/7)で活躍。ヘレロ族の虐殺(ヘレロ・ナマクア虐殺)を指揮。1904年からドイツ領南西アフリカ(現ナミビア)で展開されたヘレロ族の虐殺は、強制収容所を建設した点や民族浄化を目指した点で、後のナチス・ドイツが行ったホロコーストとの類似性が指摘されています。

参考HP〜
 ナミビアの地図
 ナミビアの詳細地図

こちらで
ウォルビス・ベイ
ブランドバーグ山
グラディエーター・インセクト

世界遺産の
トゥウェイフルフォンテーンの岩絵 (ナミビア)
ナミブ砂漠 (ナミビア)
サン(ツォディロ)の岩絵 (ボツワナ、砂漠のルーヴル)
アルタミラ洞窟の岩絵 (スペイン)
ラスコー洞窟の岩絵 (フランス)
ヌビア遺跡 (エジプト)
ペトラ遺跡 (ヨルダン)
パルテノン神殿 (ギリシャ)
法隆寺 (日本)
をお楽しみください。

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。       2019/8/6

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