切手で綴る 太平洋戦争 物語
第3部 <米国(連合軍)の反攻>
第18章 フィリッピン
91 < 米軍、レイテ上陸>
1944/10/20
マックアーサー大将・レイテ上陸・フィリピンに戻る

マックアーサー大将のフィリピン上陸を描く切手
レイテ島パロ(赤丸)  マックアーサー大将の上陸

第2次世界大戦レイテ湾(パロ)上陸50周年記念
フィリッピン 1994 発行

レイテ島パロに上陸する米ダグラス・マックアーサー大将
マックアーサー大将の上陸、フィリピン帰還
MacArthur Reterns to the Phillipinas 1944


マーシャル諸島 1994 発行
米第1師団のレイテ掃討戦
US 1st Cavalry flash out enemy of Leyte


パラオ 1994 発行

レイテ島の戦いは、1944(昭和19年)10/20から敗戦までフィリピン・レイテ島で戦われた帝国軍と米軍の陸上戦闘で、帝国軍当初の作戦は、ルソン島では陸軍が中心となって戦闘するが、レイテ島を含む他の地域では海軍及び航空部隊で戦闘する方針でした。ところが台湾沖航空戦で大戦果をあげたと信じ切っていた大本営は、フィリピン防衛を担当する第14方面軍司令官 山下奉文大将の反対を押し切り、作戦を急遽変更して陸軍もレイテ島の防衛に参加して迎え撃つことにしました。ルソン島に配備される筈だった多くの陸軍部隊がレイテ島へ送られるも、輸送途中で大損害を受けました。帝国軍は補給の見通しが甘かったことから多くの餓死者を出しました。約2ヵ月の戦闘でレイテ島の帝国軍は敗北し、大半の将兵が戦死する結果となりました。

米軍、レイテ上陸、1944/10/20、連合軍の勝利
  レイテ島の戦い、1944/10/20〜1945/8/15
  (Battle of Leyte、1944/10/17〜1944/12/26)
  場所:フィリピン共和国中部ビサヤ諸島東ビサヤ地方
     (Leyte Island, Visayas group, Republic of the Philippines)
昭和19年10月17日 マッカーサー将軍指揮下の米軍が風速30mの暴風雨の中でレイテ湾の小島スルアン島に上陸。台湾沖航空戦の直後でしたが、大本営はこれを米軍の本格的進攻と判断。10月18日夜「捷(しょう)一号作戦発動」を下令。レイテ決戦は海空主力で実施する計画であり、第14方面軍(山下奉文大将)はルソン決戦を準備しており、レイテ島には地上決戦の計画は有りませんでした。しかし大本営及び南方軍は、敵地上部隊を撃破する好機ととらえ、地上決戦を実行するように命令。これに対し第14方面軍では、現地の空襲の状況や情報主任参謀 堀少佐の分析などから敵空母壊滅の実感はなく、海上決戦(比島沖海戦)の成否、海上輸送の不安などからレイテ島決戦には反対しましたが、22日に南方軍 寺内元帥はその実行を命令。山下大将は第35軍(鈴木宗作中将)に対し、レイテ決戦を電命しました。

昭和19年10月20日 米第6軍は、レイテ島に1日で10万を超える人員と10万トン以上の補給物資を、ウォーター・クルーガー中将指揮の武器弾薬食糧を満載した輸送船420隻に分乗、それをトーマス・キンケード中将指揮の第77機動艦隊(護衛空母18隻、その後にはハルゼー大将指揮の第3艦隊と正規空母17隻が有)が援護していました。その陣容は戦艦や巡洋艦などの戦闘艦は157隻で給油艦や病院船などの特務艦は160隻という海を埋め尽くすような大艦隊で、猛烈な艦砲射撃の後に暴風雨の中で揚陸を開始。10/20午後3時、南西太平洋方面連合軍司令官マッカーサー大将は第3次上陸部隊と共に膝まで水に浸かりながらタクロバン海岸に上陸(コレヒドール脱出後2年7ヵ月)。上陸後、マッカーサー将軍はフィリピン・ゲリラ部隊へ「私は帰ってきた」とラジオで放送して、3年前の約束を果たしました。

帝国軍は第16師団(牧野四郎中将)など約2万が配備されているに過ぎず、師団司令部のあるタクロバン正面は手薄で敵上陸第1日で通信網を寸断され集積物資の多くを失いました。米軍の進出はいがいにも早く、11月上旬戦場はカリガラ、リモン付近に移りました。米軍は着実に戦力を増強し航空、戦車、砲兵の総合威力を遺憾なく発揮しつつあり、一方帝国軍も10/31第1師団(片岡中将)は無傷でオルモック湾に上陸。しかし海上交通が危険のため第2陣以降の増援部隊は空襲により兵力・物資の大部を失い、兵力は最大75,000人にまで達するも、戦力は逐次低下。地上決戦のため兵力、補給品を送る船舶の運行確保が必要で、このため地上部隊はこれを妨害する敵飛行場への攻撃が必要となるというガダルカナル作戦そのままの推移で、第26師団(山県栗花生中将)はブラウエン飛行場に対し攻撃を開始。道のない山越えの前進で12/5から空挺による挺進攻撃(和号作戦)を実施しましたが、大勢を変えるまでには至らず、12/11にはオルモックをも奪還され、攻勢の持続は不可能となりました。12/15米軍はミンドロ島に上陸、サンホセに飛行場を設営し、戦場はルソン島へと移りつつありました。12/19レイテ島の帝国残存部隊は西北角のカンキボット山地に集結、持久戦の態勢に移りました。12月25日大本営と南方軍は第35軍の持久作戦への転換を認可、レイテ決戦は終結しました。

<両軍の兵力と損害>
○帝国の兵力
帝国軍〜84,006人
○連合軍の兵力
連合軍〜200,000人
○帝国軍の損害
・戦死〜79,261人
○連合軍の損害
・戦死〜3,504人
・戦傷〜4,900人
※数字には諸説有
▽両軍の編成:〜
○帝国軍の編成:〜84,006人
  ・第16師団
  ・第102師団
  ・第30師団
  ・第26師団
  ・第1師団
  ・第68旅団、など。

○米軍の編成:〜200,000人
  ・第7歩兵師団
  ・第96歩兵師団基幹
  ・第1騎兵師団
  ・第24歩兵師団基幹、など。

参考〜
M4中戦車シャーマンの装備:〜採用:1941/10
 (Medium Tank M4、通称:シャーマン戦車(M4 Sherman)
 アメリカ陸軍の中戦車(Medium Tank)、生産開始:1942/2
略 称 M4中戦車 海底の米:M4シャーマン戦車

Sherman Tank on Seabed
キリバス 1993 発行

M4シャーマン戦車

パラオ 1994 発行
全 長 車体長5.84m
全 幅 2.62m
全 高 2.67m
装 甲 38-64mm、防盾76mm
重 量 30.3t
速 度 整地38.6km/h、不整地19.3km/h
行動距離 193km
乗員数 5人
生産者 多数の軍需会社
生産数 49,234輌(1941-1945)
エンジン Continental 4ストローク星型9気筒空冷ガソリン、馬力400hp
武 装 37.5口径75mm戦車砲M3(90発)、又は52口径76.2mm戦車砲M1(71発)、12.7mm重機関銃M2×1(600発)、7.62mm機関銃M1919×2(6,250発)

参考HP〜
フィリピンの地図(レイテ島の場所地図)
米軍のレイテ島反抗地図








92 <レイテ湾の海戦>
比島沖海戦
1944/10/23〜26
海軍「捷号」作戦

米空母プリンスト




レイテ湾の海戦
米戦艦ウ
ェストバ
|ジニ


   帝国の戦艦 金剛
1944 レイテ湾の海戦75年記念 2019
75th Aniversary of Sea Battle of Leyte Gulf

ギニアビサウ 2019 発行
 

帝国海軍連合艦隊の終焉
帝国の連合艦隊

トンガ 1992 発行
帝国の軍艦旗

ネヴィス 2005 発行

レイテ湾でのオルデンドルフ艦隊の艦砲射撃

Battle for Leyte Gulf October 23-261944
USA 1994/6/6 発行
レイテ島





レイテ湾
第2次大戦フィリピン・ゲリラ50年記念
フィリッピン 1993 発行

比島沖海戦(レイテ湾の海戦)は、レイテ島の奪還を目指す連合軍とそれを阻止せんとする帝国軍との間で戦われた海戦。帝国軍は海軍の総力をあげ、稼働軍艦の多くを投入して「捷一号作戦」として戦いました。連合軍も”キングII作戦”として太平洋に展開する大半の海軍々事力を投じたうえに、豪海軍の支援を得て戦いました。その規模の大きさ、戦域が広範囲に及んだことなどから史上最大の海戦と言われています。

比島沖海戦は栗田艦隊がブルネイからミンドロ海峡を経てシブヤン海に入った時に起こったシブヤン海々戦と、西村艦隊がブルネイからスル海、ボホール海を経てスリガオ海峡に入った時に起こったスリガオ海峡夜戦と、小沢機動部隊が瀬戸内海から比島北方で米空母機動部隊と戦ったエンガノ岬海戦、そして栗田艦隊のレイテ湾突入直前に起こったサマール沖海戦との4つに区分されています。

レイテ湾の海戦、連合国軍の勝利、帝国連合艦隊の壊滅
  帝国呼称:レイテ沖海戦、1944/10/23-10/25
  米軍呼称:レイテ湾の海戦(Battle of Leyte Gulf, 1944/10/23-10/26)
  別名:海軍「捷号」作戦
  場所:フィリピン周辺海域(Leyte Gulf, Philippines)
昭和19年7月9日にサイパン島が陥落して、サイパン島が米軍に占領されたことで、米戦略爆撃機B-29の帝国本土空襲が可能になりました。その後の米軍の反撃目標はカートホイール作戦
 ・そのまま硫黄島から本土に向かうコースと、
 ・フィリピンから沖縄へ向かうコースとに分かれ、
マッカーサー大将の軍はフィリピン奪還へ、作戦名:キングII作戦(Operation KINGII)として、まずレイテ島へ向かいました。

帝国は東条内閣が総辞職(1941/10/18-1944/7/22)し、小磯内閣(1944/7/22-1945/4/7)が発足するも、戦争の継続は変わりませんでした。しかし裏では和平工作を進めることになっていました。そのような状況下でフィリピンは本当の最終決戦とみなされました。「全力を挙げて比島を死守すべし」だったのですが、実際はサイパンが占領されたことで、完全に太平洋の制空権が奪われ、最終決戦も何もないような状況になっていました。

そこへ帝国海軍が「捷(しょう)一号作戦」を発動(1944/10/18)して米軍を迎え撃ち、
「レイテ湾の海戦」が勃発しました。
この海戦では
・10/23、栗田艦隊・鈴木艦隊のシブヤン海々戦
・10/25、西村艦隊・志摩艦隊のスリガオ海峡夜戦
・10/24〜25、囮となった小沢機動部隊のエンガノ岬沖海戦
・10/25、栗田艦隊・鈴木艦隊のサマール沖海戦
が起こり、帝国の連合艦隊がほとんど壊滅しました。

なお、米軍はレイテ島と周辺島嶼の攻略作戦として作戦名「キングII作戦」(Operation KINGII)で、
(1) 9/27まで第3艦隊が中心となってパラオをはじめとする帝国軍の拠点63ヵ所を順次空襲し、その間にフィリピン上陸後の後方拠点確保を目的としてペリリュー、ウルシーなどへの上陸を敢行する。その後、一旦後退し休養と補給を行う
(2) 10/5-15には第3艦隊がフィリピン北部、台湾、沖縄を空襲(台湾沖航空戦
ニューギニア各地から出撃する第7艦隊の陽動
(3) 10/17には第7艦隊は現場海域に到着し、10/20-30にレイテ島上陸作戦を敢行、第3艦隊は第7艦隊の要請に応じて支援を行いつつ、反撃あるいは逆上陸支援のため出撃してくるであろう艦隊をはじめとする帝国軍への対処を行なう
とするもので、その間に台湾沖航空戦、十・十空襲(1944/10/10)、レイテ沖海戦(捷一号作戦)が発生した後、ルソン島の戦い、硫黄島の戦い、沖縄戦に移行しました。

▼両軍の兵力と損害、1944/10/23〜26
○帝国の兵力
・空  母〜4隻
・戦  艦〜9隻
・重  巡〜13隻
・軽  巡〜6隻
・駆逐艦〜34隻
・他、計〜約67隻
・航空機〜約300機
○連合軍の兵力
・空  母〜8隻(CV)
・軽空母〜8隻(CVL)
・護衛空〜18隻(CVE)
・戦  艦〜12隻
・重  巡〜11隻
・軽  巡〜15隻
・駆逐艦〜141隻
・他、計〜約300隻
・航空機〜約1,500機
○帝国軍の損害
・空  母〜4隻
・戦  艦〜3隻
・重  巡〜6隻
・軽  巡〜4隻
・駆逐艦〜9隻、沈没など
○米軍の損害
・軽空母〜1隻
・護衛空〜2隻
・駆逐艦〜2隻
・護衛駆逐艦1隻、沈没など
※数字には諸説有

▼両軍の編成:〜
○帝国軍の編成:〜(帝国は連合艦隊を4艦隊に再編成)
<栗田艦隊>(主隊:第一遊撃部隊)
  司令官長官:栗田健男中将(1889-1977)
(主隊:第一部隊)栗田中将直卒
 ・戦  艦〜3隻・大和武蔵・長門
 ・重  巡〜6隻・愛宕、高雄・摩耶・鳥海・妙高・羽黒
 ・軽  巡〜1隻・能代
 ・駆逐艦〜8隻・早霜・秋霜・朝霜・長波・岸波・沖波・浜波・島風
(主隊 第二部隊)<鈴木艦隊>
  司令官:鈴木義尾中将(1890-1944/11/21バシー海峡にて金剛が雷撃で沈没戦死)
 ・戦  艦〜2隻・金剛・榛名
 ・重  巡〜4隻・鈴谷・熊野・利根・筑摩
 ・軽  巡〜1隻・矢矧
 ・駆逐艦〜7隻・浦風・磯風・浜風・雪風・清霜・野分・藤波

<西村艦隊>(第一遊撃隊第三部隊)
  司令官 西村祥治(1889-1944/10/25スリガオ海峡夜戦にて旗艦 山城の艦上で戦死)
・戦  艦〜2隻・山城、扶桑
・重  巡〜1隻・最上
・駆逐艦〜4隻・満潮・朝雲・山雲・時雨
<志摩艦隊>(第二遊撃隊)
  司令官:志摩清英(1890-1973)
・重  巡〜2隻・足柄・那智
・軽  巡〜1隻・阿武隈
・駆逐艦〜7隻・曙・潮・不知火・霞・若葉・初春・初霜

<小沢艦隊>(空母機動部隊)
  司令官:小沢治三郎中将(1886-1966)
空  母〜4隻・瑞鶴・千歳・千代田・瑞鳳
・高速戦艦2隻・伊勢・日向
・軽  巡〜3隻・多摩・五十鈴・大淀
・駆逐艦〜8隻・桑・槙・杉・桐・初月・秋月・若月・霜月。

○米軍の編成:〜
太平洋方面軍最高司令官チェスター・ニミッツ海軍大将
第3艦隊(US 3rd Fleet)
 司令長官ハルゼー大将(在任1944/8/24-1945/1/25)
 ・第38任務部隊 (Task Force 38, CTF-38)
   ・シャーマン隊
   ・他〜総数95隻、艦載機〜約1,000機

南西太平洋方面最高司令官ダグラス・マッカーサー陸軍大将
第7艦隊(US 7th Fleet)
 司令官アーサー・カーペンダー中将(在任1943/3/15-1943-11/26)
 ・第70任務部隊 (7th Fleet's Task Force 70, CTF-70)
   司令官トーマス・キンケイド中将(在任1943/7-1943/11/26)
  ・第77.4任務群(7th Fleet's Task Group 77.4)〜護衛空母18隻
   クリフトン・スプレイグ隊・他〜総数24隻、艦載機〜約450機
    司令官クリフトン・スプレイグ少将・他
   ・第77.4.1任務集団(通称:タフィ1:T.Sprague's Task Unit 77.4.3 "Taffy 3")〜護衛空母6隻
     司令官トーマス・スプレイグ少将
    ・第22護衛空母師団(Escort Carrier Division 22)〜護衛空母4隻
     ・サンガモン号、スワニー号、サンティー号、ペトロフベイ号
    ・第28護衛空母師団(Escort Carrier Division 28)〜護衛空母2隻
     ・シェナンゴ号、サギノー・ベイ号
   ・第77.4.2任務集団(通称:タフィ2:Stump's Task Unit 77.4.3 "Taffy 3")〜護衛空母6隻
     司令官フェリックス・スタンプ少将
    ・第24護衛空母師団(Escort Carrier Division 24)〜護衛空母2隻
     ・ナトマ・ベイ号、マニラ・ベイ号      
    ・第27護衛空母師団(Escort Carrier Division 27)〜護衛空母4隻
     ・マーカス・アイランド号、カダシャン・ベイ号、サヴォ・アイランド号、オマニー・ベイ号
   ・第77.4.3任務集団(通称:タフィ3:C.Sprague's Task Unit 77.4.3 "Taffy 3")〜護衛空母6隻
     司令官クリフトン・スプレイグ少将直卒
    ・第25護衛空母師団(Escort Carrier Division 25)〜護衛空母4隻
     ・ファンショー・ベイ号、セント・ロー号、ホワイト・プレインズ号、カリニン・ベイ号
    ・第26護衛空母師団(Escort Carrier Division 26)〜護衛空母2隻
     ・キトカン・ベイ号、ガンビアベイ号
  ・護衛駆逐艦(Destroyer escorts)〜3隻
     ・デニス号、ジョン・C・バトラー号、レイモンド号、サムエル・B・ロバーツ号
  ・駆逐艦(Destroyers)〜3隻
     ・ホーエル号、ハーマン号、ジョンストン号。

参考:〜
・米国の戦艦アイダホ号の装備:〜就役1919/3/24
  (USS Idaho, BB-42、アメリカ海軍ニューメキシコ級戦艦の3番艦
建造所 ニューヨーク造船所 米:戦艦アイダホ号

シエラオーネ 1995 発行
全 長 190.20m
全 幅 32.39m
吃 水 9.44m
排水量 基準33,400t、満載36,000t
最大速力 21kt
航続距離 8,000浬 (15,000km)/10kn(19km/h)
乗 員 1,081人(士官55)
武 装 50口径35.6cm3連装砲4基12門、38口径12.7cm2連装砲10基20門、
56口径40mm対空砲40門、70口径20mm対空砲40門、530mm魚雷管2基
※退役1946/ 7/3。

・帝国の戦艦 金剛 (こんごう)の装備:〜竣工:1913/8/16(大正2年)
  (大日本帝国海軍の戦艦、金剛型戦艦の1番艦)
   英ヴィッカース社バロー造船所、進水1912/5/18
   昭和12年(1937)横須賀工廠で第二次改装
高速戦艦 二次改装後 戦艦 金剛

ギニアビサウ 2019 発行
建造所 横須賀工廠
全 長 219.4m
全 幅 31.0m
吃 水 9.7m
排水量 31,720屯
速 力 30.3kt
航続距離 9,800海里/18kt
乗 員 2,367人
武 装 主砲 35.6cm45口径連装砲4基
副砲 15.2cm50口径単装砲8基
高角砲 12.7cm連装砲6基、
機銃 25mm3連装18基、同連装8基、同単装30挺
搭載機 カタパルト1基
※帝国海軍が初の超弩級巡洋戦艦としてイギリスに発注した最後の主力艦 金剛型の1番艦。
2度の改装後は高速戦艦として太平洋戦争でも活躍。なお金剛は帝国海軍が太平洋戦争で使用した唯一の外国製帝国戦艦。帝国戦艦で唯一潜水艦雷撃により撃沈された艦で、サマール沖海戦後、1944/11/21台湾沖・基隆北方50浬で米潜水艦シーライオン(USS Sealion, 1,526t, 66人, 1970退役)の魚雷6本のうち2本が命中後に転覆轟沈、もう1本で駆逐艦 浦風が轟沈。

参考HP〜
レイテ湾の海戦の場所地図(4つの海戦の場所)
(1.シブヤン海々戦、2.スリガオ海峡海戦、3.エンガノ岬沖海戦、4.サマール沖海戦)
レイテ湾のオルデンドルフ艦隊攻撃地図








93 <シブヤン海々戦
栗田艦隊
1944/10/25
サンベルジナルジオ海峡へ突入

栗田艦隊を空襲・攻撃する米グラマンとボーイングB-24

(図案はビスマルク海々戦を描く切手)
マーシャル諸島 1993 発行

戦艦「武蔵」米艦載機の空襲攻撃で、シブヤン海に沈む
 同型艦の 大和



シブヤン海々戦、1944/10/25、連合軍の勝利
  米軍呼称:(Battle of the Sibuyan Sea、1944/10/24)
  場所:フィリピンのサマール島東方海域
米軍がレイテ島に上陸した2日後、1944/10/22に帝国の栗田艦隊(第一遊撃部隊:栗田艦隊19、鈴木艦隊13、西村艦隊7、計39隻)がボルネオ島ブルネイを出撃してレイテ湾へと向いましたが、途中で二手に分かれて西村艦隊はスリガオ海峡から、その他の栗田艦隊はシブヤン海からサンベルナルジノ海峡を経て南下後、25日にレイテ湾へ同時突入することになりました。23日、栗田艦隊がパラワン水道を北上中、米潜雷撃で重巡 愛宕・摩耶を失い、高雄が大破するという被害を受けました。ハルゼー機動部隊は潜水艦からの連絡を受けて、栗田艦隊に空襲を開始。24日朝、シブヤン海に突入した栗田艦隊を米艦載機が5次にわたり、延べ259機が攻撃。超弩級戦艦 武蔵は魚雷20本、爆弾17発、至近弾20発を受け航行不能。他の艦船にも被害が続出し、栗田艦隊は一時退避を余技なくされました。10/24、19:35 武蔵は沈没。10/25、00:00栗田艦隊はサンベルナルジノ海峡へ突入、レイテ湾に向けて艦隊は南下。

・帝国海軍基地航空隊の攻撃
このように敵艦隊を攻撃した栗田艦隊を間接的に援護すると言う方策が採られ、新たにフィリピンへ展開していた帝国海軍基地航空隊の第二航空艦隊は日没まで5回に亘り攻撃隊を出撃させ、第38任務部隊の第3群に航空攻撃を実施。戦闘は午前8時から始まり、米軍戦闘機隊は帝国軍航空隊を次々に撃墜して艦隊への攻撃を阻止。それでも9時30分、軽空母プリンストン号に爆弾1発が命中し、弾薬庫に誘爆して爆発炎上、その後軽巡洋艦リノ号の魚雷で処分。また、プリンストン号の消火作業中に起きた爆発で軽巡洋艦バーミングハム号は大破して死傷者600人を出しました。

・その後
栗田艦隊はブルネイ湾出港以来の潜水艦攻撃と対空戦で、戦艦1(武蔵)、重巡4(愛宕・摩耶・高雄・妙高)、駆逐艦4隻(清霜・浜風・長波・朝霜)を戦列から失っていましたが、艦隊全体の戦力は戦艦4、重巡6、軽巡2、駆逐艦11隻と依然として強力なものでした。なお、この日の激烈な対空砲火にも拘わらず撃墜は18機でした。栗田艦隊のサンベルナルジノ海峡通過の予定時刻は24日の夕刻でした。シブヤン海での空襲とそれによる一時反転で予定よりも6〜7時間遅れることになり、もはや25日黎明時のレイテ湾突入は困難となりました。同じ頃、南方のスリガオ海峡を北から西村艦隊がレイテ湾へ向っていました。西村艦隊への空襲は1度だけで、栗田艦隊との同時突入を目指すべくほぼ予定どおりに進撃を続けました(米艦隊の待ち伏せで全滅)。栗田長官は両艦隊の同時突入予定を断念し、西村艦隊の進撃を遅らせるという調整を行わずに西村艦隊の単独突入を21:45に命令し、「25日1時にサンベルナルジノ海峡通過、9時レイテ湾口、11時レイテ突入予定」を連合艦隊へ発信するも、10/25に栗田艦隊はレイテ湾口45浬(約83km)まで進出するも、湾内へ突入せず反転(謎の反転)しました。

戦艦 武蔵の沈没、1944/10/24
武蔵の生存者は副長 加藤大佐、防御指揮官 工藤大佐以下1,376人で、艦長・猪口敏平少将、砲術長・越野公威大佐、航海長・仮家実大佐らは戦死。武蔵は栗田艦隊の「被害担当艦」(猪口艦長)となることにで全艦隊の犠牲を一手に引きうけたため、他の被害は重巡 妙高、駆逐艦 清霜が中破されたに留まりました。しかし不沈戦艦と全艦隊の期待を集めていた「武蔵」が沈没したという事実は同型艦の旗艦 大和でも敵機の集中攻撃を受けた場合は、不沈ではあり得ないとの不安を抱かせるに至りました。
※排水量64,000屯、乗員3,332人、主砲45口径46cm3連装砲塔3基
武蔵と同型艦の大和

モントセラット 1990 発行

▼両軍の兵力と損害:〜1944/10/22-10/25
○帝国の兵力
・戦  艦〜5隻
・重  巡〜10隻
・軽  巡〜2隻
・駆逐艦〜15隻
○連合軍の兵力
・空  母〜8隻
・軽空母〜8隻
・護衛空〜18隻
・戦  艦〜12隻
・重  巡〜11隻
・軽  巡〜15隻
・駆逐艦〜141隻
・他、計〜約300隻
・航空機〜約1,500機
○帝国軍の損害
沈没・戦  艦〜1隻
   ・重  巡〜2隻
大破・重  巡〜2隻
中破・軽  巡〜1隻
   ・駆逐艦〜1隻
小破・戦  艦〜2隻
   ・駆逐艦〜1隻
○米軍の損害
沈没・軽空母〜1隻
中破・軽  巡〜1隻
航空機損失〜18機
※数字には諸説有

▼両軍の編成:〜
○帝国軍の編成:〜
<栗田艦隊>
  第一遊撃部隊第一部隊 司令官:栗田中将
 ・戦  艦(3)・大和・武蔵・長門
 ・重  巡(6)・愛宕・高雄・摩耶鳥海・妙高・羽黒
 ・軽  巡(1)・能代
 ・駆逐艦(9)・早霜・秋霜・長波・朝霜・岸波・沖波・島風・浜波・藤波
※10/23パラワン水道北上中、米潜雷撃で重巡 愛宕、摩耶が沈没、高雄が大破
※10/24シブヤン海通過中、米艦載機空襲で戦艦 武蔵が沈没。
<鈴木艦隊>
  第一遊撃部隊第2部隊 司令官:鈴木中将
 ・戦  艦(2)・金剛・榛名
 ・重  巡(4)・鈴谷・熊野・利根・筑摩
 ・軽  巡(1)・矢矧
 ・駆逐艦(6)・浦風・磯風・浜風・雪風・清霜・野分(※沈没)。

○米軍の編成:〜
第3艦隊
 司令長官:ハルゼー中将
 ・第38任務部隊 (Task Force 38)
航空母艦〜6隻
 ・イントレピッド号、インディペンデンス号、レキシントンII号
 ・エセックス号、フランクリン号、エンタープライズ号
軽空母〜5隻
 ・カボット号、プリンストン号、ラングレー号、サンジャスト号、べローウッド号
・戦艦〜6隻
 ・ニュージャージー号、アイオワ号、マサチューセッツ号、
 ・サウスダコタ号、ワシントン号、アラバマ号
重巡洋艦〜3隻
 ・ ビンセンス号、ニューオリンズ号、ウイチタ号
軽巡洋艦〜6隻
 ・マイアミ号、ビロクシー号、サンタフェ号、モービル号、レノ号、バーミンガム号
・駆逐艦〜41隻
・戦闘機〜延べ226機。

この時の第38任務部隊:〜(空母9、軽空母8、戦艦6、重巡4、軽巡10、駆逐艦58:計95隻)
・第2群(Task Group 2)、ボーガン少将指揮、空母5隻基幹)がサンベルナルジノ海峡付近
 ・空  母3:イントレピッド号、バンカーヒル号、ハンコック号
 ・軽空母2:カボット号、インデペンデンス号
 ・戦  艦2:アイオワ号、ニュージャ−ジー号
 ・軽  巡2:ヴィンセンスII号、マイアミ号
・第3群(Task Group 3)、シャーマン少将指揮、空母4隻基幹)がルソン島の東
 ・空  母2:レキシントンII号、エセックス号
 ・軽空母2:ラングレーII号、プリンセストン号
 ・戦  艦3:ワシントン号、マサチュセッツ号、サウスダコダ号
 ・軽  巡4:サンタフェ号、モービル号、レノ号、バーミンガム号
・第4群(Task Group 4)、デヴィソン少将指揮、空母4隻基幹)がレイテ島付近
 ・空  母2:エンタープライズ号、フランクリン号
 ・軽空母2:サン・ジャシント号、ベローウッド号
 ・戦  艦1:ワシントン号
 ・重  巡1:ニューオルレアンズ号
 ・軽  巡1:ビロクシー号
・第1群(Task Group 1)、マッケイン中将指揮、空母4隻基幹)はウルシーで補給中
 ・空  母2:ワスプII号、ホーネットII号
 ・軽空母2:カウペンス号、モンテレー号
 ・重  巡3:チェスター号、ソルトレークシティ号、ペンサコラ号
 ・軽  巡3:ヒューストンII号、サンディエゴ号、オクラホマ号。

▼両軍の被害:〜
○帝国軍の被害:〜
--- 戦 艦 重 巡 軽  巡 駆逐艦
・沈没 武蔵 愛宕・摩耶 --- ---
・大破 --- 高雄・妙高 --- ---
・中破 --- 利根 矢矧 浜波
・小破 大和・長門 --- --- 清霜
※その後の沈没〜重巡 鳥海・鈴谷・筑馬、駆逐艦 野分
※朝霜は高雄の護衛、長波は妙高の護衛で、サマール海戦に不参加。

○米軍の被害:〜
・軽空母プリンストン号〜10/24沈没
  帝国基地航空隊攻撃で爆弾1発命中し弾薬庫誘爆・爆発炎上後、
  軽巡レノ号の雷撃で自沈処分
・軽巡バーミングハム号〜10/24大破
  プリンストンの消火作業中に起きた爆発で被害
・航空機損失〜18機。

参考:〜
帝国<第二艦隊>1944/8/15マリアナ沖海戦後の編成:〜
・第1戦隊:大和、武蔵 、長門
・第3戦隊:金剛 、榛名
・第4戦隊:愛宕、高雄、摩耶、鳥海
・第5戦隊:妙高、羽黒
・第7戦隊:熊野、鈴谷、利根、筑摩
・第2水雷戦隊:能代
 ・第2駆逐隊:清霜、秋霜、早霜
 ・第27駆逐隊:時雨、五月雨
 ・第31駆逐隊:長波、沖波、岸波、朝霜
 ・第32駆逐隊:藤波、玉波、浜波
 ・島風。

・米国の戦艦アイオワ号の装備:〜就役1943/2/22
  (USS Iowa, BB-61)アメリカ海軍アイオワ級戦艦の1番艦(ネームシップ)
建造所 ニューヨーク海軍造船所 米:戦艦アイオワ号

シエラオーネ 1995 発行
全 長 270.43m
全 幅 32.97m
吃 水 10.69m
排水量 基準48,500t, 満載57,450t
最大速力 31kt
航続距離 18,000浬/12kt
乗 員 2,788(士官151)
武 装 50口径40.6cm3連装砲3基9門、38口径12.7cm2連装10砲基20門、
56口径40mm対空砲80門、70口径20mm対空砲49門、水偵搭載
※退役1990/10/26、記念博物館としてカリフォルニア州ロサンゼルス港に保存。

参考HP〜
栗田艦隊の進撃地図
シブヤン海とサンベルジナルジオ海峡の場所地図








94 <スリガオ海峡夜戦
1944/10/25
西村艦隊 レイテ湾突入

米軍の魚雷艇を攻撃する
戦艦 山城・扶桑、重巡 最上


Battle of Leyte Gulg 1944
マーシャル諸島 1994 発行

両軍の夜戦での戦い
米軍のレーダー射撃   帝国軍のサーチライト射撃

スリガオ海峡海戦(夜戦)、連合軍の勝利
  米軍呼称:(Battle of Surigao Strait)、1944/10/25未明
  場所:レイテ島とその東のディナガット島間のスリガオ海峡
スリガオ海峡夜戦は、第1遊撃部隊支隊(志磨艦隊)と第2遊撃部隊(西村艦隊)と米艦隊の海戦で、西村艦隊の主力、戦艦 山城と 扶桑は老朽で低速のため第1線に向かない予備練習艦として主に内海方面で後方任務についていました。捷号作戦に際しては、海上兵力の全戦力を結集するため、昭和19年9月10日に両艦を主力とする第2戦隊が新たに編成され軍令部付の西村中将が司令官となりました。同戦隊がリンガ泊地に到着したのは10/10で、出撃前の実地訓練はほとんど行うことができませんでした。さらに栗田艦隊に策応する支隊として、その任務が明かになったのはブルネイ出撃の前日でした。出撃前の各艦長との作戦打ち合わせは極めて簡単で西村司令官は会議に出席しませんでした。既に西村中将は本作戦の性格が生還を期し難いものとして諦観しており、捷号作戦を特攻的な作戦として理解していたからといわれています。

10月22日15:30西村艦隊抜錨、ブルネイ出撃。10/25早朝、西村艦隊はレイテ湾突入を果たすべく、スリガオ海峡に単独で突入。25日午前3時、米駆逐艦隊の雷撃に始まり、戦艦「扶桑」と駆逐艦3隻が沈没。残った艦船はなおも進撃を続けましたが、3時55分、米戦艦群の激しい砲火にさらされ「山城」は沈没し、西村中将は運命を共にしました。「最上」は大破炎上し、残るは駆逐艦「時雨」一隻となり退却。オルデンドルフ少将指揮下の米艦隊による迎撃計画は周到で、魚雷艇は3隻編隊の13個小隊に細分され、次いで3個19隻の駆逐艦隊、最後に戦艦・重巡群が頭を抑えるという水も漏らさぬ布陣でした。西村艦隊はひたすらこの鉄壁の布陣に向って玉砕覚悟の猛進を続けて行き、駆逐艦「時雨」1艦を除いて全滅しました。

10/24第ニ遊撃部隊の志摩艦隊がコロン湾を出撃。10/25志摩艦隊もスリガオ海峡に突入し04:05戦場に到着するも、西村艦隊と同様に米艦隊の攻撃を受けレイテ湾突入を断念、撤退。志摩艦隊は米艦隊に一撃を加えることもなく反転しました。志摩艦隊と西村艦隊との指揮関係は「協同」という不明確な立場におかれたままであり、両部隊の連絡は直接何もなされないまま、個々にレイテ突入という事態となったのです。西村艦隊に続いて突入した決戦場面で志摩艦隊が反転したことに対する批判は少なくありませんでした。

なお、「時雨」1艦を残して壊滅した西村艦隊の生存者は「山城」10人、「扶桑」10人、駆逐艦3艦で計40数人:合計60数人に過ぎず沈没後、自力で島まで泳ぎ着いても帝国軍に悪感情を持つ比島の住民に殺害された人も少なくなかったと伝えられています。

<スリガオ海峡海戦兵力>
▼両軍の兵力と損害:〜1944/10/25
・帝国軍の兵力
西村艦隊
・戦  艦〜2隻
・重  巡〜1隻
・駆逐艦〜4隻
志摩艦隊
・重  巡〜2隻
・軽  巡〜1隻
・駆逐艦〜7隻
・連合軍の兵力
オルデンドルフ艦隊
(第77任務部隊)
・戦  艦〜6隻
・重  巡〜4隻
・軽  巡〜4隻
・駆逐艦〜21隻
・魚雷艇〜39隻

・帝国軍の損害
沈没・戦  艦〜2隻
   ・重  巡〜1隻
   ・駆逐艦〜3隻
大破・重  巡〜1隻
   ・軽  巡〜1隻
   ・駆逐艦〜3隻
小破・駆逐艦〜1隻
・連合軍の損害
沈没
・魚雷艇〜1隻
被害
・駆逐艦〜1隻

※数字には諸説有

▼両軍の編成:〜
○帝国軍の編成:〜
<西村中将艦隊>
・戦  艦〜山城扶桑
・重  巡〜最上
・駆逐艦〜4隻
  ・満潮朝潮山雲・時雨
<志摩中将艦隊>
・重  巡〜那智・足柄
・軽  巡〜阿武隈
・駆逐艦〜7隻
 ・曙・潮・不知火・霞・若葉・初春・初霜。

○連合軍の編成:〜
米第77任務部隊(Task Force 77)
・第77.2任務群(Task Group 77.2)〜オルデンドルフ少将艦隊
  司令官ジェシー・バートレット・「オーレイ」オルデンドルフ少将
      (Rea Admiral Jesse Bartlett "Oley" Oldendorf, 1887-1974)
 ・戦艦〜6隻
  ・ペンシルバニア号、カリフォルニア号、テネシー号、メリーランド号
  ・ミシシッピー号、アイダホ号
 ・重巡洋艦〜4隻
  ・ルイスビル号、ポートランド号、ミネアポリス号
  ・シュロップシャー号(HMAS Shropshire)
 ・軽巡洋艦〜4隻
  ・デンバー号、コロンビア号、フェニックス号、ボイシ号
 ・駆逐艦〜21隻
  ・ロー号(Roe)、フレッチャー号(Fletcher)、ラドフォード号(Radford)
  ・マッキー号(McKee)、ウェルス号(Welles)、スティーヴェンソン号(Stevenson)、
  ・ストックトン号(Stockton)、ニューコム号(Newcomb)、アランタ号(Arunta)
  ・ワラマンガ号(Warramunga)、ブッシュ号(Bush)、マラニイ号(Mullany)
  ・アンダーソン号(Anderson)、オーリック号(Aulick)、ブレイン号(Braine)
  ・シガニー号(Sigourney)、ソーン号(Thorn)、キッド号(Kidd)、ベニオン号(Bennion)
  ・テイラー号(Taylor)、コニー号(Cony)
 ・魚雷艇〜39隻。

▼両軍の被害
○帝国軍の被害:〜
<志摩艦隊>
・沈没・軽  巡〜阿武隈
    ・駆逐艦〜不知火・若葉
・中破・重  巡〜那智
<西村艦隊>
・沈没・戦  艦〜山城・扶桑
    ・重  巡〜最上
    ・駆逐艦〜満潮・朝潮・山雲
・中破・重  巡〜那智
・小破、駆逐艦〜1隻。

○連合軍被害:〜
・魚雷艇493号〜沈没
・駆逐艦〜1隻被害。

参考HP〜
スリガオ海峡海戦の地図(日本語)
スリガオ海峡の場所地図








95 <エンガノ岬沖海戦
小沢機動部隊 囮作戦成功
1944/10/25
ハルゼー機動部隊を釣上げ

ゼロ戦を迎え撃つ米グラマン

帝国機動部隊を攻撃する米グラマン
(図案は珊瑚海々戦を描く切手)

マーシャル諸島 1993 発行

エンガノ岬沖海戦、連合軍の勝利なるも、囮作戦は成功
  米軍呼称:(Battle of Cape Engano、1944/10/25-10/26)
  場所:ルソン島北部の東方海上
小沢艦隊は、「旺盛なる犠牲的精神により敵機動部隊を牽制誘引」して「敵上陸点に対する突入作戦の必成を記する」陽動(牽制)作戦を発動していました。すなわち小沢艦隊の主目的は、敵艦隊を発見することよりも敵艦隊に発見されることにあり、ハルゼーをレイテ湾からできるだけ北方に釣り上げようと懸命の努力を続けました。一方のウィリアム・F・ハルゼー大将率いる米第3艦隊は、3つの空母群・65隻からなり、17隻の小沢艦隊を圧倒していました。囮となった小沢機動部隊には116機の航空機がありました。10月24日に米機動部隊を発見。空襲を試みますが、故障機の続出と、米護衛機の迎撃で失敗。残された航空機は29機となりました。25日早朝ハルゼー機動部隊は、囮とも知らずにエンガノ岬沖にて全力で攻撃。第一次攻撃で旗艦「瑞鶴」が被弾、「千歳」が沈没、「瑞鳳」も小破。第二次攻撃で「千代田」が航行不能に、第三次攻撃で「瑞鶴」「瑞鳳」が沈没。「千代田」も米巡洋艦の砲撃を受け沈没。この結果、帝国軍は最後の機動部隊を失ってしまいました。

全滅を覚悟して10/19に瀬戸内海を出撃した囮部隊の小沢機動部隊(空母4隻基幹17隻)は生存艦の
戦艦(伊勢・日向)、軽巡(五十鈴・大淀)、駆逐艦(桑・槙・杉・桐・若月・霜月)10隻を擁して、10/27の12:00奄美大島に帰還できました。

<エンガノ岬沖海戦兵力>
両軍の兵力と損害
○帝国の兵力
・空  母〜4隻
・戦  艦〜2隻
・軽  巡〜3隻
・駆逐艦〜8隻、計17隻
・航空機〜116機
○連合軍の兵力
・空  母〜9隻
・戦  艦〜6隻
・重  巡〜2隻
・軽  巡〜6隻
・駆逐艦〜41隻、計65隻

○帝国軍の損害
沈没・空  母〜4隻
   ・軽  巡〜1隻
   ・駆逐艦〜2隻
○米軍の損害
・航空機喪失〜10機
※数字には諸説有

▽両軍の編成:〜
○帝国軍の編成:〜
<小沢艦隊>(空母機動部隊)艦載機〜108機
空  母〜4隻・瑞鶴千歳千代田瑞鳳
・高速戦艦2隻・伊勢・日向
・軽  巡〜3隻・多摩・五十鈴・大淀
・駆逐艦〜8隻・桑・槙・杉・桐・初月秋月・若月・霜月。

○米軍の編成:〜
米軍機動部隊(司令長官ハルゼー中将)
・ボーガン少将艦隊<ボーガン隊>
 ・空  母〜3隻
  ・イントレピット号、インデペンデンス号、カボット号
・戦  艦〜2隻
  ・ニュージャージー号、アイオワ号
 ・軽  巡〜3隻
 ・駆逐艦〜16隻
・シャーマン少将艦隊<シャーマン隊
 ・空  母〜2隻
  ・レキシントンII号、エセックス号、ラングレーII号
 ・戦  艦〜2隻
  ・マサチュセッツ号、サウスダコダ号
 ・軽  巡〜3隻
 ・駆逐艦〜10隻
・デビソン少将艦隊<デビソン隊>
 ・空  母〜4隻
  ・フランクリン号・エンタープライズ号、ベローウッド号、サンジャント号
 ・戦艦〜2隻
  ・ワシントン号、アラバマ号
 ・重  巡〜2隻
 ・駆逐艦〜15隻。

▼両軍の被害:〜
○帝国軍被害:〜
・沈没
 ・空  母〜4隻・瑞鶴・千歳・千代田・瑞鳳
 ・軽  巡〜1隻・多摩
 ・駆逐艦〜2隻・初月・秋月。

参考:〜
・米国の戦艦ペンシルベニア号の装備:〜就役1916/6/12
  (USS Pennsylvania, BB-38)アメリカ海軍ペンシルベニア級戦艦の1番艦(ネームシップ)
建造所 バージニア州ニューポート・ニューズ造船所 米:戦艦ペンシルベニア号

ガンビア 1992/8/3 発行
全 長 185.32m
全 幅 32.39m
吃 水 10.05m
排水量 基準33,100t、満載36,500t
最大速力 21kt(39km/h)
航続距離 19,900浬/10kt
乗 員 915人(士官56)
武 装 45口径35.6cm3連装砲4基12門、38口径12.7cm砲16門、
56口径40mm対空砲40門、70口径20mm対空砲71門、530mm魚雷管2基
※退役1946/8/29、ビキニ環礁の原爆実験(1946/7/26、クロスロード作戦)で空母サラトガや帝国海軍戦艦 長門などと共に供用された後、クェゼリン環礁へ曳航されて放射線・構造の研究用に使用され、1948/2/10に沈没。

参考HP〜
エンガノ岬沖海戦の場所地図
 (Battle of Cape Engano、Tinaga、Sibuyan Sea、Samar、Bohol、有)








96 <サマール島沖海戦
1944/10/25
栗田艦隊 謎の反転

栗田艦隊を空襲・攻撃する米グラマンとB24

(図案はビスマルク海々戦を描く切手)

マーシャル諸島 1993 発行

戦艦「大和」主砲発射
戦艦 大和

モントセラット 1990 発行
戦艦の主砲発射

モントセラット  発行

・サマール島沖海戦、1944/10/25、連合軍の勝利
  (Battle off Samar Island)
  米軍呼称:(Battle off Samar、1944/10/25)
  場所:サマール島東方沖(East of Samar Island)
10/25
00:30 栗田艦隊はサンベルナルジノ海峡通過後、発見した艦隊をハルゼー機動部隊と考えて砲撃を開始すると、上陸部隊を支援する米護衛空母部隊で搭載機約30機の護衛空母6隻からなる艦隊は栗田艦隊にかなう訳がありませんでした。スプレイグ゙少将は救援を求めるも、ハルゼー機動部隊も、オルデンドルフ少将の戦艦部隊も他の帝国艦隊と交戦中なので救援できず。「大和」の46cm主砲「鉄鋼弾」は米空母を貫通し、その穴からの浸水で軽空母ガンビアベイ号が沈没、護衛空母4隻が損傷。米駆逐艦隊は果敢に反撃、帝国駆逐艦3隻が撃沈され、米空母群はスコールと駆逐艦の煙幕の中に遁走・撤退。2時間もの追撃戦の末、栗田艦隊は攻撃を中止
11:20 栗田長官「レイテ突入」を豊田連合艦隊長官に打電
一方、小沢機動部隊の陽動(囮)作戦は成功しつつあるも、作戦成功を栗田艦隊に伝える数度の連絡電報は栗田艦隊には着電しないか、着電しても栗田長官の手元には何故か届かず。ハルゼー艦隊は囮の帝国機動部隊を追い、栗田長官は幻の米機動部隊を追うこととなり、栗田長官はレイテ突入断念を決意
12:26 栗田長官は北方反転を下令、謎の反転
12:36 連合艦隊司令部に「レイテ泊地突入を止め、敵機動部隊を求め決戦」を打電
12:57 「大和」航路0度(真北)に変針 反転
13:13 米第1次空襲70機(通算第9次)
17:06 通算第11次空襲まで連続
18:17 日没で米空襲終了
10/26
08:34 「大和」対空射撃開始、以後12:12まで、B24陸上機を含む連続空襲
10/28
21:50 栗田艦隊主隊ブルネイ帰港
この時レイテ湾での米艦隊は砲弾を打ち尽くしており、しかも上陸軍を陸揚げ中で、戦艦「大和」を有する栗田艦隊が突入しておれば米攻略部隊に壊滅的打撃を与え得たかもしれなかったので、栗田長官と艦隊司令部のレイテ湾突入を中止して反転したことは、戦後に「謎の反転」と呼ばれる決断となりました。

両軍の兵力:〜1944/10/25の戦い
○帝国艦隊
栗田・鈴木艦隊
・戦  艦〜4隻
・重  巡〜6隻
・軽  巡〜2隻
・駆逐艦〜11隻
○米艦隊
Cスプレイグ護衛空母部隊
・護衛空母〜6隻
・駆逐艦〜6隻

※数字には諸説有

▼両軍の編成:〜
○帝国艦隊の編成:〜
<栗田艦隊>
・戦  艦(2)・大和・長門
・重  巡(2)・鳥海羽黒
・軽  巡(1)・能代
・駆逐艦(7)・沖波・岸波・浜波
     ・早霜・秋霜・島風・藤波。
<鈴木艦隊>
・戦  艦(2)・金剛・榛名
・重  巡(4)・鈴谷・熊野・利根・筑摩
・軽  巡(1)・矢矧
・駆逐艦(4)・藤波・浦風・磯風・雪風。

○米艦隊の編成:〜
第7艦隊第77.4任務群(7th Fleet's Task Group 77.4)
 ・第77.4.3任務集団(Task Unit 77.4.1 "Taffy 3")〜12隻
   司令官クリフトン・スプレイグ少将〜クリフトン・スプレイグ隊
  ・護衛空母(Escort carrier:CVE)〜6隻
  ・駆逐艦(Destroyer:DD)〜3隻
  ・護衛駆逐艦(Destroyer escort:DE)〜3隻。

タフィ 3(Taffy 3)護衛空母艦隊第77.4.3任務集団
・C.スプレイグ護衛空母機動部隊(Sprague's Task Unit 77.4.3 "Taffy 3")〜12隻
 司令官クリフトン・アルバート・フレデリック・スプレイグ少将
  (Rear Admiral Clifton Albert Frederick Sprague, 1896-1955)
 ・第25護衛空母師団(Escort Carrier Division (CARDIV) 25)〜4隻
   司令官クリフトン・スプレイグ少将直卒
  ・ファンショー・ベイ号
  ・セント・ロー号
  ・ホワイト・プレインズ号
  ・カリニン・ベイ号
 ・第26護衛空母師団(CARDIV 26)〜2隻
   司令官ラルフ・アンドリュー・オフタイ少将
   (Rear Admiral Ralph Andrew Ofstie 1897-1956)
  ・キトカン・ベイ号
  ・ガンビアベイ号(10/25沈没)
 ・駆逐艦(Destroyers)〜3隻
  ・ホーエル号(10/25沈没)
  ・ハーマン号
  ・ジョンストン号(10/25沈没)
 ・護衛駆逐艦(Destroyer escorts)〜3隻
  ・デニス号・ジョン・C・バトラー号
  ・レイモンド号
  ・サムエル・B・ロバーツ号(10/25沈没)

・別動機動艦隊:〜12隻
タフィ 1(Taffy 1)護衛空母艦隊第77.4.1任務集団〜6隻
 (Rear Admiral Thomas L. Sprague's Task Unit 77.4.1 "Taffy 1")
  司令官トーマス・ラミソン・スプレイグ少将〜トーマス・スプレイグ隊
   (Rear Admiral Thomas Lamison Sprague, 1894-1972)
 ・第22護衛空母師団(CARDIV 22)
   司令官トーマス・スプレイグ少将直卒
  ・サンガモン号
  ・スワニー号
  ・サンティー号
  ・ペトロフベイ号
 ・第28護衛空母師団(CARDIV 28)
   司令官ジョージ・レイモンド・ヘンダーソン少将
   (Rear Admiral George Raymond Henderson 1893-1964)
  ・シェナンゴ号
  ・サギノー・ベイ号
タフィ 2(Taffy 2)護衛空母艦隊第77.4.2任務集団〜6隻
 (Rear Admiral Felix Stump's Task Unit 77.4.2 "Taffy 2")
  司令官フェリックス・スタンプ少将〜スタンプ隊
   (Rear Admiral Felix Budwell Stump 1894-1972)
  ・第24護衛空母師団(CARDIV 24)
   司令官フェリックス・スタンプ少将直卒
  ・ナトマ・ベイ号
  ・マニラ・ベイ号
  ・第27護衛空母師団(CARDIV 27)
   司令官ウィリアム・ドッジ・サンプル少将
   (Rear Admiral William Dodge Sample 1898-1945/10/2)
  ・マーカス・アイランド号
  ・カダシャン・ベイ号
  ・サヴォ・アイランド号
  ・オマニー・ベイ号
※空母艦載機・FM-2ワイルドキャット戦闘機・F6Fヘルキャット戦爆機・TBMアヴェンジャー雷撃機
※クリフトン・スプレイグ少将は上陸支援のため第7艦隊から編成された3つの護衛空母艦隊の内の一つ(コードネーム:タフィ3:Taffy 3)の指揮官として、護衛の駆逐艦3隻、護衛駆逐艦3隻と共に行動。レイテ沖海戦では、「タフィ2」は航空機の航続範囲で帝国艦艇への攻撃を支援するも、主力部隊は混乱して組織的な行動が行えなず、スプレイグ少将は指揮下の航空機部隊で帝国軍の戦艦と巡洋艦に対する攻撃を行い、この戦闘の功績で海軍十字章(Navy Cross)を受章しました。

▼両軍の被害
○帝国軍被害:〜
・沈没・重  巡・鳥海・筑摩・鈴谷
    ・軽  巡・能代
    ・駆逐艦・野分・早霜(10/27浅瀬に擱座)・藤波(10/27)
・損傷・重  巡・熊野・羽黒
    ・軽  巡・矢矧
    ・駆逐艦・5隻
・航空機喪失:52機。

○米軍被害:〜
・沈没
 ・護衛空母(1)〜ガンビア・ベイ号
 ・駆逐艦(2)〜ジョンストン号、ホール号
 ・護衛駆逐艦(1)〜サミュエル・B・ロバーツ号
・損傷
 ・護衛空母(3)〜ファンショー・ベイ号、カリニン・ベイ号、ホワイト・プレインズ号
・航空機喪失〜23機。

1944/10/25のレイテ沖海戦(サマール島沖海戦)では、クリフトン・スプレイグ少将率いるタフィ3艦隊が、サマール島沖でレイテ湾突入を目指す栗田中将率いる帝国艦隊(第一遊撃部隊第一部隊、第二部隊)の猛攻で一時危機に陥りました。2時間の戦闘の末、ガンビア・ベイ号、駆逐艦1隻、護衛駆逐艦1隻を喪失。タフィ3艦隊を救うため、タフィ2艦隊はトーマス・L・スプレイグ少将率いるタフィ1艦隊と合同して戦闘機と攻撃機を飛ばし、6度にわたる攻撃の末に4隻の巡洋艦(鳥海・筑摩・鈴谷・能代)を脱落させ、栗田艦隊は引き返しました。タフィ3艦隊との戦闘で、栗田艦隊は重巡3隻を喪失(1隻撃沈、2隻は航行不能の末に自沈処分)し、大和も魚雷をかわすため進路を大きく狂わされました。栗田艦隊は再集結にも手間取り、レイテ湾突入前に貴重な戦力と時間を消耗することになってしまい、タフィ3艦隊はハルゼー艦隊やオルデンドルフ艦隊の準備や到着までの貴重な時間を稼ぎました。この海戦が、その後の栗田艦隊「謎の反転」の一因となりました。栗田艦隊がタフィ3艦隊を正規空母部隊と誤認していました。次いで、その栗田艦隊と入れ替わるように、神風特別攻撃隊の初めての攻撃が行われ、セント・ロー号が神風特別攻撃隊の突入を受け轟沈。ホワイト・プレインズ号、キトカン・ベイ号、カリニン・ベイ号も損傷。タフィ2艦隊の護衛空母は、そのどちらの攻撃にも遭いませんでした。翌10/26にタフィ2艦隊の航空機は、レイテ島への輸送作戦から帰投中の軽巡洋艦 鬼怒と駆逐艦 浦波をビサヤン海で発見し、2隻とも撃沈しました。

こうして、捷一号作戦は帝国の期待に反し不成功に終わり、比島沖海戦は栗田艦隊がレイテ突入を断念した時点で事実上終止符を打ちましたが、栗田長官から報じられた戦果は顕著でしたので、レイテ突入は成功しなかったものの、その戦績は、当時は高く評価されました。また栗田艦隊の乗組員にも「敗北感」はなく、少なくとも戦闘に破れて退却したという実感はなかったのです。「我々は意気揚々として帰ってきました」と栗田艦隊 大谷藤之助作戦参謀(1906-1989)が後に語っています。

※帝国艦隊の誤認戦果:〜
--- 撃沈 撃破
--- 空母 巡洋艦 駆逐艦 空母 巡洋艦 駆逐艦
栗田艦隊 1 1 1 2 1 1
鈴木艦隊 2 - 3 - - -
西村艦隊 3 - 3 2 1 2
小沢艦隊 1 - - 1 - -
※計 7 1 7 5 2 3
※米資料 1 - 2 3 - -
<栗田艦隊>戦艦の砲撃
・撃沈・正規空母1隻、重巡1隻、大型駆逐艦1隻、
・撃破空母2隻、巡洋艦1隻、駆逐艦1隻。
<第十戦隊>鈴木艦隊
第十戦隊(旗艦 矢矧、第17駆逐隊 浦風、雪風、磯風、野分)
・撃沈・正規空母2・駆逐艦3隻
<西村艦隊>
・撃沈・空母3、巡洋艦3、駆逐艦4隻
・撃破・空母2、巡洋艦または駆逐艦2〜3隻
<小沢艦隊>
・撃沈・空母1隻
・撃破・空母1隻
の戦果があったと誤認。

<大本営発表>撃沈:正規空母4隻、巡洋艦2隻ほか。

捷一号作戦が失敗し、比島が米軍の手に落ちた結果、南方資源地帯との海上交通路(シーレーン)は遮断され、米軍はフィリピン奪回によって帝国本土進攻の足場を固め、栄光ある帝国連合艦隊はこの海戦によって事実上壊滅しました。

特攻機攻撃
レイテ沖海戦で、帝国が初めて神風特別攻撃隊による攻撃を実施。1944/10/25サマール島沖海戦の後、米タフィ 3(Taffy 3)護衛空母艦隊など第7艦隊第77.4任務群(7th Fleet's Task Group 77.4)が安心していたのは、つかの間でした。7時25分にルソン島マバラカット基地(クラーク基地)を出撃した神風特別攻撃隊敷島隊(関行男大尉)が、10時49分に雲上からタフィ 3機動艦隊に向けて突入。
護衛空母セント・ロー号が沈没、カリニン・ベイ号、ホワイト・プレインズ号、キトカン・ベイ号が損傷。

米軍被害:〜
・沈没:護衛空母1隻〜セント・ロー号
・損傷:護衛空母3隻〜ペトロフ・ベイ号、サンティー号、スワニー号、
               カリニン・ベイ号、ホワイト・プレインズ号、キトカン・ベイ号。

参考HP〜
米戦艦 メリーランド号の装備:〜就役:1921/7/21
 (USS Maryland, BB-46、アメリカ海軍のコロラド級2番艦)
戦艦 Colorado-class battleship 米:戦艦メリーランド

キリバス 1993 発行
建造所 バージニア州ニューポート・ニューズ造船所
全 長 190.20m
全 幅 32.92m
吃 水 9.07m
排水量 基準32,500t、 満載33,590t
最大速力 21kt
乗 員 1,080人
武 装 45口径40.6cm砲8門、51口径12.7cm砲8門、38口径12.7cm砲8門、
56口径40mm対空砲36門、70口径20mm対空砲43門
搭載機 水偵4機、カタパルト2基
※退役:1947/4/3。

参考HP〜
サマール島沖海戦の地図








97 <神風特攻隊
1944/10/25
初 陣

「神州不滅」と「必勝の信念」のもとに、帝国の「特攻隊」が敵艦隊へ突入!

セントビンセント・グレナディーン諸島 1995 発行


ウガンダ 1992 発行

特攻航空機の例
ゼロ戦
零式艦上戦闘機

九七艦攻
九七式艦上攻撃機

九九艦爆
九九式艦上急降下爆撃機
ドミニカ 1995 発行

帝国の特攻機が米巡洋艦の反撃で被弾・炎上

1945 太平洋の平和回復50周年記念 1995
ガンビア 1995/8/1 発行

神風特別攻撃隊
  (Kamikaze Tokko Tai)
特攻隊こと特別攻撃隊、いわゆる「神風特攻」は大西瀧治郎海軍中将(1891-1945/8/16東京自宅自殺)が、1944/10/19夕刻にルソン島マバラカット基地(クラーク基地)に到着後、第201海軍航空隊副長玉井浅一中佐、1航艦首席参謀猪口力平中佐などを招集し体当たり攻撃法を披瀝して、10/20に大西中将の訓示と部隊名発表があり、「神風特別攻撃隊」が編成されました。

神風特攻隊の初出撃は1944/10/21。大和隊、敷島隊、朝日隊、山桜隊の計24機が出撃するも、悪天候などに阻まれ、大和隊隊長 久納好孚中尉(1921-1944/10/21)が未帰還の他は帰還。各隊は出撃を連日繰り返すも空振りに終わり、10/23に大和隊 佐藤馨上飛曹が未帰還。初突入は、10/25(昭和19年10月25日)に敷島隊の関行男大尉以下6機が、4度目の出撃で1機が米護衛空母セント・ローを撃沈したのをはじめ、大和隊の4機、朝日隊の1機、山桜隊の2機、菊水隊の2機、若桜隊の1機、彗星隊の1機などが次々に突入し、護衛空母を含む5隻に損傷を与える戦果を挙げました。これを大本営海軍部は大々的に発表し、敷島隊指揮官の関行男大尉(1921-1944/10/25)は軍神として祀り上げられました。

この航空肉弾戦は比島方面では、700機以上を繰り出して、軽空母プリンストン号、駆逐艦アーウィン号など7隻を撃沈、正規空母イントレピッド号、エセックス号、護衛空母スワニー号などに損傷を与えました。その後、台湾、硫黄島、沖縄方面などへ連日のように出撃し、総数290回、2,367機、隊員2,513人以上となりました。1944/11/17からは陸軍も特攻を始めました。その戦果の総数は、撃沈45、大中破37、損傷380隻以上でした。

▼比島方面の特攻隊兵力と戦果:〜1944/10/25
・特攻隊の兵力
出撃
・海軍〜436機
・陸軍〜243機
・ 計 〜679機
・特攻隊の戦果
撃沈〜7隻
・軽 空 母〜1隻
・護衛空母〜1隻
・駆 逐 艦〜1隻
・そ の 他〜4隻
撃破〜5隻?
※数字には諸説有

初出撃の顛末>
1944/10/25に特攻隊の4度目の出撃が行われ、8時頃ダバオを出撃した部隊は、レイテ湾の南で第77任務部隊第4群第1集団(コードネーム"タフィ1")の護衛空母群を発見し突入。護衛空母サンティー号とスワニー号に特攻機が命中し損傷。10時45分、栗田艦隊の攻撃を受けた直後の"タフィ3"(第77任務部隊第4群第3集団)の護衛空母群にマバラカットを出撃した関行男大尉率いる零戦5機から成る「敷島隊」が突入。護衛空母セント・ロー号に特攻機1機が命中し、爆弾、魚雷の誘爆でセント・ロー号は沈没。1時間後、再び"タフィ3"にセブ島を出撃した部隊が突入、護衛空母カリニン・ベイ号に特攻機が命中。また第38任務部隊第2群"タフィ2"の空母イントレピッド号が特攻機の命中で小破。この攻撃で護衛空母1隻を撃沈、3隻を撃破するも、帝国海軍は正規空母の撃沈破と誤認。特攻の威力を過大視した帝国軍は敗戦まで、この戦法を正規の戦術として作戦展開しました。こうしてタフィ1は大損害を受けて撤退し、かわりに第38任務部隊第4群が護衛につきました。この艦隊も特攻機に攻撃され、29日に空母フランクリン号、軽空母ベロー・ウッド号が大破して避退しました。

なお、帝国の特攻作戦には専用兵器として
・水中:回天(人間魚雷)、海龍(特殊潜航艇)、伏竜(人間機雷)
・水上:震洋(爆装特攻艇)、マルレ(四式肉薄攻撃艇)
・空中:桜花、梅花、剣、神龍、桜弾(体当たり爆弾)
などが特攻兵器として使用されました。ただ、特殊潜航艇の甲標的は一応、生還目的でした。

参考:〜
・特攻機の戦死者総数〜計3,848人(2,498人説有)
撃沈 護衛空母3、駆逐艦13、護衛駆逐艦2、機雷施設3、輸送船9、上陸用舟艇12、他7、計49隻
撃破 空母13、護衛空母20、戦艦11、巡洋艦11、駆逐艦84、護衛駆逐艦24、水上機母艦5、
機雷施設艇36、輸送船29、上陸用舟艇19、他16、計268隻
敗戦時の帝国軍は本土に航空機約9,000機を保有
特攻用準備機〜5,000機以上、※数字には諸説有

・神風特攻機の命中(衝突):〜
艦種 沈没 大破 中破 小破・損傷
航空母艦 --- 4 フランクリン
イントレピット
タイコンデロガ
バンカーヒル
2 エセックス
イントレピット
5 イントレピット
ハンコック
レキシントンII
イントレピット
ハンコック
イントレピット
軽空母 1 プリンストン 2 ベローウッド
カボット
--- 1 ラングレー
護衛空母 3 セントロー
ビスマークシー
ガンビアベイ
2 アンガモン
ウェーキアイランド
3 カリニンベイ
スワニー
サンテー
2 ナトマベイ
サンガモン
戦 艦 --- --- --- 6 ミシシッピー
ウェストヴァージニア
カリフォルニア
アイダホ
ニューメキシコ
ネヴァダ
軽 巡 --- 1 ナッシュビル --- 3 セントルイス
バーミンガム
ルイスビル



駆逐艦



13
アーウィン
マハン
ドレクスラー
MLアヴェール
カラハン
ブッシュ
リューツ
モリソン
リュース
ニューコング
ブリングル
トウイグ
WDポーター



5
ラフェイ
パーチ
ハゼルワット
イシャーウド
シューグリク



7
ゼラース
コルフーン
アントニー
エバンス
ウォッズワス
CSスペリイ
ハリソン



48
DHフォックス
ハンク
ヘンスウォース
HWハドレー
ビイマン
イングラハム
ローリー
オブライエン
ラーディ
ストームス
ダクシッグ
ベンハム
ベニオン
ブラック
ブライセント
ラムソン
カッシンヤング
グレゴリイ
キッド
リットル
マクゴワン
メルビン
モンセン
ノーマンスコット
ルメー
オーリック
ベネット
ブレーヌ
カウエル
ダリー
ゲスト
バガード
ベイリー
ベール
ハウオーズ
ハッチンス
キンバレー
ムラニー
ムーレー
ブリッチェット
ジグスビー
スプロソーン
スタンリー
サッチャー
モリス
スターレット
ウィルソン
Rタルボット
護衛駆 --- 1 ライト --- 7
オーネール
リッドル
SSマイルス
ウェソン
マンラブ
ハロラン
ロール
その他 28 ワード
22 約300
合 計 45 37      380以上
※艦名のダブりは特攻機が同艦へ複数回命中、大東亜戦争写真史(3)などより
※被害艦名や数字には諸説有。

・米海軍艦艇の特攻機被害の例:米国戦略爆撃調査団
撃沈 Sunk 損傷 Damaged
  艦種   艦種
護衛空母CVE 3 正規空母CV 16
駆逐艦DD 13 軽空母CVL 3
護衛駆逐艦DE 1 護衛空母CVE 17
高速掃海艦DMS 2 戦艦BB 15
潜水艦母艦SC 1 重巡洋艦CA 5
掃海艇AM 1 軽巡洋艦CL 10
高速輸送艦APD 3 駆逐艦DD 87
戦車揚陸艦LST 5 護衛駆逐艦DE 24
海洋タグ船ATO 1 潜水艦SS 1
雑役艦Auxiliary 1 機雷敷設艇DM 13
潜水母艦/魚雷艇PC/PT 3 高速掃海艦DMS 15
合計 34 魚雷艇母艦AGP/AGS 3
病院船AH 1
貨物輸送艦AK/AKA/AKN 6
掃海艇AM 10
タンカーAO 2
輸送艦APA/APD/APH 30
修理艦ARL 2
艦隊タグ船ATF 1
水上機母艦AV/AVP 4
機雷敷設艦CM 1
戦車揚陸艦LST 11
潜水艦母艦PC/PT 3
YDG/YMS 7
合計 288
参考HP〜
比島の地図

こちらで
米軍、ルソン上陸(フィリピンの戦いII、米軍、リンガエン湾上陸)
米軍、ニューギニア上陸(ニューギニアの戦い)
をお楽しみください。

参考HP〜
B-29の写真

・上記は こちら の文献などを参照させてもらいました。    2016/4/5

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