切手で綴る 太平洋戦争 物語
第3部 <米国(連合軍)の反攻>
第18章 フィリッピン
98 <米軍、ルソン島上陸>
1945/1/9
米軍、リンガエン湾上陸

ダグラス・マックアーサー大将
Gen.Douglas Macarthur 1880-1964

Oct. 20 1944 MacArthur Returns Phillipinas

パラオ 1994 発行
リンガエン湾へ急ぐ米艦隊

Pensylvania, Colorado, Louisville, Portland, Columbia
1945 太平洋戦争の終結50周年記念 1995
シエラオーネ 1995 発行

米軍、リンガエン湾へ上陸

フィリピン  発行

米軍、ルソン島上陸、1944/12/15、米軍の勝利
 ・ルソン島の戦い、1945/1/6〜1945/8/15
  (Battle of Luzon、1945/1/9〜1945/8/15)
  場所:フィリピン共和国北部ルソン諸島にある最大の島
     (Luzon Island, Republic of the Philippines)
<序章>
・米軍のミンドロ島上陸、昭和19年12月15日
 ・ミンドロ島の戦い、1944/12/15〜2月下旬
  (Battle of Mindoro、1944/12/13〜、1944/12/16)
1944/12/15、米軍を主体とする連合軍がルソン島奪回の足がかりにミンドロ島へ上陸を敢行、島は戦場と化しました。帝国海軍は上陸した米軍に打撃を与えるべく「礼号作戦」を実施、マンガリン湾に7隻の挺身艦隊を突入させ米軍に被害を与え離脱しました。これは太平洋戦争における帝国軍最後の勝利となるも、戦況に大きな影響はなく、ミンドロ島の帝国軍は山岳部に敗走し、飢餓と疫病、地元ゲリラとの戦闘で多くが死亡しました。作家の大岡昇平氏はミンドロ島で捕虜となり、後にこの島を舞台とした数々の戦記小説を書いているほか、1956年になってもミンドロ島からは4人の残留帝国兵が帰国しました。
<両軍の兵力と損害>
○帝国の兵力
帝国軍〜1,000人
非戦闘員〜200人
○連合軍の兵力
連合軍〜27,000人
○帝国軍の損害
・戦死〜200人
・戦傷〜375人
○連合軍の損害
・戦死〜148人
・戦傷〜271人
※数字には諸説有
▽両軍の編成:〜
○帝国軍の編成:〜約1,200人
  ・第105師団独立歩兵第359大隊派遣
   ・臨時歩兵2個中隊
   ・後方部隊など〜計約1,000人駐留
   ・撃沈輸送船々員〜約200人滞留
  ・海軍の水上機基地、など
※主力の歩兵2個中隊は、ルソン島展開の第8師団(師団長:横山静雄中将)歩兵第17連隊から指揮を受け、サンホセと島北端カラパンに1個中隊ずつが配置され、さらに小隊単位で分散。

○米軍の編成:〜27,000人
米軍の戦力〜計188隻
・上陸船団〜125隻
  司令官アーサー・D・ストラブル少将
 ・旗艦、軽巡ナッシュビル号
 ・護衛駆逐艦〜12隻
 ・輸送艦〜81隻
  ・APD〜8隻、高速輸送艦(High Speed Transports)
  ・LST〜30隻、戦車揚陸艦(Landing Ship, Tank)
  ・LSM〜12隻、中型揚陸艦(Landing Ship Medium)
  ・LSI〜31隻、歩兵揚陸艦(Landing ship, infantry)
 ・掃海艇〜17隻
 ・雑舟艇〜14隻
・直接護衛〜船団前方〜33隻
 ・重巡1、軽巡2、駆逐艦7隻
 ・高速魚雷艇〜23隻(占領後に駐留予定)
・間接護衛〜船団後方(上空援護部隊)〜30隻
 ・護衛空母6、戦艦3、重巡3、駆逐艦18隻。

米軍のルソン島上陸>、1945/1/9
・ルソン島の戦い、1945/1/6〜1945/8/15
  (Battle of Luzon、1945/1/9〜1945/8/15)
帝国第14方面軍はレイテ決戦を完全に諦めルソン島での作戦に臨むこととなりました。しかしルソン島から多くの兵力・軍需品をレイテ島に送り出した後での再度の決戦は望み得ず、本土決戦の準備を稼ぐためになるべく多くの米軍を拘束するよう長期持久作戦を行うことを決定。第14方面軍はルソン島指揮下の兵力を3分し、其々の地域で「自活自戦、永久抗戦」で米軍を牽制・拘束に努めることとしました。ルソン北部には主力の5個師団、後に6個師団をもって
・バギオを中心にした北方拠点を尚武集団と呼称、
・マニラ東方山地には2個師団をもって振武集団とし、
・クラーク西方山地には陸海航空部隊と第1挺進団からなる建武集団
配置され、この3大拠点を堅固に占領して永久抗戦の態勢を整えようとしました。

昭和20年1月9日米第6軍は空母12隻を含む850隻の大艦隊でルソン島リンガエン湾から上陸を開始。抵抗はほとんどなし。その後、帝国軍は陸上・海上の挺進攻撃を繰り返しましたが、結局大きな成果を期待することはできず、沿岸を守備した第23師団(西山中将)は23日頃には各所で分断。第58旅団(佐藤少将)からの部隊と戦車第2師団の中核旅団(重見少将)は夜間反撃作戦を企図、装甲・砲力に劣る九七式中戦車では米M4戦車を撃破することはできず多くの戦車を失い敗退。

<在ルソン部隊・3集団(総計28万7千人)のその後>
・尚武集団(152,000人・北部拠点)の拠点北部ルソンは、大部分がけわしい山岳地帯で持久戦闘に適し、真中にあるカガヤン河谷の平地は穀倉地帯であり自活自戦の長期戦に適する地域であった。方面軍主力はサラクサク、バレテ峠に守ってこの拠点に立てこもり逐次圧迫を受けながらも、最後にはプログ山を中心に複郭陣地を占領して終戦まで戦いぬきました。

・建武集団(105,000人・中部ルソン)は100余の混成部隊で編成され、クラーク飛行場の使用を拘束妨害する任務をもって西方拠点を占領していた。しかし海没部隊、臨時挑発部隊、軍艦を失った海軍部隊、航空隊関係等雑軍のそしりは免れず、戦闘力は不十分であった。昭和20年1月末にはリンガエン湾から南下した米軍に第1線陣地を突破され、また背後から上陸した敵の挟撃を受け、ピナツボ山のふもとに戦線を収縮して最後の抵抗を行いました。

・振武集団(30,000人・クラーク西方拠点)はマニラ湾及びマニラ付近の航空基地の使用妨害を主任務とし、主力をもってマニラ東方山地に東方拠点を占領していた。マニラ陥落後は各所において敵に突破され陣地が崩壊し、山中に圧迫された。5月1日から第41軍と呼称されたが6月末には組織的戦闘力は喪失、爾後東方山地の広大な地域に分散し自活自戦を継続し終戦に至りました。

<ルソン島の戦い>
両軍の兵力と損害:〜
○帝国の兵力
帝国軍〜約250,000人
○連合軍の兵力
連合軍〜約175,000人
○帝国軍の損害
・戦死戦病死〜約217,000人
○連合軍の損害
・戦死〜8,310人
・戦傷〜29,560人
※数字には諸説有
▽両軍の編成:〜
○帝国軍の編成:〜
・第14方面軍(山下奉文大将)
 ・尚武集団(北部) 総兵力約15万2000人 山下奉文大将
  ・第10師団
  ・第19師団
  ・第23師団
  ・第103師団(独立歩兵8個大隊基幹)
  ・第105師団(独立歩兵8個大隊基幹)
  ・戦車第2師団
  ・独立混成第58旅団
  ・独立混成第61旅団(パブヤン海方面)
  ・第4航空軍地上部隊
  ・その他兵站諸部隊
 ・振武集団(マニラ北東地区) 総兵力約10万5000人 横山静雄中将
  ・第8師団
  ・第105師団(尚武集団に転出)
  ・マニラ防衛隊
  ・その他海上支援兵力
 ・建武集団(マニラ北西地区) 総兵力約3万人 塚田理喜智中将
  ・第1挺進集団
  ・永吉支隊(第10師団歩兵第39連隊基幹)
  ・その他陸海軍航空部隊。

○連合軍の編成:〜850隻、約175,000人
連合国軍南西太平洋地域総司令官・ダグラス・マッカーサー大将
 ・米第6軍(ルソン島) ウォルター・クルーガー中将
  ・7個師団、2個野戦砲兵群基幹
 ・米第8軍(その他諸島) ロバート・アイケルバーガー中将
  ・計11個師団
 ・英豪連合軍 ブラメー大将
 ・連合国空軍 ジョージ・ケニー大将
 ・連合国海軍(第7艦隊主力) トーマス・C・キンケイド中将。

参考HP〜
フィリピンの地図(ルソン島の場所地図:赤い所)
フィリピンの地図(ミンドロ島の場所地図:赤い所)
フィリピンの地図


ミンドロ島沖海戦1944/12/26
  (Battle off Mindoro Island)、帝国軍の作戦勝ち
  別名:海軍「礼号」作戦
  場所:フィリピン・ミンドロ島沖海域
      (Off Mindoro Island, Philippines)
1944/12/15早朝、連合軍がミンドロ島に上陸。これに対し帝国軍はフィリピンの各航空基地から、なけなしの機体を繰り出し特攻機とその護衛機併せて海軍47機、陸軍13機が攻撃に向かいました。米船団旗艦の軽巡ナッシュビル号を損傷脱落させ、揚陸中のLST
帝国の重巡 足柄

グレナダグレナディーン 1995 発行
2隻を撃沈するも、陸軍機は全滅、海軍機も帰還十数機のみの大損害を蒙りました。その後も小規模ながら帝国軍の波状攻撃は続けられるも、米軍機動部隊(第38任務部隊)の活動で帝国軍航空戦力は大打撃を受けました。

12/15 早朝、連合軍がミンドロ島に上陸
米軍の間接護衛艦隊は帝国艦隊出撃の誤報で急行、帝国陸軍の機動艇を撃沈
夜、米艦隊は掃海艇2隻と魚雷艇23隻をミンドロ島に残して離脱
12/16 ミンドロ島サンホセ市が米軍に完全占領される
12/17 米軍機動部隊は燃料補給のためルソン島東方海面に移動したが、折しもコブラ台風に遭遇して駆逐艦3隻を喪失、燃料補給も出来なくなったため米軍機動部隊は修理と補給のためウルシー環礁に引き上げ
12/20 ミンドロ島の飛行場が稼動を開始
12/22 米の追加物資を搭載した各種輸送船23隻(ほか入港前に空襲で2隻喪失)と駆逐艦11隻の船団がミンドロ島に入港、揚陸の完了しなかったリバティ型貨物船4隻を残し即日出港
12/24 帝国艦隊8隻の挺身部隊が仏領インドシナのカムラン湾を出撃
当初マニラに向けて航行する偽装針路を取る
12/26 米飛行場2ヵ所に約120機が展開
未明 帝国艦隊が針路を南南東へ、ミンドロ島沖の針路に変針
16:03 足柄から水上偵察機2機が対潜哨戒に発進、帝国艦隊が米機(四発B-24爆撃機)に発見される B24リベレーター

キリバス 1993 発行
18:00 〜20時に米第5空軍B-25双発爆撃機P-38戦闘機などが続々と帝国艦隊上空に飛来、朝霜が空襲で17人が戦死、他艦も損傷を受け、足柄がB-25爆撃機投下500ポンド爆弾1発が命中、火災発生するも消火に成功
20:45 朝霜が爆撃を受けるも命中せず、その後、続々と米軍機が各艦を攻撃
21:01 大淀が爆撃され、250kg爆弾2発が命中するも不発、一発は艦橋脇を貫通し海中へ落下、もう一発は缶室直上まで甲板を貫通して停止
21:15 第2駆逐隊 清霜がB-25の爆撃で左舷中部に250kg爆弾を受け機関室を直撃、重油タンクが破壊され左舷の機関は停止、航行不能となるとともに浸水、洋上に停止するも、他艦は救助に当たる余裕は無く、炎上する清霜を取り残して各艦は進撃、足柄に米機B-25が衝突、火災発生のため搭載魚雷を投棄、死傷者は70人
21:30 榧は機銃掃射後の機体引き起こしのタイミングを誤ったP-38が後マストに当たり、根本から折れる被害が出る
21:45 清霜が大爆発を起こして沈没
23:00 頃、帝国艦隊が空襲と魚雷艇の襲撃を受けつつもミンドロ島西部マンガリン湾に突入、サンホセの米上陸海岸へ攻撃開始、沖合の輸送船4隻へ霞4本、樫2本、榧2本の雷撃を加え、撃沈破3隻以上を報告するも、米軍記録では輸送艦リバティ船ジェームス・A・ブリーステット号 (SS James H. Breasted, 14,245t) 大破炎上、着底のみ。ついで、大淀・足柄は米魚雷艇雷撃を全て回避し、足柄・霞・樫・榧と共に湾内停泊の輸送船や上陸海岸の物資集積所に向けて約20分間砲撃。戦闘の間、足柄から発進した水偵が照明弾を投下、基地発進の瑞雲水上偵察機3機が飛来、援護を行う。米軍は魚雷艇PT-77など数隻が航空機の攻撃で損傷。帝国陸軍も戦闘機8機と重爆撃機1機を出動させ、飛行場4ヵ所炎上
12/27
00:04 木村司令官は攻撃終了を下令、部隊は避退行動に移り、2隻(霞、朝霜)を清霜乗員の救助にあたらせるため残留させ、残りは先にカムラン湾へ向かう。2隻(霞、朝霜)は機関を止めて航空機と魚雷艇を警戒しつつ救助活動を行い、木村少将自ら双眼鏡越しに海上に浮かぶ清霜乗員を数え、1時間14分に及ぶ救助作業の末、白石長義(第2駆逐隊司令)以下91人が霞に、清霜駆逐艦長以下167人が朝霜に、計258人が救助され、清霜乗組員の戦死行方不明者は84人、行方不明者の内5人は米魚雷艇が救助
02:34 救助作業を終えた2隻(霞、朝霜)がカムラン湾へ向かう
12/28 給糧艦 野埼が米潜デイス (USS Dace, SS-247) 雷撃で沈没
作戦帰途の榧と杉、樫が野埼の乗員を救助
18:30 霞、朝霜がカムラン湾に無事帰投
12/29
11:35 樫は作戦を通じ戦死者3、負傷者6人なるも、カムラン湾に無事帰投
18:30 帝国艦隊残存艦(足柄・大淀・榧・杉)がカムラン湾に無事帰投
榧は後部マスト折損の他に機銃掃射で缶の一つが使用不能となり、火災が発生して最大速力が20ノットに下がる損傷を受け、戦死者4人、負傷者17人
大淀は距離14,000mから輸送船3隻を砲撃、火災を発生させたと記録の他、15.5cm通常弾42発、徹甲弾31発、照明弾25発、高角砲弾61発を発砲、輸送船2隻大破、魚雷艇1隻撃破、飛行機2機撃墜を主張
迎撃の巡洋艦4隻、駆逐艦8隻からなるチャンドラー部隊は帝国艦隊を捕捉出来ず。

<ミンドロ島沖海戦>
両軍の兵力と損害:〜
○帝国の兵力
・重  巡〜1隻
・軽  巡〜1隻
・駆逐艦〜6隻
○連合軍の兵力
・魚雷艇〜10隻
・航空機〜120機
○帝国軍の損害
沈没・駆逐艦〜1隻
中破・重  巡〜1隻
小破・軽  巡〜1隻
   ・駆逐艦〜1隻
○連合軍の損害
放棄・輸送船〜1隻
損傷・魚雷艇〜数隻
喪失・航空機〜約30機
※数字には諸説有

▽両軍の編成:〜
○帝国軍の編成:〜
海軍挺身部隊
  司令官:木村昌福(まさとみ1891-1960) 第二水雷戦隊司令官
・第一挺身隊 旗艦:駆逐艦 霞(かすみ)
 ・一番隊:駆逐艦 清霜、朝霜
 ・二番隊:駆逐艦 榧(かや)、杉、樫(かし)
・第二挺身隊
 ・重巡洋艦 足柄
 ・軽巡洋艦 大淀。

○米軍の編成:〜
・基地航空機:120機
・在泊艦船:輸送船4隻、魚雷艇10隻
・チャンドラー部隊〜帝国艦隊迎撃のため出動
  司令官:T・E・チャンドラー少将
   (Rear Admiral Theodore E. Chandler, 1894-1945/1/7マニラ湾で戦死)
   (重巡ルイスビル号(USS Louisville CA-28)の特攻機攻撃で重傷後に没)
 ・第4巡洋戦隊
  ・巡洋艦〜4隻
   ・重巡ルイスビル号(旗艦)、ミネアポリス号
   ・軽巡フェニックス号、ボイシ号
 ・第56駆逐戦隊
  ・駆逐艦〜8隻。

▽両軍の被害:〜
○帝国軍の被害:〜
・沈没〜駆逐艦 清霜
・中破〜重  巡 足柄
・小破〜軽  巡 大淀
      駆逐艦 朝霜。

○米軍の被害:〜
・輸送船ジェームス・A・ブリーステット号が炎上、大破着底放棄。

参考HP〜
フィリピンの地図(ミンドロ島の場所地図:赤い所)
ミンドロ島・ビサヤ諸島・レイテ島の地図(連合軍侵攻の場所地図)

参考:〜
米掃海艇 パースート号の装備:〜就役:1943/4/30
  (USS Pursuit AM-108、アメリカ海軍掃海艇:Minesweeper)
掃海艇 Auk-class minesweeper 米:掃海艇パースート号

キリバス 1993 発行
建造所 Winslow Marine Railway & Shipbuilding Co
全 長 67.44m
全 幅 9.8m
吃 水 3.28m
排水量 904t
速 力 18 kt (33km/h)
乗 員 100人
武 装 3"/50キャリバー砲(caliber gun)1門、40mm機銃2丁
※退役:1947/4/30。

米軍のレイテ島反抗地図








99 <米軍、マニラ市内突入>
1945/2/3
米軍、マニラ解放 3/3、占領

マニラ市へ突入する米軍

大激戦後、米軍がマニラを解放
Fierce fighting free Manila by March 3, 1944
USA 1994/6/6 発行
米軍はルソン島北部へ進撃

フィリピン 1993 発行

マニラの戦い、連合国軍の勝利、1945/2/3〜1945/3/3
  (Battle of Manila)
  場所:フィリピン共和国ルソン島マニラ市
     (Manila, Luzon Island, Philippines)
昭和20年1月9日ルソン島リンガエン湾から上陸した米第6軍の2個師団はマニラに向かって突進し、1月下旬頃建武集団を突破、2月3日首都マニラ市内に突入しました。マニラ市街には第31根拠地隊司令官・岩淵三次少将指揮下のもと海軍マニラ防衛部隊を中心にした約1万人(他に野口大佐指揮の陸軍部隊)がいました。戦車も重砲もなく、小銃は3人に1挺という状況下に応急陣地で激しく抵抗。2月3日4箇所からマニラ市内に侵入した米軍との間に激しい市街戦が約3週間にわたって展開され、国会議事堂、市役所、中央郵便局をはじめ主要な建造物はことごとく破壊。マニラは焼け野原と化しました。2月26日守備隊の大部分は戦死、岩淵少将は残った部下を司令部を置いた農商務省ビル地下室に集め恩師の酒を酌み交した後に自殺、以降残存部隊が抵抗を示したものの、3月3日マニラ市街戦は終了しました。

<両軍の兵力と損害>
○帝国の兵力
・海軍〜10,000人
・陸軍〜 4,300人
○連合軍の兵力
連合軍〜38,000人
・米軍〜35,000人
・比島ゲリラ〜3,000人
○帝国軍の損害
・戦死〜12,000人
○連合軍の損害
・戦死〜1,010人
・戦傷〜5,565人
・民間人〜100,000人
※数字には諸説有
▽両軍の編成:〜
○帝国軍の編成:〜14,300人
・海軍マニラ海軍防衛隊〜10,000人(6個大隊)
 ・第31特別根拠地隊〜マニラ駐留
   司令官:岩淵三次海軍少将(1895-1945/2/26自殺)
  ・陸上警備科1個中隊
 ・海軍陸戦隊
  (レイテ沖海戦やマニラ湾空襲での沈没艦(武蔵、最上、那智、
   熊野、木曾、曙、初春、若葉、沖波、早霜、隠戸など)乗員など
・野口部隊〜野口勝三陸軍大佐(陸士30期)
 ・陸軍3個大隊〜約4,300人
  ・臨時歩兵〜2個大隊
  ・現地召集の在留邦人〜1個大隊
・装備:〜
 ・高角砲〜43門
 ・対空機銃〜250門
 ・艦載砲弾流用の噴進砲〜6門
 ・迫撃砲・歩兵砲〜46門、など。

○米軍の編成:〜
・陸軍第14軍団〜35,000人
 ・第1騎兵師団
 ・第37歩兵師団
・陸軍第11空挺師団。

参考HP〜
マニラの戦いの地図


参考:〜
米駆逐艦 リングゴールド号の装備:〜就役1942/12/30
  (USS Ringgold DD-500、アメリカ海軍フレッチャー級駆逐艦2番艦)
駆逐艦 Fletcher-class destroyer 米:駆逐艦リングゴールド号

キリバス 1993 発行
建造所 Federal Shipbuilding and Drydock Co., New Jersey
全 長 114.76m
全 幅 12.09m
吃 水 5.41m
排水量 2,080t
速 力 35kn (65 km/h)
乗 員 329人
武 装 Mk12 5インチ砲 5門、ボフォース 40mm機関砲 10門、ボフォース 40mm機関砲 7門、Mk15魚雷 10本、6連装爆雷発射器2基、爆雷投下レール 2基
※、退役1946/3/23。







100 <米軍、コレヒドール奪還>
1945/2/15

空挺作戦
コレヒドールを奪還


コレヒドールの戦い(敗戦)25年記念
フィリピン 1967/8/31 発行
ルソン島バターン半島沖合いのコレヒドール島

コレヒドール島の戦い(米軍の奪回作戦)、米軍の勝利
 (Battle for the Recapture of Corregidor, 1945/2/16〜26)
昭和20年2月下旬のマニラ市街戦と、ほぼ同時期、板垣大佐指揮のコレヒドール島も陥落、3年前(昭和17年5月7日)には、帝国軍が重砲をもって制圧して占領した要塞島コレヒドールが米軍に奪還されました。マニラ湾口に浮かぶ島内で激しい戦闘が展開され、その時の戦闘における帝国軍守備隊、約4,500人が激しく抵抗、生存者は僅かになったと伝えられています。

<両軍の兵力と損害>
○帝国の兵力
・海軍〜3,000人
・陸軍〜1,500人
○連合軍の兵力
・第24歩兵師団
・第503空挺連隊
○帝国軍の損害
・戦死〜4,497人
○連合軍の損害
・戦死〜228人
・戦傷〜727人
※数字には諸説有
▽両軍の編成:〜
○帝国軍の編成:〜
振武集団の隷下
・マニラ湾口防衛隊
  司令官 板垣昂(あきら)海軍大佐(1897-1945/2/17戦死)
 ・海軍兵〜3,000人
 ・陸軍兵〜1,500人
  ・コレヒドール支隊(1個大隊基幹)
   (バターン半島永吉支隊:第10師団1個連隊基幹隷下)
   ・臨時歩兵〜1個大隊など
・特攻艇 震洋〜36隻(2/15突入)。
※中部フィリピン方面へ配備予定の震洋部隊6隊がコレヒドールへ配置転換されるも、'44/12/23エンジン点検中の1隻が爆発、他の艇51隻が誘爆を起こしたとの証言が、こちらの
コレヒドールの戦い(YouTube)に有。

○米軍の編成:〜
・米第24歩兵師団(一部)
 (24th Infantry Division)
  師団長ロスコー・B・ウッドラフ陸軍少将
  (Major General Roscoe B. Woodruff, 1891/2/9-1975)
・第503空挺コンバット連隊
 (503rd Parachute Regimental Combat Team)
  連隊長ジョージ・M・ジョーンズ陸軍中佐
  (Lieutenant Colonel George M. Jones, 1911-1996)。

コレヒドール島要塞では振武集団隷下のマニラ湾口防衛隊(司令官 板垣昂海軍大佐、臨時歩兵1個大隊など陸軍1,500人と海軍3,000人)が防衛にあたっているも、1945/1/22から米軍の猛烈な艦砲射撃と空襲、さらには対岸からの砲撃を受け始めました。コレヒドール島守備隊は2/15に特攻艇 震洋36隻を出撃させ、米上陸支援艇3隻を撃破。2/16に米第24歩兵師団の一部が上陸を開始。第503空挺連隊もパラシュート降下。帝国軍は要塞のトンネルを駆使して夜襲で抵抗するも、2/17に板垣大佐が戦死。2/20以降は大規模な反撃はできなくなりました。3月に入ると遂に島を脱出して、残存兵力約300人だけがバターン半島の永吉支隊へ合流。マニラ湾内の他の島にも連合軍が上陸し、地下施設に石油を流して点火するなどの攻撃で帝国軍を制圧。

また、バターン半島の永吉支隊(支隊長 永吉実展大佐(陸士28)、歩兵第39連隊の2個大隊基幹3,500人)は、1/30に上陸した米第38歩兵師団と第24歩兵師団の1個連隊基幹からの猛攻を受けました。3月頃の帝国軍残存兵力は永吉支隊とコレヒドール支隊の合計で1,500人となり、9月上旬に建武集団本隊とともに投降した時には僅かに約280人。なお、コレヒドール島には敗戦後も帝国兵が潜んでおり、1946/1月に18人が収容されました。

参考HP〜
コレヒドール島の戦いの地図
コレヒドール島の場所地図

こちらで
硫黄島陥落(硫黄島の戦い)
米軍、レイテ上陸(フィリピンの戦い)
をお楽しみください。


参考:〜
ノースアメリカンP-51ムスタング戦闘爆撃機の装備:〜初飛行:1940/10/26
  (North American P-51 Mustang、アメリカ陸軍の戦闘機)運用開始:1942
ゼロ戦を撃墜するムスタング

太平洋戦争50周年記念
真珠湾攻撃〜ミッドウェイ海戦を描く小型シート

ガンビア 1992/8/3 発行 小型シート地
略 称 ムスタング
機体略号 P-51 Mustang
全 長 9.8m
全 幅 11.3m
全 高 4.17m
全備重量 自重3,460kg、運用:4,580kg、最大離陸重量:5,490kg
最高速度 703km/h
上昇限度 実用:12,770m
エンジン 1,490HPパッカード:レシプロ単発単座戦闘機
乗 員 1人
製造者 ノースアメリカン社
航続距離 2,755km(増槽有)
生産数 各型総数15,675機
武 装 固定武装:12.7mm重機関銃M2×6(2,060発)
搭載:爆弾1,000lbs(454kg)×2、又はロケット弾5in×10

参考HP〜
太平洋と連合軍の反抗地図

・上記は こちら の文献などを参照させてもらいました。    2016/4/8

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