United Kingdom

国連 1983 発行
切手で綴る 絶海の孤島(Lonly Island) No.7
ピトケーン諸島
Pitcairn Islands
, British Overseas Territories

大航海物語
  地図編

PITCAIRN ISLANDS
ピトケ−ン島

ピトケーン 1969/9/17 発行
太平洋でのタヒチ島ピトケーン島の場所(中央付近)
ノーオークフィジートンガサモアタヒチピトケーンイースターの島々
ジョ|ジ6世
英領ピトケーン 1940-51 発行(200%)

ビッグ・ジョージ海岸
Big Goerge


ピトケーン 1981/1/22 発行
クリスチャン洞窟
Christchan Cave


ピトケーン 1981/1/22 発行
パワラ谷尾根
Pawara Valley Ridge


ピトケーン 1981/1/22 発行

タトリモア(Tatorimoa)断崖
島の断崖絶壁に野鳥のコロニーが有


ピトケーン 1981/1/22 発行
グンカンドリ
FRIGATE BIRD


ピトケーン 1964-65 発行
アジサシ
FAIRY TERN


ピトケーン 1964-65 発行

ピトケーン諸島
 Pitcairn Islands
, British Overseas Territories
・面積:約47ku
・人口:56人(2013)
・1番切手:1940年 発行
 ・ピトケーン島〜約4.5ku、人口:56人の小さな島
 ・サンディ島〜約0.69ku、無人のオエノ珊瑚環礁
 ・オエノ島〜約0.69ku、無人のオエノ珊瑚環礁
 ・ヘンダーソン島〜約37ku、無人のサンゴ珊瑚環礁
 ・デュシー島〜約6.5ku、無人のサンゴ環礁
ピトケーン諸島はイギリスの植民地で、ピトケーン島をはじめとして、全部で5つの島から成り立っている。諸島といっても一番東のデュシー島から一番西のオエノ島まで500km以上の広がりがあり、その中に5つサンゴ珊瑚環礁島が散在しているだけで、ピトケーン島以外には人は住んでいないので、実質ピトケーン島がこの植民地の全て。

・ピトケーン島
 (Pitcairn Island)
ピトケーン島は火山性(最高峰が355m)の面積4.50kuの小さな島で、島の周囲は断崖絶壁に取り囲まれており、荒波が島を叩き寄せているため海岸線はほとんど無く岩がごろごろしている浜が ほとんどで、気候は亜熱帯海洋性で、7月から12月は雨季になる。ピトケーン島には15世紀頃までポリネシア人が住んでいたことが考古学的に明らかになっている。その後1606年にスペインのキロスが発見するまでは無人島であった。 1767年にマゼラン海峡を突破したイギリス軍艦2隻が互いを見失い、片方のサミュエル・ウォリス艦長のドルフィン号がタヒチ島に行き当たり、南方の航路をたどっていた、一方の軍艦スワロー号のフィリップ・カートレット艦長がこの島影を見かけ、最初の発見者であるスワロー号の乗組員(士官候補生)ロバート・ピトケアン(アメリカ独立戦争の英海兵隊ジョン・ピトケアン少佐の息子)の名前に因んでピトケーン島と命名した。

・サンデー島(Sandy Island)、珊瑚環礁に小さな3つの砂の島有
 ピトケーン島から143kmの北西部にあるオエノ島のすぐ近くにある無人の珊瑚礁で、
 オエノ島と共にオエノ珊瑚環礁を結成して、 サンデー島は浅いラグーンで、
 ヤシの木などの植物も無い小さな砂の島。

・オエノ島 (Oeno Island)、珊瑚環礁に小さな5つの砂の島有
 オエノ島はピトケーン島から北西120kmにある面積約2kuの無人の
 サンゴ環礁の島で、サンデー島と共にオエノ珊瑚環礁となる。

ヘンダーソン島(Henderson Island)
 ヘンダーソン島はピトケアン島から約190Km離れた所にある面積約37kuの
 珊瑚礁の島で周囲は岩礁に取り囲まれている。1606年にスペインのキロスが発見、
 上陸した際は無人島でだったが、古代ポリネシア人の痕跡を発見。その後、島の存在は
 しばらく忘れ去られていたが、1819年にイギリスのヘンダーソン船長が島に到着し
 「ヘンダーソン島」と命名。1988年に世界自然遺産に登録。

・デュシー島(Ducie Island )
 デュシー島は面積約6.50 kuの無人のサンゴ環礁で、1902年からピトケーン諸島に属する
 イギリス領になり、ピトケーン諸島の中では一番東の方にあり、ヘンダーソン島からでも
 350 km離れた所にある島。1606年にキロスが発見し、エンカルナシオン島と名付けた。
 その後1791年にパンドラ号エドワード・エドワーズ艦長がバウンティ号の反乱者達を
 捜索している時に再発見、イギリス海軍のフランシス・デュシー公爵の名にちなんで、
 デュシー島と命名。

参考:〜
・バウンティ号の反乱(1789/4/28)
バウンティ号は1787/12/23にイギリスのポーツマス港を出帆しました。出帆時から艦長の厳しさに不満を抱いていた乗組員達は、苗木を積み込んでからの「水の制限」により、不満が一気につのり、副長フレッチャ−・クリスチャンをそそのかして味方につけ、1789年4月28日早朝に、副長が船を乗っ取り、ブライ艦長以下を1隻のボートに押し込め、船から追放しました。

1808年にアメリカの捕鯨船トパーズ号(sealer Topaz、Capt Mayhew Folger)がたまたまピトケーン島の近海を通りピトケーン島に上陸し、そこで男性1人、後は女性が10人、子供が20数人の集団と出会いました。男性の名前はジョン・アダムスと言い、彼の他にこの島には成人した男性は住んでいませんでした。このようにして、絶海の孤島ピトケ−ンで唯一の生存者ジョン・アダムスが発見されましたが、クリスチャン副長はその生死が分かりませんでした。

さらに1814年にピトケーン島にたどり着いたイギリス船によって、この島がバウンティ号の反乱に加わった水兵達が落ち延びてきた島である事が判明しました。そこでアダムスに対する尋問が始まり、判明したことは、この島に辿り着いた水兵とタヒチから連れてきた男性達が互いに殺し合い、その他の者は病気、自殺、事故、喧嘩により既に死亡していました。アダムスただ一人が生き残ったと言う事でした。クリスチャン副長は殺されたと言われています。この事件はバウンティ号の反乱の後日談として、本国イギリスでは非常にセンセーショナルに伝えられました。アダムスは後(1825)に反乱に対する恩赦を与えられ、ピトケーン島で亡くなりました。彼の名前は町の名前「アダムスタウン」として残っています。クリスチャンの子孫は現在も残っています。1838年ピトケーン諸島はイギリス領となって、現在まで続いています。

・ピトケーン島その後:大百科事典などより:〜
ピトケーン島は1829年にイギリスの領土であると宣言され、正式にイギリスの植民地となっている。1831年に島民はイギリスにより、タヒチに移住させられたが、その後再びピトケーン島に戻った。しかしその後、島民はジョシュア・ヒルという成り上がり者の圧政に苦しむ事になる。この男は支配者気取りで、専制政治にあえて異を唱えた3人の島民に対して鞭打ちの刑を科したりした。島民が、通りすがりのイギリス船の船長に、自分達をヒルから解放してほしいと訴えた1838年までの6年間、ヒルはピトケーン島に居続けた。その時以来、島民は自分達がイギリスの正式な構成員であると言う事を自覚したのである。ピトケーン島は絶海の孤島という事で交通の便も良くなく、生活の上で色々不便であったため、その後ピトケーン島の住民たちはタヒチや西クリスマス島などへ移住を試みたが、環境に適応できないなどの理由によって、結局その多くがピトケーン島に住みつづける事になった。しかし現在ではノーフォーク島ニュージーランドに移住する者が多くなって、人口は減少傾向にあった。1937年にはバウンティ号の船員とタヒチ人の子孫233人が住んでいたが、その後、多くがノーフォーク島やニュージーランド等に移民し、現在は47人しか残っていない。現在の島の村長、スティーブ・クリスチャンはフレッチャー・クリスチャンの子孫である。

・バウンティ号の反乱とピトケーン島をこちらでお楽しみください。

参考HP:〜
 ・ピトケーン島の地図
 ・ピトケーン島の場所地図

こちらで
世界遺産
ピラミッドエジプト
パルテノン神殿ギリシャ
姫路城 (日本
をお楽しみください。

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。     09/11/30追記, 2021/9/5
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