★フランス
ピエール・ポイヴァール
1760
モーリシャス島の総督

大航海物語★
MAURITIUS
ポイヴァールとナツメグの木

モーリシャス 1954 発行

モーリシャス島 と ”どーどー鳥”(DoDo)

東経 57°30′  南緯 20°10′
モーリシャス 1954 発行
ナツメグ
NUTMEGS


肉荳蒄(ニクズク)の木
グレナダ 1974/2/7 発行

プラス ダルム  Place d'Armes

Sir Seewoosagur Ramgoolam Botanical Garden、1770

ピエール・ポイヴァールはフランスのリョン生まれの園芸学者で、若い頃は宣教師として極東アジアに渡航して布教活動をなし、カーナティック戦争の海戦で右腕を切断という重傷を負い、1760年にフランス領のインド洋地域総督となりモーリシャス島に赴任して、当時オランダが独占していた東インドのスパイス樹木を密かにモーリシャス島に移植して、スパイス関連を中心とする植物学庭園をモーリシャス島に建設し、レユニオン島、セイシェル島にも移植しました。
ピエール・ポイヴァール (1719/8/23〜1786/1/6)
 Pierre Poivre

ピエール・ポイヴァールはフランスのローヌ=アルプ地域圏の首府でローヌ県の県庁所在地でもあり、フランスにおける金融の中心地で多くのフランスの銀行の本店が置かれるリョン(Lyon;)で生まれた園芸学者(horticulturalist)で、監察行政官(Intendant of the Islands of Mauritius and Bourbon)、聖霊勲章(cordon of St. Michel)受賞者、仏の博物学者(Naturalist)ピエール・ソネラット(Pierre Sonnerat 1748-1814)の叔父でした。

ポイヴァールは20代前半には宣教師として、フランス統治時代前ベトナム南部のコーチシナ(交趾支那、Cochinchina)や、中国の広東省広州市(Guangzhou、Canton)、そしてマカオ(Macau)へ行きました。

1745年にフランス東インド会社(French East India Company、1664-1769)のメンバーで極東アジアへ航海した時に、インドでのフランス対イギリスとのカーナティック戦争の海戦に巻き込まれ、右腕切断という憂き目にあいました。

1760年にフランス領モーリシャス島(フランス島、Ile de France)と、レユニオン島(ブルボン島、Ile Bourbon)などフランス領インド洋地域(French Indian Ocean Territory)の総督(administrator、監察行政官)になり、モーリシャス島に熱帯植物(主として樹木、灌木、小さな草木)の植物学庭園(botanical garden)を建設し、特にナツメグ(nutmeg)やクローブ(clove)などのスパイス(香料)の木々を育てて有名になりました。その当時はオランダが東インドで事実上の独占体制をとっていましたので、ポイヴァール総督は1769〜1770年にスパイス獲得遠征航海作戦を実施して、1770年に東インドのモルッカ諸島から、これらのスパイスの樹木や種子を密かに密輸して獲得するのに成功しました。 そしてレユニオン島、セーシェル諸島にも移植しました。

1769年にフランス東インド会社が崩懐し解散して失業していたデュフレーヌ船長をポイヴァール総督が(1)タヒチ島民アオトゥールーを故郷に送り届ける(2)未知の南方大陸”テラ・アウストラリス”の発見という「2つの使命の遠征航海」の指揮官に指名し、2隻の船を手配しました。その後に「哲学者の航海記」(The Voyages of a Philosopher)を出版しました。

セーシェル島のアミラント諸島(Amirante Islands)にポイヴァール総督に因んでポイヴァール諸島(Poivre Islands)と名付けられた島が有ります。

参考HP:〜
 モーリシャス島とレユニオン島の場所地図
 モーリシャス島の地図
 モーリシャス島の植物学庭園の公式サイト(英文)
 レユニオン島の地図
 セーシェル諸島の地図
 セーシェル諸島アミラント諸島の地図
 広東省広州市の場所地図
 コーチシナの地図
 マカオの地図
 マカオ、広東、香港の場所地図
 インドのフランス・イギリスなどの植民地地図     09/10/10

参考:〜
・ポイヴァール諸島 〜 3つの小島(islets)で構成
  Poivre Islands(Atoll)

  ・ポイヴァール (Poivre (North), 1.1 ku)
  ・フローレンチン(Florentin, 0.024 ku)
  ・イル・ドゥ・サッド(IIe du Sud, 1.356 ku)

カーナティック戦争(1744-1763)
  Carnatic Wars

カーナティック戦争(別名:カルナータカ戦争)はイギリス領マドラスとフランス領インドの首都であったポンディシェリとの間で3次にわたって繰り広げられた戦争。ヨーロッパのオーストリア継承戦争(1740-1748)と連動し、ムガル朝インドにおいて、南インド東海岸の貿易拠点や荷物の集散地をめぐって争われ、オーストリア継承戦争後も続いた。最終的にはイギリス側の勝利に終わった。

・第1次カーナティック戦争(1744-1748):〜17世紀に絶頂期をむかえたムガル朝インドも18世紀に入ると分裂状態におちいり、これに乗じてイギリス・フランスの両東インド会社がともに勢力をのばして争った。
インド洋の地図

インド 2006 発行
ヨーロッパ大陸で起きたオーストリア王位継承戦争でのイギリスとフランスの戦闘がインドにも波及。イギリスとフランスのそれぞれの東インド会社が戦端を開いた。当初、イギリスは南インド東海岸一帯を占領するが、ポンディシェリのフランス領インド総督デュプレクスがカーナティック同盟を結んで南インド諸侯を傘下に収め、一時は中部・南部インドでイギリス勢力を圧倒し、英領マドラスを占領するなど活躍した。しかし、アーヘンの和約(1748)でマドラスを返還、第2次戦争まではフランスが善戦したが、その終結時にデュプレクスがアジアでの多大の出費を嫌う本国政府によって召還された。

・第2次カーナティック戦争(1749-1754)
・第3次カーナティック戦争(1756-1763):〜第3次戦争中、七年戦争(1756-1763)の余波でプラッシーの戦い(1757)が起こり、この戦闘では、東インド会社書記ロバート・クライブの活躍によりイギリスが勝利し、ベンガル地方はイギリスの勢力下に入った。この敗北に反撃するためにフランスの東インド会社はデカン地方に2000人の兵と6隻の軍艦を送った。新総督 となったフランスのラリー侯爵は、フランスの領土強化拡大よりもイギリスの領地を破壊する計画をとった。イギリスの南インドの拠点マドラスを包囲。しかし人員と弾薬の補充を受けたイギリスが持ちこたえた。 イギリスが大規模な軍艦建造計画の結果、制海権を握り情勢は逆転した。フランスの約50隻に対して、イギリスは約350隻の艦隊を派遣。さらにラリー侯爵はいくつかの過ちを犯し、インドでのフランスの敗北を招いてしまった。カーナティック(カルナータカ)州に軍隊を集中して、マスリバタムとオリッサ海岸一帯を放棄したこと。さらに綱紀粛正をあまりに厳しくしたので軍隊内で 暴動を引き起こしたこと。カーストの区別を考慮せずにインド人傭兵(セポイ)を補強してインド人を敵にまわしてしまったことである。 海軍の援護を受けたイギリスが逆に反撃にでて1760年の1月22日にヴァンデヴァッシュの戦いでフランス軍に決定的な勝利をおさめた。フランスはヨーロッパ大陸でプロイセンの反撃にてこずり、ラゴス沖とキブロン湾での2つの海戦でイギリスに敗れ十分な増援兵力を送ることができなかった。イギリスはフランスの南インドの拠点であるポンディシェリを兵糧攻めにして陥落(1761/1/16)させた。

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。      

スタンプ・メイツ
Copyright(C):Nicky
無断転載禁止