France

国連 1980 発行
 切手で綴る フランス王族(10
マントノン夫人
Madame de Maintenon

ブルボン朝 (Bourbon dynasty, 1589-1792)
フランス編

ブルボン紋章

REPUBLIQUE DU TCHAD
マントノン夫人
フランス王室の肖像画
※10(12 Paintings

(Portraits of French Royalty)
チャド 1971 発行

I太陽王ルイ14世妻(側室1684-1715)マントノン夫人(Madame de Maintenon)
 マントノン侯爵夫人フランソワーズ・ドービニェ
 (Francoise d'Aubigne, Marquise de Maintenon, 1635-1719)84才没
マントノン夫人は、ルイ14世の貴賤結婚で王妃ではない妻。最初の結婚でスカロン夫人(Madame Scarron)と呼ばれ、宮廷ではマントノン夫人(Madame Maintenon)と呼ばれるも王との結婚は秘密結婚。父のコンスタン・ドービニェ(Constant d'Aubigne, 1585-1647/8/31)はユグノー教徒で、1619年に最初の妻を殺害して逮捕された前科があって、リシュリュー枢機卿に対する陰謀に加担して投獄。1639年に父は釈放されて家族と共にマルティニーク島へ向かい、島北西部サンピエール(Saint Pierre)に居住。
太陽王 ルイ14世

フランス 1959 発行
当時のマルティニーク島はドミニカ島のカリブ族からの絶え間ない襲撃に晒され続けていたので、1645年に父はフランスへ帰国。夫人は2年後の1647年に12才で帰国するも、1ヵ月後に父が急死、母も他界。夫人は伯母の元へ預けられて、聖ウルスラ会女子修道院(Ordre de Sainte-Ursule, 1539)へ厭々入って、修道女の一人に大事に愛されて育ちカトリックに入信。1651年頃に伯母が夫人をパリへ連れて行った時に、25才年上のリウマチ性の関節炎で身体障害の喜劇作家ポール・スカロン(Paul Scarron, 1610-1660/10/6, 50才没)と出会いました。スカロンは、自分が持参金を払うので結婚しようと申し出て、夫人は16才で結婚。夫の看護をしながら夫の社交文学サロンの女主人となって9年間の結婚生活を送り、文筆家や社交界の有名人らと知り合いました。1660年に夫に先立たれると、アンヌ・ドートリッシュ王太后が夫人に年金を与えたため、文学サロンを続けました。1666年に王太后が病没すると、ルイ14世は夫人の年金を中断したので、ポルトガル王妃で輿入れの決まったヌムール公爵令嬢マリー=フランソワーズの女官としてポルトガルのリスボンへ向かう支度を始めました。出発前にフランソワーズ令嬢はモンテスパン夫人と出会い、フランソワーズ夫人を気に入っていたモンテスパン夫人がルイ14世に頼んで年金を復活させたのでパリに留まりました。1669年に夫人は、ルイ14世とモンテスパン夫人の第1子が誕生して養育係となり、王の庶子たちを大きな愛を持って接する献身的な働きに対して、王は多額の報酬で報いました。1674/12月に夫人はヴィルロワ侯爵夫人(Marquis Villeroy)の保有して売りに出されていたマントノンの所領とマントノン城を購入し、別の邸宅で育てられていた王の庶子たちはマントノン城で暮らすようになり、1678年に夫人はルイ14世から所領にちなんでマントノン侯爵夫人(Marquise de Maintenon)の称号を与えられ、このようなルイ14世の引き立てがモンテスパン夫人の嫉妬をかいモンテスパン夫人との仲が悪化、モンテスパン夫人の生んだ子供たちと彼らの世話について頻繁に口論するようになりました。1670年代の後半から、王は余暇の時間をマントノン夫人と過ごし、政治・信仰・経済を論じ合いました。1680年に王はマントノン夫人を王太子妃マリー・アンヌ・デ・バヴィエール(Marie Anne Christine Victoire de Baviere, 1660-1690/4/20)の第二女官長にしました。1681年に王の愛妾フォンタンジュ嬢(Marie Angelique de Scorailles de Roussille, 1661-1681/6/28)が出産時に急逝。ドートリッシュ王妃も1683年に没し、翌1684年に夫人は王太子妃の第一女官長。王との結婚は、1684/1月頃(1683/10/9有)にパリ大司教(archbishop)が司った私的な挙式で、マントノン夫人はルイ14世と結婚。王とは社会的階層の不釣合いのために、結婚を公にしたり王妃になれない貴賎結婚で結婚の証明書は何も存在せずも、結婚式は確かにあったといわれています。1684年に夫人は良家出身の貧しい子女のためにパリから21kmのイヴリーヌ県サン=シール=レコール(Saint-Cyr-l'Ecole)に女子寄宿学校の聖ルイ王立学校メゾン・ロワイヤル・ド・サンルイ(Maison royale de Saint-Louis, 1684-1793/3)を創設して生徒たちに親しみやい
母のように慕われました(フランス革命で閉鎖して軍事病院)夫人はフォンテーヌブロー勅令(Edict of Fontainebleau 1685/10/22)発布で、ユグノー教徒などのプロテスタント信徒に対してカトリック信徒とほぼ同じ権利を与える近世のヨーロッパでは初めて個人の信仰の自由を認めた仏王アンリ4世がナントで発布したナントの勅令(Edict of Nantes 1598)の破棄による、武力でユグノー教徒にカトリックへの再改宗を迫ったドラゴネード政策(Dragonnades)の残酷さに反対を表明(ジュネーブ国際宗教改革博物館に風刺画が有)。 アンリ4世とナントの勅令
1686年に、モンテスパン夫人は1679年の黒魔術黒ミサ事件(毒殺事件)に関わったとして急速に評判を落としていたこともあって宮廷を去りました。1715年に夫ルイ14世が亡くなった後、サン=シールへ引退。そこへはロシアのピョートル大帝などが訪問。1719/4/15に夫人は83才で亡くなってサンルイ王立学校の教会内に埋葬。カナダのノヴァスコシア州ケープ・ブレトン島(Cape Breton Island, Nova Scotia)沖にある小島ロワイヤル島が、夫人にちなんでマダム島(Isle Madame)と改名されました。

参考HP:〜
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・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。   令和 R.4/5/26(2022)

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