★アルゼンチン
 VS イギリス
..... 戦争 ..... 大航海物語
参考資料★
サウス・ジョージア島の戦い
1982
サウス・ジョージア島の地図

REPUBLICA ARGENTINA
サウス・ジョージア島



バード島→

アルゼンチン 2012 発行





←リース港
←キングエドワードポイント
←グリトピケン

マルビナス、南ジョージア、南サンドウィッチ、各諸島の場所地図
       フォークランド諸島              サウス・ジョージア島
アルゼンチン


サウスサンドウィッチ諸島


サウスオークニー諸島
1829 マルビナス危機153年記念 1962
アルゼンチン 1982/6/12 発行

サウス・ジョージア島の戦い (1982/4/2〜4/25)
  Battle of South Georgia

   アルゼンチン軍の占領 (Invasion of South Georgia、1982/4/2-4/3)
   イギリス軍の奪還 (Operation Paraquet、1982/4/20-4/25)
   当初:イギリス:23人、その後:奪還部隊が攻撃
   当初:アルゼンチン:40人、その後:増援
   場所:サウスジョージア島(英:South Georgia Island、ス:Islas Georgias del Sur)
1982/3/19、フォークランド諸島の約1,000km東(南緯54度30分、西経37度)にあるサウスジョージア島の島都グリトビケン(Grytviken)から約24km北西にあるリース港(Leith Harbour)にアルゼンチン海軍の輸送艦バイア・ブエン・サクエソ号(fleet transporter ARA Bahia Buen Suceso 5,000-ton)が停泊しているのを同島に駐在しているイギリス南極観測隊隊(British Antarctic Survey)隊長トレフォー・エドワーズ(Trefor Edwards)らが野外観測中に発見。港の施設にアルゼンチン国旗を掲揚して、輸送艦から5、60人のアルゼンチン人が物資を港に下ろす作業を行っているのを望見。イギリス観測隊がその場に駆けつけると、アルゼンチン人らは「クズ鉄業者」を名乗り、20年以上前から放棄されていた捕鯨工場の解体が目的で、英国政府からの上陸許可ももらっていると主張するも、正規の入国手続きは一切行っておらず。

イギリス南極観測隊員らはイギリス本国にこの事態を報告するも、イギリス当局はこの時点ではアルゼンチン側に本格的な軍事侵攻の意志はないと判断して、さし当たっての対抗策として英海軍氷海巡視船エンデュアランス号(ice patrol vessel HMS Endurance 3,600t)に武装した海兵隊23人と小型艦載対潜ヘリコプター・ワスプ(Westland Wasp、乗員2、乗客4、Mk 44魚雷×2、SS.11ミサイル×4、L7.62mm汎用機関銃搭載)2機を積載して同島海域に派遣すると同時にアルゼンチン政府に抗議するも、アルゼンチン側は反抗的で相手にせず。

3/22、アルゼンチンは物資を降ろして数人を残し、輸送艦バイア・ブエン・サクエソ号が出港。この残ったアルゼンチン人はアルゼンチン海兵隊の分遣隊で、降ろした物資は武器、弾薬、食糧などの軍事物資。

3/25深夜、アルゼンチン海軍砕氷艦バイア・パライソ号(ARA Bahia Paraiso)が海兵隊員約500人とヘリコプター2機、追加補給物資を運んでリース港に来港。兵員を降ろしてリース港に停泊。

イギリス側はこの時点でエンデュアランス号から海兵隊員23人が島都グリトビケンに到着。南極観測隊員ら在イギリス人らをエンデュアランス号に避難させ、エンデュアランス号を利用した湾内の警備行動はイギリス当局から外交的問題として禁じられ、抗戦の構えを見せて東側沖合に待機。戦力差は歴然とするも、イギリス海兵隊は防御陣地を構築する。

グリトビケンの戦い、アルゼンチンの攻撃
  Battle of Grytviken

1982/4/1、アルゼンチン軍によるフォークランド諸島進攻が起こった同日リース港に陣取っていたアルゼンチン海兵隊隊員らは国旗掲揚式を行い、国歌斉唱後に、一方的にサウスジョージア島がアルゼンチン施政下に入ったことを宣言。

4/2、マルビナス諸島ポート・スタンレー占領の報を受けたサウス・ジョージア島のアルゼンチン海兵隊は、同島の占拠を開始。リースハーバーに留まっていた約500人のアルゼンチン海兵隊員の内、40人が砕氷艦バイア・パライソ号に移乗してピューマヘリコプター2機による島都グリトビケンの制圧作戦を開始。

4/2深夜、アルゼンチン海兵隊は選抜された40人の海兵隊隊員を砕氷艦バイア・パライソ号に移乗させ、援護として同海域に到着していたアルゼンチン海軍ドラモンド級フリゲート艦ゲリコ号(Drummond class corvette ARA Guerrico P-32 1,170t)と合流して沿岸を偵察しつつ、グリトビケン近海に接近。

4/3:11時半頃、制圧作戦の指揮官アルゼンチン海兵隊カルロス・アルフォンゾ大尉(Captain Carlos Alfonso)はバイア・パライソ号からグリトビゲンのイギリス軍部隊に向け降伏勧告を無線で行う。グリトビゲン駐在部隊の指揮官であるイギリス海兵隊ミルズ中尉(Lt Mills)は時間の猶予をアルゼンチン側に求めるがアルゼンチン側は拒否。直後にバイア・パライソ号から制圧部隊のアルゼンチン海兵隊員を乗せたアルーエト・ヘリコプター1機が発進。同時にフリゲート艦ゲリコ号がグリトビケン港の入江の方面に進出を開始。

グリトビケン直近のキングエドワードポイント(King Edward Point)埠頭にヘリコプターが着陸してアルゼンチン海兵隊を降ろし始めた矢先、イギリス海兵隊中尉はその埠頭に出向くやアルゼンチンの降伏勧告を拒否、徹底抗戦を伝えるや即自軍陣地に撤収。アルゼンチン軍が発砲したのを皮切りに戦闘が開始される。

サウス・ジョージア島守備隊のイギリス海兵隊はわずか23人と圧倒的不利に立たされていたが、アルゼンチン側の降伏勧告を拒否。地の利を生かして激しく応戦。

仏製アルーエト(Aerospatiale Alouette III 3人乗り20mm機関砲搭載)小型汎用ヘリコプターに続いて仏製ピューマ(SA 330 Puma 乗員3、7.62mm機銃・両側20mm機関砲他搭載)中型(兵士20人か担架6台を積載可能)全天候型汎用ヘリコプターがバイア・パライソ号から発進。兵員を降ろそうと埠頭に接近するも、イギリス海兵隊はこのヘリに小銃と機関銃による集中砲火を浴びせた結果、ピューマ・ヘリコプターは損傷して操縦不能になり、付近に不時着。これにより、ヘリに搭乗していたアルゼンチン兵2人が戦死、4人が負傷。

アルゼンチン海兵隊は前進しようとするも、イギリス海兵隊側の激しい銃撃に前進を阻まれ、フリゲート艦ゲリコ号へ支援を要請。ゲリコ号はまず、20mm機関砲で銃撃、さらに40mm機関砲で射撃して上陸したアルゼンチン海兵隊を支援。この攻撃に関わらず、イギリス海兵隊は怯まずにゲリコ号に対しても小火器による銃撃を敢行。ゲリコ号は主砲の100mm砲で砲撃を行おうと一旦沿岸より離れようとするも、直後に対岸からイギリス海兵隊が対戦車ロケット砲84mmカールグスタフ(Carl Gustav)無反動砲とM72 LAW(66mm使い捨て対戦車ロケット弾)で攻撃すると、同号は被弾して中破。電装ケーブルが切断され、エグゾセ対艦ミサイルの発射装置や100mm主砲のマウントが破損して使用不能に追い込まれ、40mm機関砲マウントも損傷して、乗員5人が負傷、1人が死亡。

このようにイギリス軍守備隊はアルゼンチン軍側に対して激しい抵抗を行ったが弾薬が尽き掛け、距離をとったゲリコ号から40mm機関砲による射撃が再開したことで抵抗が困難になり、負傷者も出たことから守備隊指揮官であるイギリス海兵隊中尉は降伏を決断。約2時間に渡った抵抗は終わり、サウスジョージア島はアルゼンチンによって掌握される。

この戦闘でイギリス側は負傷者1人のみだったが、アルゼンチン側は3人が戦死、9人が負傷。約2時間に渡る戦闘の後、弾薬の尽きたイギリス海兵隊は全員アルゼンチン軍に降伏。イギリス側の軽傷者1人に対し、アルゼンチン側は死者4人重傷者1人という結果に終わり、アルゼンチン軍がサウス・ジョージア島を占領。

4/25、中破したフリゲート艦ゲリコ号はアルゼンチン本国に帰港し、修理を受けて戦線に復帰。

戦闘終了後、アルゼンチン軍は同島に数十人の兵員を駐在部隊として残留させる。イギリス海兵隊23人は全員捕虜となる。隊員らはジェネーヴ条約に基づいた待遇がとられ、負傷した1人の隊員は手当てを受け、他22人の隊員と共に中立国を経由してイギリス本国に送還される。

パラケット作戦
  Operation Paraquet
、1982/4/20-4/25
   イギリス軍のサウス・ジョージア島奪還作戦
4月初頭、アルゼンチンに占領されたフォークランド諸島奪還のため、イギリス軍は本国より機動艦隊を派遣させることを決定。フォークランド紛争が勃発。

フォークランド諸島の約1,000km東にあるサウスジョージア・サウスサンドウィッチ諸島のサウスジョージア島もフォークランド諸島侵攻と同時期に周辺に展開していたアルゼンチン軍が占領しており、イギリス軍はまず同諸島の奪回を行うべく先に海兵隊員とワスプヘリコプターを搭載して同海域に派遣されていた英海軍氷海巡視船エンデュアランス号(ice patrol vessel HMS Endurance 3,600t)の増援として機動艦隊より駆逐艦アントリム号(County class destroyer HMS Antrim (D18) 6,200t)、22型ボクサー級フリゲート艦ブリリアント号(Boxer class Type 22 frigate HMS Brilliant 4,400t)、ロスシー級フリゲート艦プリマス号(Rothesay-class frigate HMS Plymouth 2,150t)、チャーチル級原子力潜水艦コンカラー号(Churchill class nuclear-powered submarine HMS Conqueror 4,900t)、補給艦タイドスプリングス号(tanker RFA Tidespring 27,400t)の3隻に英海兵隊隊員110人と英陸軍特殊部隊SAS(特殊空挺部隊、Special Air Service)中隊、少数のイギリス海兵隊SBS(特殊舟艇部隊、Special Boat Service)隊員を分乗させタスクフォース(Task Force)として派遣。パラケット(Operation Paraquet)と名付けられたこの作戦はSAS、SBSによる隠密偵察でサウスジョージア島のアルゼンチン軍戦力を把握し、海兵隊によって攻撃、制圧するという計画でした。

1982/4/20、イギリスの駆逐艦アントリム号を筆頭としたタスクフォースが、同海域に先に派遣されていた氷況巡視船エンデュアランス号と合流してサウス・ジョージア島に接近。

4/21早朝、サウスジョージア島西側約50kmの地点から駆逐艦アントリム号のウェセックスヘリコプター1機(シコルスキー S-58 チョクトー (Sikorsky S-58 Choctaw)が発進し、サウスジョージア島のフォーチュン氷河を偵察。アルゼンチン軍勢力が同区域に存在しないことを確認して、一旦アントリム号に帰還。同艦に同乗していたSAS隊員を積載。補給艦タイドスプリングス号から同じくSAS隊員を積載して飛び立ったウェセックスヘリコプター2機と合流して偵察上陸を敢行するも、悪天候で作戦行動がとれずに断念して撤収。その際、輸送に使用された英海軍のウェセックス HU.5ヘリコプター2機が悪天候により墜落。搭乗員は他のヘリにより救助される。

4/21正午、天候が回復したのを機に再度上陸作戦を行い、今度はSAS隊員らの上陸を成功させた。哨戒任務で出撃していた英海軍第800飛行隊のシーハリアーと、偵察任務で飛来したアルゼンチン空軍第1グループのボーイング707が会敵。海空封鎖発効前だったためハリアー側は発砲許可がおりず、写真撮影のみで両機とも撤収。

4/22深夜、サウスジョージア島のストロームネス港へ英海兵隊SBS隊員による動力機付きゴムボート5艇を使用した偵察上陸作戦が再度行われたも一部が悪天候により上陸に失敗し、内2艇がエンジンの故障から遭難して行方不明になる。

4/23早朝、アントリム号のウェセックスヘリが1時間に渡って捜索活動を行った結果、この行方不明になったボート2艇が発見されて全員救助され、ヘリのパイロットの海軍少佐がこの救助活動の功績で紛争後に殊勲十字章を授与された。

4/25早朝、英海軍タスクフォース艦載のウェセックス HU.5らヘリコプター部隊がサウス・ジョージア島沖合でアルゼンチン海軍バラオ級潜水艦サンタフェ号(Balao class submarine ARA Santa Fe S-21 (水上1,900t)水中2,480t) を発見し攻撃。サンタフェ号は同日サウス・ジョージア島に擱座。乗組員は艦を放棄し上陸後、イギリス軍に降伏。

1982/4/25午後: イギリス海兵隊がサウス・ジョージア島に上陸して、3週間後にイギリス軍が奪回。同島のアルゼンチン軍守備隊は全員が降伏。

スタンレーのイギリス海兵隊と同じく捕虜となった守備隊の英海兵隊員は、中立国のウルグアイ経由でイギリス本土へ送還された。
参考:〜
・サウスサンドウィッチ諸島の戦い
1982/6/20、イギリスが無人のサウス・サンドイッチ島を無血で再占領

参考HP:〜
サウスジョージア島の地図
フォークランド戦争の地図(イギリス軍の展開)
南極周辺の島々の地図(日本語)
サウス・サンドイッチ諸島の地図

こちらで、領土の帰属をめぐる紛争地帯の
南砂諸島
西砂諸島
西砂海戦
北方四島
竹 島
ガ ザ
パレスチナ紛争
マルビナス危機
フォークランド戦争
、をお楽しみください。

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。      12/12/13
サウス・サンドウィッチ島

アルゼンチン 2012 発行

スタンプ・メイツ
Copyright(C):Spice
無断転載禁止