★フランス
マリオン・デュフレーヌ船長
1768
プララン島に上陸

大航海物語★
TERRES AUSTRALES ET
ANTARCTIQUES FRANCAISES

マリオン・デュフレーヌ船長

フランス南極地方 1992/1/1 発行
SEYCHELLES
プララン島に上陸、1768

1768 デュフレーヌ船長200年記念 1968

デュフレーヌ船長の乗船ラ・ディーグ号

・デ

|グ号

・ヴ
ェンガ|号

セイシェル諸島の場所地図
アデン


セ-シェル


マダガスカル


モーリシャス

セイシェル 1962−69 発行
デュフレーヌ船長の船団

・コンテ
・デ
ュア
|
ゲンソン号
コンテ
・デ
ュアントワ|ヌ号
セイシェルの黒インコ
フタゴヤシ 黒インコ


セイシェル 1968/12/30 発行

フランス生まれのデュフレーヌ船長は11才でフランス海軍に入隊、オーストリア継承戦争、7年戦争に従軍後、フランス東インド会社の船団を指揮・航海しながら、モーリシャス島に移住し、セーシェル諸島を再発見しました。フランス東インド会社が破綻した後、南方大陸のテラ・アウストラリス探査の探検航海にル・マスカリン号で出帆しました。1772/1/13にプリンス・エドワード諸島を再発見、1/24にはクローゼー諸島を発見し、南緯46度24分にあるポセッション島に上陸しました。その後、ニュージーランド北島に上陸して、現地人と戦いとなり戦死しました。
マルク=ジョセフ・マリオン・デュ・フレーヌ (1724/5/22〜1772/6/12)
 Marc-Joseph Marion du Fresne

  別名:ニコラ・トマ・マリオン=デュフレーヌ(Nicolas Thomas Marion-Dufresne)
マリオン・デュフレーヌ船長はイギリス海峡に面したフランス北西部ブルターニュ地方のイル=エ=ヴィレーヌ県郡庁がある城壁に囲まれた港町のサン・マロ(Saint-Malo Brittany, France)で生まれ、個人的な家庭教師(Private Tutor)から教育を受け、探検家・航海士・地図製作者(Explorer, navigator, cartographer)となりました。

デュフレーヌ船長は11才でフランス海軍の大砲80門装備の戦列艦ブルゴーニュ公爵号(Duc de Bourgogne 80-gun ship of the line)に士官見習(sub-lieutenant)として乗組みました。16才でオーストリア継承戦争(War of the Austrian Succession 1740-1748)が勃発し、各地を転戦し、1745年に21才で艦長となりました。31才で7年戦争(Seven Years' War 1754-1763)勃発で、幾つもの海軍作戦に従軍しました。1761年にフランス東インド会社(French East India Company, 1604-1795)に奉職して、1764年頃にフランス島ポートルイス(Port Louis 、Ile de France 現:モーリシャス島)に移住しました。 ケウレンの古地図
”モーリシャス島” 1700


モーリシャス 1978/3/12 発行

1768年にデュフレーヌ船長は4隻の船団、旗船ラ・ディーグ号(La Digue)に乗船、ル・コンテ・デュアーゲンソン号(Le Comte d'Argenson)、ル・ヴェンガー号(Le Vengeur)、コンテ・デュアントワーヌ号(Comte d'Artois)を指揮して東インドへ航海する仕事に従事していました。
その時:〜
1768年にデュフレーヌ船長はセーシェル諸島に到達して、セーシェル諸島で3番目に大きい島をラザール・ピコ船長がルージュ島と呼んでいたのを、乗船のラ・ディーグ号に因んでラ・ディーグ島(Ile La Digue)と改名して上陸しました。そして、マヘ島の東44kmに有って2番目に大きい島のプラスリン島に上陸して、ピコ船長がパルメ島(Isle de Palmes)と呼んでいたのを、フランスの外交官セザール・ガブリエル・ド・ショワズール=プラズラン(Cesar Gabriel de Choiseul-Praslin, duc de Praslin 1712-1785)に因んでプララン島(Praslin)と改名して上陸しました。そしてラ・キューリーズ島(La Curieuse)を発見、ラ・キューリーズ号(schooner"La Curieuse")に因んで命名して投錨・上陸しました。

こちらで
プララン島
ヴァレ・ドゥ・メ(セーシェル諸島の世界遺産)
をお楽しみください。

参考HP:〜
モーリシャス島の地図
セーシェル諸島の地図(プラスリン島の場所地図)
プララン島の地図(日本語)
世界遺産バレ・ドゥ・メの場所地図(日本語)
インド洋の地図(日本語)                  12/6/12、12/6/20






★デュフレーヌ物語
マリオン・デュフレーヌ船長
1772
クローゼー諸島を発見

大航海物語★
マリオン・デュフレーヌ船長
 
REPUBLIQUE FRANCAISE
       ケルゲレン諸島の場所地図
アフリカ→



ケープタウン→








←マダガスカル島


クローゼー諸島
ケルゲレン諸島


←南極大陸
1772 ケルゲレン島、クローゼー島発見200年 1972
フランス 1972/1/29 発行
TERRES AUSTRALES ET ANTARCTIQUES FRANCAISES
デュフレーヌ船長の乗船 ル・マスカリン号

フランス南極地方 1972/1/31 発行


←プリンス・エドワード諸島
  クローゼー諸島
フランス南極地方 1981/6/23 発行

マリオン・デュフレーヌ船長は、1769年にフランス東インド会社が崩懐して解散してしまい、失業していた時に、園芸学者(horticultural Scientist)でモーリシャス島総督(civil administrator)のピエール・ポイヴァール(Pierre Poivre 1719-86)が「2つの使命の遠征航海」の指揮官に指名し、2隻の船を準備しました。

・2つの使命:〜
(1)タヒチ島民アオトゥールーを故郷に送り届ける
(2)未知の南方大陸”テラ・アウストラリス”の発見

・2隻の船:〜
 ル・マスカリン号〜デュフレーヌ船長、ジュリアン・クローゼー副官
 マルキ・ド・カストリーズ号〜デュ・クレムール艦長

探検家ブーゲンヴィル船長が世界一周航海でフランスに連れてきて、パリで見世物同然になっていたタヒチ島民アオトゥールー(Ahu-toru)を故郷に送り届けることと、南方の未探索の海域で、当時存在が想定されていた「未知の南方大陸”テラ・アウストラリス”(Terra australis)」を発見することを使命として、デュフレーヌ船長は彼を補佐する士官と2隻の船、副官ジュリアン・クローゼー(second-in-command Jules Crozet)のル・マスカリン号(Le Mascarin)およびデュ・クレムール艦長(Ambroise-Bernard-Marie du Clesmeur)の大砲16門装備のマルキ・ド・カストリーズ号(Marquis de Castries 16gun ship)が準備され、1771/10/18にフランス島ポートルイスを出帆しました。出港の時すでに天然痘(Smallpox)に罹っていたアオトゥールーはマダガスカル島沖を航海中に亡くなりました。航海の主目的はここで失われましたが、探検のために航海は続けられ、2隻の船は12/2に喜望峰に寄航して18ヵ月分の補給物資を調達し、12/28に出帆して進路を南にとりました。

1772/1/13にプリンス・エドワード諸島に到達・再発見し、大きい方の島に「希望の土地」と命名(現:マリオン島)。そこから同緯度を東に向かった探検船隊は1772/1/24に新たにクローゼー諸島を発見。同日にポセッション島に上陸、発見者のジュリアン・クローゼー副官にちんでクローゼー諸島と命名し、この諸島をフランス領と宣言しました。

その後、オーストラリアの南を通って東へ航海。タスマニア島に立ち寄って数日間を過ごし、同島の南東にある湾をマリオン湾(Marion Bay)と名付けた後に出帆。1772/3/25にニュージーランド北島のエグモント山(Mount Taranaki/Egmont、2,518m)を視認してマスカリン山(Pic Mascarin)と名付け北島に到着しましたが、3年前にクック船長がエグモント山と名づけていました。これはヨーロッパ人としてはタスマン船長クック船長デュルヴィル船長に続くニュージーランド来航4度目となりました。

1772/5月に壊血病対策、水と食糧の調達、船の修理のために、まずニュージーランドのアンカー・コーヴ(Anchor Cove)に停泊、次いで5/10にウァンガレイ(Whangarei)の北西方60kmにあるアイランズ湾(Bay of Islands)に停泊。最初は現地のマオリ族にアオトゥールーに教わったタヒチ語がある程度通じ、取引を行って友好的な関係を持てたため、船の乗組員は警戒を緩め、壊血病患者を静養のため上陸させ、水と食糧を調達し船の修理に取りかかりました。だがやがてフランス人達は知らずにマオリの聖域タプ(Tapu、禁忌)を犯してしまいました。それは船のマストを修理するため「カウリ」(Agathis:ナンヨウカツラ:南洋桂)の木を伐採したという説と、禁じられた場所で釣りをしたという説が有。7/12にデュフレーヌ船長一行がマナワオラ湾(Manawaora Bay)で釣りをしているとマオリ族数百人が襲ってきて戦いとなり、多勢に無勢で船長一行26人は虐殺されて食われてしまいました。

一方のル・マスカリン号では、7/12に上陸したデュフレーヌ船長を含む一行は夜になっても船に戻らず、その翌日陸地に送られたボートの乗員の1人が「全員殺害された」と報告したことで、はじめてデュフレーヌ船長の危急を知った副官のクローゼーは、生存者を捜索し収容するべく武装した一隊を上陸させましたが、集ってきたマオリ族との戦いになり、マオリ側に多くの死傷者が出ました。マオリのパエオラ集落(Paeroa)に入ったフランス人たちはデュフレーヌ船長らの遺体の一部とその着衣を見つけ、報復としてマオリ族250人を殺害し、その集落を焼き払い、そこをアサシネーション・コーヴ(Assasination cove、暗殺の入江)と呼びました。 マオリ族 と ニュージランド島

ポリネシア 1990 発行

デュフレーヌ船長亡き後の指揮はマルキ・ド・カストリー号のデュ・クレムール艦長が引き継ぎ、探検船隊はフィリピンに寄航・補給してフランス島(現:モーリシャス島)に帰還しました。

なお、フランス南極地域(French Southern Territories)のアムステルダム島(Ile Amsterdam)、サンポール島(Ile Saint-Paul)、クローゼー諸島(Iles Crozet)、ケルゲレン諸島(Iles Kerguelen)に後方支援をする船は、デュフレーヌ船長に因んで”マリオン II世号(Dufresne II)と名付けられています。 また、ニュージーランド北島のヒュー湾アサシネーション・コーヴ(Te Hue Bay, "Assasination cove")には「デュフレーヌ船長の終焉の地」の記念碑があります。

ジュール・ヴェルヌが「ラ・ペルーズの大航海」(榊原晃三訳、NTT出版、1997年 (原題”La Perouse et les navigateurs francais”)という作品を残しています。そして、ラ・ペルーズ船長に先んじるフランス人航海者としてデュフレーヌ船長に一章が当てられています。

参考HP:〜
マリオン島とプリンスエドワード島

参考:〜
・プリンス・エドワード諸島
 Prince Edward Islands

プリンス・エドワード諸島はインド洋上の2つの島からなる南アフリカ共和国領の諸島で、ポートエリザベスの南東1,770kmにあって、マリオン島とプリンスエドワード島からなる。マリオン島は南緯46度54分、東経37度44分にある、面積290ku、海岸線は72kmで大部分は崖で、最高地点はスワートピーク(State President Swart Peak、標高1230m)。プリンスエドワード島はこれよりずっと小さく面積およそ45ku、マリオン島の北東約19kmにある。火山起源のマリオン島は海底からでは高さが約5000mある。死火山と思われていたが、1980年に噴火した。
クック船長の南極圏探検の様子を描く

フランス領南極地方 1976/12/31 発行

1663年にオランダ東インド会社の貿易船マールセヴァーン号(Maerseveen)により偶然発見されたが、当時は経緯度を正確に記録する術がなかったため、その後忘れられていた。1772年に南方大陸の探索にあたっていたフランスの探検家マリオン=デュフレーヌが再発見した。彼の副官であったジュリアン・クローゼーはその後の1776年にケープタウンでジェームズ・クック船長と出会い、クック船長はこの諸島へ向かったが悪天候のため上陸はできず、クック船長ケルゲレン諸島へ向う。

最初に上陸した記録があるのは1803年のアザラシ狩猟者のグループだが、彼らはその前に他の人間が上陸していた痕跡を発見している。1840年にはジェイムズ・クラーク・ロス船長が訪れたが上陸はできなかった。そして、1873年にナースル船長(Captain Nares)により調査が行われた。イギリス政府は1908年、ウィリアム・ニュートン(William Newton)に21年間のグアノ採掘の権利を与え、1926年にはシーリング・カンパンニー(sealing company)に10年間のアザラシ狩りを許可した。1947年終わりから1948年に南アフリカが併合し、マリオン島に気象観測所をつくった。その後拡大され、現在は島の生物(ペンギン、ウミツバメ、アホウドリ、カモメやアザラシ)の研究を行っている。

参考HP:〜
プリンス・エドワード諸島の場所地図(日本語)

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。        08/8/19、12/5/31

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